どうも、学校でならったことは、いい加減なことが多いようにおもうのですが
室町幕府って、足利尊氏がつくったとありますが
尊氏は、京の三条坊門に開いたのであって
三代将軍の義満が、花の御所を室町に移したわけだから、
室町幕府じゃなく、三条坊門幕府じゃないのこれって
しいて言えば、室町幕府は、足利義満が始めたわけでしょ?

A 回答 (9件)

揚げ足取りみたいな、どうでもいい疑問ですね。

室町幕府とか、足利幕府というのは、後世の人間が、勝手にそう呼んでいるだけです。
細かい地名が気になるなら、京都幕府とでも呼べばいいでしょう。そんなどうでもいいことに拘っても、意味ないですよ。
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 ま、これを言い出したら切りがないかと。


 例えば「○○天皇」という名前は死後に諡名されているわけですから「○○天皇が○○した」というのも「死んだ天皇がそんなことできるわけないからいい加減だ」とshowtaさんは考えられるのでしょうか?
 縄文土器だって弥生土器だってその当時にそんな名称で呼ばれていたものではありませんし、「奈良時代」本来は「平城(なら)時代」でなければいけなくなります。
 政治的中心地を時代名称とするならば「明治時代」「大正時代」もおかしな時代区分名称になってしまいます。
 「○○時代」「○○幕府」というような名称は後世の人間が「歴史を考え学ぶための便宜上の区分」と考えるべきでしょう。
 他の方が回答されているように足利義満だって「室町幕府を始めた」ではなく「尊氏が開いた幕府を受け継いだ」という認識ではないでしょうか。
 通常であれば日本国内に同時に二つの幕府が存在することはないからわざわざ「室町幕府」と名付ける必要性は当時の人間には必要がないはずです。

 「便宜上の区分・名称」と「歴史的の区分・名称」をごっちゃにされているように思われます。
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日本という呼称は聖徳太子が始めて用いたみたいですが、聖徳太子以前にも便宜上「日本」と使いますよね?


それと同じで、あの幕府の事を「室町幕府」と呼ぶ事はなんら間違ってないと思いますよ。あの時代には室町幕府などと呼ばれた事は無く、後世の人が「あの幕府なんて呼ぼうか?」「ん~~~室町幕府でいいんでね?あの頃が一番輝いてたし。」なんて感じで決めたんじゃないでしょうか。
あの幕府を始めたのは、尊氏ですから初代は尊氏です。
事実義満以降も室町だけではなく京都市内を転々としてますし、義満が「室町殿」と呼ばれて以来、室町に住んでなくても、足利将軍は「室町殿」と呼ばる慣わしになってたそうですよ。
京都室町にあった幕府 → 室町幕府 ではなく
京都室町にあったこともあるあの幕府 → 室町幕府 という解釈でいいと思います。

>足利尊氏の征夷大将軍って、正式ではないのでは?
明治の皇国史観では尊氏は逆賊となってますし、現在、京都三大祭の一つである「時代祭り」(京都に関する各時代の仮装行列)でも足利将軍家は外されてます。(京都にかなり関係した人物たちであるにもかかわらず)。

この回答への補足

南朝方が、三種の神器を返した年が
室町幕府(足利幕府)の成立ということにはなっていますよね。
天皇の系図にも、正式な即位順は、南朝方にあったわけで、いくら北朝方が何を言おうが、正規のものではなかったのですよね

どうも室町幕府自体の権力は、当時の各地の武士の
勢力から言うと、あまり磐石ではなかったようですね
、借金だらけだし、守護大名の力添えで、ようやく
将軍職につくなど、なんか武士の集合体といった
感じがしますね

補足日時:2005/11/16 15:12
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 おはようございます。



