以前、朝鮮半島において、前方後円墳が発見されたといった、ことがありましたが、日本では、前方後円墳がなぜ生まれたのかといった、ことが謎なんですが。日本人って結構そそっかしくて、中国の文献に、身分の高いものの墓について、上方を円く、下方を方形にとあるのを、勘違いして、散った意的に考えず、2次元的に考え、墓のむこうを丸く、手前を四角につくってしまい、前方後円墳が生まれたといった、説を聞いたことがあります。みなさんはどのように、考えられますか?

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A 回答 (4件)

TCMさんの補足です。



> 前方後円墳のルーツは円形周溝墓にあるのではないか

もともと誰が唱えた説かは知らないのですが、前方後円墳の起源については、一般書として
都出比呂志『王陵の考古学』岩波書店、2000年(岩波新書)
があります。
同書においても、周溝墓起源説が支持されています。(都出氏の説か?)

> 上方を円く、下方を方形に

「天円地方」ですね。初めて聞きましたが、非常に興味深いです。

陵墓を天円地方で築くというのはどの文献に出ているのでしょうか?
可能性があるとすれば『礼記』『周礼』あたりだと思うのですが、前方後円墳が登場してくる3世紀代に伝来していたか、非常に疑問が残るところです。
また中国古代における墳丘墓には今のところ「天円地方」の影響は発見されていません。
#つまり上部が円形で下部が方形であるような墳丘。

よって魅力的ではあるのですが「中国文献勘違い説」は妥当性が低いと(私は)思います。

また
> 祭りを墓の上で行なうというのは、どうも不自然ではないですか?

とのことですが、中国古代に限っては、戦国期までは墓上祭祀は当たり前のものでしたので、批判の根拠としては薄いと思います。

なんだか読み直してみると、厳しい意見になっちゃっていますが他意はありません。
とりあえず、なかなか説得力があると思いますので『王陵の考古学』を読んでみる事をお勧めします。

この回答への補足

RES遅れ、申し訳ありませんでした。
補足有難うございます。
TCMさんのご親切な回答に対して、わたくしの補足質問の書き方の表現不足で
批判のように見えましたことに対し、深くお詫び申し上げます。
私は、決して、TCMさんの回答に対し、批判のつもりは、全くなく、自説、他説
、どこかで聞かれたことなど、係わらず、ちょっとした情報が、やはり疑問を解く
ための積み重ねがあって、やっと解からなかったことが、徐々に解かり始め、ある日、点と、点が結びつき、疑問が解けるものだと思っております。
ありがたくみなさんの、ご意見をいっていただいて、感謝しております。
WEB上ですと、あまりねちねちと、文章書きますとわかりづらく、端的に表現すると
心無い表現になり、誤解を招くことにも成り、大変苦慮しております。
私の、表現が足らなかったことは、私の至らぬところであり。
お詫びいたします。
さて、「sanaqbaimuru」さんの、いわれる書物を是非探してみたいと思います。
また、ほかにも説があれば、ご紹介いただきたいと思います。
また、さらに、TCMさんの追加ご意見もお聞かせいただければ、ありがたいです。

補足日時:2001/01/15 11:26
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 #2の補足見ました。


 参道説では、前方後円墳のルーツは円形周溝墓にあるのではないかということでした。墳丘の周囲に溝を配し、墓域への参道として一部掘り残したタイプの墓が、すでに弥生時代にあるようです。この一部掘り残した部分「参道」が前方部へと発達し、前方後円墳となったというのです。
 しかし、時代を下るにつれて参道としての意味は形骸化し、前方部には何らかの象徴的意味が付加されて行ったのではないかと思われます。さらに、古墳時代には前方部への埋葬が行われるようになり、前方部の歴史的意味を知る者はいなくなっていたのではないでしょうか。
 また、古墳時代中期以降には「造り出し」の部分で祭祀が行われたと見る方もおられるようなので、その前段階として前方部で祭祀が行われていたというのも、ありえないことではないと思うのです。確かに物的証拠はないようですので自信はありません。

この回答への補足

TCMさん、RES遅れて申し訳ありませんでした。
再度の、仮設、いただき有難うございます。
前回、私の補足が、ちょっときつい表現だったように思い
反省をしております。
なかなか、古い時代ですから、証拠となるものが、残っていることは
少ないと思いますね。
私どもの地方の前方後円墳(広島・安芸国)では、くびれ部分に造り出しが
あり、左右2箇所、その一箇所に、祭祀のあと(祭祀用土器)が見つかって
おりまして、まあ、造りだしでの祭祀を申し上げた次第です。
いわれるように、たしかに、時代が下がるようになり、その元々持つ意味は
薄れ、形骸化していく、形式化していくのは、常でありますね。
また、くわしい資料ありましたら、ご紹介ください。

