中世スペインにおけるレコンキスタ運動の
過程とその歴史的意義について
教えてください。よろしくお願いします。

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A 回答 (1件)

800年に及ぶレコンキスタの歴史を簡単に記すことは出来ませんのでヒント程度に。


詳しくは図書館等で調べてください。

1.イベリア半島はヨーロッパ大陸の最南端にあり北からの民族移動と南からの植民(フェニキア、ローマ)によって、古くから民族・文化の多様化が進んでいた。
2.711年、西ゴート王国時代に、地中海の対岸(北アフリカ)からベルベル人を主体としたイスラム教徒軍が侵入してきた。当時のイスラム(アラブ)は今日のアメリカのように軍事、政治、科学全般で最先進国であり、西ゴート王国は二年と持たずピレーネ山脈近くまで征服された。一部のキリスト王侯貴族はピレネー山岳地に抵抗拠点を維持した。
3.1492年、アラゴンとカスティリャのカトリック王国がイベリア半島南端に残っていたイスラム教国グラナダを征服し、800年に及んだイスラム支配が終わった。
同年、新興国スペインの援助を受けたコロンブスが新大陸を発見、スペインの時代が始まった。
4.レコンキスタとはピレネー山脈に籠もったキリスト教徒が、少しずつ領土を回復した戦い、国土回復戦或いは運動のことである。イスラムは納税義務と交換に、信仰、風俗、習慣の維持を許したが、回復に800年も要したため、この間、スペイン人の多くは(納税義務を逃れるため)イスラム教徒に改宗していたが、国土回復と共にカトリックに戻った。
5.イスラム支配の影響はスペインに大きな影響を与え、スペイン経由で文化的後進地域だったヨーロッパにも影響を与えた。14-5世紀のスペインにはヨーロッパ各地からの留学生が溢れ、アラブ文化を吸収した。シェークスピアの作品にもアラブ文学の影響(翻案など)が見られる。

アラブ(イスラム)の影響は建築、工藝、土木、音楽、服装、文学、言語など多岐に及んだ。スペイン観光をする日本人が目にするものだけでも、アーチを多様した建築、青色のタイル、旅人や友人を厚遇する習慣、もしスペイン語が分かれば、政治、建築用語や日常の挨拶にアラビア語の影響を見ることが出来る。

このようにレコンキスタを通じ、スペインはイスラム文明の継承者となったといえるでしょう。今日のスペインの魅力はヨーロッパでありながらヨーロッパ的でないものを内包するところにあると思います。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。
迅速なお答えに関わらず
大変残念なことにテストの答えに使いたかったのですが
いかんせん問題を載せるのが遅すぎました。
この答えさえしっていれば・・・
特に5番。
あーとても残念です。

でもこれと同じ疑問を持った人がこれを見て
解決できると良いなと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/01/29 02:30

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Q中世スペインのレコンキスタ運動

中世スペインにおけるレコンキスタ運動の
過程とその歴史的意義について
教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