>どうも、学校でならったことは、
>いい加減なことが多いようにおもうのですが

 常々私も思っておりました。
 ただ。この場合、「いい加減」なのは、その記述ではなく、「歴史」というものは何かについて、きちんと教えない教育だと思います。

 大学で歴史を専攻したのですが、専門課程に進んだ時、教授が、「歴史」とは何か、それを専攻する上でのモラルは何か、を教えてくれました。曰く。

・歴史(学)は、人間の営みを、時間軸で把握する学問。
・切れ目のない流れの中に、本質的な変化を見出し、その変化の切れ目を作る。
・それは、その時代の人にはおそらく見えなかった社会や文化の変化の底流にあるものや、契機になった事柄をあぶり出し、「時間」と「人間」の関係にある法則性を見出し、
・そして、歴史を読んだ人が、その法則をモデルとして、自分の生きてる時代を見るのに資するのが目的。

・ただ、歴史を書く人間は、自分が、本来は切れ目のない流れに、堰を立てていることに対して、常に謙虚でなければ行けないし、自分の歴史が、どういう根拠によって書かれたかを、必ず言明しなければならない。

 よく、これは難しいから、教えなくていい、とりあえず教科書にあることを、覚えさせればいい、という物言いがありますよね。
 でも、難しいことなら、それをどう噛み砕いて教えるか考えるのが教育者でしょう。
 ましてや、「歴史」のような、「虚構性(はっきり言いますが)」の高い学問領域ではとくにそうです。

 幸い、私の中学、高校の歴史の先生は、この辺を分っていて、教科書を「ここに書いてあることは、本当はこういうことなんだ」という風に教えてくれました。それで歴史が好きになったわけなんですが。

 なんだかご質問の意図を、大きく解釈しすぎてるかもしれません、ならまだしも、外してるかもしれません。

 もしそうなら、お詫びいたします。
 ご参考になれば嬉しいです。
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失礼かもしれませんが、質問者さんの記憶違いではありませんか。



ずっと前(少なくとも昭和40年代)から、教科書では
「足利尊氏が幕府を開き、義満が室町に御所を築いたことから室町幕府(義満の頃に体制が整ったこともある)と呼ばれた」
というような説明になっていますよ。
今もほとんど変わっていません。

この回答への補足

室町幕府の初代が、尊氏であることがおかしいということです。
基本的に室町時代なんていう表現方法が矛盾だらけのような気がするのですけどね
まあ、足利幕府という表現もありますが
足利尊氏が、征夷大将軍に任官したから
室町幕府の開闢が、尊氏の任官の年ということに
なっているので、物事怪しすぎるのだと思います。
征夷大将軍=幕府=武士の頂点という設定が
江戸幕府開闢=徳川家康の征夷大将軍任官に
あわせて、作られちゃったようですから
室町幕府や鎌倉幕府などの開闢年なんかは
江戸時代の学者が設定して以来現在に
いたっていることのようですから
基本的に、矛盾があるようですが

補足日時:2005/11/16 15:04
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 あくまで私の考えなのですが…。



 足利尊氏が開いたのはあくまでも「幕府」であって、後に歴史家によって足利政権のことを「室町幕府」と呼ばれるようになったと思います。
 
 そのほかの事でも、歴史上の出来事というのは史実そのものというよりも、歴史家の見方によって決められてきた部分が多いのではないかと思います。
 例えば室町幕府衰退の最大の原因である応仁の乱にしても、細川氏と山名氏が「これから応仁の乱を始めるぞ!」と開戦したわけではなく、両氏を初めとする武士の大戦を後に「応仁の乱」と名づけたわけですよね。

 話が横道にそれましたが、学校で習ったことがいい加減だというよりも、歴史家がそのように定義したことをそのまま教科書に記載し、それをなぞる形で学習(ほぼ丸暗記)していく中で、南北朝の後の足利氏による政権のことを「室町幕府」と呼ぶと誰かが決めたんでしょうね。
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二つに分ける理由もないので便宜的に足利将軍の時代を一つにまとめて室町時代、室町幕府と呼んでいるだけでしょう。


