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今夜合気道の稽古に行きました。
寒かったです。

すると、稽古の後にある人がこう言いました。
「昔の人はどうやって寒い冬を過ごしたんだろうね」

私「ダウンとかないですよね。藁をかぶって寝てたんでしょうか」
「じゃあ戦のときはどうやって寝たんだろう」
私「うーん。野宿は無理でしょ」
「でも農繁期には戦はしないだろ」
私「いや、秀吉のころには兵農分離していたし、やったのでは?
昼間は広いところで戦っても、夜は農民の家や納屋で寝たのでは?」

「そんなに都合よく寝るところが見つかるかな。テント張ったのでは?」
私「無理です。大将は天幕張ったかもしれないけど、雑兵は無理でしょ」

「寒いけど我慢したのかな」
「我慢できるとは思えません。寒すぎますって」

すると別の人が言いました。
「江戸時代とか、かけ布団はなかったらしいよ」
私「そりゃ死にますよ。服を何枚も重ねたのですかね」

さて、実際の農民や戦場の武士はどうやって寒さをしのいで
寝ていたのでしょう?

A 回答 (9件)

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります


江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんでした。
都市部では、火鉢と炬燵(行火)がごく普通の暖房設備でした。
火鉢や炬燵のある部屋に家族全員が集まって寒さをしのぐというのがごく普通の習慣でした。
部屋ごとに部屋全体を暖房するというのは、高度成長期以降の習慣です。

炬燵や行火が使われるようになったのは室町時代以降とされています。
火鉢は奈良時代から使われていました。
火鉢に使われる木炭は縄文時代からありました。
つまり、奈良時代から昭和30年代までの都市部の暖房というのは、主役は火鉢でした。
信長が秀吉の才能を注視するようになった切っ掛けは、城中で使われる炭を大幅に節減したことだったと言われています。
江戸時代の江戸の街の様子を描いた江戸名所図絵という書籍がありますが。
その中に、部屋の障子を全て開け放って、皆で庭に積もった雪を眺めている絵があります。
部屋の真ん中に火鉢が一つ置いてあるだけです。
江戸時代は現在よりも寒冷で、江戸でもよく雪が積もりました。(小氷河期と言われています)
あちらこちらで雪見という行事をやっていました。

台所などの炊事場には七論と呼ばれる煮炊き用の移動式の炉があって夏でも火が入っていました。
湯沸かし器がありませんでしたから、常時お茶用などのお湯を沸かしていました。
この移動式というか携帯形の炉は平安時代から置き炉と呼ばれて使われていました。
日中は必ず火が入っていましたので、暖房の役目も結果的には担っていました。

農漁村地帯では囲炉裏が唯一最大の暖房設備でした。
囲炉裏の周りに集まって寒さをしのいでいました。
現在、村興しなどで古民家を使って囲炉裏端での食事を提供していますので、機会があれば訪ねてみて下さい。

明治以降ストーブが普及した後はストーブが囲炉裏の代わりをしていました。
学校も教室にストーブが一つ置いてあるでけでした。
入学試験の際には不公平になるということで、ストーブは消してありました。
つまり暖房のない教室で試験を受けていました。
もしお祖父さんやお祖母さんがおられれば聞いてみて下さい。

明治になるまではウールという動物質の繊維製品がありませんでしたから、着物は木綿が主体でした。
木綿の入手が難しかった関東以北の地では麻が主体でした。
セーターという衣料品は明治以降に着られるようになった衣料品です。
木綿も麻も現在の衣料品に比べれば保温性が劣ります。

江戸時代には、着物は夏は一重と言って浴衣のような感じの着物でしたが秋になるとあわせといって、夏の着物に裏を付けて二重にしました。
和服というのは、糸を抜いてばらばらにして洗い、また縫い直すというやり方をします。
この為に季節ごとに一枚にしたり重ねたりということを繰り返して着ていました。
冬になると、この重ねた表裏の間に綿を入れた綿入れという状態にして着ていました。
この綿入れの綿の量を増やした掻巻(かいまき)、あるいは褞袍(どてら)というものを作って掛布団代わりにしていました。丹前とも呼ばれました。
掛布団が無かったのではなく、チャントその代わりの役目を果たすものがありました。