800年に及ぶレコンキスタの歴史を簡単に記すことは出来ませんのでヒント程度に。
詳しくは図書館等で調べてください。

1.イベリア半島はヨーロッパ大陸の最南端にあり北からの民族移動と南からの植民(フェニキア、ローマ)によって、古くから民族・文化の多様化が進んでいた。
2.711年、西ゴート王国時代に、地中海の対岸(北アフリカ)からベルベル人を主体としたイスラム教徒軍が侵入してきた。当時のイスラム(アラブ)は今日のアメリカのように軍事、政治、科学全般で最先進国であり、西ゴート王国は二年と持たずピレーネ山脈近くまで征服された。一部のキリスト王侯貴族はピレネー山岳地に抵抗拠点を維持した。
3.1492年、アラゴンとカスティリャのカトリック王国がイベリア半島南端に残っていたイスラム教国グラナダを征服し、800年に及んだイスラム支配が終わった。
同年、新興国スペインの援助を受けたコロンブスが新大陸を発見、スペインの時代が始まった。
4.レコンキスタとはピレネー山脈に籠もったキリスト教徒が、少しずつ領土を回復した戦い、国土回復戦或いは運動のことである。イスラムは納税義務と交換に、信仰、風俗、習慣の維持を許したが、回復に800年も要したため、この間、スペイン人の多くは(納税義務を逃れるため)イスラム教徒に改宗していたが、国土回復と共にカトリックに戻った。
5.イスラム支配の影響はスペインに大きな影響を与え、スペイン経由で文化的後進地域だったヨーロッパにも影響を与えた。14-5世紀のスペインにはヨーロッパ各地からの留学生が溢れ、アラブ文化を吸収した。シェークスピアの作品にもアラブ文学の影響(翻案など)が見られる。

アラブ(イスラム)の影響は建築、工藝、土木、音楽、服装、文学、言語など多岐に及んだ。スペイン観光をする日本人が目にするものだけでも、アーチを多様した建築、青色のタイル、旅人や友人を厚遇する習慣、もしスペイン語が分かれば、政治、建築用語や日常の挨拶にアラビア語の影響を見ることが出来る。

このようにレコンキスタを通じ、スペインはイスラム文明の継承者となったといえるでしょう。今日のスペインの魅力はヨーロッパでありながらヨーロッパ的でないものを内包するところにあると思います。

800年に及ぶレコンキスタの歴史を簡単に記すことは出来ませんのでヒント程度に。
詳しくは図書館等で調べてください。

1.イベリア半島はヨーロッパ大陸の最南端にあり北からの民族移動と南からの植民(フェニキア、ローマ)によって、古くから民族・文化の多様化が進んでいた。
2.711年、西ゴート王国時代に、地中海の対岸(北アフリカ)からベルベル人を主体としたイスラム教徒軍が侵入してきた。当時のイスラム(アラブ)は今日のアメリカのように軍事、政治、科学全般で最先進国であり、西ゴート王国...続きを読む

Q欧州における1848年の歴史的意義(その1)

世界史論述の問題集を解いていて気になった点があります。

『東大合格への世界史』山下厚 著の1983年 東京大学の問題に関して、

<1848年(二月革命)の意義>
1830年から 工業化で産業資本家階級(ブルジョアジー)と労働者階級(プロレタリアート)が台頭。
「ブルジョアジー」と「プロレタリアート」は二月革命までは絶対主義への反体制派連合として、

(1).体制派(君主) VS 反体制派(ブルジョアジーとプロレタリアート)

であったのが、ブルジョアジーが政権をとったため保守化して、

(2).体制派(君主、ブルジョアジー) VS 反体制派(プロレタリアート)

となった。ということが書かれてあります。

そこで疑問なのですが、
”1848年の意義”の中での(1)や(2)の構図はフランス辺りの話だけではないのかと思える点。

著書の設問では”ヨーロッパ”での変化が問われています。つまり全ヨーロッパでの動向が(2)だとしてています。

ドイツでは産業市民主導でフランクフルト国民会議が開催されるものの、共産党宣言による社会主義への脅威で産業市民からユンカーに主導権が渡ってしまい萎縮・失敗した事(塾で教わったもの)があろうかと思いますが、特に他の国で同じことが起こったという記述はあまり見かけません。


ちなみに『詳説世界史研究』(旧版1997年ですが)に「二月革命とその意義」の項目があり、その締めくくりに、
(a)労働者が政治世界に登場、社会変革を志向
(b)産業資本家と労働者が政治経済での対立が深刻化
(c)欧州各国に影響を与え、ナショナリズムや自由主義運動を高揚させた
(d)ウィーン体制は完全に崩壊
とあります。

