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肉体はどうしょうもなく存在してしまうのに精神は何故こんなに存在して無い物なのだろう・・・と、いつも考えていますが答えらしい答えが出ません。
精神とは何なのか、肉体とは何なのか、
肉体の死=精神の死 と単純にイコール化して良いものなのか。お知恵を貸していただけると嬉しいです。

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A 回答 (44件中11~20件)

> mimosa2001さんはどういった時にその存在を強く感じますか?



ひとつには、肉体を動かす原動力として。
たとえば、ある人(自分でも)が泣くこと、笑うこと、などは
精神がそのようにさせていることだと思うので。

もうひとつは、自分の中に、いつもなんらかの思いや感情があると感じるので
それを自分の心、と感じています。その存在を、
自分の手とか足の指とかの存在を信じるのと同じように信じています。
単純すぎますかね…。

この回答への補足

肉体を動かす原動力って具体的に何なのでしょう・・・自分考えてみましたがやっぱり解りません。mimosa2001さんはお答えをお持ちだったりしますか?

補足日時:2001/12/29 00:01
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個人的な精神についての考えをとの事のようですので、


そのように割り切って回答させて頂きます。

思うに、「精神」と「肉体」が別に存在できるものであるとするならば、
いわゆる宗教でいわれるところの「霊魂」の話に自然と向かってしまうと思うのですが。

個人的には、いろいろな宗教で言われるところの、「霊魂」としての「精神」というものに関しましては、僕は信じることができません。
いわゆる肉体なしに存在する「精神」ってやつですね。
つまり、僕は「幽体離脱」などしたことはありませんし、その他の宗教的奇跡体験も、生まれ変わりもしたことがないので、信じるにおいて証拠が足りなすぎるからです。

このような僕が体験していることとしては、いわゆる「心ここにあらず」って状態ですか?
何かを一生懸命しながら、別の事を考えてどちらにも支障のない状態。
これなら体験したことがあります。
これは、習慣的動作もしくは日常業務的な手慣れた作業を行っている状態のときに、体験することが多いように思えます。
これを、肉体と精神の分離状態とするにはやや無理があるかと思われます。
要するに手慣れた作業であるがゆえに、他の事を考える余裕があるからに他ならないのではないかと思うからです。

また、いわゆる、トランス状態もしくはナチュラル・ハイな状態においても、別に神が降りてくるわけではなく、脳内麻薬の影響の結果ではなかろうかと思ってしまいます。

では、次に「病は気から。」ってアレです。
確かに気持ちが張っているときには病気をしません。
で、気持ちが弱っているときには、簡単に病気をします。
これを、精神がおよぼす肉体への影響とすることも可能なんでしょうが、
どうなんでしょう?
いわゆる宗教的な奇跡体験とかとはちょっと違うんではなかろうかと思います。超越的奇跡体験ってやつです。
体内のホルモンバランスが崩れると精神のバランスが崩れるとか、
また、その逆とかがあるのは臨床的に証明されているようで、
ある程度までならば、人間は気のもちようで病気を治せるようです。
プラシーボ効果ってやつです。
これは体内の自己治癒能力(免疫能力)の結果であります。
特別に精神の力ってやつではありません。

で、考えられるこれらの材料ではいわゆる「霊魂」を信じるわけにはいきません。

また、個人的には、宗教などで説かれる精神について、また霊魂及び神仏の話については、すべて「よりよく生きていきましょう」と言わんが為の例え話だと思っております。なにも、それらが実在するなどという話ではないと思うのです。

以上のことから、僕は、「精神」というものがあるとすればそれは肉体に附随する幻想ではなかろうか?「精神」は「肉体」の反応の集積がもたらした脳に蓄積された反応の総体では?などと考える次第です。

あくまでも、仮定の話ですので、抽象に過ぎたかもしれませんが、御参考になりましたら。
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この回答へのお礼

そうですよね 魂を信じるにはあまりにも要素が少なすぎますよね。本当に有難う御座いました。

お礼日時:2001/12/29 00:01

>では頭脳が死ねば精神も死ぬと言うことですか?



