キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教の勉強をしたいんですが、何か時間のかからない方法で、それぞれの教えの真理を理解・比較できるような方法、例えば書籍やwebサイト等はありませんでしょうか?

本来であればそれぞれの聖書をキチンと読む事が必要だと思うのですが、その時間が取れないので、他に方法がないかと考えています。
宜しくお願いします。

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A 回答 (8件)

サクッとですか、難しいですね。



私も興味の赴くままいろいろな宗教の勉強をしていますが、
特にこれといった方法はないです。

手当たりしだい関係する書物を読み漁っています。

入門書については他の方が紹介されていますので参考にしたらよいでしょう。
しかし、その次の段階として、やはり原書(日本語訳されたもの)を一度は
読んでみるべきです。

やはり入門書や解説書は他人の目を通しての内容になりますので、一度は
原書に触れてみる必要があります。

キリスト教:
 ・新約、旧約聖書
仏教
 ・和英対照仏教聖典(よくホテルとかで置いてある本です)
儒教
 ・論語。原書が難しければマンガの論語でもいいです。

けっこう壁が高いのが旧約聖書ですね。読破しようと思って最初の創世記
から読み出したりすると、人物の系図が延々と続いているあたりで眠気に
確実に襲われます。
ここは「旧約聖書をしっていますか」の阿刀田高さんに習って、創世記の
途中から登場するアブラハムの話あたりから読み出すのがよいでしょう。
この辺りから話しが物語り風になってくるので、興が乗ると本当に面白く
読むことができます。

新約聖書は、やはり四福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)が読みやすい
です。それから使徒行伝かな。この辺も記述が物語風になっていたりします。
聖書がだんだんわかってくると、後半のパウロの手紙もよいですが、パウロ
は当時の知識人で、彼の書く手紙は論文風になっていることが多いので、
初心者にはかなり手強い内容かと思います。
最高にわけわからないのは、やはり「ヨハネの黙示録」です。今でもよくわかっ
ていません。ノストラダムスの大予言が難解なのは、聖書の黙示録に源流がある
ように思います。

仏教は宗派によって様々な経典があるので、とりあえず一冊だけ紹介しました。

論語は日本でも古くから読まれている書物で、解説本もいっぱい出ています。
最近で一番読みやすかったのは、
『マンガ 孔子の思想』
ですね。関連図書として
『マンガ 孟子・大学・中庸の思想』
もオススメです。

それから、各宗教の教祖がどういう人生を歩んだのかを知っておくと、
彼らが説いた教えについて、理解が深まります。
『世界の四大聖人』手塚治虫編
がよくまとまっていてオススメです。(マンガだから読みやすいですし)
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あんまり参考にならないかもしれないんですけど、(というか既にやっていらっしゃるかも)「新約聖書」とか「聖書」「旧約聖書」などの言葉で検索すると、聖書協会とかのホームページとか色々出てきます。

(私さっきやりました。)
結構便利でしたよ。マタイとかマルコとかキーワード入力すると、その福音書が出てくるの。(解釈までは載ってなかった)「ダビデの詩篇」とかでも出るよ。
とりあえず、抜粋になっちゃうけど画面でばばばばーっと読めるし、時間なかったらお気に入りフォルダーに入れちゃえば?
あと、「牧師」とか「神父」で検索すると、牧師さんや神父さんのコラムとかあるよ。質問とかも受け付けてるところあったよ。(おまえはそこまでやっとんのか、って言われそう)ちなみに私はさっそく質問送っちゃいました。何日か、かかるけどお返事くれますよ。・・・あまり役に立たなくてごめんね・・・
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ひろさちやさんの


「仏教とキリスト教」 新潮選書 1986刊
「キリスト教とイスラム教」新潮選書 1988
新潮文庫の「仏教に学ぶ八十八の知恵」
 などが 宗教思想の理解・比較によいかと思います。
ひろさんは1936年生まれ東京大学インド哲学科卒で
著書はこの他にもたくさんあります。
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二度も同じ書籍紹介するのは芸がないなぁと自問しつつ、橋爪大三郎氏の『世界がわかる宗教社会学入門』(筑摩書房)を紹介させてください。

本当にサクッと宗教の勉強が出来てしまいます。ただ、残念ながらヒンズー教だけは扱ってないようです…。

参考URL:http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cg …
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この回答へのお礼

これ良さそうですねー。
有難うございました!

