どうも、学校でならったことは、いい加減なことが多いようにおもうのですが
室町幕府って、足利尊氏がつくったとありますが
尊氏は、京の三条坊門に開いたのであって
三代将軍の義満が、花の御所を室町に移したわけだから、
室町幕府じゃなく、三条坊門幕府じゃないのこれって
しいて言えば、室町幕府は、足利義満が始めたわけでしょ?

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A 回答 (9件)

揚げ足取りみたいな、どうでもいい疑問ですね。

室町幕府とか、足利幕府というのは、後世の人間が、勝手にそう呼んでいるだけです。
細かい地名が気になるなら、京都幕府とでも呼べばいいでしょう。そんなどうでもいいことに拘っても、意味ないですよ。
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 ま、これを言い出したら切りがないかと。


 例えば「○○天皇」という名前は死後に諡名されているわけですから「○○天皇が○○した」というのも「死んだ天皇がそんなことできるわけないからいい加減だ」とshowtaさんは考えられるのでしょうか?
 縄文土器だって弥生土器だってその当時にそんな名称で呼ばれていたものではありませんし、「奈良時代」本来は「平城(なら)時代」でなければいけなくなります。
 政治的中心地を時代名称とするならば「明治時代」「大正時代」もおかしな時代区分名称になってしまいます。
 「○○時代」「○○幕府」というような名称は後世の人間が「歴史を考え学ぶための便宜上の区分」と考えるべきでしょう。
 他の方が回答されているように足利義満だって「室町幕府を始めた」ではなく「尊氏が開いた幕府を受け継いだ」という認識ではないでしょうか。
 通常であれば日本国内に同時に二つの幕府が存在することはないからわざわざ「室町幕府」と名付ける必要性は当時の人間には必要がないはずです。

 「便宜上の区分・名称」と「歴史的の区分・名称」をごっちゃにされているように思われます。
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日本という呼称は聖徳太子が始めて用いたみたいですが、聖徳太子以前にも便宜上「日本」と使いますよね?


それと同じで、あの幕府の事を「室町幕府」と呼ぶ事はなんら間違ってないと思いますよ。あの時代には室町幕府などと呼ばれた事は無く、後世の人が「あの幕府なんて呼ぼうか?」「ん~~~室町幕府でいいんでね?あの頃が一番輝いてたし。」なんて感じで決めたんじゃないでしょうか。
あの幕府を始めたのは、尊氏ですから初代は尊氏です。
事実義満以降も室町だけではなく京都市内を転々としてますし、義満が「室町殿」と呼ばれて以来、室町に住んでなくても、足利将軍は「室町殿」と呼ばる慣わしになってたそうですよ。
京都室町にあった幕府 → 室町幕府 ではなく
京都室町にあったこともあるあの幕府 → 室町幕府 という解釈でいいと思います。

>足利尊氏の征夷大将軍って、正式ではないのでは?
明治の皇国史観では尊氏は逆賊となってますし、現在、京都三大祭の一つである「時代祭り」(京都に関する各時代の仮装行列)でも足利将軍家は外されてます。(京都にかなり関係した人物たちであるにもかかわらず)。

この回答への補足

南朝方が、三種の神器を返した年が
室町幕府(足利幕府)の成立ということにはなっていますよね。
天皇の系図にも、正式な即位順は、南朝方にあったわけで、いくら北朝方が何を言おうが、正規のものではなかったのですよね

どうも室町幕府自体の権力は、当時の各地の武士の
勢力から言うと、あまり磐石ではなかったようですね
、借金だらけだし、守護大名の力添えで、ようやく
将軍職につくなど、なんか武士の集合体といった
感じがしますね

補足日時:2005/11/16 15:12
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 おはようございます。



>どうも、学校でならったことは、
>いい加減なことが多いようにおもうのですが

 常々私も思っておりました。
 ただ。この場合、「いい加減」なのは、その記述ではなく、「歴史」というものは何かについて、きちんと教えない教育だと思います。

 大学で歴史を専攻したのですが、専門課程に進んだ時、教授が、「歴史」とは何か、それを専攻する上でのモラルは何か、を教えてくれました。曰く。

・歴史(学)は、人間の営みを、時間軸で把握する学問。
・切れ目のない流れの中に、本質的な変化を見出し、その変化の切れ目を作る。
・それは、その時代の人にはおそらく見えなかった社会や文化の変化の底流にあるものや、契機になった事柄をあぶり出し、「時間」と「人間」の関係にある法則性を見出し、
・そして、歴史を読んだ人が、その法則をモデルとして、自分の生きてる時代を見るのに資するのが目的。

