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なんだか物騒なタイトルですが、哲学を愛する皆様ならきっと明解なお答えがいただけるのではないかと思い、ここで質問させていただきます。

人間には自殺する権利があるのでしょうか?

漠然とした質問ですのでさまざまなシチュエーションなど考えられると思いますが、ご自身の「偏見に満ちた」(失礼な言いぐさですみません)ご意見を書きこんでいただけると幸いです。

A 回答 (33件中11~20件)

こんばんは


ご返信ありがとう。

デュルケームは彼の有名な著書「自殺論」で、社会全体が貧窮に陥ると、それが因で自殺する人間は増加するが、興味深いことに、社会全体の生活が豊かになっても自殺する人間は増加する、と、うろ覚えではありますがその著書で言っていたと思います。

この辺りも自殺を考察するに当たって面白い説でしょう。

>環境が変われば自殺を思いとどまることがほとんどとお考えですね。
しかし、その肝心の環境が変わらない(少なくとも本人には永遠に続くと思われる)ことが、、、なんとも。ですよね。

「疎外」というものの冷酷さが鮮明に浮かび上がる事実の一つと言えましょう。
この無情さゆえに、芸術が輝きを放つのかもしれません。

>結局は関係性の中に納まるべき自殺について、
>純粋なる自殺などというものがあるのでしょうか…
>といい始めるとまた切りがないですから言いません。

まさにこの点に焦点を集めたいと思っていました。
純粋なる自殺などあるのでしょうか?
私はその純粋なる自殺なるものがあるのかどうか、
自殺を遂げる為にも探究しています…と。

その反面、我々は「他殺」に関しては知っています。
私はこれを社会による「洗練された殺戮」と呼んでいますが、先進国ほど、より素敵に洗練されているように思えます。
この他殺の事例は、社会の歪みのバロメーターとも言えるでしょう。

インドの賢人クリシュナムルティに言わせれば、
「あなた方がそれ(殺戮)を容認しているのです」と。
この切り口で、個々人におる意識の変革を促していますが、なかなか説得力があります。

自殺する権利はあるか、という命題からは大分逸れました。
乱文悪しからず。
それでは失礼。
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この回答へのお礼

またまたご回答ありがとうございます!
お返事遅れまして大変失礼しました。

>この無情さゆえに、芸術が輝きを放つのかもしれません。

捉えどころのない芸術というものが「来る時が来れば」はっきりと輝き始めるんですね。

>「あなた方がそれ(殺戮)を容認しているのです」と。

わたし・・・・それだけは言って欲しくなかったんです・・(涙・涙)「自分と無関係の場所」で「自分と無関係に起こる」殺人を私が容認してるですって???!!
・・・真実だと思います(思いたくないけど)。

いつものように感情的なお返事になってしまいました。
どんどん始めの質問と離れているように思えます。そしてどんどんと本来の主旨に近づいているようにも思えます。ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/20 11:24

本題から外れます。

自殺や死の現象について僕が断片的に判断している所では、
・人は環境において常に束縛されている。ここから安心を得たいという衝動によって、例えば自殺をすると楽になれるという判断が出るが、この判断は先の衝動が作り出した主観的な空想に過ぎない。つまり、自殺にいたった動機というかその目的が達成される保証はどこにもない。
・さらに言えば、自己が触れる現象は全て自己のエネルギーによって作り出されているという見方も可能である。なぜなら客観的視点は常に主観によって生み出されていると判断するからである(例えば好き嫌いなど)。
・エネルギーの現象は、分解はあるもののエネルギーが無くなるということはない。もし自殺によって苦しみを分解出来るのなら奨励できるものかもしれない。だが現時点では肉体の分解は認識できるものの、その活動エネルギー(自己意識と言ったらいいのか)の分解は確認されていない。分解されずにそのままである可能性もあるため、自殺の推奨はしない。

僕自身の判断として、自殺の動機は社会との関係にあるが、では社会は何によって出来あがるかといえば、それは「あなたとわたしの関係」であると考えています。これの何がおかしいかといえば、他人を理解することが出来ないことにあると思います。より正確に言えば、他人が感じている内容、あるいは言おうとする内容を感じることができないことに起因していると判断しています。だからこそ他人の意見は「それはあなたがそう思ってるだけでしょ」というものになってしまうのだと考えています。これが解決可能かは、僕自身確証はまだ持っていませんが、これなくしてはこうした問題の解答もまた出てこないのではないかと考えています。でもこのことは「僕だけがそう思ってるだけのこと」かもしれません。
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この回答へのお礼

またまたごかいとうありがとうございます!