覚えるのも楽ですし。

この回答への補足

覚えるのが簡単だからって、
初代の立場がないですよね
いわゆる、会社でいえば創業者の立場です。
苦労して、後醍醐天皇をおいやって
傀儡の偽者の北朝の天皇をたてて開いた幕府なのに
・・・?これって正式な天皇でないし
足利尊氏の征夷大将軍って、正式ではないのでは?
さらに疑問がふえてしまった・・・
三種の神器は、南朝にあり、正史では、南朝方が
正しい天皇になってるし

補足日時:2005/11/16 09:29
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自分もやはり学生時代には「尊氏は幕府を開いた、これがのちの室町幕府」ってなかんじで習いましたよ。

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31のおっさんですが


えっ室町幕府って義満じゃなかったでしたっけ?? 
尊氏は征夷大将軍になって京都に幕府を作ったじゃなかったでしたっけ?
かなり昔に習ったのでいまいちうろ覚えですが
歴史って常に変わります 10年前の常識は現在の非常識です
結構私が習った歴史とは変わってるところあると思いますよ

この回答への補足

mappy0213さん、ありがとうございます。
問題は、室町に幕府を開いてもいない
尊氏が室町幕府の初代将軍となっているからです
室町幕府の成立が、後世のでたらめで
征夷大将軍に任官した、1338(暦応元・延元3)年となっており、義満が花の御所を室町に移したもんだから
足利幕府自体、室町幕府というようになっちゃったんですよ、よけいな話だとおもいませんか?
足利尊氏は、京、三条坊門に幕府ひらいたのに
義満のせいで、一からげに、室町幕府なんて・・・・
立場がないじゃないですか

補足日時:2005/11/16 09:21
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Aベストアンサー

>尊氏は天皇に反逆した逆賊という扱いをされており

 そういうところは確かにまだ残っていると思います。
 それは、明治維新後、天皇家の権威を高めるために天皇中心の歴史を造り上げていった結果です。
 南朝が正統の天皇と定められたのも確か明治になってからの筈です。
 権力のパワーバランスから言えば明らかに北朝の方が上なのに(南朝には即位したかどうか不確かな天皇すら存在しています)、まさにfumidera2さんが書かれた建武の新政を尊重したためにそのようなことになっていったと思われます。
 もちろん、江戸時代からの判官贔屓体質や尊皇思想などさまざまな要因も影響しているとは思います。南朝を正統とした「大日本史」もそのようですし。
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 近年になって、参考で挙げた今谷氏を始めとして中世を専門とする研究家も増え、当時の文献も多数研究されてきて、かなり新しい中世像が生まれつつあるのが現状のようです。そう詳しいわけではないですけど。

>尊氏は天皇に反逆した逆賊という扱いをされており

 そういうところは確かにまだ残っていると思います。
 それは、明治維新後、天皇家の権威を高めるために天皇中心の歴史を造り上げていった結果です。
 南朝が正統の天皇と定められたのも確か明治になってからの筈です。
 権力のパワーバランスから言えば明らかに北朝の方が上なのに(南朝には即位したかどうか不確かな天皇すら存在しています)、まさにfumidera2さんが書かれた建武の新政を尊重したためにそのようなことになっていったと思われます。
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大通りに囲まれた区画を「坊」、坊が横に続いて「条」
が正しいのです。

従い南北は、二条大路と三条大路に挟まれ、東西の端は
東京極大路、西京極大路である、細長い区画が「三条」
です。  以下「九条」まで同様。
ご指摘のように二条城の大部分は「三条」内です。

