街中で見かけて「グッときた人」の思い出

以前、テレビで、教科書が分かりやすすぎると
教師が説明することがなくなるという教師の本音を聞きました。
とすると、教師がいままで説明してきたようなことまでわかりやすく何でもかんでも書いてあるたいへん充実した教科書、あるいは教科書とそれに対応した充実した解説書のセットが登場することは教師に嫌われることでしょうか?
そのような教科書が登場したら教師はいらなくなるあるいは仕事が減ると考えますか?
教員の方お願いします。

A 回答 (7件)

テキストがわかりやすくなったら教師がいらなくなる!なんて言うのは、詭弁だと私は思います。

そもそも、教科書が読んだだけではわからないなんていう事態そのものが異常なのではないかと。わかりやすい教科書があって、その上で、授業がどうあるべきか!?というのが本来の教育論ではないですか?
教科書がわかりにくいが故に教師の存在意義があるなんて、そんな寂しい話はないとおもいますが。
本を読んでわかることと、読んだだけではわからないことがあるから、学校や塾・予備校にみんな行くのです。
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>教科書が読んだだけではわからないなんていう事態そのものが


>異常なのではないかと。

もっと言うと、教科書に出ていない範囲から大学受験の試験問題が出ることもおかしい?
そもそも教科書に従った勉強をしていれば、大学に受からない、今の受験システムが問題なのでは・・・。
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高校で理科の教員をしていた者です。

(現在は大学)
私個人は,教科書はもっと分かりやすく,詳しいほうがいいと思っています。
教科書に必要最低限の説明がかかれていれば,その分だけ,特に大切な事項や,つっこんで深く説明したいことなどに,授業時間を当てることができるからです。

今の日本の教科書には,「なぜそうなるのか」という説明が余り書かれていません。というか,執筆者や出版社が,なるべくわかりやすい教科書を作ろうとしても,文部科学省の教科書検定のときにばさばさ削られてしまうという現実があります。
検定する側には,「教科書に書いてあれば,教師はそれを全部教えないといけない,生徒は覚えないといけない,と思われてしまう」という考え方があって,それなら「参考」「コラム」などで本文と別扱いであることを分かるようにすればいいじゃないか,とやってみても今度は「ページ数が多すぎる」と削られてしまいます。
特に,去年行なわれた小学校・中学校の理科の検定はかなり厳しかったようです。
それでも教科書は全員持っているわけですから,生徒のほうは「これはなぜこうなるのか,理由が分からない」「どういう意味か」などの疑問が当然出ます。
授業で丁寧に取り上げていると時間がなくなるし,かといって「そんなこといいから丸暗記しろ」では面白くないし,応用力もつかない。結局,分かりにくい教科書で教師も生徒も困ることになります。

「分かり易すぎると教師が説明することがなくなる」という発言は,本当に現役の教師が言っていたのでしょうか?
だとしたら,あまりにも悲しいことです。教師の威厳を保つためにわざと(文部科学省は)教科書を難しくしているのでしょうか。また,教師はわざとそういう教科書を選んでいるのでしょうか。
アメリカあたりの教科書を見てみると,どの出版社も説明の文章や図解に工夫を凝らし,日本と比べると全般的にページ数は多く,分厚くなっています。
しかし,それならアメリカの教師は仕事がないかというと,そんなことはありません。
いくら詳しくしても,ありとあらゆる情報を載せることは不可能で,教科書からはみ出した部分というものが出てきます。また,それぞれの学校,それぞれのクラス,それぞれの生徒によって,関心を示す箇所や,分かりにくい箇所などはおのずと違ってきます。
教科書に書かれているのはあくまでも一般的な説明で,それを活用しながらここの授業時間を作り上げていくところに,教師の力量の見せどころがあると思います。

教科書を作る側は,一応の想定読者のようなものを考えて,説明のレベルをそこにあわせます。
当然,一人ひとりの生徒にとっては,難しすぎる場所があったり,逆にもっと専門的な説明が欲しい人も出てくるでしょう。
そういった個々のケースに対応して,授業の進め方を考えたり,プリントを作ったりすることを考えれば,教師が不要になろうはずもありません。
さらに,教科書に載っていない最新の話題とか,自分がこのテーマについて大学時代どういう研究をしていたとか,いくらでも話す話題はあります。