・ただ、歴史を書く人間は、自分が、本来は切れ目のない流れに、堰を立てていることに対して、常に謙虚でなければ行けないし、自分の歴史が、どういう根拠によって書かれたかを、必ず言明しなければならない。

 よく、これは難しいから、教えなくていい、とりあえず教科書にあることを、覚えさせればいい、という物言いがありますよね。
 でも、難しいことなら、それをどう噛み砕いて教えるか考えるのが教育者でしょう。
 ましてや、「歴史」のような、「虚構性(はっきり言いますが)」の高い学問領域ではとくにそうです。

 幸い、私の中学、高校の歴史の先生は、この辺を分っていて、教科書を「ここに書いてあることは、本当はこういうことなんだ」という風に教えてくれました。それで歴史が好きになったわけなんですが。

 なんだかご質問の意図を、大きく解釈しすぎてるかもしれません、ならまだしも、外してるかもしれません。

 もしそうなら、お詫びいたします。
 ご参考になれば嬉しいです。
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失礼かもしれませんが、質問者さんの記憶違いではありませんか。



ずっと前(少なくとも昭和40年代)から、教科書では
「足利尊氏が幕府を開き、義満が室町に御所を築いたことから室町幕府(義満の頃に体制が整ったこともある)と呼ばれた」
というような説明になっていますよ。
今もほとんど変わっていません。

この回答への補足

室町幕府の初代が、尊氏であることがおかしいということです。
基本的に室町時代なんていう表現方法が矛盾だらけのような気がするのですけどね
まあ、足利幕府という表現もありますが
足利尊氏が、征夷大将軍に任官したから
室町幕府の開闢が、尊氏の任官の年ということに
なっているので、物事怪しすぎるのだと思います。
征夷大将軍=幕府=武士の頂点という設定が
江戸幕府開闢=徳川家康の征夷大将軍任官に
あわせて、作られちゃったようですから
室町幕府や鎌倉幕府などの開闢年なんかは
江戸時代の学者が設定して以来現在に
いたっていることのようですから
基本的に、矛盾があるようですが

補足日時:2005/11/16 15:04
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 あくまで私の考えなのですが…。



 足利尊氏が開いたのはあくまでも「幕府」であって、後に歴史家によって足利政権のことを「室町幕府」と呼ばれるようになったと思います。
 
 そのほかの事でも、歴史上の出来事というのは史実そのものというよりも、歴史家の見方によって決められてきた部分が多いのではないかと思います。
 例えば室町幕府衰退の最大の原因である応仁の乱にしても、細川氏と山名氏が「これから応仁の乱を始めるぞ!」と開戦したわけではなく、両氏を初めとする武士の大戦を後に「応仁の乱」と名づけたわけですよね。

 話が横道にそれましたが、学校で習ったことがいい加減だというよりも、歴史家がそのように定義したことをそのまま教科書に記載し、それをなぞる形で学習(ほぼ丸暗記)していく中で、南北朝の後の足利氏による政権のことを「室町幕府」と呼ぶと誰かが決めたんでしょうね。
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二つに分ける理由もないので便宜的に足利将軍の時代を一つにまとめて室町時代、室町幕府と呼んでいるだけでしょう。


覚えるのも楽ですし。

この回答への補足

覚えるのが簡単だからって、
初代の立場がないですよね
いわゆる、会社でいえば創業者の立場です。
苦労して、後醍醐天皇をおいやって
傀儡の偽者の北朝の天皇をたてて開いた幕府なのに
・・・?これって正式な天皇でないし
足利尊氏の征夷大将軍って、正式ではないのでは?
さらに疑問がふえてしまった・・・
三種の神器は、南朝にあり、正史では、南朝方が
正しい天皇になってるし

補足日時:2005/11/16 09:29
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自分もやはり学生時代には「尊氏は幕府を開いた、これがのちの室町幕府」ってなかんじで習いましたよ。

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31のおっさんですが


えっ室町幕府って義満じゃなかったでしたっけ?? 
尊氏は征夷大将軍になって京都に幕府を作ったじゃなかったでしたっけ?
かなり昔に習ったのでいまいちうろ覚えですが
歴史って常に変わります 10年前の常識は現在の非常識です
結構私が習った歴史とは変わってるところあると思いますよ