そうです。
肉体と共に永遠の眠りにつく。
肉体が腐敗したり焼かれたりするのが当然なように、精神活動も脳の停止と共に止まり、勝手に動くことはありません。

西洋で魂が不滅というのは、不戦条約が締結者の死後も有効であったり、オリンピックの記録や、不朽の名作といわれる芸術作品があったり、哲学者の教えが伝わったりすることです。
これらは、人類の共有する財産として受け継がれます。

私の言葉がたとえばだれかの心に残ったとしても、それは私の脳(肉体)の働きの遺産でしかありません。
私が死ねば私の精神活動も終わります。
そうでなければ、安心して生きていられません。
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この回答へのお礼

西洋で魂が不滅というのは、不戦条約が締結者の死後も有効であったり、オリンピックの記録や、不朽の名作といわれる芸術作品があったり、哲学者の教えが伝わったりすることです。<これ とても好きです。有難うございました。

お礼日時:2001/12/28 23:56

>いえcaballeroさんの文章から読み取れた通りに疑問を投げかけてみましたが・・・・全て一概にはそういえないのですか?


 「すべて」と言えるのではないですか?これが一概でなくてなんでしょう。
「無」といえるのではないですか?無はすべてです。並ぶもののない言葉と言えるでしょうか、。お返事の意味がよくわからない(ぼくがいうのもなんですが、)ので、何べんでも書いてください。僕の頭があんましよくなくてごめんなさい。苦労をかけます。僕はあなたのお礼に答えていることになってますか?
>ではその五分の魂は何処から来るのでしょう?
これは、来る時にはもう来る事がなく、行くときには行く所はありません。来ると行くはおなじです。つまり、ドコもソコもありません。今、あなたにおいてそうなのです。あぁ、なんか僕がわかってきました。いま、結構いいこといったと思います。
結構いい説明でしょうか?
つまり、連続しているように、おこっているのではないということです。 
それは、あなたにしても同じです。
語彙を減らした方がいいですか?まだ、あなたの質問に直接答えていることにはなっていないですよね。
精神は精神
肉体は肉体
肉体の死と、精神の死が=ならば、精神=肉体か?ってことをお尋ねになっているのですか?
イコール化していいのはこのようにすることだけです。無はすべてと言えるのは、無=無なので、あり(すべて)になるということです。概念もなかなか役に立ちます。
今度は対話的に試みます。
やはり、自意識の問題があります。
精神は、次元を凌駕する体で、体の構成要素の一部である。つまり、意識の事である。しかし、意識は一人では動けない。自我を認識する事で、はじめて動く。
そのようなものかな?(これって対話的ですか?いつもと少し違うかなぁ(笑)?つけてるだけなんですが(笑
問答的ってことですね。問われて答えて問うて答えられらるレ~。(TT@ 

この回答への補足

精神=自我なわけですね?

補足日時:2001/12/27 14:59
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この回答へのお礼

何か重いのでまた後できます。すいません。一ページの読み込みが二分以上かかるのは ちょっとしんどいですので・・・

お礼日時:2001/12/27 15:13

>輪廻転生は別として、精神を どうお考えですか?



こんどは魂ではなく・・ということは肉体に付随している心のことですね。

寝ているときには休んでいるようですね。
起きているときには記憶したりそれを整理したり
判断したり・・してますね。

私にとって精神とは脳のはたらきであって、肉体の反応を指しています。
たとえば、今こうして書いているのも適度の体力の余裕と適度の疲労のなせるわざ。なにかしら快感があるから書けるのです。
私のため、あなたのため、世界のためなどと考えることもできますが、そのために無理はしていない状態です。

もちろん、こんな良好な状態の時ばかりではありません。

この回答への補足

では、cotikuさんのお考えでは精神は脳の働き・・・では頭脳が死ねば精神も死ぬと言うことですか?

補足日時:2001/12/26 00:23
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>ではその五分の魂は何処から来るのでしょう?



もし、死んでおしまいなら、一寸の虫を意味無くいたぶるのも、自然に生かしておくのも同じ。
しかし、いやがり、むごたらしい断末魔の表情を愉快と感じるより、不快とするのが普通ではないでしょうか?

