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なんだか物騒なタイトルですが、哲学を愛する皆様ならきっと明解なお答えがいただけるのではないかと思い、ここで質問させていただきます。

人間には自殺する権利があるのでしょうか?

漠然とした質問ですのでさまざまなシチュエーションなど考えられると思いますが、ご自身の「偏見に満ちた」(失礼な言いぐさですみません)ご意見を書きこんでいただけると幸いです。

A 回答 (33件中21~30件)

すっごーく重たい質問ですね。


哲学とは無縁な人間ですので、的外れな意見でしたら、ごめんなさい。
先に謝っておきます。

人には生きる権利がある。
これには誰も反対しないでしょう。

人の一生は死をもって完結するものであり、その時点でその人の一生がどんなものであったかが決定するわけです。
どのように死ぬかということはどのように生きるかということに繋がっているんですね。

人には自分の人生を決定する権利がある、とするなら、自分の生き方、哲学を貫くために、自分で自分の人生の終わり方を選択する権利もあるということになるでしょう。
ある種の宗教を信じている人は、そんな権利はないと主張するかもしれません。全ては神の御心のままに、というわけで…。

即身仏になること、尊厳死を選ぶ人、何かに抗議をして焼身自殺をする人は、自分の思想を貫く手段として死を選択するのでしょう。
決して自殺する権利を主張して死ぬのではないと考えます。

何かの困難にぶつかって自ら死を選択した人も、自分がおくりたいと願う人生と、現状が食い違ったために現状を否定することを選んだのでしょう。

私自身は今現在、自分の命は自分一人のものではなく、自分の人生もまた自分一人のものではないと認識していますので、今の自分には自殺する権利は無いように思えます。

でも、何かを訴えるための死であれ、生きることの苦痛からの逃避の死であれ、自分の死をもって自らの人生を決定した人を批判することはできません。

出来れば自殺という手段ではなく、別の方法で、すなわち、生き抜くという方法で、自分の信念、人生を完結して欲しいと願うだけです。

全然、質問の答えになっていませんが、今漠然と考えていることをまとめてみました。

「生」と「死」。
やっぱり重たいですね。
一生かかっても答えがでるかしら?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

自分の命は自分自身のものではないので死ぬ権利は認められない。が、やはりケースによっては自殺を責めることができないということですね。

私にとっていろいろと共感できるご意見でした。ありがとうございました。

>一生かかっても答えがでるかしら?

出ないように思えますが、その答えをすぐに出そうとする行為が自殺という風にも考えられるでしょうか?

お礼日時:2005/06/13 10:53

人生とは永遠の魂修行なり。


転生輪廻を繰り返し、いく千、いく万の時代
文明を、己を磨き生くるなり。
人間の存在目的は、魂の向上である。
自殺とはそもそも存在の否定であり
逃避である。
肉体亡びても、魂は消せない事を知るならば
自殺する人なかりけり。
魂は永遠の知性であり、永遠の愛であり、
永遠のよきものである。この善きものこそが
仏性なり。

仏性とは何かを考えよ。

禅問答風にやってみました。フフフ、、、、
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この回答へのお礼

またまたご回答ありがとうございます!

魂は永遠のよきもの、つまり仏性であって自殺という手段でこれを消すことはできないということですね?すなわち自殺の権利はない、と。

仏性とは首括りのロープなり!

お礼日時:2005/06/13 10:37

>人間には自殺する権利があるのでしょうか?



「権利」について言う場合、所有の問題 も 有ります。
我田引水と思われるんも知れませんが、自己の生命を排他的に処分する為には、私の生命は、私のもの、だから、自己決定が承認されなければならない。

ところが、「権利」と言う言葉が現われる場合、承認されなければならないにも拘らず、矛盾や否定がその原因としてあります。いわく、自殺は悪である。

イラクの人質拘束の際、自己決定がはやりました、自己決定=自己責任の図式です。ところが、自殺には自己決定=自己責任の図式が崩れます、責任を取る自己は既に無く、他者が責任を取ります。ここが難しいところです。

