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昼間は日陰の角度や長さなどである程度把握する事が出来たと思うのですが、夜の時間の計測はどのように行われていたのでしょうか。よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

江戸時代の時刻は


太陽のある昼間を6等分、日が沈んだあとを6等分とした
不定時法でした。

毎日の時刻が違うわけで、それを簡略化する方法として、
15日ずつ区切って、その間は一刻が同じとする、24節気法も考え出されたのは、
他の回答者のおっしゃる通りです。

昼間は、日時計が活躍しました。
今と違って、それしかないので、かなり精巧なものだったようです。
これだと、毎日違っても対応できます。

夜ですが、北極星から測定する方法は、西洋から伝わっていたと思いますが、
一般の人はあまり正確な時間は、必要ではなかったのではないでしょうか、
ほとんどの人が寝ているわけだし、朝になれば分かるのだから、

当然時計に頼らない生活になれているのだから、感覚は現代人に比べ、
ずいぶん鋭かったと思われます。

江戸後期になると、不定時法に対応した和時計が発達し、
時計に頼るようになってきたと思われますが、

http://homepage1.nifty.com/kumori-hibi/edo/jikok …
http://www.suelab.nuem.nagoya-u.ac.jp/~suematsu/ …
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質問の趣旨が詳しい技術的なことに触れているなら回答になりませんが・・・



日本の時刻制度は奈良時代は水時計等を使った定時法です。鎌倉時代以降~明治維新直後まで不定時法が使われ、補助的に定時法も使われていたようです。

従って考えられるのは日の出直前から日没までを基準に昼夜に分け、それぞれを6等分にした刻(約2時間)で計り、季節による長短の微調整は24節気に従って(約15日に一回となる)定時法で一刻の時間を決めていたのではないかと思われます。例えば6月上旬は一刻は2時間20分だが12月上旬の一刻は1時間50分という風に(数字は単なる例です)。

基準になる天文観測は我々が想像する以上に厳密に行われていたようです。江戸時代には既に不定時法で時を刻む置時計(和時計)も発明(改良)されていました。(時代劇によく出てきます)

参考URL:http://www.jcwa.or.jp/jp/mame.html#saru
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以下の答えであるというのは、今まで見たことがありませんが、あらためて考えてみると、これしか答えがなく、また非常に合理的です。

推測なのですが、星や月が見えない、完全な曇りや雨の夜の時間は、「体内時計」で測っていたのだと思います。

これは、昼間もそうであって、太陽の高さで時間を知る以外に、体内時計で、大体の時間は分かったのだと思います。

「体内時計」がそこまで信頼できるのかについては、十二分に信頼できると思います。例証は色々ありますが、江戸時代やそれ以前の時代、あるいは明治・大正でも、田舎などだと、時計もあったでしょうが、体内時計で時間は大体10分ぐらいか、その前後の精度で分かったのだと思います(もっと正確に分かった可能性があります)。

これは、昔の人は、「人工の光」を持たなかったということも大きな理由です。強い光を夜中に浴びていると、体内時計のリズムは一定でも、それを読み取る意識の側で混乱が起こります。

夜中には、行燈のごくごく弱い光か、それもないような状況では、体内時計の狂いは少なく、意識の読み取りも、かなり正確だったと思えます。

太陽の高さや、星の季節ごとでの空での位置は、自分の体内時計の時刻読み取りを確認する目的で使っていたのだと思います。

体内時計の一日は24時間ではなく、1時間ほど長いですが、子供の頃から、体内時計の時刻読み取りを修練していると、この差時間を補正して時刻読み取りするのだと思えます。

飛行機などに乗ることで、初めて「時差」などが出て来たので、そんな高速移動手段のなかった時代・世界では、体内の生理的時計が、一日を計測しているという事実は、各自が、体内に時計を持っているのと同じで、この時計はかなり正確なので、「読み取り技術」をほとんどの人が子供時代に習得していたと考えるのが合理的です。

江戸時代に限らず、それ以前の時代でも、世界の色々な場所でも、体内時計で時間を読み取っていたのだと思えます。

時計がなぜできたのかは、支配者や統治者の権威の象徴であり、時計によって共同体の時刻を指示する、つまり「時間を支配する」という目的のためだと考えられます。

後に、体内時計の補助確認装置になり、やがて、時刻の確認を外部の時計に頼るようになったのだと思えます。

長時間もつ蝋燭を燃やすとか、塩水に浸して乾燥させた縄とかを燃やすとか、たるなどに小さな穴をあけた原始的な水時計のようなものもあったかも知れませんが、それらは、補助装置だといえます。

あるいは大都市でも地方の田舎でも、寺院などが時鐘を鳴らして、共同体の時刻を同調させる役割を果たしたかも知れませんが、寺院がどうやって時刻を知ったかというと、寺の僧の体内時計で確認していたのでしょう。無論、太陽の見える場合は、日没とかは、明らかに観察されるので、補正というより、確認ができたでしょうが。
 
なお、これしか考えられないということで、文書等での典拠に基づかないので、「自信なし」にします。

(正確な水時計や、ぜんまい仕掛けの機械時計もあったでしょうが、庶民まで流布していなかったはずです。また江戸時代は、不定時方式で時刻を決めていたので、季節ごとで、実際の時刻と日没・夜明けによって決まる時刻はずれてきます。しかし、それも体内時計で補正していた可能性が高いです)。
  
なお、参考URLに次のような記述があります:

>どうして不定時法のような不完全な時報を行う為に、これほど面倒くさい計算をしなければならないのか、若干理解に苦しみます。

これは、機械式や電子式の時計で時刻を測るのが常識である現代人の発想だと思います。体内時計は、日照で補正を受けるので、季節ごとで補正の仕方が変化してくると考えられます。多くの人の日常的な時刻の把握方法からすると(つまり、体内時計での時刻把握の場合)、天体=星の運行や、機械の表示時刻との整合性より、体内時計との整合性の方が意味があるので、太陽の運行に準拠した複雑な不定時時刻が選ばれたのだとも考えられるのです。

>こよみの読み方(32)時刻の九星・干支
http://www.ffortune.net/calen/calen/yomi99/yomi0 …
 

参考URL:http://www.ffortune.net/calen/calen/yomi99/yomi0 …
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。僕も体内時計くらいしか思いつかなかったのですが、人工光が関係しているという論理は充分に説得力がありました。ありがとうございました。

お礼日時:2002/10/02 18:58

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