補足日時:2001/01/15 11:17
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 墓室のある後円部を前にして、前方部で何らかの儀式(葬式とか代替わりとか)を行ったのではないかという説を読んだことがあります。

まあ、一種の祭壇ですね。また、初期の前方後円墳の前方部は細長いことからもともとは墓室への参道であるという説もあったように思います。
 兵庫県の五色塚古墳に見学に行ったことがありますが、埴輪の列で囲まれたあの平坦な前方部では確かに儀式が行われたような雰囲気がありました。

この回答への補足

前方後円墳は、墓室への参道ばかりでなく、竪穴をほり、
石室をつくり、中に木棺をおいてふたをし
周囲を玉石や炭などで、覆うタイプのものが結構ありますが、造り出しのある古墳では、作り出し部で、祭をおこなったといった、ことも言われています。
もっと、具体的な根拠がありませんか?
参道をつくるにも、長いものをつくらないといけないし
祭りを墓の上で行なうというのは、どうも不自然ではないですか?

補足日時:2000/12/09 18:04
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ちょっと「トンデモ科学」の領域になりますが、


あれは「壷」の形であるというのもあります。
それも、ただの壷ではなく「モーゼ(十戒の人物)」が神から受け取った「マナの壷」だそーで。
細かい履歴は忘れちゃいました。スイマセン

この回答への補足

モーゼが、前方後円墳に関連があると、いうことですか?

補足日時:2000/12/08 20:28
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奈良・大阪あたりに観光に行く予定です。
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Aベストアンサー

百舌鳥古墳群の近くに住んでいる者です。

>「かぎ穴」の形の全貌が見渡せる場所
は百舌鳥古墳群に限れば、近くの民間のマンション以外にはなさそうです。
堺市役所の展望ロビーを上げている方もいらっしゃいますが、
「かぎ穴」の形までは見れないと思ってください。
しかし展望ロビーは誰でも無料で登れますし、一度登って見て下さい。

いたすけ古墳程度の大きさであれば、近くで見て、そして簡単に古墳
を一周でき「かぎ穴」っぽさを感じることは可能です。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.29.15.666N34.33.3.705&ZM=10
近くのニサンザイ古墳でも同じような感じで見れます。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.29.56.935N34.32.40.133&ZM=10
が、どちらにしろ「かぎ穴」っぽさだけであって全貌までは見れませんが、
近くまで来られるのであれば、その景色も一度ご覧ください。

天皇陵に指定されている古墳が多く、見下ろす形の建造物はなかなか作れなかった
のが百舌鳥近辺の実情です。大仙公園内の平和塔が展望台であればよかったの
ですが、恐れ多いとかの様々の理由から展望施設にはなっていないのが残念です。

※他の地区の古墳の情報は持ち合わせておりません。

百舌鳥古墳群の近くに住んでいる者です。

>「かぎ穴」の形の全貌が見渡せる場所
は百舌鳥古墳群に限れば、近くの民間のマンション以外にはなさそうです。
堺市役所の展望ロビーを上げている方もいらっしゃいますが、
「かぎ穴」の形までは見れないと思ってください。
しかし展望ロビーは誰でも無料で登れますし、一度登って見て下さい。

いたすけ古墳程度の大きさであれば、近くで見て、そして簡単に古墳
を一周でき「かぎ穴」っぽさを感じることは可能です。
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.29....続きを読む

Q個人墓が爆発的に拡大しているそうです。 昔は○○家の墓という一族で入るお墓から、戦争とか出稼ぎとかで

個人墓が爆発的に拡大しているそうです。

昔は○○家の墓という一族で入るお墓から、戦争とか出稼ぎとかで地元を離れて自分と子供のお墓として家族のお墓を一族の家系のお墓から独立して建てるように一族のお墓から家族のお墓になって家族のお墓にも入らずに家族の親が建てたお墓ではなくまた新たに自分のお墓を建てる高齢者が増えているそうです。

旦那の実家の家族が入っているお墓に一緒に入りたくないという女の人が個人墓を夫のお墓とは別に建てるのが多いそうで、旦那の実家の家族と一緒に入りたくないが自分の実家のお墓に入れてくれと言うのも言いづらいので自分の好きなようにデザインしたお墓に維持管理費を先払いで支払っていく人が多いらしい。