古語辞典の付図の「平安京条坊図」で、二条殿が「三条」
内にあります。   私はこれで錯覚しました。

「三条」内なのに二条城というわけは、
足利義満の屋敷が二条通りに面していて、二条城と呼ばれ
以降、将軍家の屋敷は二条通りに面していなくとも、
二条城と呼ばれたとあります。
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この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え、大過なく人生を全うしましたが、個人の資質としてはかなり落ちると思います。
また、8代将軍吉宗は、初めて直系以外から将軍になりましたから、しがらみが無く各種の改革を行いましたので、中興といってもよいのですけど、結果論としては功罪相半ばする業績ですね。
因みに、15代将軍の慶喜は極めて優秀な人物ですけど、秀才にありがちな泥臭さを嫌う点が残念な将軍と思いますし、幕府を再興しようという熱意は、室町15代義昭にも通じるものがあります。

一方の足利尊氏は、義侠心に富み、勇敢で物欲の薄い、将に男の中の男という人物ですが、家族や功のある部下を冷酷に切り捨てることが出来なくて、不安定な幕府になってしまいます。
パソコンでもそうですけど、安定したシステムを構築するためには、レガシーというか、古い規格との共通性を求めると不安定になり、これがWindowsMeが評判が悪い理由で、ある時点で思い切って古いものを切り捨て、新しい規格だけで組んでいく必要があります、WindowsNTのように。
尊氏はこれが出来ないために、終生弟や養子に出した実子の反乱に苦しめられ、増長した家臣を治めきれず、ひ弱な幕府になってしまいました。
その中で、3代義満は怪物といってもよい政治家で、権謀術策を弄して、幕府の権威を高めます。
資質としては、徳川家光とは比べ物にならない高い力量で、家光がシステムの上に乗った将軍なら、義満は自分の才知で政治を動かした将軍ということになります。
但し、室町幕府が最大領土になったのは、6代義教の治世で、この義教は織田信長に匹敵する改革者とも言われますが、信長同様、部下の裏切りにあって絶頂期に暗殺されます。
この義教にあたるのが、徳川では5代将軍綱吉で、綱吉の時代に戦国の殺伐とした習慣は無くなり、儀礼に支配される世の中になりますから、ある意味綱吉も時代の常識を変えた政治家です。
彼以前では、例えば水戸黄門ほどの人格者でも、刀を試すために乞食を切ってみたりしていますし、九州地方から江戸に来た武士達は、犬コロ飯といって、野良犬を捕らえて食べていましたから、まだまだ戦国の気風が残っています。
足利義教の死により、幕政の改革は頓挫し、信長の死後、秀吉や家康が織田家を空虚なものにしたように、畠山、細川といった有力大名が将軍を操るようになって、8代義政は諦めの境地だったのでしょう。
この点は、中興の祖というべき、徳川将軍の8代吉宗とは大いに違います。

こうしてみますと、大体3代目で幕府の骨格が完成する、5or6代目で一つの切があって、真ん中の8代目で転換期を迎える、足利氏はこの8代目で戦国に突入し、徳川氏は系統が宗家から枝に移った。
偶然ともいえるし、必然ともいえますね。

この2つの幕府ですけど、良くも悪くも初代の性格が色濃く反映されています。
徳川家康は、ご承知の通り三河の大名から天下人になりましたが、猜疑心が強く、身内の情に薄く、冷徹な性格のため、初期に生まれた子供たちはほとんど殺したり、死ぬように追い込むようなことをした結果、個人の資質を信用しないため、幕府をシステムとして捕らえ、集団で意思を決定する組織を作り上げました。
3代将軍家光も、優秀とはいえない将軍ですが、完成されたシステムの中で生まれた初めての将軍ですから、各種の制度を整え...続きを読む

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鎌倉幕府自体は、貞永式目という武家法にのっとり、摂家将軍なり宮将軍を上に戴いていました。
摂家将軍なり宮将軍の特徴は、成人してそれなりの政治的な権威が生まれると、退位させられていました。実際の権力を生む可能性が無ければ、退位させる必要はないわけで、執権なり徳宗として、摂家将軍なり宮将軍が「無きゃいけないが、不具合な存在」であったことを示しています。

