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ず~っと気になっていました。タイトル通りです。人なら「参る」というのは分かるんですが。

A 回答 (9件)

「寒くなってまいりました」「私が父を案内いたします」


これらは補語を高めない謙譲語の例です。丁寧な言葉遣いにより話している相手を高めるということですね。このあたりが丁重語というものです。よって、謙譲語が人に限らなければならないというのは勘違いです。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1881976
古典文学にも現れるれっきとした日本語です。


※これ以上は議論になりそうです...
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この回答へのお礼

再度のご回答、ありがとうございます。

結局は、謙譲語でも丁寧語でもある、という日本語にありがちなパターンなのかぁ。うーん、残念。

お礼日時:2006/07/03 10:42

人が運転してるからいいんじゃないですかね?



物の中でも、そう言った謙譲表現が使われるのって
乗り物ですし、
乗り物はたいてい人が運転してるじゃないですか。
私の思いつく限り、
乗り物以外の物体で謙譲語使う例って
思い浮かばないですし。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

でもですね「電車が入線します」、「電車が到着します」と言っていた記憶があるんですが、なぜだか今はほとんど「参ります」ですよね。

いったいいつからなんだろう。何かありそうな、なっそうな…

お礼日時:2006/07/03 10:40

 「電車が参ります」


 私は違和感を感じません。「参る」は自分側のものなら人に限らず使えると思ってましたが……。しかしよく考えると、「お送りした小包は今日参りますので」とは普通言いませんね。確かに不思議です。

 では人以外の動物などならどうか?
 例えば「今うちのワンちゃんが参りますから」「象が参りますのでお気をつけください」
 使用する場面があるかはともかく、私にとっては「アリ」な気がします。

 で、充分な検証をしていないので単なる仮説ですが、「参る」の主語に、人だけでなく動物、あるいはそれに準じた物も立てる用法がある、という考え方はどうでしょうか。「動物に準じた物」の範囲がいまだ曖昧ですが、私が貧困な発想で考えた限りにおいては、単に「動く物・移り変わる物」とほぼ一致しています(乗り物、ロボット、季節、天候、日時など)。
 そして、この用法を正しい日本語として認めるか否か、というのがここでの問題なのだと思います。

 言語学は専門外なので少々不確かですが、言語は一般的に経済化の方向に向かうとされているようです。例えば古典文法と現代文法を比較した場合、動詞活用の種類・助動詞の数などは大幅に減り、一方で各単語の意味・用法などは拡張される傾向にあります。例を挙げれば、本来助詞であった「より」の副詞用法、肯定表現に付く「とても」、「です」を形容詞終止形に付ける用法など、いくらでもあります。今回の話も、その流れの一つなのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「参る」を謙譲語とするなら「参る」の主体は人であるべきと考えています。なぜなら「へりくだる」のが物(間接的に人を指す場合はあるかもしれない)ではおかしいと思うからです。その意味で「参る」は丁寧語でもあるというのは文法的には理解はできますが、納得はできません。

もし「参る」が丁寧語でもあるとするなら、何度も言っていますが、敬語表現における尊敬、謙譲後、丁寧語という立派な体系が崩れるのではないか、将来、これらがごっちゃになってしまい、体系を失い、単に敬語表現というだけになってしまうのではないか、と危惧しているのです。

お礼日時:2006/07/01 17:14

「(私どもがサービスを提供しております)電車が(もうじきお待ちのホームに)参ります」という謙譲表現ではないでしょうか。

「担当者がすぐに参ります」「お車が参りました」と同じだと思います。

丁寧語か謙譲語かというやり取りの部分はよく理解できないのですが、謙譲表現として機能しています。

主語が人でなくても自然な表現だと感じます。平身低頭しなくても、参上するという意味合いは共通でしょう。

偉い人を迎えるための「お車が参りました」は私にとって自然だと感じますが、ご質問者の言語感覚では駄目でしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

そういえば電車も少し(?)前まで「電車が到着します」といっていたようなかすかな記憶があるようなないような。

もう少し引っ張ってみようかと思います。だんだん私の気持ちが整理されてきたような気がするので。

某有名ブログでは「ゆで卵」は正しくなくて正確には「煮卵」なのではないか、という主張がされています。料理用語に敬語表現ほどちゃんとした体系があるのかどうかは知りませんが、これに関しては私は言語の「ぶれ」の範疇に思え、違和感はありません。

先ほどの補足で言いたかったのは、尊敬、謙譲、丁寧というように日本語の敬語表現はちゃんと体系化されているのに、「電車が参る」がそれをぶち壊しているような気がしてならないのです。

お礼日時:2006/06/30 23:37

#1です。



>「参る」というのは謙譲語で、謙譲語だったら主語は人でなければおかしいと考えていたのですが、これってどこが間違いなのでしょう?