偏見ですが、高齢化社会・年金問題等の社会的要請は自殺を正当化すると思います、人間の精神など、その程度のものでしょう。

私としては、そんな時代になる前に、
「尊厳死に近い自殺は本人の自己決定として、認めねばならない。」
と、書いておきます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

尊厳死と考えられる自殺は認められるべき、というご意見ですね。その「尊厳死」のところでまた一悶着ありそうなのですが共感できます。

>偏見ですが、高齢化社会・年金問題等の社会的要請は自殺を正当化すると思います

なるほど~。理屈と膏薬は何にでも付く、というわけでその時代には「自殺する権利」を声高に聞くことが出来るかもしれませんね。

>人間の精神など、その程度のものでしょう。

話が変な方向に逸れてすみませんが、こういう自覚が世界平和のために必要なのでないかと思っています。人間の命は地球より重いなどという流行語がありましたけど、文字通り地球の命を無視していますもんね。

いろいろ参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/12 09:03

自殺に関して宗教的観点から、一言。


>>自殺の権利があるか?
自殺の権利があってもなくてもどうなの?って思いますね。自殺するのに、正当な理由付けがあって安心して死のうが、正当な理由なく迷いのうちに死のうが自殺は自殺、自分を殺す事に、屁理屈つけたってだめです。それは言葉の遊びにすぎない、でしょう。
権利や義務の話ではないでしょう!!これは善悪の問題であり明らかなる悪であります。なぜ悪か、
それは霊的視点がなければ答えは半分しか分かりません。
日本では自殺問題に対する取り組みがまだまだ甘いです。それは自殺の原因を解明しそれを防止する為の、
基本的な哲学、あるいは宗教的教えや道徳的原理などの根本になる柱が弱いからです。
戦後の唯物論勢力とでたらめ邪教勢力の二つの非常識勢力によってここ数十年、かなりのダメージをうけてはおりますが、
やはりここは宗教的正論、を述べておかなくてはならない、とおもいます。

生命は永遠であるという事。
魂は転生輪廻している事、
魂の糧を得るために生まれてくる事。
人は幸福に生きる義務があること。

これが前提であります。
「死ねば何もなくなる」という唯物論は誤りです。
肉体は死んでも魂は死ぬことが出来ない、意識は消えないという事です。

「死ねば皆天国で仏さまになる」という考えは誤りです、因果の理法のとうり、苦しみの心でなくなった人は苦しみの世界に(地獄)赴く。死ねばもっと苦しむという事ですね。

ほとんどの自殺者はすぐにはあの世へは旅立てません。亡くなった場所や家で地縛霊になったりで、非常に苦しみます。
飛び降りなどの場合、絶叫状態でそのときの特異な意識を繰り返す、何年も何十年も。

結論、人間は永遠の生命を生きており、魂修行の為に繰り返しこの世に生まれてくる。自殺はその修行の放棄であり、自殺した魂はスムーズに本来の世界、霊界に旅立つことができずに苦しむ。人生を投げ出さずに、生き抜くことが魂の向上と真なる幸福につながるんだ!という事です。
 
何しろ、年間3万数千人の自殺者が出ていることは、一日100名前後命を落としているという事。
大きな戦争をしているくらいの数である。これは大変な数です。実に大変な事です。
古くからの過てる常識を改め、以上のような
正しい常識を知る必要があると思ってます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

自殺の権利がどうだこうだというのは言葉遊びに過ぎないと。そもそもそのような質問が出るのは過った常識に支配されているからであると理解してよろしいでしょうか。

その他宗教的観点からの興味深いご意見ありがとうございました。

皆さんのご回答で「権利がある」「ない」「論じられない」というものがありますが、自殺が「悪である」という意見は一致しているようですね。

1960年代にベトナム戦争に抗議して焼身自殺をはかったお坊さんがおりますが、このことについてはどうお考えですか?