なるほど、社会の根本は「あなたとわたしの関係」ですか。「人間が二人になる時点で嘘が始まる」という言葉をどこかで読みました。でも不思議ですよね。「僕だけがそう思ってるだけのこと」の内容はおそらく私も共鳴していますし、またおそらくそれ(他者が自分を理解している)をword5000さんも知っているはずなんです。

お礼日時:2005/06/20 10:22

自殺する権利についてどうか、という本題から逸脱しますが勘弁してください。


というか既に方向性が逸脱なさってる方もたくさんいらっしゃいますので、便乗させてください(笑)

先に、自殺にもいろんな類型がありますから一括りにはできないという意見を書きましたが、現代日本の自殺の多くは、生活上の何らかの問題に対して、自分のだけための消極的な解決策として、逃避しようとすることであると思います。
このような生を否定する自殺にフォーカスして考えてみます。

生きている人は生きていることを正当化せざるを得ませんから、生きることの肯定的要素を取り上げて、積極的に死を選択する行為を否定すれば、生きている大多数の人の共感を得ることができると思います。

しかし、死ぬこととは何か、死んでいる状態はどういう状態なのか、ということが、わからない以上、合理的客観的な基準に基づいて生と死を対比して、死を否定できる人は、この世にいない筈です。(中には死ぬとはこういうことだと断定する人がいるようですが、証明不能な主張は採用しないこととします。)

すると、ぼくたちが生の肯定的要素を取り上げることによって、死をネガティブなものと捉えようとすることは、どこまでも自己主張のための自己主張に過ぎない行為でしかあり得ません。

たとえそうであっても、生きている者にとっては、それで構わないのだと思います。
また、これから自殺しようとする人に対してそういった論理で説得しようとすることも、間違いではないと思います。

ところで生きるということは、生まれてから死ぬまでの全体に於いて、ノーベル賞を受賞するような何かの研究成果を残すとか、芸術作品を生み出すとか、そのような大げさなことではなくて、ご飯を食べるとか、寝るとか、海に釣りしに行くとか、ゲームをするとか、漫画を読むとか、そうういう個別具体的な行為の集合のことです。

するとその中には、嫌なことだってあります。
そこから逃避することは是か非か、といったとき、ぼくは、必ずしも非であるとは思いません。仕方が無い場合だってあると思います。
逃げ方には自殺という方法だけでなくて、失踪したり他人に問題を押し付けたり、いろんな方法があります。そして現実社会ではたくさんの人が嫌な問題から逃げています。ぼくだってよく逃げます。
こういうことは個別具体的な問題ごとに考えることだと思います。総論として、問題が起こったときには何事でも前向きに立ち向かわなければならない、なんて結論するのは、現実から乖離した理想論です。

すると、何かの問題で困窮して自殺を考えている人に対して、「他人にどんなに迷惑をかけて逃げてしまってもいいから、自殺だけはするな」と説得するような場合があるかもしれません。
こういったときに、ぼくが生きるべきであるということを大前提とするのは、おそらく、ぼく自身が生きることを否定されたく無いからです。死んだほうがマシだという場合があることを、自分自身が肯定したくないからです。それはぼくにとっては、好き嫌いだとしか言いようの無い問題です。
「ぼくたちが生きていることを無条件に肯定していることを否定しないために、自殺しないでくれ」という、自己の願望の訴えであって、自殺しようとする者のための、説得では無いかもしれない。

このように考えたときに、既に自殺して死んでしまった人達に対して、「あなた達は間違いだ」と、個別具体的な事情を知りもせずに全否定するようなことは、無自覚な傲慢の発露であると思えます。

ぼくは死にたくない。
生きることは良いことだ。
生きている者で自殺を考えている人は思い留まるべきだ。
しかしこれはぼくの好き嫌いで言ってることだから、生きている人達は、ある人が自殺したということだけを以って、その自殺者の人格を傲慢にも貶めるべきではない。

いろいろと考えることがありましたが、そんなところがぼくの考えるところだと結論しました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!
諸事情によりお返事が遅れまして大変失礼しました。