師直のセリフだったかは忘れましたが、師直派の婆娑羅大名のセリフに
「帝の代わりに木像でもおいておけ」
というのがあります。政治的権限は必要なしという意思表示です。

コレに対して、直義の目指したのは、公式組織として旧来の公家とも融合して合理的な統治を目指します。
鎌倉幕府の評定衆が御家人だけを対象にしたのに対して、全国規模で合理的な統治を目指したわけで、その対象者は、武家も公家も寺社も含まれます。全国統治の足利家が行うという意味では、直義も独裁ですが、旧来のシステムも含めて、合理的に行うことを目指しました。

師直派は、「恩賞がなければ、荘園から盗み取れ」というセリフがあるように、公家や寺社の立場は考えません。足利家を頂点とした武家集団の利益が求めるものです。
このへんの「ナマ」な欲望の肯定が、独裁的な支配体系となります。
公式に公表している「式目」に則るのではなく、権力者が権力のもとに意志を通すという意味での独裁です。

独裁
簡単に独裁と書きましたが、鎌倉幕府における独裁というのは、鎌倉幕府の中における独裁です。
具体的には、徳宗政権時代において、北条家の当主(=徳宗)の家臣である御内人を中心に決定された事が、鎌倉幕府にとっての公式な組織である評定衆の決議に優先された、あるいは、事後承認されたというのが、鎌倉幕府における北条家の独裁です。
鎌倉幕府自体は、貞永式目という武家法にのっとり、摂家将軍なり宮将軍を上に戴いていました。
摂家将軍なり宮将軍の特徴は、成人してそれなりの政治的な権威が生ま...続きを読む

Q足利尊氏は

足利尊氏は何故鎌倉じゃなく
京都に幕府をおいたのですか??

教えてください。

Aベストアンサー

幕府って何かと、政権の正統性はどこからくるのか?時代が南北朝であるってのがポイントかと。

そもそも幕府とは、将軍が戦場にいるときの臨時行政組織といえます。将軍がいてその部下がいれば、そこが幕府。

将軍を任命するのは天皇ですので、天皇を管理下におく必要があります。遠くにいても管理できれば、あるいは、ちゃんと将軍に任命してくれる慣習になっていれば遠くにいてもなんの問題もない。
遠くで管理したのが江戸幕府。
遠くても、源氏の統領を将軍にするのが道理だよねというのが鎌倉幕府。

ところが時代が南北朝で、常に北朝を正統として、武力で守らなければならなかったのが、足利幕府成立の時代背景です。

北朝を守るのに一番都合が良いのはどこにいるべきか?それは京都ということになります。

それで 京都に将軍が常駐=京都に幕府となります。

Q鎌倉幕府、室町幕府の直轄領

江戸幕府の直轄領(天領)は400万石くらいあって、いかなる雄藩もはるかに上回るものでした。
それでは鎌倉幕府や室町幕府の直轄領はどのくらいあって、それは有力な御家人や守護大名
と比べてどれだけの規模だったのでしょうか?
どの範囲までを直轄領とみなすかにもよりますし、江戸時代と鎌倉時代や室町時代では土地の制度も
政治制度も違うから、一概に比較は難しいかもしれませんが。

Aベストアンサー

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄領はなかったようです。
直轄領に裏付けられた直轄軍がありませんでしたから。

室町将軍家は、直轄軍としては奉公衆がおり、最大で一万程度と言われています。逆算すると江戸時代の換算では、35万石くらいになります。
室町期の人口が1000万≒1000万石(全国)だったはずなので、江戸期の3000万人≒3000万石 に換算すると江戸時代における100万石くらいではないでしょうか。