質問者さんが、江戸時代どころか、昭和20年代の家へ行けば、おそらく寒さに文字通り震え上がるでしょう。
簡単に言えば昔の人は寒さには強かったということです。

あとは、生活習慣が違いますので、一人で部屋にこもってゲームで過ごすなどということはありませんでした。
常に火のある部屋へ家族が集まって過ごしていました。

それと、人間はある程度寒さには慣れます。
これは外国人観光客の方にも見受けられます。
南欧以外のヨーロッパから来られた方やアメリカから来られた方は日本人よりもはるかに薄着です。
永平寺などで修業をされている僧侶も特に暖房もなく一冬過ごします。
寒稽古で頑張って下さい。寒さには直ぐに順応します。

戦国時代の武士の野宿ですが、当然焚火をして寒さを凌ぎました。
移動の際には、蓑と呼ばれる稲わらを重ねた外套を着用していました。
雪のある時期はお互いに足場も悪く体の動きも鈍りますので、余り積極的には戦はしていませんでした。
この当時の常識を破ったのが佐々成政のさらさら越えです。
命懸けで冬の立山を越えています。
常識外の行動でしたので、現在まで伝えられています。

人間の体というのは血液が循環していますから、手足を温めるだけでも寒さは凌げます。
焚火が効果があるのはこのためです。
湯たんぽもこの原理を応用したものです。
寒いなと思ったら手をお湯に10分ほど浸けてみて下さい、全身が温かくなってきます。
最近温泉地で足湯というのが流行っていますが、これも相当暖かくなります。
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この回答へのお礼

たくさんの回答をありがとうございました。
一括ですみません。

昔の人は寒さに強かったというのもあるかもしれませんね。
冬には戦わなかったというのも納得です。
ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/20 22:47

大体…300年ぐらい前は今ほど寒くありません


それに雪国では冬は戦はしません(城に閉じこもってじっとしています)

江戸では着込んで過ごす
火鉢は意外と暖かい
江戸で氷点下20度とかは考えられないので 1℃やそこらなら凍死もしませんから
慣れてる当事の人なら過ごせたのでは?
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江戸時代の小噺にこんなのがあるのです。


ある田舎の村に尼僧がやってきた。ある農家がその尼僧を家に泊めてやることになり、夜が寒いのでその家の主人は娘に「尼僧さまが寒いといけないから、お前が一緒の布団に入ってやれ」といいました。
ところがその尼僧は実は男で、しかも全然悟りをひらいていなかった。あっという間に手籠めにされて、娘は慌てて出てきた。両親が「お前は尼僧さまのところにいるんじゃないのか」といっても「うふふ」といって取り合わないので、母親が尼僧のところにやってきて「いうことをきかない娘で申し訳ありません」といって布団に入ってきた。するとあっという間に母親も手籠めにされた。そして母親が戻ってきたので主人が「お前までどうしたんだ」と聞いても「うふふ」というばかり。
仕方がないので主人が「いうことをきかない妻や娘で申し訳ありません」といって布団に入ると、この僧侶は両刀遣いで、あっという間に主人まで手籠めにされてしまった。主人が戻ってくると娘と母親がニヤニヤしながら「どうだった?」と聞いてきたので主人は、「俺も、うふふ」

おそらくなんですが、下々の身分の者はみんなで身を寄せ合ったのだと思います。寒いときのお猿さんみたいにね。子供さんがいる人なら分かると思うけど、子供を抱いて寝ると、冬は暖かくて夏は暑いです・笑。
戦国時代の足軽や雑兵がどうしていたのかは、資料が残っていないのでわからない、となります。ただ、今も残るような宿場町は戦国時代に軍隊が行き来することによって成立したので、最前線にならない限りは少なくとも大将・幹部クラスは宿場町ではちゃんとした部屋で寝ていたと思います。
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そのころからダウンはないけど綿入れはありましたよ。


どてらといって、つい50年前は年寄りの代名詞のように言われてたけどね。
江戸時代にはその前身のわらを中に入れたものがあったでしょう。
わらだけで十分暖かかったしね、蓑などがいい例です。
農家に大田道灌が借りに入って、蓑一つだになきぞ悲しきといわれたんだよ。
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猫を抱いて寝たのでは?