>生きている人は生きていることを正当化せざるを得ませんから

結局そこに行きつくんですよね。「いい」も「わるい」も「せざるを得ない」という点から出発していると思います。

>生きることは良いことだ。

私も個人的にはそう考えています。全然詳しく知らないのですが生悪説ですら「生きることは良いことだ」という前提があってこその思想じゃないかなと推測しています。

お礼日時:2005/06/20 10:13

またまたvagabond_0710です。

なんだか、でしゃばりですみません。

>あなたはきっと生きています。
メッセージいただきありがとうございます。確かに生きている実感がありますが、ほどほどにしないと、情けないことに、先週の台風に挑戦した際、小さな油断で利き手を骨折してしまい、今、自宅療養中です。(ToT)
-misaki-さんは、絵や写真を売られているんすか!?いいなー。僕も写真を撮ったり絵を描いたり、CGもやったりします。それで生活できたらいいのですが…。-misaki-さんの作品を是非観てみたいです。


追記を読んで、「スローライフ」という言葉が頭に浮かびました。江戸時代の社会は、固定化されていて、身分固定されている分、仕事に困ることがなかったと思います。武士の家に産まれれば武士に、豆腐屋に産まれれば豆腐屋にならなければいけなかった。現代日本のように資本主義で仕事ばかりでなく、ゆるりとした生活時間があったはずです。しかし、開国、敗戦でアメリカナイズされ、時間の概念すら西欧化され、逆に時間に厳しい国になりました。

僕が前回、「働くことが本意という江戸時代の職人根性がいまだに続いているみたい」と書いたのは、江戸時代は、豆腐屋は豆腐のことに専念すればそれでよく、その分際をちゃんとわきまえていれば事が足りました。しかし現在は基本的に自由で、社会も目まぐるしく変化をしています。そんな時代だから、生きるのは大変で、英雄も不在で、また生きる指針を失ったり、先が見え辛いことになっています。しかしそんな時代だからこそ、各々が自分の人生に対して本気にならなければいけない、つまり自律しないといけない時代なんだと思うんです。つまり、自分の職だけに安住するべきじゃないと言いたかったんです。

上手く言えてないようですが、江戸時代は、終身雇用みたいに仕事がちゃんと確保されていて、もし人口が溢れれば、"口減らし"などでバランスをとっていました。社会システムが安定している分、変化がないわけですが、仕事も保証されていて集落の連帯感もあり、人間的コミュニケーションも盛んだったと思います。なんだかノスタルジーで懐かしい感じもします。もちろん制約がある分、自由がなく貧困な時代でした。

結局、僕が言いたいことは、現代社会はバランスがとれていないと思うんです。仕事(社会的責務)と生活(人間的活動)のバランス。合理主義(科学)と非合理主義(科学で証明できないモメント)のバランス。つまり人間性の喪失です。文明(技術)ばかり進歩して、文化(芸術)の方は保護活動や黒人文化の格好だけが若者に入ってきています。江戸時代までは、そのバランスを幕府が管理していましたが、自由な現在は個人で管理するようになっています。個人主義な時代だからこそ、各々が自律的に…!と思うんです。


僕は基本的に自殺をする状態を、精神のバランスが崩れた状態だと思っています。生きてる実感がなくて、つまり「生きたい」ため自殺するのであれば、そういう環境に移ればいい。発展途上国に行けば食べていくだけで精一杯の人たちがたくさんいます。そこでボランティア活動をするとか。また、経済的な理由で自殺するのなら、自己破産制度や生活保護制度を利用すればいいと思います。
みんな生きることは、初めてで何もわからず先人の教えや経験から学び、どうにかして生きていくことができるんです。それを「自分だけ」と思うから追い込まれてしまうわけで、昔のように人間的コミュニケーションが確立されていれば、相談することもできるわけです。そう考えていけば、現在の共同体の崩壊の問題にも繋がります。学校、家庭、会社など組織体の崩壊。やはり人間は1人では生きていけませんので、物理的なインフラだけでなく、精神的なインフラもできるんだったら欲しい、文化的活動の余裕が欲しいです。

