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 宗教は、魂の救済であり、生活の知恵であり、倫理規範であると考えます。つまりその教えは絶対に真実でなければなりません。
 違う真実をもった宗教間、宗派間の争いがたえないのは、仕方がないことだとも思いますが、宗教間の争いを根絶させることが出来るのも、ひとつ哲学だけと思います。
 以上について現代までの哲学者はどのように論理展開しているのでしょうか。
 あるいは、わたしの上記の要請は、的はずれ、もしくは過大なものでしょうか。

A 回答 (10件)

私は哲学者がどう論じようと宗教とは掴みにくいものかと思います。


なぜなら信仰とは外からの研究だけではわからない深遠なものであるから。
まず信仰し理解し悟らなければならないと思うわけです。
学者先生が研究のすえ悟りを開けたのなら宗教の意義がありません。
実践して初めて「魂の救済であり、生活の知恵であり、倫理規範」になりえるからです。

真理はおそらく一つ。
環境、宗教観、道徳観、倫理観、などなど。。
人の個性によって、同じ真理を発見しても口にする言葉は違うと思います。
開祖の死後、真理に到達していない者が人を束ね、指導しているから間違いが生じる。
そう考えます。
宗教というものを人間のエゴが利用している以上争いは絶えないでしょう。

指導者は聖典、経典についての解釈権を持っています。
争いがなくなるということは、指導者の力量いかんかと思います。

ここは研鑽の場と思い私見をぶつけてみました。
他の方の意見も非常に興味あります。
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他の方がたのご意見にもあるとおり、現在の宗教は分裂と対立と戦争を生み出しています。



これは宗祖のせいではなく、人間の進化のレベルを表していると思います。

キリストや仏陀が他者を否定したり、征服したりすることを1度たりとも勧めたでしょうか。

キリスト教も仏教も同じような事をいっています。
蒔いた種は刈りとらねばならない=因果応報
魂は永遠不滅である=輪廻転生

聖人たちはその昔、自分の出現した地域の人の為にその歴史と文化の程度に合わせて、分かりやすく真理を説きました。
平和と魂の救済と霊性の向上が中心でした。魂にとって真に尊いものは何かを教えました。

それなのに、現在こうなってしまったのはその後の宗教指導者たちの理解の低さと一般人の知性のレベルの低さが原因だとおもいます。

現代人は少しは当時より、文化的にも知性的にも向上しているのですからもっと現代的な、進んだ違った解釈があってもいいのではないでしょうか。

No.1の方の意見とNo.6の方の意見は行き着くところがじつは一緒だと思います。

未来の宗教は、おそらく個々人が心の中で宇宙の神(万物を創造し生かしているエネルギー)に直接祈る様なかたちになるのではないでしょうか。

直接祈る事によって直接インスピレーションを得る事ができ(預言者が信託を受けた様に)従って、人々の心の中にこそ真の教会なり寺院なりが築かれ、宗教が現在よりもっと純粋なものになるでしょう。

世界の宗教は1つにまとまり、御互いが共に協力しあい、奉仕する事こそ最も大切な宗教の理念になるでしょう。

何を信じているかではなく、何をするかが最も大切になるでしょう。それがその人の進化のレベルを最も表していると思われる様になるでしょう。

「神」とは全ての行動を許す存在である代わりに、すべての行動の責任を本人に問う存在だという事が全ての人に理解されるでしょう。

つまり、「神」に対する解釈が今までとは違ってくるということです。新しい進化した人類には、新しい進んだ解釈が現れると思うのです。
皆さんはどう思われますか?
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> 宗教は、魂の救済であり、生活の知恵であり、倫理規範であると考えます。



 質問者の方の定義は,儒教の思想にピッタリ当てはまりますが,他の全ての宗教に当てはまるかどうか疑問です。他の宗教にとっては,それらのことは枝葉末節或いは方便に過ぎないのかも知れません。

 そもそも,哲学に信仰が加わったものが宗教なのです。
 哲学によって宗教間の争いを根絶することができるとするならば,信仰を否定する以外にはありません。
 従って,哲学によって宗教間の争いを根絶させることはできないのです。
 
 もし,哲学によって宗教間の争いを根絶させることができたとしても,次は哲学の学派同士の争いが始まります。

 キリスト教もイスラム教もユダヤ教も,呼び方は違っても同じ神を唯一神・全知全能の神として捉えているのです。それでも争いをしているのを見れば,哲学とて同じことが起こることは火を見るよりも明らかです。
 
 よって,質問者の方が,哲学を過大評価していると言わざるを得ないのではないでしょうか。
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無神論者ですがおじゃまします。

