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江戸時代に養生方(健康術)で、色と食を慎めという思想があったのですが、この背景にはどういう根拠があったのでしょうか。

自分なりに想像したのは、予防法的思想で

江戸時代の衛生状態は今よりかなり悪い。食中りをしないようにするには、不必要な食物摂取は慎むほうがよい。また性感染症なども今は梅毒などは治るが、不治の病だった。それゆえ、性に奔放になるのは自殺行為である。

というような理由だと思いました。

また儒教的?に節制が美徳とされているという精神論を重視するからかとも思いました。

実際上はどうなのでしょうか。

また、現在もこの「慎み」健康法は有効なものなのでしょうか。特に「性」のほうは、かなり避妊衛生予防なども手軽にできるようになったので、もし、はじめの理由であったならば、現在はあまり有効な教えではないような気がします。

A 回答 (2件)

貝原益軒『養生訓』にある発想かと思われます。



http://home.att.ne.jp/theta/mo/you/

内邪と外邪を避けるとの発想は、どことなく神道っぽいですが、宗教的な思想性は感じられません。

なお、養生訓を迷信の原因として批判する本では、石垣順次『常識のウソ』が有名で、「接してもらさず」も、食べ合わせなどと同様、医学的には根拠がないとされていたように記憶しています。

もちろん節制という発想自体は、健康に悪いものではないと考えます。
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この回答へのお礼

ほんとに神道ですよね。しかし、それとは関係ないとのこと。
貝原の話にそれが出てきたので、疑問に思いました。

ただ、現代でも根本的に「惜しむ」というのは思想的に価値はあると思います。

お礼日時:2006/07/30 10:56

儒教じゃなくて


それは”道教”思想でしょうね。

道教に詳しくはありませんが、
美徳とか精神論ではなくて、
長生きの秘訣に
精子を出さないことと、
五穀を食べないことがあるからでしょう。
道教は食にうるさく
食べないで健康になるという思想があります。

また性病については
細菌学も何もわかってなかったので
日本に限らず
江戸時代ぐらいではほとんど理解されてませんでした。
道教では性行為はいいけれど
射精に至ると体内から気が抜けるので寿命が縮まるとされます。
有名な話、道士の修行に射精しない訓練ってのもあるからね。

あなたの疑問は道教とはどういうものかを
研究すれば解消するでしょう。

江戸時代の養生法なんてのは、たいがい古い思想の
焼き直しで、合理性なんてのはあまりないのが関の山です。
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この回答へのお礼

惜しむことを薦めるっていうのは現代社会では市民権を得ていないだけに、異様な感じさえ受けますが、採るべき所もある思想なのでしょう。道教というのはまったく知りません。

しかし、触れてもらさずのほうはまったく持って怪しいです。

問題は科学的なわけではないということですね。

お礼日時:2006/07/30 10:54

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・・・と、いう意味でしょう。

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昨年でしたか、大相撲の朝青龍が、手刀を切り、懸賞金を左手で受け取り、大ひんしゅくをかいました。相撲というのも、神の御前でする神事ですが、形から入り、心が入り、そして、そこに美と調和が生まれるわけです。これを「様式美」と言い、ただ、勝てばそれで良いというわけではない、という端的な例を表しています。

神社では、鳥居の前で脱帽し、礼をし、二礼二拍手一礼のマナーというものがあります。また、手水舎(てみずや)で片方ずつ手を清め、口をすすぐというのは常識ですが、直接、ヒシャクに口をつけてはいけません。今は、常識が常識でなくなってきているようです。確かに、出雲大社などでは違う作法があるところもありますが、それは注意書きが入っていたはずですし、こういう作法は、混沌としているということでもありません。明治以降、二礼二拍手一礼(二拝二拍手一拝)を一般としてしてきているわけですから、それに従えば済むことです。知らなければ、覚えれば済む話です。この作法は、明治時代に作られた「神社祭式」を根拠としています。

また、女性は、柏手(かしわで)を鳴らさないというのは、占い師の細木数子氏が言ったそうです。しかし、女性は鳴らさないというようなことはありません。柏手は、神様を呼び出すという意味を持っているのですから、死者の前(葬式やお墓)では鳴らさない時(しのび手)があるという常識さえ知っていればよいことです。また、お寺では、二礼二拍手一礼はしないということも心がけてほしいものです。

それが、いつの時代に作られたものであれ、統一されたものなら、それに従わないということはありません。マナーのひとつとして、ぜひ、守って欲しいものです。それを守らなかったら、どうにかなるということではありません。日本的な表現ですが、「美しくない」ということです。

それから、祝詞というのは、簡単にいうと、「かむながら」という言葉がある通り、「神の御心のままで」という意味ですから、もともとは、「神の言葉として上から下に申し伝える言葉」だったわけです。唱え詞(となえことば)で一般的に知られているものは、

「祓い給へ 清め給へ 守り給へ、幸(さきは)え給へ」
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なお、浄土真宗の話に触れておきます。
日本の宗教の中で、戦前戦後、妥協を許さなかった宗教であり、西洋哲学でいうなら、日蓮宗が日本型の強者の理屈を持つ宗教なら、(浄土)真宗は、それに対抗する弱者の宗教です。

浄土真宗は、現代まで靖国神社を反対している唯一の仏教団体です。ここでは、日蓮系の新宗教団体は除きます。明治政府は、事実上、仏教と神道を分離しました。祝詞を唱えると願いが叶うという発想は、空海の真言密教を起源とする両部神道であるかもしれませんが、仏教色が残るものとして、これ自体も廃仏毀釈運動によって排斥されました。

浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と唱えることは、日蓮宗のように題目を唱え利益(りやく)が得られるというような意味合いを持ちません。念仏は念仏を唱えること自体に意味を持ちません。それは、信仰そのものの現れだと考えています。

真宗大谷派大阪教区『銀杏通信』靖国神社に対する考え方。
http://www.icho.gr.jp/faq/q_a_042.htm

明治の初期、森有礼の建白書や浄土真宗の島地黙雷僧侶が、明治政府に信仰の自由を訴えましたが、逆に神道側は、その体制を整えることになりました。

明治憲法が発布されたとき(明治23年)に、神道とは国家神道として、別格な地位を得て、「国民の道徳」としました。断じて、浄土真宗が、神道に影響されたり、政府に擦り寄り、神道に影響を与えたなどということはありません。

また、見えない霊自体を肯定するかどうかは別としても、霊体が危害を加えようとするという、オカルティズムは、私たちの一般社会には馴染まない考えだと思います。

参考:国家神道

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93#cite_note-6

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