僕が前回、仏教の輪廻や生死を超えた思想を紹介した理由は、現在は科学主義で、そういった信仰や思想を疎かにし勝ちになっているバランスの悪さにあると思うんです。別に信仰を持っていても、持っていなくても自由ですが、非合理的なモメントを無視しするのは片手落ちです。よくよく考えたら、この世の中何もわかりきったことなんて、本当は何もないのに。いつ僕の心臓が止まってもおかしくないんです。いきなり地球が爆発してもおかしくないんです。いつ死ぬかわからない。だから、たとえ不治の病でも、健康体であっても、僕は何も変わらないです。開放骨折して痛くても僕は僕です。それでも片手でこうやってキーボートを打っています。身体が使えないのなら、口で絵を描く人もいらっしゃいます。

生死を超えた思想を持っていたら、死んだら生まれ変わるとか、死んだら守り神になるとか、とにかく生に執着するヒューマニズムの卑しさを超えることができます。感動的な話ですが、ガンになって、それがきっかけで生まれ変わったようになり、毎日を充実した生活を送るようになった主婦が、マラソンなどに挑戦し、ガンを克服する話があります。ガンは治ったわけじゃないですが、余命期間をとっくに過ぎているのに生きていて、ガンの進行がとまっているんです。「病は気から」とはこういうことなのかなと思いました。

毎回長くてすみません。僕にとってもこのページはとても有意義だと思います。何回ものでしゃばりをお許し下さい。そして、最後まで読んでいただきありがとうございました。
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この回答へのお礼

またまたご回答ありがとうございます!
諸事情によりお返事が遅れまして大変失礼しました。
本日で締めきらせていただきます。長いお付き合いありがとうございました。またお会いしましょうね。

>-misaki-さんは、絵や写真を売られているんすか!?いいなー。僕も写真を撮ったり絵を描いたり、CGもやったりします。それで生活できたらいいのですが…。

ある程度名が知られるようになるまでは何かのきっかけが必要ですよね。コンテストで入賞するとか関係者とコネがあるとか。コツコツ続けて決して辞めなければきっとチャンスがきますよ。(そして名が知られるようになったときは作品の単価を下げられなくなっていてまた仕事がこなくなるという悪循環を経験しています・・)
ひとつアドバイスできることがあるとすれば、さっき言った「コツコツ続けて決して辞めない」ということです。。。。。あれ?今回の自殺の件にも関係してきますね。

>つまり人間性の喪失です。

おっしゃいたいこと、よーくわかっている(つもり)です^^

書きたいことはたくさんあるのですが、お返事するよりなんどもお答えを読みなおした方が私にとって有意義な時間になりそうです。ここはひとまずペンを置きます。

お礼日時:2005/06/20 10:04

質問を読ませていただきました。

とても考えさせられる問題で、興味深く思いましたので、ぜひ僕の意見を(自分の考えを整理するという意味でも)書き込みたいと思いました。

権利という言葉そのものの解釈がとても難しいと思うのですが、「寄生獣」という僕のとても好きな漫画に、「人間は自ら命を絶つという不思議な生き物だ」という件があります。つまりは野生の生き物というのは自殺をするという考えも浮かばないんですよね。同じように、野生に近く、とても環境の厳しいアフリカなどに住む人々も自殺する人というのは少ないと思うんです。
でもやはり先進国には自殺が絶えないのは、やはり恵まれている状態というものが絶え間なくあるからだと思うのです。つまり世の中の恵まれている部分というのが大きすぎて、自分の置かれている状況がとても低い位置にあるように感じてしまうのではないでしょうか。
しかしそれは大きな間違いで、日本に生まれたという時点でかなり幸せなことなんですよね。極論をすると人間に生まれた時点でかなりラッキーだと思うんです。そう思うことができたなら、心はとても豊かになると思います。
えっと・・・かなり話がそれてしまいましたが、権利という話ですが僕は権利はあると思います。自分の命をどうするかということを決める権利こそあるわけで、そこに権利は発生すると思います。ただもう少しよく考えてほしいのです。自分がどれだけ恵まれているのかを。もっともっと、死にたくても死ねない人や、必死で生にしがみついている人もいるのですから。その人たちのことを考えて、まず生きるには何をするべきなのかを考えてほしいのです。

なんだかえらそうなことを書いた上に質問と離れてしまったような気がしますが、書きたいことを書かせてもらいました。考えさせられるような疑問を投げかけていただいて、ありがとうございました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!
お返事遅れましてすみません。

おっしゃるように、私達は相対的な不幸にばかり足を取られているのかもしれませんね。拾った財布にお金が入っていなかったら運が悪いと思ってしまうかもしれないです。

権利は必然的にある。しかしまず第一に視野を広く保つ必要があるというわけですね。確かに、自殺する人はそれが唯一の手段だと、それしかないのだと考えているのかもしれないです。