この回答への補足

mappy0213さん、ありがとうございます。
問題は、室町に幕府を開いてもいない
尊氏が室町幕府の初代将軍となっているからです
室町幕府の成立が、後世のでたらめで
征夷大将軍に任官した、1338(暦応元・延元3)年となっており、義満が花の御所を室町に移したもんだから
足利幕府自体、室町幕府というようになっちゃったんですよ、よけいな話だとおもいませんか?
足利尊氏は、京、三条坊門に幕府ひらいたのに
義満のせいで、一からげに、室町幕府なんて・・・・
立場がないじゃないですか

補足日時:2005/11/16 09:21
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Aベストアンサー

先の答えは、条里制 → 条坊制の流れと矛盾します。
大通りに囲まれた区画を「坊」、坊が横に続いて「条」
が正しいのです。

従い南北は、二条大路と三条大路に挟まれ、東西の端は
東京極大路、西京極大路である、細長い区画が「三条」
です。  以下「九条」まで同様。
ご指摘のように二条城の大部分は「三条」内です。

古語辞典の付図の「平安京条坊図」で、二条殿が「三条」
内にあります。   私はこれで錯覚しました。

「三条」内なのに二条城というわけは、
足利義満の屋敷が二条通りに面していて、二条城と呼ばれ
以降、将軍家の屋敷は二条通りに面していなくとも、
二条城と呼ばれたとあります。
信長が足利義昭のために建てた二条城も同じです。

二条殿は摂関家の二条家の邸宅なので、そう呼ばれました。
この跡が、義昭の二条城、織田信忠が明智光秀に討たれた
二条御所となります。

家康は別邸ですが将軍なので二条城と名付けました。








   

参考URL:http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian03.html

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簡単に独裁と書きましたが、鎌倉幕府における独裁というのは、鎌倉幕府の中における独裁です。
具体的には、徳宗政権時代において、北条家の当主(=徳宗)の家臣である御内人を中心に決定された事が、鎌倉幕府にとっての公式な組織である評定衆の決議に優先された、あるいは、事後承認されたというのが、鎌倉幕府における北条家の独裁です。
鎌倉幕府自体は、貞永式目という武家法にのっとり、摂家将軍なり宮将軍を上に戴いていました。
摂家将軍なり宮将軍の特徴は、成人してそれなりの政治的な権威が生まれると、退位させられていました。実際の権力を生む可能性が無ければ、退位させる必要はないわけで、執権なり徳宗として、摂家将軍なり宮将軍が「無きゃいけないが、不具合な存在」であったことを示しています。

師直のセリフだったかは忘れましたが、師直派の婆娑羅大名のセリフに
「帝の代わりに木像でもおいておけ」
というのがあります。政治的権限は必要なしという意思表示です。

コレに対して、直義の目指したのは、公式組織として旧来の公家とも融合して合理的な統治を目指します。
鎌倉幕府の評定衆が御家人だけを対象にしたのに対して、全国規模で合理的な統治を目指したわけで、その対象者は、武家も公家も寺社も含まれます。全国統治の足利家が行うという意味では、直義も独裁ですが、旧来のシステムも含めて、合理的に行うことを目指しました。

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江戸幕府の直轄領(天領)は400万石くらいあって、いかなる雄藩もはるかに上回るものでした。
それでは鎌倉幕府や室町幕府の直轄領はどのくらいあって、それは有力な御家人や守護大名
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Aベストアンサー

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄領はなかったようです。
直轄領に裏付けられた直轄軍がありませんでしたから。

室町将軍家は、直轄軍としては奉公衆がおり、最大で一万程度と言われています。逆算すると江戸時代の換算では、35万石くらいになります。
室町期の人口が1000万≒1000万石(全国)だったはずなので、江戸期の3000万人≒3000万石 に換算すると江戸時代における100万石くらいではないでしょうか。

結構、鎌倉将軍も室町将軍も、直轄軍を持っていません。
結果として鎌倉将軍も、室町将軍も江戸期の将軍よりも専制的でなかった、鎌倉期も室町期も内乱だらけですが、江戸期は内乱がほぼありませんでした。
逆の見方をすると、鎌倉将軍は主敵である平家を滅ぼして、建前上は、武士の統領(=つまり、みんな部下)であり、室町将軍も主敵である南朝を滅ぼして、建前上はすべての守護大名の上司でありました。比較の仕様ありません。立ち位置が違うので。
ところが、江戸将軍は関ヶ原の後も江戸=大坂二重公儀制を保ち、豊臣家を滅ぼしても、完全には仮想敵を滅ぼしきっていません。全部が部下になりきらなかったから、徳川家直轄領が残ったのかもしれません。
最後の二重公儀制にかんしては、戦争の日本史 17 (17) 笠谷 和比古よりです。

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三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄...続きを読む

Q室町幕府と徳川幕府

共通点があるのですが
 
 初代(尊氏と家康)はどちらももちろん有名
 どちらも3代(義満と家光)が優秀でこの代で幕府体制が
 確立され、またどちらも名前に「みつ」が付く
 その後はどちらも良くも悪くも8代(義政と吉宗)が有名
 さらにその後はどちらも特出した将軍はいない
 そして何と言ってもどちらも15代で終わり

 ただの偶然でしょうか?

