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息子が、歴史で「田沼意次」のレポートを書くようにいわれているようですが(GWの宿題)、文献によって「賄賂をとって私腹を肥やし幕府の幕藩政治を崩壊させかけた悪臣」という評価から「先見の明を持った改革者」と様々な書かれ方がされており統一性が無くこまってます。
 実際の所はどうなのでしょうか?

A 回答 (7件)

 私も参考までに。



 「実際のところ」という「評価」というのは、存在し得ないんではないでしょうか?
 現に今実際に見ることができる生きている政治家ですら、「実際のところどんな評価をすべき人物なのか?」という点では、見解の相違がありすぎるでしょう。

 まして、実際に見ることすらかなわぬ過去の為政者となると、後世の様々な評価が羅列されるだけで、「実際のところ」は、闇の中です。

 ただ、個人的には、評価されるべき人物だとは思っています。
 したがって、レポートとしては、「なぜ、彼が、良くも悪くも評価されうる人物であると言えるのか?」という点でのアプローチはいかがかと愚考します。

 田沼意次の場合は、正確に言えば、「評価に統一性が無い」というよりも、「評価が両極端」というタイプの人間です。
 それは、とりもなおさず、彼が行った政策のベクトルを「建設的にとらえる」か「否定的のとらえるか」という、歴史家の主観が介在しやすい存在だったと言うことを意味します。

 大概の場合ですが、(良い意味でも悪い意味でも)「天才的な人」というのは、周囲の評価の落差が激しいものです。

 一例になりますが、田沼時代というのは、典型的な「貨幣経済優先政策」です。
 これは、貨幣ではなく米の石高を経済の基本とする封建制度の下では、一種の反逆行為に近いものともいえるでしょう。
 給料を「米」で支給されている武士階級以上の人間にとっては、貨幣経済の発達によって必然的に発生するインフレーションは、耐え難い苦痛であったに違いありませんし、「大権現様の教えが全て」という時代背景にあっては、許されざるべき背徳行為に間違いありません。

 しかし、経済理論からいえば、農本主義から資本主義を経て近代社会へつながるのが、まぁ、正常な社会の進化の道筋です。
 そのような「未来人からの視点」からいえば、彼は「早く生まれすぎた才人」だというのも、また間違いないでしょう。
 つまり、「幕藩政治の根本を破壊すること」を「悪」だと決めてしまって良いのか? というところは、重要なポイントです。

 また、田沼時代というのは、商家など一般民衆(特に町人)にとっては、自由を満喫出来た極めて文化的な時代であったと言えます。
 いわゆる「江戸の改革期」のように、質素倹約を強制されて、思想統制をがちがちに行われ、修正主義的な歴史観を強要されるような時代を「楽しい時代」と呼べるかどうかという点は、町人的な視点でいえば、かなり疑問があります。

 現在の国家に例えてみれば、「金日成元主席の教えを絶対とする思想統制をがちがちに行い、これに反するものは強制収容所送りであり、現行の独裁体制を維持する努力を怠らないものが社会的に賛美され、国民的な模範的な髪型まで国家が指導する、美しい理想的な朝鮮人的国家」に対して、これを内部から壊そうとする姿勢というのは、「悪臣」なんでしょうかね? それとも、「改革者」なんですかね?

 歴史というのはその点残酷でして、「成功すれば改革の英雄」、「失敗すれば逆賊の悪臣」ということになるのが、相場です。
 ですから、歴史家として最も恐れるべきことは、個人の思想によって評価を固定してしまうことの方でしょう。
 相対的な評価が出来ることは、歴史を学ぶ上でも、レポートをまとめる上でも、良いことだと思いますよ。
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 まず、封建制社会としては珍しく、すごく出世した人物として、柳沢吉保、間部詮房らと並び称されます。

この点の評価が欲しいですね。父の代に御家人から旗本になったらしいのですが、父の跡を継いだ時には600石に過ぎませんでした。吉宗の息子家重の小姓となり、しだいに出世し、最終的には10回の加増により5万7千石の大名になりました。