お礼日時:2005/06/17 11:28

不謹慎ですが、うきうきするタイトルです。

正直まだ、その問題について真剣に考えたことはないのですが、現時点の私見を述べさせていただきます。
確かにこの問題が浮上するのは、社会あるいは何らかの環境との関係があるからこそ問題となると思います。そして、社会あるいは環境(自己の全ての要素も含めて)は結局は自殺しなくてもいつかは無くなる(あるいは変化する)ものだと思います。こうした場面に自分が直面した場合「あきらめる、あるいは受け入れる」ことによって問題そのものが無くなると考えます。僕はこれを「自由」と考えますが、自殺についてはこれとは若干違ったニュアンスを感じます。つまり捨てようとする行為をすることによって、何かを生み出しているのではないかということですが、つまり「自殺」=「消える」とは言えないのではないかということです。
それで、「人間には自殺する権利があるか」という問題に入りますが、もちろん現時点では社会的に認められていませんが、「社会的に容認されてしかるべきか」という問いだと解釈するなら、利害関係を除けば誰も(国も)自殺を止める権利を所有しない、というか止める理由さえないと考えます。利害関係が存在する場合には、それを放棄されると社会には不都合なので、まず容認されることはないと思います(都合がよい場合は別ですが)。つまり社会の存在理由が変わらない限りありえないことだと思います。もし社会の存在理由が、「システムを持続すること、あるいは自らを防御するため」ではなく、「個人の生きる総体」という認識に変われば、個人が社会を作る存在であるためにその要求の多さか、洞察を含んだものであれば容認可能だという話しになります。つまり、これが単なる逃避であるならわざわざ容認する必要はないが、説得力のある要求であれば認められてしかるべきだと思います。つまり本当に縁を切りたいのであれば容認されてもいい、あるいは容認可能だと思います。ただし、これにしても何らかの利害関係が発生する可能性があるので条件つきになります。こんな所が僕の現実的な認識です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!
子供が熱を出したりして忙しかったもので返事が遅れました。

社会の存在理由がシステムの持続であるかぎりは自殺を認めえない、しかし個人主体の認識が高まれば容認が可能になるかもしれないということですか。

>不謹慎ですが、うきうきするタイトルです。

私もうきうきすると思います^^
つまりこれが自殺を個人より社会の問題として考えているということの現われなのかもしれませんね。

お礼日時:2005/06/17 11:19

ご返信ありがとう。



貴兄という表現は失礼しました。
他の回答もほとんど読まずに回答したもので、
女性だと気付きませんでした。

>自殺行為の淵源は外部との関係の中にある・・・
>ということで自殺と社会(他者)との関係性が戻ってきました。
>糸の切れた凧が戻ってきたようです。

社会との関係性を切り離して自殺を語るのは困難でしょう。それとも社会性という要素を捨象して自殺を追究するのなら、それは宗教の範疇です。

まあ外部との関係というのは、例えば、
生活苦で一家心中しようとする者に(如才ない方法で)大金を渡してやれば、
その者はおそらく自殺は思いとどまるだろうし、
失恋して自殺しようとしている人間に、
なにかしら気の利いた演出やら何でもよいが、
寄りを戻せば、あるいは新たな恋でもすれば、おそらく自殺はしないだろう。
これと同じように、状況がの変化、つまりその者の意に添うように外部が変化すれば、
自殺を思いとどまる人間ばかりではないか、と思えるのです。
それが果たせないから、自殺する。
わたしはこの板においてはそれを自殺と呼ばず、
社会(外的要素)による他殺だと言いたいのです。

あらゆる状況に左右されずに、自ら死ぬことのみが自殺ではないか、と。

つまり自殺の権利を勝ち取るまでの道程のなんとも遠い…と落としておきます。

何が書きたかったのか解らなくなってしまいましたよ。
この手の話は興味が湧きますので、
自宅に帰ってから、貴女と他の方々とのやり取りを読んでみます。

乱文悪しからず。
それでは失礼。

この回答への補足

**************************
みなさま、私のわけのわからない書きこみにお答えいただきまして感謝しております。私の「お礼」をお読みになっておわかりの通り、理解力がないものですから流れがどんどん違う方向に行ってしまいます。

