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太平洋戦争中のB29の空襲について質問します。
ドラマや絵画でみると、B29は驚くほど低く飛んでいます。
また昼間に編隊を組んで来襲したりしています。
これは本当のことなのでしょうか?

昼間に敵国の上空を低空飛行するなんて危険すぎますね。
終戦間際とはいえ、完全に制空権を奪われていたとは思えません。
B29は見えていたとしても、はるかの夜空で小さくしかみえていなかったと思うのですが、どうなんでしょうか?
何人かのお年寄りに聞いてみましたが、B29を見た人はいませんでした。

それからもう一つ、B29は焼夷弾を落としたのですが、爆弾は落さなかったのでしょうか?
東京大空襲のように火事で消失させるのが目的の場合は、焼夷弾だけだったのでしょうか?
橋、鉄道、道路などには爆弾を落とした方が効果があるように思いますが。
よろしくお願いします。

A 回答 (10件)

初期の爆撃は、高高度からの精密爆撃で、立川の中島飛行機工場などを狙いましたが、ジェット気流に翻弄されて爆撃は失敗を重ねます。

また、この頃は、B29の直掩機がついていなかったことから、本土防空の航空隊による迎撃により無視できない損害を出していました。

B29が低空からの焼夷弾爆撃をおこなうようになったのは3/9東京大空襲が最初です。それまでの密集編隊での爆撃はやめ、編隊を組まず各機がおのおの低空で東京に侵入し指定された目標に投弾するという方法がとられました。

夜間に低空で侵入したことにより、探照灯が敵機に追いつけず、従って、夜間戦闘機はB29を迎撃することが出来なくなります。
また、帝都の各所に配置された高射砲も、低空を高速で横切るB29をとらえることは出来ませんでした。
こうして、東京大空襲はさしたる損害を出すことなく成功させることが出来たのです。

この成功に味をしめたルメイ少将は、同様の爆撃方法で日本の各都市を焼き尽くします。やがて4月に入り硫黄島からのP51による直掩が可能になると昼間も堂々と低空で侵入し爆撃を行なうようになります。この頃になると本土防空の航空隊は、本土決戦に備え兵力温存の為、迎撃に上がらなくなってしまいます。
これ以降の本土上空の制空権は完全に米軍の手の内にあったといえます。本土防空隊が最期の一矢を報いたのは3/19の松山上空での三四三空紫電改による迎撃戦だったといわれています。

爆弾についてですが、
精密爆撃による軍事目標や軍需工場などには爆弾が使用されましたが、日本の都市部など広い目標の場合は焼夷弾(E46など)を使いました。
余談ですが、ドイツの都市の場合は建物が石造りの為、最初に爆弾を投下してある程度破壊した後に焼夷弾をばら撒くという爆撃方法が最も効果的とされていました。ドレスデンなどはこの方法で爆撃されましたが、一回目の爆撃が終わって市民が防空壕から出てきた頃を見計らうように焼夷弾の投下が行なわれた為、都市が壊滅すると共に多大な人的被害を出してしまいました。
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戦争中は大阪近郊に住む小学生でした



関西地方の爆撃は昭和20年の早春から始まったと思います

始めは護衛戦闘機無しのB-29だけで高高度で白い飛行機雲を引きながら白昼飛んでいました

始めは夜間爆撃が主でしたが4-5月ごろから護衛戦闘機が付くようになって手で届くほどの低空で昼間爆撃をするようになりました

邀撃の戦闘機は滅多に見ませんでした、本土決戦に備えて温存したのでしょう

爆弾の種類は攻撃目標に応じて変えたと言うことです

B-29もそうですが空を覆う胡麻粒のような戦闘機には困りました、通学中の小学生も狙撃されてずいぶん犠牲になりました

市民への無差別攻撃、原爆攻撃を命令したルメー将軍に佐藤内閣は堂々と勲章を贈りました

アメリカ人が日本人は戦争を終わらせた原爆に感謝してると思うのはその為です
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No.5です。

目撃談ばかりで申し訳ないのですが、母はB29が攻めて来て爆撃を受けるか!もはやこれまで!という時にB29が杉の樹に引っ掛ってB29の方が慌てて上空へ立て直して行ったと言ってます。あの樹に引っ掛らなかったら爆撃を受けていただろう、助かった!と言ってますね。ですから低空飛行で爆撃を企んでいたと思われるらしいです。
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B29はターボエンジンを搭載していましたので、日本軍の高射砲が届かず、かつ日本軍の迎撃機が攻撃できない位の高高度を飛行できた故に悠然と爆撃を行えたのです。



三菱や中島(現日産及びスバル)のエンジンはこの頃はまだノウハウはそこまで達してなかったですからねぇ。
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米陸軍航空隊は当初、ノルデン照準器による昼間高高度精密爆撃に自信をもっていました。

これによって軍事目標を爆撃したのです。しかし命中制度が思ったほどでなく、英国空軍をまねて夜間低空爆撃に切り替えました。爆撃目標も軍事工場などの点目標では効果が低いので、工場労働者も目標であると、考えを変えて絨毯爆撃にしました。

機体がはっきりみえているのは、焼夷弾による火災の光とか、照空灯の光によるものでしょう。

日本の都市は、木造建築が多かったので焼夷弾が主に使われましたが、堅牢な目標には爆弾も使用しています。
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事実だと思われます。


両親の話では、子供の時に見た事があるという話で低空飛行だったと聞きました。
そのときは爆撃も何もなかったらしい(偵察飛行?)ですが、恐ろしく恐かったと言っております。
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実際に大空襲を経験した者として一言。