別段(2)の構図は示唆されていません。

また、イタリア・アイルランド・イタリア・オーストリア・ポーランド・ベルギー・ハンガリーで産業革命が起きていたのでしょうか?
・イタリア:サルデーニャの統一運動はオーストリアに敗れて失敗。ローマ共和国はローマ教皇の反動で崩壊
・アイルランド:(詳細不明...イギリスにより鎮圧とは思うものの)
・オーストリア:反動勢力の成功を背景に反撃に転じて鎮圧
・ポーランド:ロシア・プロイセン・オーストリアの3軍により鎮圧
・ベルギー:(詳細不明...一部選挙法改正のみ成功)
・ハンガリー:オーストリーおよびロシアの介入で失敗

他の民族による鎮圧などがほとんどの様です。

1848年以降のヨーロッパでは(2)の構図が取り巻いていたのでしょうか?

世界史論述の問題集を解いていて気になった点があります。

『東大合格への世界史』山下厚 著の1983年 東京大学の問題に関して、

<1848年(二月革命)の意義>
1830年から 工業化で産業資本家階級(ブルジョアジー)と労働者階級(プロレタリアート)が台頭。
「ブルジョアジー」と「プロレタリアート」は二月革命までは絶対主義への反体制派連合として、

(1).体制派(君主) VS 反体制派(ブルジョアジーとプロレタリアート)

であったのが、ブルジョアジーが政権をとったため保守化して、

(2).体制派(君主...続きを読む

Aベストアンサー

 冷戦時代の歴史学は唯物史観が主流でしたので、支配階級と被支配階級の対立を軸にしか歴史を語れない又は無理矢理こじつけていました。それが東大の受験問題にですら影響が出ています。
 91年にソ連が崩壊してマルクス史観(唯物史観)も衰退し始め、実証主義が台頭してきます。それが後者です。

Qなぜレコンキスタが起こったか?

タイトルのとおりなのですが、なぜレコンキスタが起こったのでしょうか?
教えてください。

Aベストアンサー

スペインの国土回復運動(戦争)のことですね。
詳しくは添付URLを見てください。

スペインは西ゴート王国の時代(711年)に地中海を挟んだ対岸モロッコ側からイスラム教徒(アラビア系)に攻め込まれ約二年の戦いの後、国土の9割以上を征服されました。西ゴート王国の貴族たちはイスラム教徒の支配下で暮らしたわけですが、一部の敬虔なキリスト教徒は北のピレネー山脈の麓や山中に逃れて反撃の機会を窺いました。やがてイスラム教徒側に内紛が起こり、キリスト教徒は北からすこしずづ領土を取り返し始めました。これがレコンキスタ(再び征服するという意味)運動です。この戦いは800年近くもかかって1492年に完了しました。この年、新生スペインの王の援助を受けてコロンブスが出航し新大陸に到達しています。
スペインはレコンキスタを完結した年に新大陸に領土を持つという幸運に恵まれたのです。アラブ人がもう少し
頑張っておれば、新大陸のインディアン、特にメキシコのアステカ人やペルーのインカ人は少し違った道を歩んでいたかも知れません。

やがてスペイン人やポルトガル人(レコンキスタの途中で生まれた国)は日本にまで到達しカトリック教の伝道を行いました。彼らが残した言葉が今日まで生きています;カルタ、合羽、襦袢(女性の下着)、金平糖(砂糖で作った星型の菓子)ピンからキリ(という表現)キリスト、バテレン、てんぷら、カステラ、ビー玉(ガラスの玉)など200語(ほとんどは死語)ぐらいあると言われます。

参考URL:http://www.tabiken.com/history/doc/T/T210C100.HTM

スペインの国土回復運動(戦争)のことですね。
詳しくは添付URLを見てください。

スペインは西ゴート王国の時代(711年)に地中海を挟んだ対岸モロッコ側からイスラム教徒(アラビア系)に攻め込まれ約二年の戦いの後、国土の9割以上を征服されました。西ゴート王国の貴族たちはイスラム教徒の支配下で暮らしたわけですが、一部の敬虔なキリスト教徒は北のピレネー山脈の麓や山中に逃れて反撃の機会を窺いました。やがてイスラム教徒側に内紛が起こり、キリスト教徒は北からすこしずづ領土を取り返し始め...続きを読む