子供はお父さんの実家のお墓参りとお母さんの個人墓の2つに参りしてるけど、お父さんが一族の本家のお墓参りをしなくなったように、子供の子供はおじいちゃんのお墓参りを止めるのか、おばあちゃんの個人墓のお墓参りを止めるのか両方とも行かなくなるのかわからないらしい。

孫が東京でまた自分たちのお墓を作ったら、完全に本家のお墓とお父さんの実家のお墓とお母さんの個人墓のお参りには行かなくなると思われる。

お墓が負債というか無縁化していって墓地だと無縁墓は引っこ抜かれて墓石は供養されて山住みされて、印字面を削って再利用される。

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昔は○○家の墓という一族で入るお墓から、戦争とか出稼ぎとかで地元を離れて自分と子供のお墓として家族のお墓を一族の家系のお墓から独立して建てるように一族のお墓から家族のお墓になって家族のお墓にも入らずに家族の親が建てたお墓ではなくまた新たに自分のお墓を建てる高齢者が増えているそうです。

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うん、本当ですよね。

ゆえに、というか、当然の帰結なんだけど「樹木葬」とか「共同墓」を選択する人も多い。
埋葬に関しては、昔ならば「墓地」はあったけど、そこに樽詰めされた遺体を運んで、穴を掘って埋めるだけでしたからね。
だから墓石なんかも、主な役割は「目印」くらいだったんでしょうね。
それが肥大化し始めた。
墓石が巨大化し、お寺も墓地の「割り振り」を始めて、一族の墓としての役割を持たせるようになった。
それがさらに細分化していったのが昨今で、まるで建売住宅のようです。

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Q前方後円墳について

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Aベストアンサー

TCMさんの補足です。

> 前方後円墳のルーツは円形周溝墓にあるのではないか

もともと誰が唱えた説かは知らないのですが、前方後円墳の起源については、一般書として
都出比呂志『王陵の考古学』岩波書店、2000年(岩波新書)
があります。
同書においても、周溝墓起源説が支持されています。(都出氏の説か?)

> 上方を円く、下方を方形に

「天円地方」ですね。初めて聞きましたが、非常に興味深いです。

陵墓を天円地方で築くというのはどの文献に出ているのでしょうか?
可能性があるとすれば『礼記』『周礼』あたりだと思うのですが、前方後円墳が登場してくる3世紀代に伝来していたか、非常に疑問が残るところです。
また中国古代における墳丘墓には今のところ「天円地方」の影響は発見されていません。
#つまり上部が円形で下部が方形であるような墳丘。

よって魅力的ではあるのですが「中国文献勘違い説」は妥当性が低いと(私は)思います。

また
> 祭りを墓の上で行なうというのは、どうも不自然ではないですか?

とのことですが、中国古代に限っては、戦国期までは墓上祭祀は当たり前のものでしたので、批判の根拠としては薄いと思います。

なんだか読み直してみると、厳しい意見になっちゃっていますが他意はありません。
とりあえず、なかなか説得力があると思いますので『王陵の考古学』を読んでみる事をお勧めします。

TCMさんの補足です。

> 前方後円墳のルーツは円形周溝墓にあるのではないか

もともと誰が唱えた説かは知らないのですが、前方後円墳の起源については、一般書として
都出比呂志『王陵の考古学』岩波書店、2000年(岩波新書)
があります。
同書においても、周溝墓起源説が支持されています。(都出氏の説か?)

> 上方を円く、下方を方形に

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Q神道のお墓、寺院にある鳥居のあるお墓の謎。

神道には神道のお墓があるそうですが、三条実美や大隈重信、岩倉具視の墓所はどうして寺にあり、鳥居があるのでしょうか? 神仏分離などのコンセプトに合致しないと思いました。

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確か神仏分離令は5年くらいで廃止されたように思いましたが・・・

もともと、神道の国教化を目指していたみたいですね
それによって、仏教寺院と神社が並立していたところは、どちらか一方を選択しなければならなくなった
(例えば鎌倉の鶴岡八幡宮は鶴岡八幡宮寺という神仏混淆寺院でしたが、分離令により仏教部分を切り捨てました)