ただ、私にとっては大事なページになっています。
お時間のある方は何度でも書きこんでくださいますようお願いしておきます。

締め切りは6月18日にする予定です。
あ、それと、勘違いなさっている方がいらっしゃるといけないので書いておきますが、私は自殺したいと思っているわけではないですからね!150才まで生きるんですから。
**************************

補足日時:2005/06/14 14:46
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

>貴兄という表現は失礼しました。

いえいえどちらでも結構ですよ^^ネットでは男女の区別があまりないのが気に入っていますし。ご配慮ありがとうございます。

環境が変われば自殺を思いとどまることがほとんどとお考えですね。しかし、その肝心の環境が変わらない(少なくとも本人には永遠に続くと思われる)ことが、、、なんとも。ですよね。
そしてその環境というものが、例えば不治の病に倒れた人にですよ、「大丈夫だ、環境が変われば君は治るんだから」と言い聞かせることが果たしてできるんでしょうか?
なんだか「ウェルテル」みたいになってきました。すみません^^;

>あらゆる状況に左右されずに、自ら死ぬことのみが自殺ではないか、と。

結局は関係性の中に納まるべき自殺について、純粋なる自殺などというものがあるのでしょうか・・・・といい始めるとまた切りがないですから言いません。

またお時間がありましたら是非お書き込みください。

お礼日時:2005/06/14 14:46

No.15のvagabond_0710です。

お返事読みました。ありがとうございます。それに対してお答えしたいと思います。

「人間には死ぬ権利がある(ない)」と思春期の人が大人に対して言ってきた場合、僕がその大人ならこう答えます。「だったらてめぇ、死ぬ権利がどうのこうのとほざくんだったら、ちゃんと生きる義務を果たしてから言えよ。」と。


思春期は、誰だって混沌とし、その人間的不条理に引き裂かれ、痛みをともなった時期だと思います。誰だって悩みます。苦しみます。その経験の上で、人の気持ちになれたり、つまり社会に生きる人間として成長します。だから、生きることに悩み、自殺を考えるのは普通だと思います。というのも、僕自身、今20代前半で悩みまくりの人生です。(笑)少なくとも資本主義社会に対して、自分の居場所を確保しなければならない。でも最近は、悩めるだけ幸せだなと思います。「大人」を見て、生きがいもやりたいことも見失い、ただ仕事で自分をゴマカシ、また趣味でゴマカシ、それが終わったらまた空しい。そんな自律できていない「大人」が多いように思います。僕はそんな「大人」を見てリスペクトを感じないし、逆にだったら自分こそが、魅力的な大人になろうと思うようになりました。悩めるだけ、幸せです。僕にとって、「大人」とは、そういった人間的悩みを放棄してオトナしくなった人のことを言います。


生きている人間にとって、死んだ後のことはわかりません。今生きています。死後の世界は死んだら誰でも経験できます。だから僕は今、生きているので、生きることに対して全力投球するのみです。本当のことを言えば、生きていようが死んでいようが関係ないのですが。夢中になればそんな次元なんか超えているし。
生きている人は死んだ先のことはわからない。つまり死とは何かわからないもの。死が何かわからないのなら、生もわからないものと言えないでしょうか。現に生きることに対して答えはひとつじゃありません。その答えを探すため、家族のため、愛する人のため、生物としての義務をはたすため・・・いろいろと言われます。僕にとって、そんな後付の言い訳なんてどれだっていいんです。


もちろん、経済的理由、その他諸条件があると思いますが、死にたい、自殺しようかな、そう考える人は、人間としての矛盾に引き裂かれ、克服できなくなった状態だと思います。その原因を僕は、日常生活にあると思う。つまり社会です。本来、生きるとは自由なもので、その諸条件の中でこそ、その生きる自由な意志は働きます。しかし現代は全て合理的に管理され、人間は生産やサービスのための歯車となっています。現代人が生きることに対して疑問を投げかける社会なんです。つまり生きることに対して充実しない社会だから。お金に踊らされた多くの日本人は、そんなお金にならない悩みを無視して働き続け、自分が知らないうちに自己疎外を起こしています。心理学者がいうには、日本のサラリーマンの9割りの人は、無自覚も含めて精神疾患らしいです。生きがいを見失った現代人。そしてその社会。つまり、生きている実感がない。そんな環境で自殺者数が多いのも頷けます。現代は人間が支配しているのではなくて、資本が支配しています。みんなそのシステムの中の操り人形みたい。別にその人じゃなくてもいいんです。他にも代用があるから。まさに人間疎外です。そもそも資本主義社会が始まって、それを支えるために奴隷搾取が始まり、現代のヒューマニズム社会では、奴隷の代わりにサラリーマンが代用されているに過ぎない、とも思います。つまり、結局のところ、生きるってなんだろう?となっちゃうんです。今の社会だと。人間としてふくらまない人生なんて虚しいだけです。


