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江戸時代の身分制度の士農工商について質問いたします。この身分制度によって、実際にどうゆう優遇措置
あるいは特権が発生していたのでしょうか。武士はともかく例えば、
農民はその下の職人、商人よりもどのような面で特権があったのか、など何でもけっこうです。

A 回答 (6件)

先の回答にあるように「士農工商」とは儒学の概念であって、日本の江戸時代の制度とは直接の関係ありません。


儒教・儒学で云うところの「士」とは武士の事ではなく、科挙に合格した士大夫を指していいます。
ただし、徳川家康は林羅山といった儒者を重用し儒教を奨励したので、間接的には「士農工商」(を含む思想)を推奨したと言うことも出来ます。
とは言え、制度的には士農工商という身分制度はありませんでした。
むしろ特権階級と認識されていたのは武士、公家であって、これにせいぜい名刹の僧侶も一種の特権階級と思われていたくらいでした。
その他の大勢の庶民の間には身分的な階層は特に存在していませんでした。
例外として、といった被差別階級、そしてサンカといった身分の枠に捉われない道々の者がいましたが、彼らが「士農工商」に含まれるという解釈は聞いた事がありません。
農工商という庶民の間では身分というよりは貧富や職能で周囲の評価が決まる場合が殆どです。
腕の良い職人が腕の劣った職人より尊敬されるのは当然ですし、長者と言われるような金持ちが憧憬を集めるのは現代と同じです。
また支配者層である武士にしたって必ずしも敬われるとは限りません。
無粋な田舎侍が「浅葱裏」と蔑まれたりしますし、長屋住まいの浪人や貧乏御家人が庶民とざっくばらんな付き合いをしていた様子が、当時の錦絵や日記、随筆そして落語の題目からも伺えます。
それでも武士は面目を保ち庶民からの尊敬を勝ち得ようと「武士は食わねど高楊枝」とばかりにやせ我慢の見栄をはったりしたものでした。
実は、江戸幕府の基本的な再策に「権力と財力を両立させない」というものがありまして、財力のある外様大名には決して中央の参政権を与えませんでしたし、老中などの大役にあたる人物にも特に加増とかはしませんでした。
そういった風潮もあって、実は庶民より貧乏な武士というのが沢山いました。
支配者層が被支配者より貧しいというのは世界的にも珍しいのではないでしょうか?

それが何故「江戸時代は士農工商の身分制度」と云われるようになったかと言いますと
その原因は幕末と明治維新にあるのです。
俗に言う「維新の志士」「尊王の志士」というものの多くは下級武士、貧乏武士の出身でした。
そして彼らの多くは儒教を学んでいたのです。
その維新の志士たちが政権を手に入れたとき自分たちの政府を正当化するために、江戸時代は「士農工商」の身分社会であり明治政府は「四民平等」の開明的自由社会だと喧伝したのです。
つまり、「下級武士が身分社会を打破った明治維新は、一種の人民革命であり、欧米の先進諸国の仲間入りをするに相応しい偉業である」と言うための理論武装でもあるのです。

そういった政治的都合で江戸時代の素晴しかった点のいくつかは歪曲されて現在に伝わっています。
中国や韓国が言うのとはまったく別の次元で日本の歴史教科書は歪曲されてたりするんですね(苦笑)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。大変勉強になりました

お礼日時:2006/03/30 19:35

「士農工商」というのは身分制度というより職能による区別と考えてください。



士は武器の携行を許され、扶持という給与を得て生活でき、税金を納める代わりに必要な場合命を差し出す階級です。 もっとも税金を納めないといっても、借り上げといって減封されたり遅配はありますが・・
また扶持を失い浪人となっても武器の携行は認められ、学問や武芸で生活する事ができました。
また逮捕されても揚がりやという特別待遇の牢にいれられました。

「農」は農本時代で年貢という税金を負担する階層ですが優遇はされず、唯一特権といえば土地に縛り付けられ旅行もママならぬ位でしょうか・・・

「工」は農業以外の生産を担当する職能に従事する階層で定まった納税の義務はなかったのですが、組合費
や職業別の特別税などが課せられるようになりました。  技能に優れた人はそれなりに特権を持てました。

「商」は商業に従事する人全般で本来課税される事はなく簡単に財をなす事が出来ましたが、その財力に眼をつけられ、冥加金という臨時税を課せられるか、道路、橋、新田開発などのインフラ整備に私財を供出させられました。
また同業組合を結成する場合組合費を負担したり免許税を納めて独占権を許されるなどの優遇を受け、町内の行事、祭りの共催など公的負担も多かったといいます。
また大名貸しを行い、名字帯刀を許され、商権上の優先権を与えられるなどの反対給付もありました。
天下りこそありませんが、当時から癒着の例はありました。
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございました

お礼日時:2006/03/30 19:35

士農工商(しのうこうしょう)とは、


★江戸時代の儒学者の身分思想を表す言葉です。
★それを明治時代から昭和時代にかけて、【江戸時代の身分制度の特徴を一言で捉えた言葉】として重要視されたのです。

★もともと、「士農工商」とは中国で生まれた民の分類法で、春秋戦国時代、諸子百家の『管子』の「士農工商四民、国の礎」などが見られるます。「士」とは支配階層であり、「他の三民」は被支配階層のことです。

★『荀子』や『春秋穀梁伝』のように「士商工農」とするものもありましたが、中国では伝統的に土地に基づかず利の集中をはかる商工よりも、穀物を生み出す土地や農耕を重視し、経済よりも政治を優先させる姿勢をとってきていたのです。
そこには、商人や職人に自由に利潤追求を許せば、その経済力によって支配階級が脅かされるのではないか、農民が重労働である農業を嫌って商工に転身する事による耕地の荒廃、ひいては穀物の生産が減少することによる飢饉が発生を招くのではないのか、さらには会秩序を崩壊させる事を恐れたのではないのかなどが考えられます。

★それを理論化したのが、孔子の儒教でした。特に儒教の中でも江戸幕府が「官学」と定める事となった朱子学においては、
○【利益の追求は欲望を生み出して人間を堕落した方向に向かわせるもの】と考えられ、
○商工業に携わること自体が本来人間があるべき姿に反する行為として捉えられていたのです。

★江戸時代の日本で士は武士と解された。士は武士、農は農民、工は職人、商は商人を意味し、農業を国の基とし、商人を否定的に見たということです。

以上の事から、実際に身分制度としての上下関係があったのではなく、観念的な身分であり、農業の発展こそ国の力の源泉として捉えた、国策的な人心操作だったと考えられます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2006/03/30 19:34

「士農工商」という制度は実際にはありませんでした。

これは儒学者の理念のような言葉です。儒教では商売を賎業とする考え方がありますので、そういう並びになったのでしょう。

「武士、町人、百姓」が江戸時代の身分区別だったようです。これは支配者としての武士の下に、都市民(町人)と農村民(百姓)が被支配者層として並列で存在する、というイメージだと思います。
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この回答へのお礼

明快な回答ありがとうございました

お礼日時:2006/03/30 19:33

基本的に「武士は一番えらいとして, その他の中では実際に農作業に従事する人をえらいことにしておこう, で商人はやっぱり下にしておきたいね」って感じで並んでるようです.


と思ったら wikipedia にはいろいろ書いてあるなぁ.
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2006/03/30 19:32

私が高校の頃の話なので随分と古い話ですが、私も先生に似たような質問をしたことがあります。


そのときの先生の回答は、確か「農民には何の特権もなかった」だったと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/03/30 19:31

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