昔から,「教科書を教える」のではなく,「教科書で教える」のだという言い方があります。もし,ご質問者のお聞きになった発言が本当に教師側から出たとすれば,「教科書で教える」力量のない人なのかなあと思います。

…などと自分の力量を棚に上げて,偉そうなことを言ってきましたが,実は私にもすこしその発言の気持ちが分かるところがあります。
学校現場では,いろいろな都合(教員の数が少なかったり,また過疎地の小規模校など)によって,自分が全く専門外の科目を担当しなければならない場合もあります。私の場合,生物がそうでした。
そんなときは,教科書の内容をなぞっているだけで精一杯で,「あまり質問しないでくれよな」という気持ちになったりしますので,確かに教科書が薄ければ,補足説明しているだけで間が持たせられます。
しかし,本来はそんな授業はあってはならないので,間を持たせるために教科書をわかりにくくするなどは,本末転倒でしょう。

私の場合,教員免許の上では,生物も含めた「理科の免許」を持っているので,教えられなくてはいけないはずです。いくら大学では生物を専攻しなかったといっても,免許をもっている以上は,私の不勉強と言われても仕方ないところがあります。
ところが,過疎地などで,教員数が少ないために,家庭科の先生が英語を教えたり,国語の先生が理科を教えたりと,大学時代に学んでもいないし免許も持っていない教科を担当するケースがあります。
とはいえ,そういう事態に対応した教科書のあり方とは,決して中身を分かりにくくすることではなく,逆に教科書をわかりやすくした上で,教師用指導書(という本がついてくるのです)をさらに充実させることではないでしょうか。

ただ,英語などは今の程度でもいいでしょうし,逆にあまり詳しくするのは難しいかなという気がします。(実際,アメリカなどで作っている外国語のテキストも似たようなものです。)
(長々と失礼致しました。)
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この回答へのお礼

お返事遅れました。
わかりやすく説明していただきありがとうございます。
市販されている学術書も大概難しく書いてあります。
それに対して講義ではこれでもかというくらいにわかりやすく説明しているのが目立ちます。
わかりやすい本の登場によって講師や教師の説明することが少なくなるのではないかといまでも感じます。
現状では教科書などの本は正確さを、講義はわかりやすさをという追求しているように思えます。

お礼日時:2001/10/26 18:37

 私は英語講師を中高でしていました。


私の個人的意見を述べさせてください。まだ教師に成り立てですが、、、。

 今の子供っていうのは、やっぱり恵まれすぎるっていうのは否めないと思います。情報が多いし、それを活かせるようPCもあれば、これまでの経験などを合理的に活かした塾やら専門家がいる。ネットワークが短時間につながりにくかった昔とは大違いです。

 でも、今すごいものを作っているのは、そんな昔を生きた人。不便だな、こうなればいいな、を今形にしていて、若い人はその人たちがこつこつ積み上げたものを途中から一気に吸収できちゃうわけですよね。それじゃ、昔の20歳と今の20歳が進歩の度合いが違うのは仕方ありません。

 なんで不便な昔を生きた人が、そんな便利なすごいものを作れているのかっていうと、やっぱり考えること、想像することが今の子供より多かったからだと思います。

 教科書がないから自分で書く 教科書に書いてないけど大事なことだから先生が言うことを書き留める 書いてないから何が一番大事なことか自分で考えてみる  こういうことが、勉強だったんだと思います。

 でも、もし分かりやすい、何でも書いてある教科書があったら、、、。
メモなんてとりませんよね?書いてあるから。話や説明なんて聞きませんよね?読めば分かるんだから。授業なんていりませんよね?家で読んだら分かるんだから。

 じゃあ、なんで学校があるの?って思いますよね。

 じゃあ、学校を無くしました。家で本を読んで、分かってください。

 やる子はいると思いますか?本を渡されて、締め切りも何もなくて、読めば分かるって分かっていて、、、そんなものを読む人は少ないですよね。

 教科書にはざっとポイントだけ書いてあって、先生の話と説明、質問回答、、、自分で要点をメモして、自分で書いて、見て、聞いて、それで身に付けるんです。

 分かりやすすぎる教科書は、子供に安易に「じゃあ先生要らない 授業聞かない」って思考を与えます。子供は上に書いたようなことまで、考えませんから。
(だって、そのぶん楽しいことができるから^^)