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江戸時代とはちょっと異なりますが、古代ローマの兵士は上半身はTシャツ程度に防具をつけ、足はミニスカートのようなものに、サンダル(いまでいうグラディエーターサンダル)とせいぜい脛当て、程度でした。



イタリアは比較的暖かいのですが、イギリスあたりは相当に寒かったと思います。ガリア人などは皮を着ていたのに、ローマ軍兵は寒くても同じ格好で戦ったといわれています。

また現代でも、極北のような寒冷地に住む人は、冬マイナス40度ぐらいが当たり前なため、春先マイナス10度ぐらいになると、上着(防寒着)を着ていられないほど暑くなり、せいぜいセーターぐらいで作業をするようですし、夏は最高気温が3度ぐらいにしかならないのに、現地の子供も大人もTシャツ1枚ですごせるそうです。逆に沖縄とか台湾の人は15度ぐらいでコートを着るぐらい寒さを感じるようです(多分におしゃれの意味もあるようですが・・)

結局、江戸時代にしても現代人には考えられないほど寒さに耐性があったのだと思います。逆をいえば、これらの耐性を身に着けられない病弱な人は、子供の頃に死んでしまうわけです。

私も子供の頃は病弱ですぐに熱を出して倒れるほうでしたから、江戸時代まででしたらたぶん5歳ぐらいまでに死んでいたでしょう。

それぐらい過酷な耐性を身に着けた人だけ大人になれたから、冬でもそれなりの寒さに対応できたのだと思います。

また、平安中期になると紙ぶすま(紙衾)という夜具ができます。和紙を使って中にわらなどを入れた掛布団で、かなり貧しい者でも買うことができたようで、非常に普及し、薄く作られたものは旅行に携行するなど広く用い垂れたそうです。芭蕉の句にも紙衾をうたったものがあるようです。
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No.2さんの回答に、



3枚100両、、、とあります。

1両は、現代の10万円ですから、

100両なら、1000万、、ということです。

闇夜に紛れて、盗人が千両箱を肩に担いで逃げますが、

千両箱には、1億円入っています。


昔の人は、寒さへの 耐性があったのでしょうね、現代人と違って、、、。

暖房は、せいぜい、田舎なら囲炉裏、街中なら火鉢 くらいでしょうから。

あとは、石を焼いて ボロ布で包んでホッカイロの代わりにする、、、とか。




余計なことでしたが、、、。
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ベタな回答なので、まあ漫談としてお納めください。




合戦ですが、基本的に冬場はしません、というか、できません。
防寒が貧弱だったので兵士の損耗が当然多くなりますが、兵士=領地の農民なので、損害を出しすぎると平時の農耕に支障をきたすからです。また、万が一戦をやってしまったとしても、春が近づくと兵士=領地の農民が自分の畑を気にしだして脱走がふえ、戦どころではなくなります。


また、兵士・武器・弾薬の維持と、馬の維持には補給が継続していることが必要ですが、雪などの天候障害で補給の維持が難しくなります。補給が途絶えた軍隊からは、やはり兵士の脱走がおきるので、冬場の戦はやらないのが当時の軍事常識でした。

例外は城郭に対する包囲、城攻めの継続です。これは攻める側が包囲陣地を完全に構築して、冬場もしのげるようにするのが基本だからですが、それでも物資が莫大な量必要となるので、冬がくる前に終わらせることが基本でありました。

ところが、秀吉の朝鮮出兵、4月に侵攻したのですが冬場にもつれこんで反撃されて、膠着状態になります。
この時は日本水軍=補給部隊であり、官僚として兵站組織維持に有能だった石田三成のおかげで、日本軍は壊滅せずにすんだのです。


農民も町民も、まずは厚着です。農民は囲炉裏、町民は火鉢、あと、コタツが大活躍でした。
寝る時は、かいまきという、どてらを大きくしたような物を着て寝ていました。当時、ふとんといえば敷布団のことをいいます。掛け布団はゼイタク品でした。綿が貴重品で、当時は綿は糸にしていたからです。掛け布団を使えるのはお金持ちで、3枚100両と高価なものでした。どろぼうの標的になるほど貴重品だったのです。

町だと、夜泣きそば、鍋焼きうどんが来たりもしました。これの究極発展形が、現代の立ち食いそば・うどんです。

ネタになればさいわいです。
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