お礼日時:2002/01/12 23:01

URLで順に簡潔にまとめられてるなあというところをあげます。



○キリスト教
http://freepages.cultures.rootsweb.com/~xmas/glo …
○ヒンドゥー教
http://www4.justnet.ne.jp/~eden/Hst/dic/hinduism …
○イスラム教http://www4.justnet.ne.jp/~eden/Hst/dic/islam.html

参考URL:http://www4.justnet.ne.jp/~eden/Hst/dic/
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この回答へのお礼

参考になりました! 有難うございました!

お礼日時:2002/01/12 22:57

 あらゆる宗教を見極めるという方途については、じつは、今から七百年前に出現された日蓮大聖人が、すでに「宗教批判の基準」ともいうべき明確な基準を立てられています。


 日蓮大聖人は、その基準によって、世の中のあらゆる宗教を比較相対し、取捨選択されて、最終的に、真実最高の宗教として、南無妙法蓮華経の教えを説き示してくださったのです。
 日蓮大聖人がどのような基準を立てられたのか、それを知っていただければ、今さらあなた自身が、見極めようとして、わざわざ迷路の中に入り込む必要などないことを、分かっていただけると思います。
 日蓮大聖人のお言葉にも、
 「万里をわたって宗に入らずとも、三箇年を経て霊山にいたらずとも、竜樹のごとく竜宮に入らずとも、無著菩薩のごとく弥勒菩薩のあはずとも、二処三会に値はずとも、一代の勝劣はこれをしれるなるべし」
という仰せがあります。これは、「あらゆる宗教を見極めようとして、わざわざ万里の波涛をわたって中国まで行ったり、あるいは長い年月をかけてインドまで行ったり、いろいろな人達の話を聞いたり、果ては、お釈迦様の説法を直接聞かなければ等と思わなくても、すでに、あらゆる宗教の勝劣を明らかにした日蓮大聖人の教えを学べば、宗教を見極めることができる」と言われているのです。
 あなたが、もし本当に宗教を見極めるつもりがあるのでしたら、まず、日蓮大聖人が示された基準を学び、それによって導き出される最高真実の宗教を知り、納得がいったならば、「自主的に」信仰していかれるべきであります。
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この回答へのお礼

力説されてますね~(笑)。
今回、なぜ僕が宗教を少し勉強したくなったかと言うと、人に言われても分からんから自分で勉強して判断したい、というのがあります(同じような理由で40ヶ国近く旅行してます)。

僕は宗教論争をするつもりはサラサラないので、この辺で勘弁して下さい(笑)。
とりあえず日蓮さんには興味を持ちました(笑)。

お礼日時:2002/01/12 22:50

 現在日本における宗教法人の総数は、十八万三千四七一あり、法人格を持たない宗教団体を含めると二十二万七千余もあるといわれています。

(平成九年 宗教年鑑調査による)
 これほど多くの宗教を、実際に自分の目で善悪を確かめたいといってもそれは不可能なことです。
 またそのなかで仏法の教えは特に難信難解であり、体験の世界でもありますから、私たちがただ頭で宗教の正邪を理解しようとしても、十年、二十年、または一生涯を費やしてもできることではありません。結局はどの宗教が正しいのかもわからず、信仰の道に入ることもできないでしょう。
 たとえば川を渡ろうとする人が橋の手前で、この橋はいつ、誰が作ったのか、材料はなにか、今までこわれたことはないか、などと詮索し続けて、結局向う岸に行きつくことができなかったという話があるように、すべてのものごとに対して、理解し納得しなければ信用しないという人は、一日たりとも生活できなくなるでしょう。
 時には批判し、詮索することも必要ですが、元来仏教に限らず、すべて宗教は信ずることから始まります。
 法華経には、
 「信(しん)を以って入ることを得たり」
とあり、日蓮大聖人は、
 「仏法の根本は信を以て源とす」
と教示されています。
  また大聖人は、
 「有解無信(うげむしん)とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解(うしんむげ)とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」
と説かれて、たとえ仏法の教義を理解できる人であっても、信ずる心のない人を救うことはできないと教示され、さらに、
 「法華本門の観心の意を以て一代聖教(いちだいしょうぎょう)を按ずるに菴羅果 (あんらか) を取って掌中に捧ぐるが如し」
と仰せられ、真実の仏法を信ずるとき、一切の宗教の浅深は、あたかもたなごころを見るように明らかになるのであると説かれています。
 正しい御本尊を信受し修行することによって、あなたの真実を求め、見きわめる力は、より正しく発揮され、人生に大きく役立ってゆくことでしょう。
 如何ですか?
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こんにちは。