Q太閤検地の歴史的意義

僕は今、日本史を勉強しているのですが、戦国時代において、豊臣秀吉のところなのですが、太閤検地というのがありますが、あれは、戦国大名が皆やっていたもので秀吉だけがやったものではないのでしょうか?また太閤検地は、方光寺の建設のためや、農民一揆を抑えるためという理由とありますが、太閤検地の歴史的意義とはどういったところにあるのでしょうか?
抽象的ですみませんが教えてください。

Aベストアンサー

太閤検地は,征服地を確実に掌握して全国を統一する基礎となり,同時に従来の複雑な土地関係を整理して土地制度を一新させ,新しい体制を将来させた。秀吉の全国統一と検地により,領主権は統一されて一円化し,また農民の権利は有力農民の加地子得分権などが没収されて,検地帳に登録された耕作権のみに整理された。つまり太閤検地は1領主・1農民という一元的な領主-農民関係を樹立させ,すっきりした封建体制にしたのである。それは小農自立を促す太閤検地の革新性を示すとともに,石高制の成立と相まって兵農分離の基礎となった。すなわち,太閤検地が把握した石高のうち,作徳分は農民に,残りはすべて領主が収取することを原則としたから,有力農民は作合をとれなくなり武士化・領主化することが難しくなり,兵農分離がおし進められた。また、太閤検地は戦国大名検地とは違い実測検地であった。また太閤検地によって決定され把握された石高は,農民に対しては年貢賦課の基礎となり,大名に対しては知行体系を表すものとして使われ軍役の決定基準となった。

Q今の欧州が二度目のレコンキスタのように見えますが、皆さんはどう思いますか?

今の欧州が二度目のレコンキスタのように見えますが、皆さんはどう思いますか?

Aベストアンサー

国土回復運動=レコンキスタと拡大解釈するならば、国家主義・民族主義的な極右的な回帰現象や政党が出現するのは、そういう現象とも言えなくもないですね。

Q平将門の乱の歴史的意義

平将門の乱の歴史的意義って何なのでしょうか?大学入試にでたんですが、、、、。何を書いたらいいのかわかりませんでした。漠然としすぎていて・・・。

Aベストアンサー

・武士勢力の成長の実証
  平将門の乱、藤原純友の乱で地方の武士勢力の成長が朝廷に伝わり、今までの朝廷の軍事組織では対応できなくなっていることが証明された。
・清和源氏の摂関家への接近
  そのため、源氏や平家という武士勢力の棟梁に官位を与えながら朝廷に取り込んでいった。特に源経基の子孫は摂関家に接近し、後の源頼義、義家といった人物を出した。貴族と接近した武士勢力は貴族や自社が持つ権利などを利用し積極的に荘園経営に乗り出し、自らの経済基盤の確立を行なった。
・朝廷が地方の反乱鎮圧に地方の武士団を使用するようになったことの契機
  また、朝廷はこういった貴族に接近した武士勢力を懐柔しながら自らの勢力拡大、反乱勢力の鎮圧などに利用していった。
・清和源氏と坂東平氏などの坂東の諸勢力の接近
  平将門の乱を契機に源経基の子孫と坂東の武士団との間に接点が生じ、この後、平忠常の乱、前九年の変、後三年の変等により清和源氏の諸勢力が坂東に根付くことになり、鎌倉幕府ができる勢力を形成していくことになる。
・平貞盛の坂東から伊勢への本拠移動の契機
  それに対して、平貞盛を中心とする桓武平氏は平将門の乱、平忠常の乱などを契機にそれまでの本拠を坂東から伊勢に移していくことになり、坂東に残った一族とも繋がりが薄くなっていく。
・藤原秀郷流の武士団繁栄の契機
  また、平将門の乱で勝利に貢献した藤原秀郷の子孫はこの後、坂東、奥州などに広まり、佐野氏、小山氏、結城氏、奥州藤原氏、小田氏、藤姓足利氏といった武士団を形成し、武士の藤原氏といったら秀郷の子孫かと思えるほどの大勢力に成長する。