神仏分離、特に「廃仏毀釈」なんて事になって「僧尼不浄」とか言い始め、葬儀・荼毘・埋葬を神社で行うことを嫌ったようです
元々、寺請け制度のもとで葬儀埋葬関係は寺院(神仏混淆の寺院も含め)が一手にやっていたんですがね
神仏分離・廃仏毀釈で神社には墓がなくなった
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「神仏分離」だけならマダよかったんでしょうが、そこから「廃仏毀釈」に発展してしまったことで、従来の「寺請け制度」「檀家制度」に齟齬をきたしたって事でしょう
これらは宗教統制だけじゃなくて、優れた戸籍システムであり、徴税システムの一端も担っていたましたからね

結局、神仏分離令は取り下げられて、神仏共同布教になった
まあ無理もありません
お寺に鳥居のあるお墓なんてものが存在するのは、宗教統制政策に失敗した証拠みたいなもんです

確か神仏分離令は5年くらいで廃止されたように思いましたが・・・

もともと、神道の国教化を目指していたみたいですね
それによって、仏教寺院と神社が並立していたところは、どちらか一方を選択しなければならなくなった
(例えば鎌倉の鶴岡八幡宮は鶴岡八幡宮寺という神仏混淆寺院でしたが、分離令により仏教部分を切り捨てました)

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 九州国立博物館学芸部 河野一郎氏は「鏡は太陽光を反射して死せる王の再生を祈るためのまじないの道具であった。」と博物館のホーム
ページ 「いにしえの旅」に記述しておられます。そのことは、方位設定にも関連していると思います。
 一例をあげますと、日の出観測線上に古墳中軸線を置いていると推定している 奈良県の祟神陵、景行陵、箸墓古墳、大阪府の土師ニサンザイ古墳、岡山県の神宮寺山古墳。
 日の出観測地(神社)を起点に古墳中軸線を設定していると推定している大阪府の仁徳陵、履中陵。
 日の出の山を起点に古墳中軸線を設定していると推定している岡山県の造山古墳、作山古墳。
 その他については、ヤフー検索 条里(日の出と方位)に掲載しております。

Qヨーロッパの女性優位の考えは何故生まれた?

ふと思ったのですが、
イスラム圏(女性には極限まで肌を隠させる等)
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日本(選挙権がない等)
と、
宗教に関わらず、昔の文化というのはどこも女性蔑視の考え方があります。
でも、ヨーロッパにはない気がします。

普通に考えて、武力(腕力)が全てを決める最終打になる時代、女性が劣るという考え方は当たり前のことです。
女性がどんな分野に長けていようと、武力で痛めつけられれば服従させられるのだから。
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アメリカの場合は、移民の国なのでとにかく女性が少なく、大切にしないと伴侶を得られなかったと聞いたことがありますが、ヨーロッパではそれは当てはまらないですよね……
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 日本は、明治維新まで「女主人」と見做され、妻の権利というのは強大なものでした。一方、ヨーロッパでは妻というのは主人の配偶者にすぎず、何の権利も持っていなかったのです。
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Q前方後円墳

前方後円墳を見るとどうしても丸が前に見えるのですが、
なぜ前が四角で後ろが丸と定義されているのですか?

Aベストアンサー

 専門家の間でも いろいろな説がありますので、これがすべてではありません。と、逃げ場を作っておいて(笑)、谷川健一の『古代史ノオト』の中の「ひさごとたまご」を教科書にして お話しましょう。
 古代日本の主導権を握っていたのは朝鮮半島出身者であることは、大勢の認めるところです。韓国の慶州は、かつて新羅が都を置き、統一新羅王国を築きあげた拠点です。慶州の風景が「奈良」「明日香」と酷似していることに訪れた人は驚くことでしょう。慶州には古墳時代の名残をとどめる古墳群(円墳・土まんじゅう型)が無数に点在しています。その中に真白い「天馬」の絵が描かれた馬の鞍掛け用の布が発見され、「天馬塚」と命名された古墳があります。この天馬塚(慶州皇南洞155号古墳)から土製の壺におさめられた卵の殻が約20個が発見されました。
 朝鮮の始祖神話の特徴として卵生説話があげられます。
 新羅国始祖赫居世王の場合、「白馬がひざまずいているので見てみると 紫色の卵が1つあり、そこから男の子が生まれた。その卵はひさご(瓢)のようであったので朴を姓とした。ひさごを朴と新羅人は呼んだ。」というものです。
 韓国の学者徐廷範氏によると、「王陵や庶民の墓が円墳であるのは、卵の形を模したものであって、卵から再生するという意味がこめられている」のだそうです。天馬塚の例は、まさしくそのことを裏付けています。
 朝鮮の古墳が卵を模して造られ、再生を願うものであったとすれば、渡来人たちによってその風習が日本にもちこまれ、日本の古墳の形式に影響を与えたことは十分納得できます。
 新羅王陵では、円墳の前に四角い敷石の祭壇が設けられていました。おそらく、この形式が前方後円墳の基になったと思われます。前方後円墳は、横から見ると瓢箪を立てに割ったような形をしています。つまり、ひさご(瓢)型。
 卵形の円墳、瓢型の前方後円墳、ともに再生の器と考えることができます。
 ここからは、私の勝手なお話です。
 日本の3大前方後円墳は、仁徳天皇陵、応神天皇陵、履中天皇陵です。日本書紀によると、仁徳陵は百舌鳥野陵、履中陵は、百舌鳥耳原陵といいます。応神陵については、日本書紀に記載がありませんが、その所在地である大阪府羽曳野市は、ヤマトタケルが白鳥となって飛び去ったところとされます。また、仁徳の和風諡号は、オオサザキ(日本書紀・大鷦鷯、古事記・大雀)と鳥の名前がついています。
応神は朝鮮半島出身であろうとされます。そしてその子・仁徳、孫・履中。日本3大前方後円墳の主に鳥のイメージ。