それなら大学受験の「倫理」参考書、もしくは、高校の「倫理」の教科書がいいと思います。

僕は大学受験のため教科書で勉強しはじめましたが、基本的な理念や発展の経緯が、ほんとにサラッと(サラッとしすぎてるかも)できますよ。

一般的な教科書(っていうか僕の)だと、ユダヤ教が2ページ、キリスト教が7ページ、イスラム教が2ページ、ヒンドゥー教が1ページ、仏教が8ページ、儒教が8ページという内約になってます。(ちょっと仏教・儒教びいきな感じがしますが)にややもっと分厚いやつなら、もっと載ってますよ!

これくらいなら立ち読みで済むことも可能です。買ってもいいですし。
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この回答へのお礼

意外な大穴(笑)!
そうですよね! 教科書がありましたね!
有難うございました!

お礼日時:2002/01/12 22:47

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Qキリスト教、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教・・・などなど、さまざまな宗教の考え方や特徴を知りたいです。

最近、宗教について興味を持つようになりました。たとえばイスラム教では女性の地位が低かったりヒンドゥ教にはカーストがあったりと、宗教によってさまざまな考え方の違い、特徴があると思います。そんな宗教の違いなどについて分かりやすく解説していただけたら幸いです。

Aベストアンサー

 こんにちは。

 宗教事情と言いますか 実際の生活日常にどう現われているかについてよりは 考え方をめぐって理論的に捉えようとしてみます。

 ヒンドゥイズムは古代では ブラフマニズム(バラモン教)ですが この宗教はすでにいわゆるカーストが定まったところで起こっています。侵略と支配が出来あがったところで そのおしえが持たれます。
 ひとつには 宇宙の原理ないしその力としてのブラフマン(梵)とひとの《わたし》としてのアートマン(我)とが一体であると説きます。梵我一如と言うようです。
 もうひとつには 輪廻転生かつ因果応報の説があります。梵我一如を身に現わしたとされる司祭(ブラフマナ)は 過去世で善い因を積んだ結果そう成ったというわけです。
 そしてこの場合 低い身分の人びとは 過去世で悪い因を積んだ結果だというのですが それだけではなく いま現在善い因を積めば そして生まれ変わり続けていつの世にかは よき身分に生まれると説きます。

 ブディズムは このブラフマニズムを批判し否定して起こりました。
 ただ その内容は必ずしも明確ではありません。
 低い身分のまま生まれ続けるという六道輪廻は 目覚めた状態(ブッダ)に成れば断ち切ることができると言いますが 輪廻転生が全体として否定されたわけではありません。
 ひとは仮りにモノが集まってその存在となって生まれて来たものだから 《わたし》が確固とした存在だとは見るものではないようです。(諸法無我)。何ものにも依存しないブラフマンと一体でありうるというアートマンであるとは見ない。ただし 誰もがブッダの状態に成ることができるというその《仏性》を身に宿すとも もう一方では説くようになります。
 ですから一般には 《梵我一如》をブディズムのおしえだと捉えているのではないでしょうか。