肉体というのは自己の世界に役立つから尊び、精神は自然や人類全体の為に役立つのだから高めよう、立派に生きた人の哲学はその人の続く功徳で人生が終わっても残そうという目的なのではと思います。
精神を束ねた教祖を愛する・信じる限りその人の存在は終わりではないのですね。

戦争や敵対する論理で勝利するのも滅するのも媒体の哲学や神ではなく、生き生き生きてる人間だけ。

宗教の正義とは種族保存なわけで、種族とは隷属社会の形成を意味し、社会に功徳の還元はするが、異なる社会・種族は保存を望まないし不利とするなら排除したくなるものでしょう。そういう閉じられた社会。宗教批判ではありません。宗教家は純粋であると思うのです。私は不粋者という自覚があります。

弱い人間にとって救済は、死=絶対神の元へ旅立つことなのかもしれない。私は生きれたことに感謝して、残される者達の幸せも見届けれなければ死んでも救われない。でもいくら後悔しても死んだら意識もなくなるのだから救済になるか。
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宗教学において、全ての宗教の本質は同じだという考え方があります。



その宗教的なるものが、キリスト教社会ではキリスト教という形で表現され、仏教社会では仏教として表現され、それぞれのところでいわゆる歴史的な宗教として表現されるというわけです。

たとえば、キリスト教と仏教においても、別の言葉で表現してるが、本質は同じでないかという概念があります。

キリスト教   仏教    共通
神       法     世界を支配するもの
イエス     釈迦    宗教的な天才
キリスト    仏     救い主
精霊      仏性    人間の内にある神的部分
愛       慈悲    対人的な教え

あと、この場合によくたとえられるのは、山に登るときにはルートいろいろあるが、行き着く頂上はおなじである。つまり、宗教にもいろいろあるが、究極の魂の救済は同じであると説明されます。

それで、人はそれそれ自分に向いた道をまっすぐにすすめばいいわけです。
そして、まだ低いところにいるときは他との違いが目に付くが、高いところに登れば他と同じところに気付くということです。

ちなみに、現代においても優れた宗教者は、他の宗教に対して寛容であり、対等な対話を通じて多くのことを学びたいと考えてます。つまり、自分の信じる特定の宗教にも長所の他に欠点があり、その宗教を信仰しながらもその宗教に対する批判的な視点=問題意識を持ってるんです。
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こんにちわ



>宗教は、魂の救済であり、生活の知恵であり、倫理規範であると考えます。つまりその教えは絶対に真実でなければなりません。

●まさにその通りです。

> 違う真実をもった宗教間、宗派間の争いがたえないのは、仕方がないことだとも思いますが、宗教間の争いを根絶させることが出来るのも、ひとつ哲学だけと思います。
> 以上について現代までの哲学者はどのように論理展開しているのでしょうか。


●『哲学者』に限定しても、キリスト教社会で育った哲学者はその影響を受けていますので、他の宗教とも認識を共有するというのはなかなか難しいことです。
 たとえば、ニーチェは『神や死んだ・・・』という具合にキリスト教世界を否定することで他の世界(仏教思想を絶賛したりしてます。)との垣根を取り払うという思想を展開しました。
 また、キリスト教世界での正当な例でいえばバークリーでしょうか。(詳しくは参照URLを見て下さい。)
http://www.geocities.jp/mickindex/russell/rsl_PP …

彼は、『存在する事は知覚することである。』という哲学を展開します。
机があるのは私が知覚しているからだ。机があるから知覚されるのではなくて、知覚されるから机がある。誰もいない部屋に机を置いてもなくならないが、これは神が知覚しているからである。・・・
という具合ですが、この思考法でゆけば、場所により神の認識(宗教)が変わるのは当たり前の事ですよね。
 ですから、彼の哲学においては宗教の違いなど争いの元にはなりえないわけです。

とはいえ、哲学上は、やっぱり机上の空論になってしまう気がします。
私は哲学より宗教のほうが得意なので、このへんの詳しい説明は他の方に
続けてもらいたいと思います。

私は、次に(神学)宗教的アプローチの例を紹介しますね。
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世界的宗教のひとつに、「バハイ教」という宗教があります。


イランで19世紀末に、イスラム教シーア派をペースに生まれた宗教です。

この宗派は、各宗教組織間の相互理解と、人類普遍愛を説く宗教です。

基本的には一神教ですが、「全ての宗教の神は、同じ神であり、それぞれの地区や民族ごとに、適した教えを神が伝えた」と考えています。

そのため、バハイ教の場合、必ず複数の聖典を読む事を義務付けています。
そのうえで、色々な宗教に接し、理解する事を求めています。

宗教間の争いは、単なる誤解や、解釈の相違によるものなので、じっくり話し合えば、解決できるものとしています。

そういった宗教もあります。

参考URL:http://www.bahaijp.org/nsanew/index.html
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哲学者も一派(学派)をつくる事はあっても、本来、哲学者は単独です。