 専門家の間でも いろいろな説がありますので、これがすべてではありません。と、逃げ場を作っておいて(笑)、谷川健一の『古代史ノオト』の中の「ひさごとたまご」を教科書にして お話しましょう。
 古代日本の主導権を握っていたのは朝鮮半島出身者であることは、大勢の認めるところです。韓国の慶州は、かつて新羅が都を置き、統一新羅王国を築きあげた拠点です。慶州の風景が「奈良」「明日香」と酷似していることに訪れた人は驚くことでしょう。慶州には古墳時代の名残をとどめる古墳群(円墳・土まん...続きを読む

Q墓が多数の人物、墓が無い人物

相当な人物であるにも関わらず、墓が存在しない人物と、墓が尋常でないくらい多数存在する人物の考察について、ご助言いただければ、幸甚に存じます。

Aベストアンサー

墓は奥が深いですね。外国のことは知らないのですが、日本だけでも
かなりかなり‥です。

・本墓とは別に、実際に故人の「しるし」が埋納されている
 供養塔 分骨・髪・爪・歯・灰・その他(遺品など) 
・火葬した場所 火葬塚
・ゆかりのある場所に、子孫や後世の人が建てた 供養塔
・墓を複数建てるという当時の有力者の風習 供養塔・一部は本墓
 高野山や地元の有力寺院などへの建墓、大名の江戸・国許双方の墓、
 門跡が歴任した寺院それぞれに建墓、などの例
・伝説化した歴史上の人物の墓は全国各地にある

遺体を埋葬した墓とは別に詣り墓を設ける地方もある、最近の永代供養
墓(最初から無縁仏となる?)など、他に様々な風習もある

本墓がない・見つからない場合は、上記が墓とされている場合も多い。
また、墓の概念自体が上記のように一元化されるようなものでもない
ので、明らかな捏造は別として、「どれが本当の墓か」という議論は、
あまり意味がない。

数の多さという点では、安徳天皇や長慶天皇ですね。いわゆる潜行伝説
がある各地に「御陵」と称するものがあります。安徳天皇に至っては、
宮内庁「陵墓参考地」として、今でも5ヶ所が国の管理です。長慶天皇
も旧宮内省の指定で2ヶ所ありましたが、既に指定解除されています。
あと、将軍綱吉生母桂昌院の墓(供養塔)も、意外な所でちょくちょく見
かけますね。寺の再建に援助したとかとかが理由のようですが‥

墓は奥が深いですね。外国のことは知らないのですが、日本だけでも
かなりかなり‥です。

・本墓とは別に、実際に故人の「しるし」が埋納されている
 供養塔 分骨・髪・爪・歯・灰・その他(遺品など) 
・火葬した場所 火葬塚
・ゆかりのある場所に、子孫や後世の人が建てた 供養塔
・墓を複数建てるという当時の有力者の風習 供養塔・一部は本墓
 高野山や地元の有力寺院などへの建墓、大名の江戸・国許双方の墓、
 門跡が歴任した寺院それぞれに建墓、などの例
・伝説化した歴史上の人物の墓は...続きを読む


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