 イスラームは 単純です。《神(アッラーフ)》が直接にムハンマドの口を借りて ひとの思いやおこないをすべて〔と言っていいほど〕おしえの中に示しているということです。きわめて具体的な内容を示すかたちで表現されていますから。 

 ▲ (クルアーン=コーラン)~~~~~~~~~~~~~~~~
 まことにわれら(* アッラーフ=神 の自称・複数形での語り)が 汝(ムハンマド)に啓示したのは ノアとそれ以後の預言者たちに啓示したのと同様である。われらは アブラハム イシマエル イサク ヤコブの各支族に また イエス ヨブ ヨナ アロン そしてソロモンに啓示した。また ダヴィデに詩篇を与えた。(4:163)


 おまえたち(* ムハンマドを含めた信徒たちのこと。むろんアッラーがムハンマドの口を借りて語っている)は言うがよい。
   《われわれは神を信じ そしてわれわれに啓示されたものを アブラ
   ハムとイシマエルとヤコブともろもろの支族に啓示されたものを モ
   ーセとイエスに与えられたものを 信じる。
   また もろもろの預言者が主から与えられたものを信ずる。われわれ
   は これらのあいだでだれかれの差別はしない。
   われわれは神に帰依する。》
    (2:136)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ちなみに セム語は三個の語根子音から成るのが 一般です。
 《S-L-M》は ヘブル語でも シャローム( SaLooM )と言って挨拶に用いる語です。アラビア語では 定冠詞(アル→アッ)を付けて 《アッサラーム(al-SaLaaM = 平安を!)》です。
 同じ S-L-Mから派生する語として イスラーム iSLaaM は 《降伏・服従》の意をも伴なう《身をゆだねる》つまり《帰依》のことです。
 その帰依した信徒を表わすムスリムは 《〔わたしはそこで自らが健全・安寧(S-L-M)であると知覚し認識し これを受け容れて わたしは〕 すこやかならしめられた》と言っています。〔  S-L-M > muSLiM。(初めの m- は いわゆる過去分詞の接頭辞)というわけのようです〕。
 つまりは ブラフマニズムやブディズムで目指された《安寧としてのさとり》の状態は ムスリムとしては その名前じたいの中に堂々と名乗っているというわけです。《われ やわらがしめられたり》と言っています。
 ひとこと悪口を言えば つねにいつもいつも《われはアッラーを信じる。アッラーに帰依する》と言っていなければならないのかと思ったりします。そんなことぢゃ 信じていないのではないか。弱いのではないかと思ったりします。
 
 さて ムハンマドに乗り移って語ったアッラーフの言葉の中に アブラハムやモーセのほかに イエスも出て来ています。そこで クリスチアニズムについてです。
 これは ひとことで言えば 人がついていけないほど すっ飛んでいます。なにしろ ヨセフとマリアという夫婦から生まれた人間であるイエスは この世のものではないなぞの霊としての存在である神の独り子であり みづからも神である。こういう出で立ちです。

 いくらかは分かるようなところを示してみますと。
 ひとは誰でも《仏性》を宿すと言ったりしますが クリスチアニズムもひとには神の霊が宿ると言います。
 ブラフマンとわたし(アートマン)とが 一体となるという説に対しては 神〔の霊〕がわたしをおおい包む。そこでわたしは 無条件に只で(無料で=恩恵として)癒されやわらがしめられたと告白する。
 ただし これはすべて ひとりの人の主観の内において起こる出来事であり その主観内面におさまるものであると知っています。ですから 神が人間の言葉でそのまま語るということは まぼろしとして――文学表現において――触れたりすることもあるにはあるようですが 基本的にはないと思っています。
 神をひとは見ることが出来ない。それは 非思考であると捉えます。言いかえると その信仰の内容を 言葉にして伝えることはあるにはあっても その人の主観の問題であると捉えています。言いかえると 二人以上でこの信仰内容をおしえとして具体的な表現において共有するということは すでにもはや非思考の信仰ではなくなると見ています。すなわち 教義と組織を伴なった宗教は 信仰の自殺行為であると見ます。そういう信仰です。
 (教会組織は わたしに言わせれば 犯罪行為です)。