 それに学校は教科書を教えるだけじゃない。人の話を聞く、人との関係をつくる、、、いろんなことを教え、教わる場なんです。もし子供が学校いらないって来なくなったら、人と生きれなくなるかもしれない。

 オーバーかもしれないけど、子供が安易に何かを捨ててしまわないように、大人たちはしっかり先を見て考えて、与えるか否かを決めないといけないと思います。

 だから、分かりやすい教科書 は、私は賛成しかねます。
長くなってすみません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
たしかに学校は人間関係を形成させる大切な場かと思われます。
ただ、授業に出ることによって得られた人間関係というのは私の場合全く思い当たりません。休み時間や放課後に人間関係が形成されるものと考えます。
教員の方の立場も一応理解できますが、もし従来どうりの授業がなくなっても、コミュニケーションの授業を特別に設ける、部活の時間帯を拡充する、体育の時間を増やす、合唱の時間を増やす、などの対応をとればいいとおもいます。
とくに私の場合、部活動の時間が少ないと感じたことが結構あります。

お礼日時:2001/10/26 18:48

なるほど,いろんな考え方があるものですね。


たぶん教科による違いも大きいと思います。

ただ,わかりやすい教科書→メモをとらない→生徒の堕落,というのはあまりにも単純化しすぎた図式だといわざるをえません。「子供は手を抜くことしか考えてない」と性悪説に立って一方的に決めつけているといえましょうか。
おそらく,そういう生徒さんに多数接してこられた実感なのでしょうが…。
確かに何を説明してもぼーっと聞いているだけという生徒の率は増えたなと思うこともあります。しかし,この間(といってもここ10年ぐらいですが)教科書はわかりやすくなっているでしょうか。
指導要領や検定があるのですから,ほとんど変わっていないといってよいのではないでしょうか。
何か他にもいろいろと要因があるはずです。

逆に,私が今担当している授業では,なるべくわかりやすいテキストを指定するようにしています。さらに,演習の授業などではもっと丁寧に書いたプリントを作ります。
それでも(いや,それだからかもしれません)学生はけっこう一生懸命ノートを取っています。試験のときに感想を書かせると「テキストより分かりやすかった。本にしたら」などと言ってくる人がいます。
そういう人は試験の出来も,授業の内容がしっかり定着しているといえる成績を取っています。
(「それだからかもしれません」と書いたのは,ある程度の説明がテキストやプリントにあることで,自分なりに授業の内容を考えて咀嚼したうえでノートを取る余裕ができる,という意味です。)

なんだかこういう書き方をするのはおこがましいのですが,教科書やプリントを作る時の工夫次第,そして授業の進め方の工夫しだいで変わってくると思います。
私は,生徒・学生がそれを読んで「ん?なぜだろう」「これはどういうことだろう」と思うであろう箇所をなるべく作るようにしています。
逆に,ノートを取らせるためにわざとわかりにくい教科書を作るとしたら,姑息な手段という気がします。

もちろん,学校による違い,教科による違い,学年の個性,クラスの個性,一人ひとりの個性がありますので,どこまで一般化できるかは分かりません。一般化できたとしても,当然それにあてはまらない授業はあるでしょう。
また,高校と大学とでは別だよ!という部分もあるでしょう。
しかし,教科書を分かり易くすると生徒がなまけるという単純な方程式では測れないこともまた確かだろうと私は思っています。
いかにして子供の思考力を育てるかを考えようと思ったら,教科書の難易度だけでなく,もっと多面的にみる必要があると思うのです。大は社会環境から,小は板書の仕方まで視野に入れて。
(「もともとの質問が教科書の難易度についてだったからそれについて触れただけだ」という反論があるかな)
まして,学校に来なくなり,社会性が育たない…となると,学校の問題をなんでも「分かりやすい教科書」のせいに押しつけているだけでは,とも思えます。別にオーバーだとは思いません。大事なことですから。

>メモなんてとりませんよね?書いてあるから。話や説明なんて聞きませんよね?読めば分かるんだから。授業なんていりませんよね?家で読んだら分かるんだから。

それは,教師が,教科書に書いてある説明をなぞる授業しかしない(できない)からではないでしょうか?
大事なポイントは教科書には載せないで隠しておいて,それをもっともらしく生徒の前で説明するのが教師の仕事,だとしたら,なんだか寂しい授業観ですね。