結構、鎌倉将軍も室町将軍も、直轄軍を持っていません。
結果として鎌倉将軍も、室町将軍も江戸期の将軍よりも専制的でなかった、鎌倉期も室町期も内乱だらけですが、江戸期は内乱がほぼありませんでした。
逆の見方をすると、鎌倉将軍は主敵である平家を滅ぼして、建前上は、武士の統領(=つまり、みんな部下)であり、室町将軍も主敵である南朝を滅ぼして、建前上はすべての守護大名の上司でありました。比較の仕様ありません。立ち位置が違うので。
ところが、江戸将軍は関ヶ原の後も江戸=大坂二重公儀制を保ち、豊臣家を滅ぼしても、完全には仮想敵を滅ぼしきっていません。全部が部下になりきらなかったから、徳川家直轄領が残ったのかもしれません。
最後の二重公儀制にかんしては、戦争の日本史 17 (17) 笠谷 和比古よりです。

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄...続きを読む

Q足利尊氏と源頼朝の人気がないのは何故ですか?

 私は、歴史上の人物の中でも、特に足利尊氏と源頼朝が好きなのですが、それぞれ室町幕府、鎌倉幕府を開いた人物であるにもかかわらず、世間一般からの人気が全くないような気がするのはなぜでしょうか?
初の武家による政権を開いたという点で、徳川家康より源頼朝の方が実績が上だと思いますし、武士としての能力や政治力において、足利尊氏は織田信長を上回ると思います。
 両者とも後世の歴史家から非難されている部分もありますが、それは信長・秀吉・家康にもあてはまることですし、幕末の志士も多々やっています。でも、戦乱を終わらせて政権を開いたということはそれにも遥かに勝る功績ですし、もっと人気が出てもいいように思います。
 あと、私以外にも尊氏か頼朝が好きな人は結構いるのでしょうか?

Aベストアンサー

No.2の回答者です。

>戦前に足利尊氏が好きといったら、大逆罪とは言えなくとも非国民扱いされたのでしょうか?

「土を喰う日々」(水上 勉 著)[新潮社版]
と言う本に、著者の水上 勉さん本人が書かれてます。
水上さんは、戦時中、足利尊氏の菩提寺で、住職さんの世話役のような仕事をされていたそうなのです。

以下は、本からの抜粋です。

>等持院は、当時大変な貧乏寺だった。
>足利尊氏の菩提寺だし、室町時代の宝物も有ったが、戦争中のこととて、国賊の菩提寺などへ観光に来る人は一人もいなかった
(中略)
>国家も、尊氏の事を逆臣と言っていた。

蛇足ながら、戦前の教育を受けている私の母親も、NHKの大河ドラマ「太平記」を見る時は、
「足利尊氏は、悪い奴だと教えられたけど、どうして悪い奴が主役なんだろ???」
と、言ってましたっけ・・・。
(^^;
いや、「教育」ってモノは、ある面、恐ろしいですネ。

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室町幕府がいわゆる「連合政権」と呼ばれたのは、
いつごろからでしょうか。Wikipediaには「室町中期」とありますが、
より具体的に知りたいのです。いろいろな本を読みましたが正確なところがわかりませんでした。

ご存知の方、できれば出展も合わせて教えていただければと思います。

Aベストアンサー

http://kaken.nii.ac.jp/ja/p/16520399

貞治年間以降の在京は、在京が継続すると共に、在京奉行人の登場に象徴される守護の在京政務機構の整備を伴っており、それ以前とは質が違う。

とあるから、義満の将軍就任あたりかなと

Q足利尊氏・直義の不和兄弟争い、南朝北朝との関係は?