 さらに言いかえると もし人と人のかかわりやつながり あるいはきづな これらのことを《愛》と言うとすれば そのような愛は 非思考つまりなぞにおいて神のほうがなんとかしてくれると思っているという意味です。人もその一端をになうと言ってもいいでしょうが――そして人間の為し得る努力という努力はすべておこないますが―― 基本は 絶対他力です。隣りびとを愛せとは 自分と同じくらいは――もしくは自分を思う前に一秒くらいは相手を先に思うかたちで――愛しなさいということです。

 こんにちは。

 宗教事情と言いますか 実際の生活日常にどう現われているかについてよりは 考え方をめぐって理論的に捉えようとしてみます。

 ヒンドゥイズムは古代では ブラフマニズム(バラモン教)ですが この宗教はすでにいわゆるカーストが定まったところで起こっています。侵略と支配が出来あがったところで そのおしえが持たれます。
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Q仏教、キリスト教、イスラム教の教理の核は?

仏教、キリスト教の教理の核は「悟」、「愛」だと思ってはいけませんか。違っていれば訂正して下さいませ。
イスラム教の教理の核を一口に述べる事は可能ですか。それはどう表現されますか。漢字一字に限りません。教理の核であって実態との乖離は問わないことにします。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

●仏教:古代実存主義

西洋系哲学のバックグラウンドがある人物であれば、原始仏教の本質を、このように捉えることがあってもおかしくありません。事実、この指摘を読んだことがあります(誰のなんという本だったか、忘れてしまいました)。仏教は本質的には輪廻からの離脱(涅槃)を目的とし、なぜ人間には苦しみというものがつきまとうのであろうかというテーマを追い続け、正しい生き方をすれば苦しみはなくなるはずだという発想をもっています。

また、仏教の無我論も極めて西洋の実存主義的な思考態度に近いものです。ただし、私は仏教のほうが、通常の実存主義よりすぐれていると考えます。実存主義には歪んだ自意識過剰が見られる傾向があり、これは、今まで信じてきた神が信頼できなくなってしまったことにより、自分たちのよって立つ場所が見つからず、自意識過剰になるのだと思います。サルトルが好きな人には申し訳ないのですが、弁証法家である私には、サルトルの本音など、この程度のレベルのものとしか思えません「オレは不幸者だ。だから頭がいいんだ。どうせお前みたいな幸福な馬鹿にはわからんだろう」。

仏陀に一番近い西欧哲学者はキルケゴールであるような気がします。この人は実存主義者の中では珍しい弁証法の系譜に入る人物で、この人の立場をまとめると、こうなります。「きみは今、幸せ者かもしれない。でもどんな幸せ者でも、不幸者に転落してしまうことがある。自分がそのプロセスを示して見せよう」。仏教が弁証法的であることはしばしば指摘されることです。

仏教の本質を「悟」とすることは、結果だけを見れば正しいことです。しかし、結果そのものよりも、その結果にいたるまでのプロセスを重視する傾向が仏教にはあることも、見逃さないほうが良いと思います。

●キリスト教:有機的な神との対話

ユダヤ教、イスラム教と同様、キリスト教もまた一神教にして、神と人間の対話をいう要素を持っています。ただし、この対話のスタイルが、それぞれ異なるのです。もっとも原始的なのがユダヤ教、もっともストレートなのがイスラム教です。

キリスト教のポジショニングは、神と人間の対話を、具体的かつ有機的に語るという特徴にあります。神と人間ではあまりに差がありすぎるので、ある程度の有機的関連性を組み込まないと、神と人間の間には、コミュニケーションが成立しにくいのです。キリスト教はこの有機的対話チャンネルの構築という特性により、人間にとってもっとも神を理解し易い一神教となっているわけです。

キリスト教は神と人間の対話を媒介する存在として、聖職者がざんげを聞くという習慣を持っているほか、天使や聖人の概念を使いこなします。また、三位一体論は、ユダヤ教やイスラムでは見ることのできない原理です。さらに、キリスト教においては偶像崇拝の禁止は事実上廃棄されており、これは本が普及する以前の時代に、偶像を通して神と対話するという態度をとっています。東方正教会においてはこの傾向が特に強く、信者がありがたがって絵を触りまわすうちに絵が破損してしまうため、キリストやマリアの顔の部分を除いて、そのほかは金属で覆ってしまうというスタイルのものすら見られます。

