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近頃、学校ではやたらと評価の方法についてどうこう言う話が多くなされます。例えば学習指導案については、どの場面ではどのような観点で評価するのか、というのを事細かく書くことがよい、といった具合です。
しかしながら、評価が細かく計画的になることで教育活動が本質的に変わるとはどうも思えません。
これまで、一人一人の生徒の状況を把握できていなかった先生が把握できるようになる、といったことはわかります。しかし、それだけのことではないかと思えるのです。
むしろ、逆に人が人を評価することを重視することが、また評価結果を重視することが、教育の本質に矛盾するのではないかと思えます。評価結果による優越感と劣等感によって学習意欲を発生させるというのは、どうも旧世界のものに思えます。
教師が子どもを評価する機会をむしろ減らして、にもかかわらず、いやそうであるからこそ子どもの意欲を引き出すことのできる、そんな教育を目指すべきではないのかと思います。
学校は工場ではありませんが、評価評価という考え方には、それに近い発想が働いている気もします。
この件に関しまして、皆様のご意見を頂ければ幸いです。

A 回答 (3件)

No.2です。



「評価」って言葉に、惑わされないようにしたほうがよろしいと考えます。

学習すると言うことが すなわち 「評価できるようになるための訓練」とも考えれますし。
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自分の価値観をしっかり持つような教育も 自分できちんと「評価」できるようになることと 同値とも考えられます。

少なくとも 対人間では、「すべての側面を評価することはできない」と皆が(こども、保護者、教育関係者)が思えるように 教育することが重要と考えます。
(対動物でもなんでも そうなんですが・・。人間がすべての事象を知っていて 評価できるなんて 考えること自体 誤っている認識と考えます。)
特に 学校での成績など ほんのひとつの側面評価にしか過ぎないことを 学校側(文科省?教委?)が 声を大にして 言わなければと思いますが・・。)
(あくまで 私は 評価は必要派です。)

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と言うように 自分のこども達には 伝えております。
40代のオヤジでした。

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ところで 質問者さんの言われる 「評価」は英語ではどの語彙に近いものでしょうか?
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目標を定量化して、どの程度進捗しているかは チェックするのは当然では?


でも、その進捗が遅れているのが「悪いこと」かの判断は価値観が入ってきますね。

例えば、児童の目標が細分化されそれの達成度が細かく出ても それだけで その児童の全人格が 決まるわけではないので・・・。
(学校の勉強なんて ほんと 一部分ですからね。)

工場の製品は、分析結果がオフなら それが すべてですから 「不良品」です。
人間には「不良」はないですね。

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司法(裁判)は 人が人を評価しますね。
どうでしょうか?
(まぁ これも 「罪」の部分だけ の評価といえば それまでですが。)

公務員は、勤務評価や昇格試験?などで評価しますよね?
(まぁ これも「勤務している」部分だけの評価ですが。

民間人も だれもかれも 会社や上司や家族から 評価されてますが、自分のすべてを評価されているわけではないですよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「評価」が社会の中で広く行われていることを当然存じております。しかしながら、教育目的である学校において、その方法は正しく運用され、また有効に機能しているか、ということです。学校における評価が「全人格的な評価」である、あるいはそう理解される、ということは問題ですし、それに近いことも実際に珍しくなく発生していますけれども、それより本質的な、大きな問題性がある気がしております。

評価は、当然側面的ですし、私達は口を開けば何かの評価を行っていると言えます。しかし、それは教育の中枢に置かれるべきものか、ということです。
望ましい学習の動機とは、恐らく「評価を得ようとする動機」が中心ではないのではないかと思います。学習、学びはそれ自体が魅力を持ち、動機づけるものであるように思います。逆に言えば、「やりたくないけど、評価のためにやる」状態、嫌なことを我慢してやった人ほど評価されるという状態は、全く悪いとは言いませんが、なんだかさびしさを感じます。実際、そのような「評価」によって、かろうじて学習意欲をつないで教育活動をやりくりしているのが、公立中学校や高校の現状であるように思えます。
人間生活から評価を取り除くことが出来ない以上、教育活動から評価を完全撤廃することは逆に不自然なことでしょう。ですが、せめて、overtone様がおっしゃるような日常的な感覚のレベルでの評価の扱いになれれば、とも思います。

お礼日時:2005/07/04 22:25

これはもしかしたら 先生&子供 の質の低下(!?)を反映したものかもしれませんね。



何をもって”質の低下”というかにもよりますが、あえていえば「自ら考え、試行する能力の低下」というところでしょうか。。。

jiveさんおっしゃる理想像は、先生も自ら考え実践し、また子供もそれをよしとされる環境下(もしくは厳しい躾けの中で親への対抗を見出す中で自主性が育まれていく環境下)で達成されうるものかと思います。

しかしながら、その両方の条件が不十分、もしくは欠落する中で、教育の質を上げよう、とした場合に、「評価」ということを1つのメルクマールとするのは、ある意味やむを得ない傾向かと見ます。


これは結構根深い問題で、21世紀の日本がどうなっていくか、ということにも大きく関わる問題だと思います。
人生、他人の評価を気にしつつも、それを超えたところにこそ個人の幸せがあるのは、社会がどう変わろうとも、ゆるぎない事実かと思います。
逆に他人の評価を人生の礎にした場合、その評価がいかにあやふやなものか(そもそも人の人に対する評価がいかに不安定なものか)、ということに気付いたときにその絶望は大きなものになるでしょう。
偏差値であったり、学歴であったり、その他の社会的序列は1つのものさしでこそあれ、それがすべてない、ということに気付かないと、人生不幸になりかねないかと・・・。

しかしながら、今の日本の教育システム、もしくは家庭のしつけでは、そういった教え(というか「生きる知恵」)が十分ビルトインされていないように思います。
むしろ、「いかに社会的序列にうまくのって、人生を生きていくか」というところに注力している人の割合が低くないのではないかと。。。

個人的にはここ当面(数十年?)、この傾向を変えることは非常に困難なのではないか、と感じているところです。
自主的に「脱評価」にシフトできればいいのですが、「評価」を拠り所に生まれ育ち、いまを生きている人々の多くに、それを自主的に期待するのは困難かもしれないと。。。(しかしそれを所与として絶望しても、仕方ないところではあります。希望は必要!)


以上ご参考にいただける部分あれば幸いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「脱評価」、そういう発想になりますね。実際に、脱評価している学校もあるようです。公立校でも、通知簿の「総合的な学習の時間」の欄では、文章によってその様子を伝えます。評価一つをとっても、課題が山積ですが、学校をより良い場所に、と思います。

お礼日時:2005/07/04 22:00

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