・武士勢力の成長の実証
  平将門の乱、藤原純友の乱で地方の武士勢力の成長が朝廷に伝わり、今までの朝廷の軍事組織では対応できなくなっていることが証明された。
・清和源氏の摂関家への接近
  そのため、源氏や平家という武士勢力の棟梁に官位を与えながら朝廷に取り込んでいった。特に源経基の子孫は摂関家に接近し、後の源頼義、義家といった人物を出した。貴族と接近した武士勢力は貴族や自社が持つ権利などを利用し積極的に荘園経営に乗り出し、自らの経済基盤の確立を行なった。
・朝廷が地方の...続きを読む

Qレコンキスタが起きた原因って何ですか?

レコンキスタが起きた原因って何ですか?

起きた事によって結果どうなったんですか?教えて下さい。

Aベストアンサー

 レコンキスタの起因を説明すると難しい。

失地回復運動だが、イベリア半島情勢に関しては、失地というのは変かもしれない

カルタゴ時代のイベリア半島は、自然崇拝であってキリスト教が多数ではないし、ローマ帝国領内になってからイベリアはキリスト教少数派が多かったはず
 つまり、レコンキスタは、単なるカソリック派がデッチ上げた領土収奪の大義名分ともいえるでしょう。

まぁ、早い話が、レコンキスタとは、イベリア半島がイスラム教徒に支配されていることを快く思わなかったキリスト教徒が、
「イベリア半島は、キリスト教徒のものだ!」
と言い出したことが由来だったりします。

(少なくとも、言い出したカソリックがイベリア半島の主流ではなかったのですがねw)

結果は、イベリア半島が、スペイン王国・アンゴラ王国によってキリスト教徒系王朝によってほぼ統一されます。
統一されて、イスラム教徒系の王朝がイベリア半島で勢力を失うわけですが、その残滓はイベリア半島に色濃く残ります。

 レコンキスタを象徴する「アルハンブラ宮殿」でも資料で見れば、分かることでしょう

Q【古代・中世】荘園の歴史地図はないでしょうか?

全国の荘園の地図ありませんでしょうか?

「荘園分布図(上・下)竹内 理三1975-6」しかありませんか?

各個の荘園の内部の地図という意味ではありません。
できれば、竹内氏の荘園分布図より詳しいものがいいですが、一応、荘園地図みたいなものであれば、なんでもご紹介ください。

Aベストアンサー

 東京大学出版会刊行の『日本古代荘園絵図』および『大日本古文書-家分け-東南院文書』に掲載されています。
 これらは個別の荘園の状況を記したモノですが、吉川弘文館刊行の『講座 日本荘園史5(東北・関東・東海)・6(北陸・近畿-I)・7(近畿-II)・8(近畿-III)・9(中国)・10(中国・九州)』は地域ごとに個別の荘園の形成から消滅に至る構造と過程を分析しています。
 他にも
・『日本荘園絵図集成』上・下 西岡虎之助編 東京堂出版 1976年

・『日本荘園絵図聚影』本篇 東京大学史料編纂所編纂 東京大学 1988-2002
がありますが、東大史料編纂所のデータベースおよび国立国会図書館にも複製資料があります。
史料編纂所の所蔵史料はデジタルアーカイブ化されているモノもあります。

Qthree game to noneとは?

three games to none とはどういう意味ですか?

野球の話で
This put them ahead in the series three games to none.

または
They won that playoff series three games to one.

文中の
three games to none
three games to one

とはどういう意味でしょうか?

Aベストアンサー

This put them ahead in the series three games to none.