偶像崇拝を否定的に見る必要はないと思います。敬虔な東方正教会の信者は、別に神社に行く日本人のように現世利益を求めているわけではなく、ただ心の安静を求め、恭順の気持ちを伝えているだけですから。

キリスト教の本質が「悟」であると思うか否かですが、悟という語が仏教的な通常世界からの解脱と急激な覚醒を意味することはありません。しかし、悟という漢字を、ヨーロッパ人の使う理性の概念と同等のものであると解釈すれば、キリスト教は理性の宗教であり、悟という漢字も不自然ではないということになるでしょう。

●イスラム:社会倫理

イスラム教は最も純粋な一神教ですが、他方で、生活スタイルの細かいところにまで入り込み、人々の日常生活における行為のあり方まで規定してしまうという傾向があります。これは、肯定的側面をとらえれば社会倫理であり、否定的側面をとらえれば教条主義となります。

イスラムにおいては、礼拝、断食月、飲酒の禁止、食のタブー、ドレスコード、喜捨などの要素が、日常生活に組み込まれることとなります。聖地巡礼を果たした人は、地元に帰ると尊敬されます。現在では否定的なイメージで語られ、イスラムの保守性を示すものとされている、いわゆる「4人妻」の習慣にしても、もともとは、戦争で男が減ってしまい、生活が立ち行かなくなっている女性がいることを背景として、富裕層はひとりで複数の女性を扶養しなければならないとする福祉政策だったものです。

ただし、このようなイスラムの特性は、当初の理念が失われるにつれ、教条主義化していくケースもあります。端的にそれをあらわしているのが、アフガニスタンを以前支配していたタリバーンで、タリバーンが実効権力を握っていた間には、異様な事象が多数みられました。たとえば、ボクサーは肌の露出度が高いという理由で、ボクシング禁止令が出てしまいましたし、なぜだか理由は想像もつきませんが、たこあげ禁止などという決まりも出来ましたし、なんといってもあのバーミヤンの貴重な仏教遺跡を破壊したのは許しがたい行為です。

イスラムは本来、経典の民(ユダヤ教、キリスト教、イスラム)としか結婚してはならないとする教義をもつものの、基本的には宗教的寛容を説くものであるという原点をタリバーンは忘れています。イスラム国家の中には、ヨーロッパで迫害されたユダヤ人を多数受け入れてきたケースもありますし、インドのようにカースト制度から逃れようという発想でイスラムに改宗した人もいるという事情を、タリバーンは全く分かっていないようです。

さらに、多くのイスラム国家で、税金さえ払えば異教徒であっても信仰の自由が保証されるという制度がとられ、イスラムに乗り換えたほうが税金が安くなるという理由で異教徒が多数移住してくるというケースがあることも見逃すべきではないでしょう。この政策で政治的成功をおさめた典型例はオスマントルコで、キリスト教徒による軍隊を作ったりしているわけです。もともとはキリスト教国だったアルバニアは、トルコの支配下に入った際、家にいる女性はキリスト教徒、社会生活のある男性はなんちゃってイスラムという変則パターンで、トルコ人のお気に入りとなった国です。トルコ料理の本には、よくアルバニアレバーというレシピが出ていますし、オスマンが勢力を失っていく中でエジプトが独立をしてしまうのですが、その時のエジプトのリーダーもアルバニア人です。

●仏教:古代実存主義

西洋系哲学のバックグラウンドがある人物であれば、原始仏教の本質を、このように捉えることがあってもおかしくありません。事実、この指摘を読んだことがあります(誰のなんという本だったか、忘れてしまいました)。仏教は本質的には輪廻からの離脱(涅槃)を目的とし、なぜ人間には苦しみというものがつきまとうのであろうかというテーマを追い続け、正しい生き方をすれば苦しみはなくなるはずだという発想をもっています。