電車でも春でも便りでも期日でも、人ならざるものが大昔から主語になってきたという事実の集積をたった一人で否定なさろうというのは心得違いもはなはだしいと申すほかありません。

古人も言うごとく、理屈と膏薬はどこにでも付きます。事実はたった一つでも理屈をひっくり返すことが多々あります。

逆に言えば、理屈が幅を利かすのは多くの事実を摂取し説明するがゆえです。よくこのカテゴリで「ご連絡いたします」や「のちほどお電話いたします」の「ご連絡」や「お電話」は間違いじゃないか、という質問が飽きもせず多発します(いったい日本はどうなってるんだろう?)。

連絡するのは自分だから、「ご」や「お」をつけたらいかんだろうという鼻先思案を繰り返し蒔き返し寄せてくるわけで、まっこと閉口です。問題は自分の動作じゃない、よしんば無生物の作用であろうとも、とにかくそれが相手へ及ぶという事実を日本語なる判断主体は見落とさないだけなんですけどね。

さよう、これはご質問の「参る」と同様に動作などが目指す対象に敬意を表すための言い方です。日本語の敬語というのは、論理的に、こう出来ているのです。こういうことを大切にしているのです。

辞書を作る人たちもあなたが思うほど愚かではない。単に過去の用例に拠るばかりで断案しているはずもありません。

この回答への補足

あまりこういう議論はしたくなかったので軽いノリでかいたんですが、逆効果だったかな。

日本語の敬語として尊敬語や謙譲語、あるいは丁寧な表現ってのがあるってことは、過去に若干勉強したこともあり、理解しているつもりです。ご指摘の「ご」や「お」に関しても全く不自然とは思いません。特に謙譲語は日本語のユニークな特徴だとさえ思っています。

だからこそ謙譲語でありかつ丁寧語というのが許せない。これこそが敬語をややこしくしている元凶なのではないか、そもそもは誤用なのではないか、と思う次第なのです。まあ日本語ってのはそういう曖昧な言語だと言ってしまえばそれまでなのですが。

出来る事なら、辞書にあるから、過去に用法があるとか、皆が使っているから、というのではない「理論」のようなものをもしご存知であれば、教えていただければと思います。

補足日時:2006/06/30 15:53
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本当は、電車が来ます、或いは到着しますでしょ。


間違って永く使っていれば、まっ!いいか、しょうがないなーと使っているのが現状です。辞書に載っているから正しいのでは無く、載せざるを得ないのです。
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この回答へのお礼

おお、同志(失礼)!!

ですよね、ですよね。感謝。

お礼日時:2006/06/30 13:16

電車を低めることによりお客様を相対的に高めるという謙譲語ですからいいのです。


ちなみに「参る」には「来る」及び「行く」の二つの意味がありますんで出発にも到着にも使えます。
京王線新宿駅では発車も到着もどちらも
「電車が参ります」
のアナウンスですよ。
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この回答へのお礼

うーんやっぱり謙譲語だから、という説明は無理がありますよね。

駅でアナウンスされるからいつも気になってしまいます。

ありがとうございました。

お礼日時:2006/06/30 12:55

「参る」は「謙譲語」であると同時に「丁重語」であるからです。



http://library.tuins.ac.jp/kiyou/2003jinbun-PDF/ …

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=975045

この回答への補足

そうそうお礼を書いていたらすこし私のもやもやが何なのか少しハッキリしてきました。という訳で変則的な補足を。

「過去の用法があったから、現代でもそれは正しい」という論法がある訳ですが、もし過去に、「間違った」とされるような使い方を多くの人がした結果、そういう用法が結果的に生まれた、という可能性だってある訳ですよね?もちろん文法は普遍的ではないという信念があってのことですが。だとしたら、今の「間違った」用法だって未来に正しいという解釈になってもおかしくない、ということにはなりませんか?

そういう意味で、日本語の正しさを示すのに過去を云々するのはおかしいと思うのです。

補足日時:2006/06/30 13:06
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この回答へのお礼

URL とても参考になりました。ありがとうございます。

なるほど、丁寧語でもある、という訳ですか。辞書を引いたら「春らしくなって参りました」という用法が載っていたので、ありゃ、と思っていたところです。

でも、なんか釈然としないなぁ。過去に用法があったという根拠は、裁判の判例みたいで、それを拠り所にしてしまうのもどうかなーと疑問に思ったり。PDF の方は、私は門外漢なので、背景とか全く分かっていないのですが、見方を替えれば、そうではないと言っている人たちもいるように思えたり。

お礼日時:2006/06/30 13:02

正しい日本語です。

どんな辞書にも書いてありますよ。
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この回答へのお礼

あれ、本当だ。うーん、理解不能。

「参る」というのは謙譲語で、謙譲語だったら主語は人でなければおかしいと考えていたのですが、これってどこが間違いなのでしょう?

お礼日時:2006/06/29 23:51

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