大体色んな方の回答の通りですが、昭和20年3月10日の東京大空襲に始まる日本全国各大中都市の空襲は当初は夜間でしたが、その後堂々白昼に行われることが多くなりました。
B29何百機と編隊を組み翼を連ねて低空から波状攻撃を仕掛けてくる様はまさにこの世の地獄絵でした。初めのうちこそ戦闘機の迎撃もあったようですが、そのうちまったくそれもなくなり、文字通りB29の天下、わずかに高射砲がど~んど~んと打ち上げられる音が聞こえる程度で、無抵抗に等しいものでした。
日本家屋には焼夷弾ということで、当初は殆ど焼夷弾一本槍、空中で1発が36発に分裂して落ちてくる様子はまさに地獄の花火です。
この頃は鉄橋や橋を目標とすることは少なく、とにかく家を焼き払って国民の動揺を煽るのが主目的だったように思います・
その後あらかた民間家屋が焼き払われると爆弾に転じ、各施設などを爆撃するようになり、終戦直前は大都市では殆ど爆弾が主でした。

おそらく一番最後の空襲は8月14日の大阪空襲ではないかと思われます。明日は日本の無条件降伏が発表されるという前日に行われた空襲です。
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高度に関しては当初は高高度爆撃(8000~10000m)が多かったですが、爆撃精度が上がらないので、低空もチャンスがあれば実施されました。

特に硫黄島を米国が占領し戦闘機を進出させB29の擁護につかせたり、夜間爆撃の際は2000位の高度で進入してきました。

当初アメリカの爆撃方法は通常爆弾で軍需施設を中心に狙いました。特に狙ったのが中島飛行機武蔵野製作所。
只、遠くから飛んできて日本上空まで来て見れば雲に阻まれることも多く、又上空のジェット気流も激しく精密爆撃の効果が中々上がらない。

日本の爆撃の現地司令官はアーノルド准将でした。
彼はあくまでも軍需施設への精密爆撃に拘ってたが、本国の軍司令官アーノルド大将により更迭され、代わってヨーロッパ戦線よりルメイ少将を呼び寄せました。彼はドイツを廃墟にした実績があります。

彼はマリアナのB29保有数が増えるのを待ち、様々なメリットがある夜間低空爆撃を行い一晩で一都市を集中爆撃し日本が対処方法を構築するまでにけりをつけようとしました。(3月10日の東京空襲から始まり名古屋、大阪、神戸、そして再び名古屋)

通常爆弾の精密爆撃も並行して行ってました。
雲が少なければ精密爆撃。天候不良なら無差別爆撃。

でも集中絨毯爆撃の結果マリアナにある焼夷弾を使い切り本土より補充されるまでの約3週間は通常爆弾での精密爆撃しか出来なかったらしいです。
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ちと、ソースを探す時間がないので記憶に頼って描きますが、低高度爆撃、昼間爆撃共に事実です。



たとえば、3/9の東京大空襲際には、「パイロットの顔が見えた」という証言があるくらい低く飛んでいたようです。
(実際には数百メートル以上あったでしょうけども)

昼間爆撃は、基本的に高々度水平精密爆撃だったようで、10,000m以上の日本の戦闘機では届くのがやっとというような高々度を飛んでいたようです。
零戦など日本の主な戦闘機の活動可能な高度が3,000m~5,000mですから、後半はともかく最初の頃は高度15,000ftということは無かったと思います。

あと、B29は爆弾も落としています。というか、初期の頃は爆弾だけでした。日本の家屋に対しては爆弾よりも焼夷弾の方が効果が高い、ということに気づいてからは、目標に応じて使い分けています。
(余談ですが、機雷投下なんてこともやってます)
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>ドラマや絵画でみると、B29は驚くほど低く飛んでいます。


基本的に,日本上空は高度1万5000フィート(約4570メートル)で飛んでいたはずです。でなければ,日本の戦闘機で攻撃されたでしょうから。
この時代の日本の戦闘機は1万5000フィートまであがるのに20分ぐらいかかる性能しかなく,B29に近づくのに時間がかかりました。そのため,B29からするとかっこうの「まと」となり,たやすく撃ち落とされたということです。

>昼間に敵国の上空を低空飛行するなんて危険すぎますね。
>終戦間際とはいえ、完全に制空権を奪われていたとは思えません。
終戦間際ではほとんど制空権を奪われていたんですね。だからこそ昼間に堂々と日本に来ることができたのです。
初めて日本が空襲されたときは,日本の戦闘機がまだ十分にありましたから昼間の爆撃ではなく,夜の爆撃です。(昭和19年12月だったかな?)

>それからもう一つ、B29は焼夷弾を落としたのですが、爆弾は落さなかったのでしょうか?
民間施設が密集しているところには焼夷弾,軍事施設のあるところは爆弾を落としたんですね。

>橋、鉄道、道路などには爆弾を落とした方が効果があるように思いますが。
確かに,目標となるものに対しては爆弾を落としたでしょうが,高度が高く標準がかなり甘いB29ですので,橋などに対して爆弾を落としたかどうかについては,私は知りません。(爆弾を落としたとしても,橋とかの小さな目標には当たらなかったと思いますよ,あの性能じゃぁねぇ。)

まぁ,下記のHPをごらんになれば少しはわかるかもしれませんので,紹介しておきます。参考にしてみてくださいね。No.5以降がB29に関連したことかな?と思います。
http://www.himeji-castle.gr.jp/JAPANESE/phoenixs …

また,「B29機密、旧日本軍入手 本土爆撃激化前に旧満州で」なんて記事が今月の28日にでていますね。これも参考にするといいかもしれませんよ。
http://www.asahi.com/national/update/0826/OSK200 …

ってなところで,参考にしてみてくださいね。

参考URL:http://www.himeji-castle.gr.jp/JAPANESE/phoenixs …
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