これは3勝0敗で彼らをシリーズで有利に立たせた。

They won that playoff series three games to one.

彼らはそのプレーオフを3勝1敗で制した。

http://eow.alc.co.jp/games+to+none/UTF-8/

http://eow.alc.co.jp/games+to+one/UTF-8/

Q中世の欧米の歴史で質問です。

中世の欧米の歴史で質問です。
(1)封建制や荘園制を支配していたのは、どういう身分の人間なのでしょうか?
(2)都市が出来初めた最初はどういう身分が支配していたのでしょうか?
(3)また、どのように都市が発達し、またそれに伴い封建制や荘園制が崩壊したその具体的過程を
教えてください。

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

まず、質問が間違っていますよ!

欧米とするのは誤りです。
コロンブス以前のアメリカとヨーロッパの歴史を同じ視点で論じることはできませんよ。

というこで中世のヨーロッパです。

1)
・封建制
王が諸侯を支配した制度。
諸侯とはまあ、貴族ですね。
王が諸侯の土地の領有を認めるかわりに臣下の契約を結んだ。
王は諸侯の土地を守るかわりに税や兵力の提供を受けた。
また、諸侯は同じように自分の領地で騎士と臣下の契約を結んだ。

・荘園制
諸侯が支配した土地
農奴と呼ばれる農民を支配した。
農奴は労働と生産物、金銭を徴収された。
その他、花嫁の処女も領主に捧げなければならなかった。
(モーツアルトで有名な『フィガロの結婚』はこの花嫁の処女の話です)
教会も荘園の中にあった。
教会も別に農奴から税を徴収した。

2)
都市はイタリアとドイツで興った。
これは、両地域が神聖ローマ帝国に属していたからです。
英仏のように封建制から王の権力の強化という移行が神聖ローマ帝国では行われなかった。
これは、ヨーロッパを統一したカール大帝のあとを継ぐもの、つまり皇帝という称号を与えられたがためにカール大帝の夢を追いかけて足元を地道に固めることができなかった。
実力と名前がかけ離れていたのです。
したがって神聖ローマ帝国では国内はばらばらであった。
そこで興ったのが都市国家です。
イタリアと北ドイツ、つまり海運による貿易で発展した都市は資金が豊富にあった。
当然、諸侯はこれを支配下に置きたい。
しかし、商人たちは自由に商売をしたい。
それで神聖ローマ帝国皇帝に自治を求め、認められた。
諸侯の干渉を防ぐために都市は自ら軍事力を持つに至った。
これが都市国家です。
支配者は名目上、神聖ローマ帝国皇帝ですが、実質は有力商人です。

3)
この点については、今までで明らかなように、英仏と独伊で全く違う様相ということになりますよね。
都市は発達して都市国家となりましたが、諸侯が盛り返してやがて諸侯の国家に組み込まれて行きます。
詳しくはわかりませんが、商人よりも農民を抑えていた方が強かったということではないでしょうか。
やはり、ぜいたく品は我慢できても食べ物は我慢できませんから。
したがって都市によって、封建制も荘園制も崩壊しなかったといのが正しいのではないでしょうか。
銀行家あがりのメディチ家だって結局トスカーナ公国の君主となったわけですから。

すいません、3)は信用しないでください。

まず、質問が間違っていますよ!

欧米とするのは誤りです。
コロンブス以前のアメリカとヨーロッパの歴史を同じ視点で論じることはできませんよ。

というこで中世のヨーロッパです。

1)
・封建制
王が諸侯を支配した制度。
諸侯とはまあ、貴族ですね。
王が諸侯の土地の領有を認めるかわりに臣下の契約を結んだ。
王は諸侯の土地を守るかわりに税や兵力の提供を受けた。
また、諸侯は同じように自分の領地で騎士と臣下の契約を結んだ。

・荘園制
諸侯が支配した土地
農奴と呼ばれる農民を支配した。
農奴は...続きを読む


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