思いっきり現代社会を批判してみました。そういう僕でも、働くことは好きだし、楽しいし、大変だし、それはいいのですが、日本だとバランスが悪いように思うんです。アフター5なんて基本的にない話だし、毎日終電、週一休みと、人間として啓く時間がない。そんな仕事環境だと僕も追い込まれてイヤになると思います。そうじゃなくって、生きがいのための社会参加、そんな労働なら、自由でゆとりのある生活が送れると思うんです。

結局人間として充実する生きがい、それは合理的に管理できるものでもないし、システム化することもできません。人間の精神ですから。ただ思うのは、現代は実証科学主義で、つまり合理的なことしか問題にならないんです。そのくせ、UFOや占いとか未知なパワーに惹かれるくせに。合理主義な現代だからこそ、人間はバランスを取ろうと、非合理的な存在に惹かれていることに気づくべきです。宗教色の薄い日本でも新興宗教が流行っているらしいし。みんな幸せを追い求め、お金を追い求め、逆に自分自身を見失っている姿を見るたびに、この社会のバランスの悪さを思います。

だいぶ質問からズレて、社会批判の内容を書きましたが、つまり結局そういうことなんです。20代の若者でもこう悩んで考えているんです。生きることに対して本気なんです。僕が自殺する人に対して共感するのは、「自分はこんなにも本気で生きたい(死にたい)のよ!」とアピールしているように見えるんです。だけど多くの人は、資本主義のベルトコンベアーの上で作業しているだけで、非人間的なんです。エスカレーター式に社会は進む。働くことが本意という江戸時代の職人根性がいまだに続いているみたい。そう皮肉を言いたくなります。

生きたい、でも生きることができない状況。その生命のほとばしりを、生きる充実感を、人間としての誇りを、せめて一瞬でも…。自分を殺さねば!ゴッホにしたって、三島由紀夫でも誰でもいいけど、人間として文化的活動をする人に自殺が多いのに僕は共感します。だからといって、自殺を推奨することは絶対しませんが。

誰だって死にそうな状況になれば、危ない目にあえば、心臓が高鳴り、目が覚めるような、頭がさっぱりするような自分になります。現代人が忘れた「人間」が、生きている実感を呼び覚ますんだと思います。その「人間」を無視したら、知らないうちにバランスを崩し、取り返しのつかないことになりかねません。だから僕はサーフィンをします。
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この回答へのお礼

またまたご回答ありがとうございます!!

おっしゃること、よくわかる(つもり)です。
悩めるだけ幸せというお言葉にもぐっとくるものがあります。真摯な書きこみに感謝いたします。感動しました。
質問を締め切った後にまた何度も読み返してみようと思っています。

サーフィンですか。あなたはきっと生きています。

追記:江戸時代の職人は立川談志さんの落語によると「おい、明日は何して遊ぼうか」と遊びのついでに仕事をするようなところがあったとか。

お礼日時:2005/06/14 14:28

こんにちは



自殺する権利の「権利」というのは、他の方々の指摘されているように違和感を感じます。

しかし貴兄の追究したい内容も解ります。

私見では、まあここは哲学の板ですからこういきます。
現代に自殺する人間などごく稀、あるいは無い、と。
なぜなら物理的には自ら命を絶ってはいますが、その行為の淵源は外部との関係の中にあるからです。

権利など口にするのは、密接に社会と関わりをもっている証拠で、その意味で現代で自殺する人間は社会に殺されている。即ち他殺なのだ、と言えないでしょうか。

この問題を追及している人間にはやや月並みかもしれませんが、ドストエフスキーなど読まれると、多角的に示唆を与えてくれる気がします。

蛇足ですが、私も十代の頃真剣に自殺を考えていまして、
考え詰めた挙句『では完全な自殺とは?』に行き当たり・・・まあこうしてまだ生き延びていますよ。

乱文悪しからず。
それでは失礼。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

自殺行為の淵源は外部との関係の中にある・・・ということで自殺と社会(他者)との関係性が戻ってきました。糸の切れた凧が戻ってきたようです。私も権利という言葉の使用には違和感がありますが、それはあくまでその言葉が用いられる際の状況に違和感をおぼえるであろうという想像からです。