お礼日時:2005/06/10 09:42

> 倫理とか道徳とか仁義とかは哲学の問題ではないのでしょうか。



哲学の問題です。

回答は「権利」という概念はちょっと違うと思います、という趣旨でした。

倫理・道徳・仁義も、社会との関係性の中で生じる概念ですが、

いまそこに自殺しようとしている人がいるとして、その人に向かって、

「あなたには自殺する権利が無いから自殺をしてはいけない」

と言っても、意味が無い。

或いは自殺をするほど落ち込んでいる人が

「おれには自殺する権利が無いから自殺はやめておこう」

と考えるとは、期待できないということです。

或いは、

「おれには権利があるから自殺しよう」

などと思う人もまたいない。

「道義的に」「倫理的に」「仁義として」というのが他の皆さんの主張されているところであると思います。
ぼくが言ってるのは単に言葉の問題だけですね。

昔の日本では、「道義的に」「倫理的に」「仁義として」、ハラキリがある状況では美徳でありました。
得体の知れない普遍性のようなものを後ろ盾にして「自殺は良くない」と言ってしまうのもどうかと思います。
エゴの貫徹である自殺は、迷惑ですが(たとえ心情的に同情できる理由があるにせよ)、関係する人たちのことを慮ってする自殺というものもまたあるわけです。

食を絶って即身仏(ミイラ)になった坊さんだっているわけですが、こんなのになると「道義的に」「倫理的に」「仁義として」なんて次元でぼくには語ることができないです。
なんか、スゲー。としか言いようが無い。きっと彼はバカではなくて、ぼくよりよっぽど考え抜いて、徹底的に実践した人であると思うから。

そんなことまで考えると、「自殺」という言葉でミソもクソもひと括りにして論じることは、乱暴なのかもしれないなとも思えます。

ちょっと遠いところに話を持っていってしまいましたが、「自殺」という一義的な括りに、良いとか悪いとか、権利があるとか無いとか、一義的な価値や解釈を与えることが、乱暴だと思うのです。
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この回答へのお礼

またまたご回答ありがとうございます!

自殺に権利という概念は相容れないものであるというご指摘がここで再確認されました。権利うんぬんという言葉で自殺を語ることは出来ない、と。また自殺を一義的に括るのは乱暴であると。問題のたて方がそもそもおかしいということですね。
ご丁寧なご回答、ありがとうございました。

>なんか、スゲー。としか言いようが無い。

とても実感があり、共感できました。

お礼日時:2005/06/10 09:11

ANo.8様の御意見に頷けるものがあります。


権利というものは現世における方便のようなものであって、その面で論議するのと純粋に哲学において論議するのと同じ土俵に乗せるのは無理があると思います。
考えてみたらワケ分かんないうちに気がついたら生まれてしまってたんだし、生まれてくること自体に権利が確保されているのかどうか、あやふやなんですから死ぬことにも権利があるかどうかなんて分かるわけないと思います。
まあ生まれてくるとき自分で選んだって感じしないんだから死ぬときくらい自分で選ばしてくれよって気持ち理解できないこともないですけど。
もしかしたら生の始めにおいて選択できなかったのなら生の終わりにおいても然り、これが現実かも知れない。
自殺って自ら選択してるようで、その実そうじゃないとも思えるし。

よく周囲の人に悲しみ苦しみを負わせるから罪です、止めましょうって言う人いるけど私にしてみたら失礼な言い草だと思います。
ANo.4様の御意見には同感です。
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権利というものは、他人や社会との関係に於いて生じる概念です。


「生きる権利」というものは、生きるということが社会との関係性を持つことと切り離せない問題だから、権利義務という観点で述べられることがあると思いますが、「生きない権利」ということは、社会との関係性を持たない、ということです。
一般に、自殺者は自殺することを他人に認められなければ自殺できないわけではありませんし、他人から権利を認められて自殺しても権利を認められないまま自殺しても、自殺をするということの効果には何も変りがないと思うのです。(宗教の方に行っちゃうと地獄に落ちるとか蛆虫に生まれ変わるとか脅されたりしますが。)

現世に於ける権利義務という観念で自殺を論じようとすること自体に、無理があると思います。

どちらかというと、倫理とか、道徳とか、仁義とか、そういった範疇で論じられるべき問題じゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