また、仏教の無我論も極めて西洋の実存主義的な思考態度に...続きを読む

Qヒンズー教、バラモン教、仏教

インドは零の発見など文明として数々の発明発見をしてきた土地だと思います。また、宗教上でも多くの宗教が芽生え発展してきたように思います。

現在、ヒンズー教がインドで最も盛んな宗教のようですが、ヒンズー教の前身にバラモン教があると勉強しました。

質問:現在、日本で私を含め信仰の深い仏教もインドから中国、朝鮮を通じて日本に入ってきましたが、この仏教はヒンズー教より歴史は古いのでしょうか?

質問:今、仏教はインドではどうして多数派では無いのでしょうか?
昔から仏教を信仰してきた私には、発祥の地のインドで仏教が盛んではないないというのが残念です。

また、お隣の中国は逆に現在仏教に関してはかなり研究が盛んに行われているようです。
質問:チベットは密教として仏教が盛んのようですが、チベットの仏教とインドの仏教の接点を教えてください。

Aベストアンサー

インドでは今から3000年ほど前にヴェーダやウパニシャッドという
聖典がすでに成立しています。結局のところインドの宗教はすべて
これらのインド哲学の聖典が元になっています。同じ聖典を基にしている点
ではインド宗教は、ユダヤ教とキリスト教・イスラム教のような関係と言えます。


ヴェーダに登場する火の神(アグニ)を信仰していた彼らは森を焼き、
農地を拡大していきました。その結果として洪水被害や塩害のような
環境被害が繰り返されます。当時のの哲学に共通する特色としては
「なんでこんなに苦しまなきゃいけないの?」というものです。
現代の我々はそれが化学作用によるもので人間が原因だと理解できますが、
これに近い明確な答えを出したのがインド哲学です。
つまりこれらの原因を「業(カルマ)」であるとしました。



数百年後、仏教の開祖「シャカ」が誕生します。
彼はヴェーダの思想どおり、「殺すからその報いを受けている」と考えました。
ところが彼の思索はさらにその先に突き抜けてしまいます。つまり
「我々の食事は動物を殺して食べている。だから植物を食べて生きよう」
という凄まじい結論に達します。この<<不殺>>の考えはヴェーダの「業」を信じ、
環境被害に苦しんでいたインドの人々に広く受け入れられ、
急速に勢力を拡大していきます。




ここから様々な分派が生まれますがインドにおいてはヴェーダの思想が強く、
カーストを否定した仏教徒との対立が次第に多くなります。
とはいえ、「業」の思想に明確な答え<<不殺>>を出した仏教も支持され
カースト(前世の業による階級制)の思想と仏教の不殺の思想が融合していきます。
こうして成立したのがヒンドゥー教です。



一方で中国にわたった仏教は、儒教や道教の思想と出会い、
やはり融合をすることになります。この中国仏教が日本に伝わっている仏教です。
統治論としての政治手法や組織宗教としての完成度は高まっていますが
一方で最初の理想である<<不殺>>は大部分で失われており、ほぼ別物です。
つまり原始仏教の成立は早いものの、日本に伝来した中国仏教は
成立がかなり後期ということになります。



これ以外にも様々な宗教が仏教との融合により生まれています。
チベット土着の宗教であるボン教は巫女による神との交信を行っていた宗教ですが、
これが仏教と出会い儀式性の強いチベット仏教へと変化していったのです。

インドでは今から3000年ほど前にヴェーダやウパニシャッドという
聖典がすでに成立しています。結局のところインドの宗教はすべて
これらのインド哲学の聖典が元になっています。同じ聖典を基にしている点
ではインド宗教は、ユダヤ教とキリスト教・イスラム教のような関係と言えます。


ヴェーダに登場する火の神(アグニ)を信仰していた彼らは森を焼き、
農地を拡大していきました。その結果として洪水被害や塩害のような
環境被害が繰り返されます。当時のの哲学に共通する特色としては
「なんでこ...続きを読む

Q仏教・キリスト教・イスラムに在ることになっている天国・浄土や地獄は、神道にも、同じように在るのですか

仏教・キリスト教・イスラムには、天国・浄土や地獄が在る、ということになっていますね。
ところで、神道にも、天国・浄土や地獄が、同じように在るのですか?