Aベストアンサー

この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え、大過なく人生を全うしましたが、個人の資質としてはかなり落ちると思います。
また、8代将軍吉宗は、初めて直系以外から将軍になりましたから、しがらみが無く各種の改革を行いましたので、中興といってもよいのですけど、結果論としては功罪相半ばする業績ですね。
因みに、15代将軍の慶喜は極めて優秀な人物ですけど、秀才にありがちな泥臭さを嫌う点が残念な将軍と思いますし、幕府を再興しようという熱意は、室町15代義昭にも通じるものがあります。

一方の足利尊氏は、義侠心に富み、勇敢で物欲の薄い、将に男の中の男という人物ですが、家族や功のある部下を冷酷に切り捨てることが出来なくて、不安定な幕府になってしまいます。
パソコンでもそうですけど、安定したシステムを構築するためには、レガシーというか、古い規格との共通性を求めると不安定になり、これがWindowsMeが評判が悪い理由で、ある時点で思い切って古いものを切り捨て、新しい規格だけで組んでいく必要があります、WindowsNTのように。
尊氏はこれが出来ないために、終生弟や養子に出した実子の反乱に苦しめられ、増長した家臣を治めきれず、ひ弱な幕府になってしまいました。
その中で、3代義満は怪物といってもよい政治家で、権謀術策を弄して、幕府の権威を高めます。
資質としては、徳川家光とは比べ物にならない高い力量で、家光がシステムの上に乗った将軍なら、義満は自分の才知で政治を動かした将軍ということになります。
但し、室町幕府が最大領土になったのは、6代義教の治世で、この義教は織田信長に匹敵する改革者とも言われますが、信長同様、部下の裏切りにあって絶頂期に暗殺されます。
この義教にあたるのが、徳川では5代将軍綱吉で、綱吉の時代に戦国の殺伐とした習慣は無くなり、儀礼に支配される世の中になりますから、ある意味綱吉も時代の常識を変えた政治家です。
彼以前では、例えば水戸黄門ほどの人格者でも、刀を試すために乞食を切ってみたりしていますし、九州地方から江戸に来た武士達は、犬コロ飯といって、野良犬を捕らえて食べていましたから、まだまだ戦国の気風が残っています。
足利義教の死により、幕政の改革は頓挫し、信長の死後、秀吉や家康が織田家を空虚なものにしたように、畠山、細川といった有力大名が将軍を操るようになって、8代義政は諦めの境地だったのでしょう。
この点は、中興の祖というべき、徳川将軍の8代吉宗とは大いに違います。

こうしてみますと、大体3代目で幕府の骨格が完成する、5or6代目で一つの切があって、真ん中の8代目で転換期を迎える、足利氏はこの8代目で戦国に突入し、徳川氏は系統が宗家から枝に移った。
偶然ともいえるし、必然ともいえますね。

この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え...続きを読む

Q足利尊氏は

足利尊氏は何故鎌倉じゃなく
京都に幕府をおいたのですか??

教えてください。

Aベストアンサー

幕府って何かと、政権の正統性はどこからくるのか?時代が南北朝であるってのがポイントかと。

そもそも幕府とは、将軍が戦場にいるときの臨時行政組織といえます。将軍がいてその部下がいれば、そこが幕府。

将軍を任命するのは天皇ですので、天皇を管理下におく必要があります。遠くにいても管理できれば、あるいは、ちゃんと将軍に任命してくれる慣習になっていれば遠くにいてもなんの問題もない。
遠くで管理したのが江戸幕府。
遠くても、源氏の統領を将軍にするのが道理だよねというのが鎌倉幕府。

ところが時代が南北朝で、常に北朝を正統として、武力で守らなければならなかったのが、足利幕府成立の時代背景です。

北朝を守るのに一番都合が良いのはどこにいるべきか?それは京都ということになります。

それで 京都に将軍が常駐=京都に幕府となります。


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