それと,私は「教科書を教える」ではなく「教科書で教える」という考え方です。あくまでも授業の教材にすぎません。この,「を」か「で」か,という論争も以前からよくなされてきました。
とりあえず,このへんで失礼します。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
全般的に同感です。

>大事なポイントは教科書には載せないで隠しておいて,それをもっともらしく生徒の前で説明するのが教師の仕事,だとした ら,なんだか寂しい授業観ですね

私も薄々感じてました。教科書が無愛想→わかりやすい説明がほしい→教師の必要性が高まる
という図式があるように思えます。
わかりやすい説明、あるいは本当に生徒がほしいと思っている説明が教科書や解説書にのっていたら、私は学校は従来と変り、例えば人間交流を主とする場
になるとおもいます。
またなってほしいような気がします。
従来、学校ではコミュニケーションというのは生徒が各自適当
にやるものとしてとらえられ人間関係が身に着くような努力を学校側がしてきたかどうか疑問です。

お礼日時:2001/10/26 19:01

 puni さんの回答、ちょっと痛かったです、、、。



 というのも、やっぱり自分の教員歴が浅いのと、その時の悪印象が回答に強く反映してしまっていたというので、反省というか、自己嫌悪というか、、、。

言い訳かもしれませんが、自分の学校が使用していた教科書が「分かりやすくなった」ものだと勘違いしていたようです(puniさんのご意見を読んで気づいたのですが)。私にはとても授業に用いにくく、プリントを駆使して授業をすすめ、教科書には授業の30パーセントくらいでしか触れていませんでした。
 もちろん私の技量不足などはあります。手をぬいたつもりはありませんが。

 私の印象では、私が学生の頃より、今の(その学校が使用していたものは)教科書は、内容より流れ・簡単さ(とっつきやすさ)重視のようで、同時期に教えるべき(と思われる)ことがかなり離れたセクションに出てきたり、、、。

 私はこの教科書(今使われているもの)が進んだ形(?)を思い浮かべながらppooooさんのいう「わかりやすい教科書」について回答していました。

 もっと教員経験をつんで回答すべきだった気がします。

 私はプリントをつかったり、ゲームをしたりして授業を作るのが好きです。一時期は教科書がなければ、もっと楽しく流れよく授業ができるのに、と思っていました。

 でも、生徒をみていて、生徒が勉強をしていく上で、教科書というのは不可欠だと感じました。その教科書が「わかりやすく」なるというのは、いいことですね。私の前回の回答では、「わかりやすい教科書」=「全てを書ききってしまい、生徒に、考える前に答えを与えている教科書」と(私の中で)なっていました。

 いくつか、そこを訂正しても変わらない意見も入ってますが、、、。^^;

 ppooooさんの質問に対して勘違いしながら回答してしまいました。
すみませんでした。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
わかりやすい教科書の登場で効率的に勉強できるように各自が努力すれば、問題を解く時間や、課外活動などが増えるといった良い面も私は一応想定してました。
もし、考える時間が減るだけなら私も問題を感じます。
あと私の場合は学校の授業中家でも考える時間というのは少なかったという感じはします。覚えることが主体でしたからね。

お礼日時:2001/10/26 19:09

すみません,直接の回答ではないのですが,私からもフォローを…。


前の(No.5)回答,今読み返してみると妙に偉そうですね。自分も狭い教員経験しかないというのに。yackyさん,読者の皆さん,不快に思われた方もおられるでしょう。申しわけありません。
どうも夜中に文章を書いているとハイテンションになりがちで,気をつけてはいるのですが。

今日たまたま,ある大学で行なわれた講演会の記録を読む機会がありました。それは,現場(中学・高校)の先生方が来られて,教職課程を取っている学生を相手に話されたものです。
その中で,ある先生が,私が話すのはあくまでも私の考え方であって,先生の数だけ考え方がある,と発言されているのが目に留まりました。まるで,前回の私の書き込みに対する天の声のようでした。

前の回答で,いろいろな要因がある,ということを書きましたが,考えていくと結構深いテーマであるような気がします。
個人的に,今後もじっくりとこのテーマについて考えながら,よりよい授業を目指していけたらな,と思います。
それでは,このへんで。
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