また、単独であるべきだと思います。ソクラテスの哲学は、あくまでも、ソクラテス個人に属するものであり、それ以上ではありません。

しかし、宗教は信者の集団を結成し、それが教団となります。その、集団を結成することが、宗教間の争いを生み出す原因になるのです。それは、政治の世界も同じです。

信仰は本来、個人に属する物であり、決して他者に強要する物ではありません。他者に強要するところから、悲劇が始まるのは、歴史の証明するところです。

日本人はよく無宗教といわれ、外国人から非難されますが、宗教教団に属さない(仏教の檀家になっていても)という意味では、誇りにして良いことだと思います。

しかし、なにものかを、信仰する心は、多くの日本人が抱いているのではないでしょうか。日本に古来からある土着の民間信仰(道祖神、祠など)などは、失いたくない、日本の文化だと思います。

人情など、人への思いやりなどは日本人の、良い文化だと思います。しかし、昨今、このような文化が失われつつあることは、誠に残念なことだと言わざるを得ません。

「刺客」を公衆の面前で送る人物が、最高の栄誉を得るのが今の日本の現状です。世も末ですね。
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#1さんのご意見に一票投じさせていただきます。


私も浅学で、ご期待に沿える自信はありませんが、私見を少々述べさせて下さい。
もし、ご質問の意図が、宗教観の争いを根絶させることについての模索をみなさんちょっとしてみませんか、というご趣旨ではなくて、過去のお偉い哲学者の方々が何を言ったか知りたいという知識をお求めだということであれば、どうそスルーなさってください。

いみじくも、あなたが言われるように、「> 違う真実をもった宗教」という言葉の中に既に矛盾があるわけです。
他の命を奪わなければ生存できない生物にとって、真実は多様です。
ある人にとっての真実が他者にとっての真実になる事はありえません。
みな「折り合い」を付けているだけでしょう。

宗教が、生活上のモラルを律している内はまだ有益と言えますが、生存をかけた場面において「真実ゆえに団結」している集団同士が対立するのは当然の帰結と言えるように思います。

つまり、宗教を求めるその心自体が争いを加速しているのだという意味で、#1さんと似たような考えを私は持っています。
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この回答へのお礼

 ご返事どうもありがとうございます。いえ、わたしは理想論を言いたいんじゃあないんです。
 わたしも基本的に無神論者です。
 ただ西洋の世界の歴史をみますとつねにイスラム教対キリスト教という構図がうかびあがってます。
 とくに現代のテロ脅威についてはこの構図で語れると思うのです。イスラム社会対ブッシュキリストという構図です。
 再々のテロ予告に拘わらず、日本にテロ攻撃がないのは日本がキリスト教国でないことと無関係ではないと思います。このテロ根絶を念頭においた質問でした。

お礼日時:2005/09/16 19:30

哲学とかよくわかりませんが。



宗教って大抵神様か仏様が居て、人が神(仏)を信じ、努力すれば良い事がありますよ。と言う事を言っているのがほとんどだとおもいます。

俺はコレはとても不思議でなりません。
努力すれば良い事があると言うのは理解できるのですが、何故特定の神を信じなければその神様は救ってくれないのでしょうか?そんなけちな神様に何が出来るの?
です。

そんな神様よりだったら、無償の愛とか言って自分の身を削って無償で人助けをしている人が沢山います。その人の方が神だとおもいます。
もちろんその様な人は活動をするときに、自分とは宗教が違うから君はだめだよ。なんていいませんよね?

で、宗教の別の面である、人はこうあるべきだと言う事を説いて欲しい人には、お経とか賛美歌なんて必要ないと思います。もちろんどこかの方向を向いて毎日お祈りなんてしても無意味だとおもいます。気持ちの問題ですよね。

で、自分なりにその様な無駄なものをそぎ落としていくと、お寺、教会などは必要なく、祈りをささげる必要も無く、結局学校のようなものになると思います。
もちろん宗教から別れたものですから、強制とか無く、自由に選ぶ事ができる。そんなものがあれば十分だと思うのです。

ただ、人は何かにすがって居たほうが楽なので多くの人が宗教をやっているんだと思います。
何か悪い事があったら宗教に逃げ、良い事があったら神様ありがとう。で済むんですから。
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この回答へのお礼

 あっらー、いやっ、まーねー。
 そういう意見は他の無責任サイトで述べてもらえますか。

お礼日時:2005/09/15 20:49

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