自殺が社会との関係性を強く持つことによって、自殺=他殺という図式も成り立つと考えてよいわけですね。

なるほどエゴで固められた(固めざるをえなかった)自殺ということを考えるとドストエフスキーの著作はヒントをくれるかもしれませんね。江戸時代に発表された小説が平成になってもますます光っているというのは驚きです。

お礼日時:2005/06/13 14:52

僕が思うに、生と死を別けて考えるべきじゃないと思う。

ベトナム戦争で抗議して焼身自殺をはかったお坊さんの心情はわかりませんが、仏教だと輪廻の思想があって、生に固執するものではなく、死後も続き、悟りを得るために修行する考えだったはず。現代のヒューマニズムと違って、生死を越えた一貫とした思想なはず。生きるとは何か?と哲学すれば、解りきったことじゃないし、つまり、死ぬとは何か?と明確な答えも出ないものです。そこで自殺の権利と言われても、論点がぼやけて僕は答えが出せない。

武士の切腹は、自殺というより、社会が認めた死刑制度とも思えます。何かミスをして切腹することになり、その責任を自ら取らなければならない社会。電気椅子なんて用意してもらえません。自分で責任をとらなければいけない。
そもそも現代のように、個人主義的な考えも持っていなかったはず。社会がひとつの有機体で、個人なんてひとつの細胞のようなもの。お互いが監視しあったような狭い島国。ここで切腹しなくてどこへ行くというんだろう。

「権利」を考えれば、自然と「義務」の概念が出てきます。それらは相互依存関係にある概念にすぎません。「自殺する権利」があるんだったら、「自殺する義務」があったっておかしくない。切腹のように。
自殺する権利があるとかないとかどっちだっていいと思うんだけどなぁ。それは社会や時代で変化するものなんだし。もっと本質的な議題があると思うんだな。自殺する人、それぞれに理由があるんだろうけど結局は、もう生きていけない、もうダメだと思って自殺するんだろうな。僕の考えだと、自殺する人は、本当に生きたいから自殺するんだろうね。生きていてもしょうがないなんて思うのは、生きてない証拠。生きがいを見失った現代人。虚無的な自分を自分で殺さないと生きていけない。だから自殺する。自分の中での葛藤。生きるか死ぬか。その矛盾をどう乗り越えればいいんだろう。人間なんて卑しい存在だ、と思うと同時に、生きるって素晴らしいと感動する自分。そんな複雑な人間的な悩み。人間ってほんと大変です。天才が自殺するのは、その人間的な悩みに自分で自分を追い込んだ結果なのかなと勝手に僕は想像します。

義務とか権利とか人間の約束事よりも、生きがいを見失った現代人は大きな問題です。僕は、人間を疎外した資本主義社会のシステムが冷たく感じます。冷たいくせにヒューマニズムでお利口さんなんです。競争社会は激化で、所得格差が広がり、毎日働き詰める日本人。勝つか負けるか。まるで働くために生きてるみたい。それで身体を壊したら解雇。用済み。そんな社会よりも、人間が人間として膨らむことができる社会であるべきです。ヨーロッパや海外は、生活のために働いて、家族を大切にして、休日を楽しんで生きがいのために生きているように思えます。僕は、日本人は、働くことで誤魔化しているように見えます。生きがいを。日本人から仕事を取ったら一体何が残るんだろう。
こんな社会で生き残るためには、僕は自分を殺さなきゃいけない。自殺する人の気持ちもわからなくもないです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

>僕の考えだと、自殺する人は、本当に生きたいから自殺するんだろうね。

私もそう思います。「死にたい」には「生きたい」の意味が隠されていると考えています。

「人間には死ぬ権利がある(ない)」などという言葉そのものは思春期の子供が「大人」に向かって言いそうなセリフですが、そういう言葉を吐かざるをえない状況にいるとすると、その人間に向かって「ここで権利という言葉は矛盾している」とは言えませんよね。
vagabond_0710さんの身近な人がこのような言葉を吐いた場合にどのようにお答えになるのかが興味あります。

参考になるご意見ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/13 11:08

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