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Aベストアンサー

当時の最大かつ唯一の政治課題は土地政策です。土地政策は、土地に関する武将の複雑極まる利害対立の解決ということです。土地に関する権利、既得権益をどう守るかが武士の最大かつ唯一の関心事だったということです。
足利尊氏は裁判といった面倒なものはわしの性に合わん、戦のほうがよほど楽じゃ、裁判に関してはお前に任せた、直義お前やってくれ、といったかどうかはわかりませんが、裁判に関する権限を直義に与えたわけです。大雑把にいえば軍事権を尊氏が握り、行政権を直義が握るという分掌です。これを二頭政治といいます。
皆が皆、裁判の結果に納得してくれたら、何も問題ないわけです。これにて一件落着めでたしめでたし。ところがそうはならなかった。敗訴した側が不当判決と叫んで、直義の失脚をたくらみ、尊氏に泣き付く。
そう泣き付かれると尊氏も無視できないわけです。支持基盤を失えば、自分の地位さえ安泰ではない。おい直義、これじゃ丸く収まらんよ、もちっとなんとかしてくれい、といったかどうかはわかりませんが、尊氏なりに解決しようとした。しかし直義は折れるつもりはなかった。直義にだって支持基盤はありました。支持者を裏切ったら直義の立場も安泰ではない。
観応の擾乱の本質は、兄弟争いではありません。裁判で土地争いが決着できずに、対立する両者がそれぞれ尊氏側と直義側に分かれて、武力闘争に訴えたといったことです。本当は私闘なんだけど、それでは大義名分が立たないので、尊氏と直義を担ぎ出して、私闘を正当化しようとしただけです。それぞれの武将が関心があるのは自分の利益だけなので、便宜的に尊氏側と直義側に分かれているだけで全然一枚岩ではないのです。ある時点までは直義側だった武将がころっと尊氏側に寝返ってしまう。負け組につくと元も子もなくしてしまうので非常に日和見的です。自分の権益を守る為に尊氏・直義をかんばんに利用しているだけなのです。

これに南北朝がどう絡むのか。室町幕府は元々北朝を支持基盤とした政権です。尊氏は北朝から直義を討てという命令を引き出します。要は合戦の大義名分にするための政治工作です。そうなれば直義は朝敵となるわけですから、たまらない。そこで直義は南朝につくのです。南朝の支持を得られれば、朝敵の汚名は解除できるからです。そうなると尊氏は困る。南朝を敵に回すわけにはいかない。尊氏だって朝敵にはなりたくない。そうなれば支持基盤を失って、自分が討たれる側になってしまう。そこで今度は尊氏も南朝についてしまうのです。南朝にすれば尊氏の軍事力は願っても無い魅力でした。そこで今度は南朝が直義を討てと命令するのです。そうなるともう直義は御仕舞いです。誰も味方がいない。というよりは直義を担いでいた武将が朝敵になるのは嫌だと怖気づいて離反してしまう。そんな流れで観応の擾乱は決着する。

南北朝の本質は、武将がそれぞれ自分の権益を守る為に、私闘の大義名分を得る為に北朝と南朝にそれぞれついて争ったということです。より多くの武将がついた方が優勢になる。武将が離反してしまえばたちいかなくなる。それぞれの武将は自分が担いだ方の朝廷が正当なのだと主張するわけです。

元をたどれば、全部土地をめぐる利害対立です。自分の権益を守る為だけに謀略、暗殺、戦闘、寝返り、裏切り、取引、駆け引きを繰り広げた時代です。
次の選挙に勝つためなら自民党でも民主党でもどちらでも良いというようなもので、現代は暗殺と戦闘がないことと争いの動機が違うだけです。

当時の最大かつ唯一の政治課題は土地政策です。土地政策は、土地に関する武将の複雑極まる利害対立の解決ということです。土地に関する権利、既得権益をどう守るかが武士の最大かつ唯一の関心事だったということです。
足利尊氏は裁判といった面倒なものはわしの性に合わん、戦のほうがよほど楽じゃ、裁判に関してはお前に任せた、直義お前やってくれ、といったかどうかはわかりませんが、裁判に関する権限を直義に与えたわけです。大雑把にいえば軍事権を尊氏が握り、行政権を直義が握るという分掌です。これを二...続きを読む


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