心優しい仏陀は無駄な殺生を避けようとしました。
少なくとも仏教を国教とした奈良時代から日本人は無駄な殺生を嫌います。
いじめも嫌います。

さて、本論です。
どこからきて、どこへいくのか。

春にタンポポが咲きますがこれは真夏には姿を消して冬の内にまた芽を出します。そして春に咲いて夏に消える。
水は空から降ってきますが川になったり蒸発して空にもどったり。
つまり、この世とあの世を行ったり来たりしていると考えるとつじつまが合います。

そのタンポポは大輪だったら次に生まれてくるときにも大輪。
ただし、環境によっては変形していることもある。
もし、人がこの世で虫をいじめたら次に生まれてくるときには?・・・

魂は不滅にして輪廻する。
これが、仏陀の考えた倫理(人の道)を正す理論です。
インドの無抵抗主義は来世を信じるからできるのではないでしょうか。
他の宗教ではこの「どこからきて、どこへいくのか」に答えた人がありません。
数学の国インドの頭のよさに感心する次第です。

この回答への補足

これはcotikuさんのお考えでなくガウタマの教えですね・・・cotikuさんは輪廻転生は別として、精神を どうお考えですか?

補足日時:2001/12/25 23:14
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この回答へのお礼

有難うございました

お礼日時:2001/12/25 23:13

ところで、714020さんはどこまで考えて、アンバランスさに苦しんでいるのですか。

詳細を知りたいと思います。

この回答への補足

肉体はどうしょうもなく存在してしまうのに精神は何故こんなに存在して無い物なのだろう・・・と、いつも考えていますが答えらしい答えが出ません。それと、世間一般に言う精神の定義が欲しいのではなく個人の意見を下さい。
としつこくも申し上げていますが・・・

それにもう締めきったものとお考えになって結構だとさきほど申し上げたはずですが・・・

補足日時:2001/12/25 23:01
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精神の有無は他者によって実証することは不可能です。

当然確認することもできません。
自分についても、自分がもつ感情、認識にたいする肉体的とは思えない反応を精神と定義する場合のみ精神が有るということができるでしょう。肉体は死んでも、精神は死なないという可能性がある場合、精神が死んで肉体が生きるという状態が有りうるのか?これも確認はできません。精神の死が起こりうるのならそれを認識できるのは死んだ精神そのもの以外に存在しないからです。
目が自らの構造を視覚することができないように、精神は自らを認識することはできません。つまり、精神は現在も今後も証明することはできません。
私達は感情と思考という点と点を結びあわせる線が存在するはずであるという予想のもとに、その線を精神と定義しているに過ぎないのです。
あなたは精神の存在を他者に証明できるような論拠を求めているのではありませんか?また、自分の中の他人(客観性)に対して同様に精神の存在を証明しようとするために苦しむのではないでしょうか?
主観的になることこそが救いなのではないでしょうか?
無我という境地もまた、我を認識できないほどの主観であると、考えます。
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この回答へのお礼

有難うございました。

お礼日時:2001/12/25 21:33

以前、回答したものです。

みなさんそれぞれの考え方をお持ちで、また質問者の714020さんにも「分からない」なりに固有の考え方があるということが分かりました。

この質問のおおもとにあるのは、714020さんにとって精神(心と言い換えていいでしょうか?)が不確かで希薄なもので、その存在に確信がもてず、それがあるという実感が持てない、ということでしょう。実感のない人に対して「感じろ」といっても仕方ないですし、また理屈でこうこうだから有るはずだ、と解いても、やはり納得することはできないだろうと思います。だからこそ、714020さんはあくまで意見を聞きたいと何度もおっしゃっているわけですね。

むしろここで必要とされているのは、学説や教説ではなく、自分はこんな仕方で精神を実感している、こう「感じている」というある種の体験ではないかと想像します。ですから、以前の私の回答に対する質問に答えながら私の「感じ」の内容を書こうと思います。

>肉体や精神は変幻する、だから存在しないのですか?
良くお読みいただければ分かるのですが、私がいおうとしたのは、むしろ「肉体や精神は変幻する、それでも肉体も精神も存在する」ということです。

肉体と精神はもちろんイコールではないが、不可分のものであり、どちらも私という現実の存在を働かせる(活動させる)基になるものである、私は考えます。例えば、日々、私は文字を読んだり書いたり、歩いたり走ったり、何かを食べたり飲んだりしています。それは物理的にはすべて筋肉と神経の科学的な活動ということになります。しかし同時にそれらは、「知識を得ようと」本を読解することであり、「想いを伝えようと」手紙を書くことであったり、「気晴らしのために」外に出ることであったり、「遅刻すると叱られるのが嫌だ」からから走ったり、たまには「贅沢したい」とステーキを食べたり、「落ち着きを取り戻すために」コーヒーを飲んだりしています。つまり心の働きに応じて身体が動いています。

