西郷吉之助や西郷隆盛はわかります。西郷南洲とはどこからつけられたものでしょうか?本人や回りの人が実際に使っていたことのあるものでしょうか?何となくの呼び名でしょうか?死後の改名みたいなものでしょうか?私の持っている書物などは、いきなり「南洲は・・・」などと始まっていて面食らっています。これに詳しい方がおられましたらお教えいただきたく投稿します。よろしくお願いします。

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A 回答 (4件)

 西郷隆盛は文政10年(1828年)鹿児島城下に生まれ、以来多くの名を名乗っています。

幼名を小吉といい父九郎隆盛が家督を相続した弘化4年(1847年)吉之助へと改名願いを藩に出しています。その後も自らが家督を相続した嘉永6年(1853年)に善兵衛へ改名し、安政3年(1856年)3月までには吉兵衛を名乗るようになります。以後西郷吉兵衛、西郷三助、菊池源吾(非公式)を名乗り、安政5年(1858年)の有名な月照との入水事件で命を失いかけて以降、隆盛は奄美大島で過ごすことになります。藩庁は西郷を表向き死んだものとして、扱ったため、非公式の名が必要だったのではないでしょうか。

 その後文久元年(1861年)、藩より召還状を受け翌年鹿児島に帰ると西郷は大島三右衛門への改名を命じられます。折しも中央では安政の大獄(橋本左内刑死が1859年)、桜田門外の変(1860年)、生麦事件(1862年)と激動の時代のまっただ中にありました。

 さて西郷ですが、このころより再び不遇の時代を生き始めます。文久2年(1862年)藩兵を率いて姫路に滞在中であった時の薩摩藩主島津久光は、志士を扇動しているとの奸言を受け、西郷を退けます。彼は今度は罪人として鹿児島よりはるか海上の沖永良部島で過ごすことになります。この時大島吉之助へ改名を申しつけられていますが、しばらくは大島三右衛門の名をつかったようです。

 今でこそ、鹿児島県の中では沖永良部島は花卉栽培などで豊かな島となっていますが、ライフラインもほとんど整備されていない当時、西郷はたいへんな苦労を強いられたようです。この沖永良部島での文筆活動で使った名が西郷南洲でした。南洲とは「南の島」という意味で、祖父が沖永良部島出身である私などは沖永良部島という意味ではないかと密かに期待しています。
 
 文久3年(1863年)薩英戦争を経験した藩は西郷が貴重な人材であることに気づいたのか、彼を許し(西郷は薩英戦争に参加するため脱獄まで企てたらしい)、翌年に帰鹿。そのあと、中央を舞台とした活躍へ、そして西南戦争へと歴史はつながるわけです。

 明治初期の激動期は西郷吉之助の名を通し、明治4年(1871年)には平隆盛で参議の辞令を受けています。また西郷隆永の名を使っていたのはこの頃です。

 さて西郷隆盛という名ですが、明治2年正三位に叙せられた際、父の名と間違えられたというのは事実のようです。以降明治政府からの辞令は西郷隆盛の名で出され、鹿児島市にある彼の墓碑にも「西郷隆盛墓」と記されています。

 鹿児島市北部の鹿児島港の埠頭にほど近い、住宅地が小高い丘へと隆起しはじめた場所に南州神社があり、西郷をはじめ西南戦争の薩藩側犠牲者二千余名が祀られています。私の遠い血縁の者もこの場所に眠っているはずですが、ながく失業している私は申し訳なくて墓石の前に立つことはできず、静雨のなか西郷の墓に手を合わせて、たった今その場を辞してきたところです。資料は西郷南洲顕彰館より入手しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。とても良くわかりました。静雨の中・・・。私には言葉はありませんが、ただただ、丁寧なご回答に心より重ねてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

お礼日時:2002/03/22 18:22

#2の方への回答です。



> それでは、隆盛の扱いはどうなるのでしょう?
> 字なんでしょうか? 別名なんでしょうか?

明治維新以降の現代的な名前だったと思います。
隆永と登録すべきところを友人が間違えたとか。
# 隆盛は吉之助隆永の父の諱だったとか

この時には諱、字の好きなほうを登録できたようです。
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武士の世界では、名前には幾つかの種類がありました。



諱(いみな)生前にはほとんど他人は口にしない、その人の実名
字(あざな)通称。通り名。
号(ごう)中国風のニックネーム
。。。などがあり、それぞれ複数あったようですから、ややこしい話です。

西郷隆盛の場合ですと、諱は隆永 吉之助が字、そして、号が南州であったようです。

それでは、隆盛の扱いはどうなるのでしょう?
字なんでしょうか? 別名なんでしょうか?

参考)
衒学ラボラトリー/衒学講義/呼び名:
   http://www5a.biglobe.ne.jp/~pedantry/pedantry/yo …
幕末龍馬堂/薩摩藩:
   http://homepage2.nifty.com/ryomado/sa_05-05-01.h …
都大学附属図書館 維新資料画像データベース/人名検索:
   http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/is …
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この回答へのお礼

HPの紹介等までありがとうございました。

お礼日時:2002/03/22 18:27

南洲と呼んだ由来は知りませんが、それは号の一種です。

文筆家などは雅号といって本名ではない名前を銘に入れたりしますが、それと同様です。ちょうどうちの座敷に“南洲”と銘が入った書がかかっています(本物かは知りませんが)。昔の人で書画をたしなむような人は何らかの号をもっていて使っていたみたいですね。
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この回答へのお礼

号というのがあるのですね。ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/22 18:25

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聞いておけば良かったんじゃないんですか?

Aベストアンサー

>「じゃあ、どんな顔だったんですか?」とか聞かなかったんですか?
>聞いておけば良かったんじゃないんですか?

 一説によると あの像を見た奥さんは、
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http://pleasure-bit.com/1048.html

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Aベストアンサー

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授業では「西郷隆盛が中心となって征韓論を唱えるも、欧米視察から帰ってきた岩倉具視を中心としたメンバーが外国のことより国内のことを優先すべしとの方針により、征韓論はつぶされ、その後、機が熟してから韓国併合への道程をとった。」と習っていたので、西郷隆盛の征韓論と後の韓国併合への道程は単に時期が違うだけと思っていたのですが、先日古書店で立ち読みし、興味を持ったので購入した雑誌によく分からない箇所がありました。その箇所とは「私は韓国精神文化研究員の院長をされた李★(★=王ヘンに宣)根さん(故人)と何回もお会いしています。ソウルでも会ったし、東京でも会いました。李院長は反日の巨頭とも言える激烈な人なんだそうですけれども、その李博士がいうのには、とにかく日本には悪いやつが多いが、西郷さんにだけは頭を下げる、西郷さんが礼儀作法正しく、軍隊を連れずに韓国の王宮を訪問するという方針を出したことは、自分の心にちゃんと宿っていると、こう言うんですね。[文芸春秋1986年12月号 日韓大闘論 の記事の村尾次郎氏の発言]」という部分です。この箇所を読むと、西郷隆盛の主張した征韓論と後の韓国併合への道程とは180度方針が違うというように思えるのですが、そもそもこんな話など今まで聞いたこともなくさっぱり意味がわかりません。同じ韓国支配でも西郷隆盛が目論んだものは政府の方針とは異なるのでしょうか?

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参考:『(西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論』
 http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai11.htm


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