権利は社会との関係性においてのみ成り立つ。よって社会との関係性を持たない自殺は権利義務で論じられない、というご意見でよろしいでしょうか。
参考になります。

倫理とか道徳とか仁義とかは哲学の問題ではないのでしょうか。

お礼日時:2005/06/09 16:49

まず、法の面からみると、日本の刑法に自殺罪というものはありませんが、自殺関与及び同意殺人という罪はあり、自殺者本人は無罪なのに、そそのかした人(共犯)は有罪という形になっています。

これは、共犯が成立するにはまず正犯が成立するという刑法の一般原則からすると特殊な形といえます。
 なぜ自殺を罰することとせず、これに他人が関与すると罰することとしたのかを考えてみるに、そもそも自分の命であってもこれを勝手に断つことは許されない行為であるが、一方、人が自身の生命を断つ自由に法をもって制限することは適当でない、個人の幸福追求権の観点から、自殺を刑法上罪としてないものと考えられます。従って、本人以外の者がこれに関わることは罪としたのだとも考えられます。
 では、次に、法律上の罪でなければ、権利として認められているのかという問題が生じますよね。安楽死などの問題の際に議論されるテーマですが。
 私は、哲学の世界としては、個人にはそうした権利があると思いまずが、国家または社会の維持という観点からは、(法律ではなく道徳の問題として)許してはならない行為とされるべきものだと思います。
 個人が自分の幸福追求のために自殺する権利があるとするならば、同じ理屈で、自分の幸福追求のためなら勤労の義務や教育の義務を果たさなくても良いということになるのではないでしょうか。自殺の事情は千差万別ですが、自殺することは、社会に対して義務を果たしていないという面があると思うのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

違法でないから権利がある、とも言えない。哲学上の問題としては権利たり得る。だが道義的には許すべきではない。という解釈でよろしいでしょうか。そしてここでも自殺者は社会に対する義務を果たしていないというご意見が出ました。
参考になりました。

お礼日時:2005/06/09 16:37

#5です。


 何度もすみません。補足です。
 下記の文章、ちょっと分かりにくいかと思いまして・・・

>ちなみに、今の日本では希薄になっていますが、たいていの国では、憲法の中に「働いて税金を納めること=国のために尽くすこと」が「国民の義務」となっています。何故か日本では「国民の権利」については書かれていても、義務については、戦後、書かれていません。

 この部分ですが、たいていの国では、憲法の中で「国に尽くすことは国民の義務」と記載されているのに対し、日本の憲法にそのような記載は無い といいたかったのです。
 
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この回答へのお礼

何度もありがとうございます!

そうなんですか。いわゆる3大義務はどういう位置付けになるのでしょうか。

お礼日時:2005/06/09 16:16

 こんにちは。


 私も昔、同じようなこと考えました。
 しかし、「自殺」に権利を認めていたら、ありとあらゆることに権利を認めることが必要になってくると思います。例えば「人殺しする権利」「泥棒する権利」などです。

 でも、我々には、生きる権利があるという風に私は思っていました。しかしあるとき、櫻井よしこさんが、テレビ番組で、最近自殺者が増えているニュースにコメントしてました。「最近、生きている意味が分からない」と言って自殺する人が多いけど、生きることは意味とか、権利という問題じゃない。生きるというのは、義務なのです」と仰っていました。
 確かに、私達は時々、「何のために生きてるの?」と考えることもありますが、生きることはそれそのものが義務だと思いました。
 ちなみに、今の日本では希薄になっていますが、たいていの国では、憲法の中に「働いて税金を納めること=国のために尽くすこと」が「国民の義務」となっています。何故か日本では「国民の権利」については書かれていても、義務については、戦後、書かれていません。

 ですので、私は「生きる」ことは義務だと思います。「生きる」ことが義務である以上、自殺に権利はないと思っております。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

なるほど生きることを義務とすると死ぬ権利を容認するわけにはいかない訳ですね。「国民の義務」も果たせない、と。
参考になりました。

お礼日時:2005/06/09 16:10

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