逆に、身体の働きに応じて心が動いているのかもしれません。喉が渇いたら水を飲んだりもしますから。

いずれの場合でも、私が生きて生活しているとき、私はただ本を読む、手紙を書く、ステーキを食べる…などの行為をしているにすぎません。ただそれを、物理的に捉えれば筋肉と神経といった身体の活動で説明できますし、また心的に捉えれば、知識を得たい、想いを伝えたい…という心の動きで説明することになります。それぞれの働きに応じて、「その働きを担うモノとして」身体と精神が別々のものとして想定され、しかも対抗的な対概念として使用されているということだと思います。

ですから、どちらも存在するし実感せざるを得ない、というのが私の答えです。人によっては、肉体の方が精神よりも確固とした存在であるという方も、逆に精神の方が肉体よりも確固とした存在であるという方もいます。私の場合は、どちらも変幻しつつ、日によって強弱はありつつ、もしかしたらどちらもあやふやかもしれないが、しかし肉体も精神もそういうあやふやなものとして存在しているとおもいます。

それが恒常的であろうがなかろうが、普遍的であろうがなかろうが、そういう内容はともかく、現に有るという「事実」でもうそれは存在を意味していると思うのです。

そこで、「肉体の死⇒その人の死⇒精神の死」ですが、肉体も精神も私の存在を担うものですから、一方が死ねばそれは私の死を意味し、当然他方も死ぬということを書いたのです。精神だけが死んで肉体だけの自分も、肉体が死んで精神だけの自分も、どちらも存在しないでしょうから。

「手を動かしたいと思った時に手が動くのは何故でしょう?」
という質問ですが、私はただ「手を動かす」だけです。それを先の二つの視点(物理的説明と心的説明)を要求された時に、「手を動かしたいという欲求」と「脳からの刺激が神経伝わって手の筋肉を弛緩・収縮させる」という別々の系列の説明をするだけだと思います。もしかしたら、「手を動かす」だけですらなく、ただ「分かれの合図をしている」だけかもしれないし、ただ「背中を掻いている」だけかもしれません。

私という現象は、細かく分ければどこまでも分けることができます。まず肉体と精神に、それらがまた筋肉や血液や細胞に、そして他方が意識や無意識や悟性や理性に。しかしそれらはあくまで私の活動をそれぞれの視点から眺めた時にその働きを担うものとして想定されているのだと思います。だからといって、心の中に意識と無意識が別々に独立してあるわけではなく、心が一つであるように、私は心と身体にわかれず、一つなのだと思います。

そして肉体や精神があやふやであるというより、私という存在はどこまでもあやふやで不確かです。しかしそれでもそういうものとして存在しているというところに私としての、また人間としての同一性を感じています。

こんなあやふやな答えは、参考になりませんか?

この回答への補足

いえ、心身二元論では相互作用などの説明が不可能だった用に記憶していましたので、「手を動かしたいと思った時に手が動くのは何故でしょう?」 とお聞きしてみたのですが・・・ちょっと悪趣味でしたよね・・・すいません

補足日時:2001/12/25 21:04
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この回答へのお礼

十分参考になりました有難うございました。

お礼日時:2001/12/25 21:03

>精神とは何なのか、肉体とは何なのか.


一寸の虫にも5分の魂があります。
動いている虫をさわれば突然死んだふりをします。
反射神経だけで反応しているのかもしれません。
自分の命の繋がる方へ動いています。

犬は人間の子供ほど発達していて、
えさをくれる人、散歩に連れていってくれるひとに愛嬌よく振舞い、野犬は群れをなして行動します。
人間は生きていくために栽培したり服や家を作ったり言葉を覚えて共同したり、嘘をついたりします。

いづれも、肉体を保護する手段です。
ここで、肉体と精神とは不可分だと言えます。
一方が死ねば一方も死にます。
乳幼児や病人・怪我人・老衰した人は他に助けてくれる人があるから、生きているのです。
この、助け合いの精神も本能的にそなわった性質です。

今言った精神と、宗教で言う魂とは別です。
死を永遠の眠りといい、魂は不滅といいます。

この回答への補足

ではその五分の魂は何処から来るのでしょう?
と、言うところが疑問なのです。

何とかお知恵を貸していただけませんか?

補足日時:2001/12/25 19:32
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