Aベストアンサー

こんばんは。

黄泉(よみ)や常世(とこよ)と呼ばれるものが該当するのでしょう。

常世
https://goo.gl/HbwOZb

黄泉
https://goo.gl/LwwGQv

常世はパラダイス的なもので天国や極楽に対応し、それに対して、黄泉は不浄、穢れの地で地獄に相当する。
ですから、神道にも天国や地獄に相当するものがある。
ですが、常世、黄泉ともに、この世、生者の世界と地続きであり連続していますが、天国や極楽などの死後の世界はこの世と隔絶している異界であり、天国や極楽などの死後の世界とはこの点が大きく異なっている。

ちなみに、生き返ることを「よみがえる」といいますが、これは「黄泉(よみ)+帰(かえ)る」が語源とされています。
知らず知らずのうちに、日常的に黄泉という言葉を使っているというわけです。

Q仏教・キリスト教・イスラム教の共通部分はなんでしょうか

世界三大宗教である仏教・キリスト教・イスラム教の共通部分はなんでしょうか。
また、そのようなことが書かれている本、サイト等はありますでしょうか?

Aベストアンサー

●特定の民族だけでなく、全ての人種・民族に対して平等に接することを理念としていること。ただし、現実には、コーランはアラビア語が基本であったり、聖書の現地語訳登場が遅かったりする

●教祖が宗教家としてだけではなく、政治的センスも優れていること。キリストは反ローマ過激派というレッテルを貼ろうとするわなに、なかなかかからなかった。マホメットは戦争で勝利し、ユダヤ教との論戦を行った。仏陀は大国に挟まれた小数民族の王子という立場を自覚していた

●たんなる個人の信仰を超え、国教となっている例があること。キリスト教、イスラム教は特に多い。仏教では、チベット、タイ、ミャンマー、日本の奈良仏教など

●偶像に対する態度がアンビバレントなこと。もっとも厳しく偶像崇拝を禁止しているイスラムでも、ペルシャの細密画の伝統を崩すことはできなかった。イスラムの刺激を受けてキリスト教でも偶像崇拝禁止を唱える意見が出たが、大多数の地域では宗教芸術が発達した。仏教は元々は、仏像を作らない宗教だったが、アレキサンダー大王がギリシャ文明を中央アジアにもたらすことで、ギリシャ的・写実的な仏像が生まれた

●宗教は麻薬だと説いたマルクスの影響下にある国でも、生活習慣としては生き残るほど強固なものであること。リトアニアのカトリック、ロシア・東欧・グルジアの東方正教会、アルメニアのアルメニア正教会は現存しており信者もいる。中央アジアでは、ソ連邦時代に女性解放が進んだが、食習慣は昔のまま(つまり、豚を禁忌としており羊肉を好む、造形的で美しいパンを焼く、シルクロード共通料理として餃子がある、飲酒が禁じられているのでアルコールから作られる酢も使わない、など)。仏教は、ほそぼそとながら、あの北朝鮮でもしぶとく生き残っているほか、チベット仏教も簡単には中国の圧迫には屈せず、本質的には宗教指導者であるダライラマ14世が、中国、インド、米国などの大国間の政治力学を用いて独立維持を図るなど、侮れないものがある

●特定の民族だけでなく、全ての人種・民族に対して平等に接することを理念としていること。ただし、現実には、コーランはアラビア語が基本であったり、聖書の現地語訳登場が遅かったりする

●教祖が宗教家としてだけではなく、政治的センスも優れていること。キリストは反ローマ過激派というレッテルを貼ろうとするわなに、なかなかかからなかった。マホメットは戦争で勝利し、ユダヤ教との論戦を行った。仏陀は大国に挟まれた小数民族の王子という立場を自覚していた

●たんなる個人の信仰を超え、国教となっ...続きを読む


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