 政治家というものは、「良い人」が「良い政治家」とは限りませんね。例えば、「村山富市」という人は「良い人」だったかもしれませんが、実績を残しましたが?それよりも、「田中角栄」(現代の田沼意次的人物ですね。私は嫌いですが…)の方が評価されていますね。

 他の人の回答にもありますが、この世は0と1ではありません。コンピュータと異なり、人間世界はその間に位置します。人は、良い所と悪い所があるのです。少なくとも、「デジタル的」評価(現代人の悪い癖です)をせず、功罪を並べて書くことをお勧めします。
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いろいろ調べた結果、


『評価が分かれる』とまとめればよいのではないのでしょうか?
歴史の解釈自体いろいろありますし、結論を『ひとつ』にまとめる必要もないと思います。
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田沼さまの地元ですが、こちらでは名君です。



現実主義で、必要なことはお金をかけました。
人を動かすにもお金をつかいました。
私服をこやしたかどうかは人それぞれの研究結果だとは思いますが、
庶民にお金を使わせるために賄賂をもらったこともあったみたいです。

まともにとりあっては幕府は動いてくれなかったので、賄賂を出して「田沼さま」となったのでしょう。吉宗公の質素倹約路線を反面教師にしたみたいですね。家重公時代が花でした。幕府の体制では悪人にされて当然の事だったようです。

幕府のため、忠義のため、資金を負担して働け、では、質素倹約以前の問題で、人の心は離れていってしまいます。働いたならご褒美がほしい、ねぎらってほしい、認めてほしい、という庶民の心は鋭く感じ取ってくれたお人だったと地元ではいわれています。

いまでも「田沼街道」は存在しますし、地元銘菓で「賄賂まんじゅう」があります。もちろん山吹色です。

専門的な事でなくて申し訳ないのですが、地元民の意見、ということでご容赦ください。
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私は先見の明がある改革者と思いますが、失脚後に老中になった松平定信が前政権を否定したため、悪く言われていますね。


これは8代将軍徳川吉宗と尾張藩主徳川宗春との比較でもいえますが、幕府と言うものは今で言う農協のようなもので、重農政策を取ります。
農民の利権を守り、商人を低く見る。
商人と言うものは、右のものを左に流すだけで利ざやを稼ぐ商売ですから、何も生み出さない、武士からすると軽蔑すべき存在でした。
武士は質実剛健であるべきで、質素な暮らしをすればよいというのが、吉宗や定信の考えです。
それに対して、実際に世の中を動かしているのは商人だから、政策も商業を重視すべきと言うのが田沼政治で、身分に捉われずに人材を登用し、貿易を盛んにして、商業を保護します。
ただ無頓着な部分もあって、彼自身は私腹という考えはなかったのですが、商人の誠意はお金ですから、賄賂が横行するようになり、重商主義により相対的に農民が割を食い、天災などで失脚してしまいます。
比較に出した徳川宗春も今で言う、積極的な公共投資に依る噴水効果、つまり政府がお金を使えば産業が盛んになり、お金が下までいきわたって豊かになるという考えでしたが、バブル経済になり、破綻しました。
吉宗・定信の政策は金融引き締めによるデフレで、これは藩主クラスがやる分にはよいのですが、国政を預かるものがやれば、産業の衰退を招きかねません。
経済政策は振り子のようなもので、振幅を出来るだけ抑えて行くのが名政治家ですが、田沼はやりすぎというか、不運だったと言うことでしょう。
また、長くやればどこかに矛盾が出てきますから、仕方ない面はあります。
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>実際の所はどうなのでしょうか?



そこをテーマにしたら面白いと思いますが。
逆に、こういう評価とこういう評価がある人だというレポートの方が面白いですよ。
人の評価って見る側面で変わることが有りますから。
あとは、調べた結果を素直に書き、自分の意見を入れればいいのでは?
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それは自分で調べてください。


ただ、従来は賄賂政治家という見方が強かったのですが、そういう評価をしている史料は政敵である松平定信とその関係者の書いたものが主ということで、田沼意次の評価も見直されているのは確かです。
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