プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

いつもお世話になってます。
素人の思いつきなので、親切な専門家の方、お暇な時に教えて下さい。
「理性」とは、「ああ、こいつ腹が立つ、殺したい」と思った時に、
「イヤイヤ、こいつにも死んだら泣く人がいるだろう、可哀相だ。
ましてや法律というモノがある。俺も捕まって死刑じゃ割に合わない」
と損得勘定し、欲のままに流されないことですか?
一方本能というモノは「種の保存」を第一義、「自己の保存」を第二義
として生物に与えられた行動基準であってますか?
だとするとエサを目前にした飼い犬が「おあずけ」と言われた時に、
「あ、ごはん!食いてえ!・・・でも俺を養ってくれてる主人が『おあ
ずけ』っつってるしな~。言うこと聞いたら喜んでくれるしな~。頭、
撫でてくれるしな~。うん、ちょっとだけ我慢しよっと!」と思う
(思ってますよね?)のは理性?
それとも「自己の保存(ただ食欲を満たすことよりは多少先を見越した
上等な)」に基づく本能?
で、もしそれが「複層構造の本能」ならば、人間の「理性」も層がヤタ
ラメッタラ多いだけで結局「優先順位の付いた」本能なのですか?
だからどうしたと言われればそれまでなのですが、学問ではそのあたり
どう言ってるのかなと思いまして。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

ご返事ありがとうございます。


先生と呼ばれるほどの○○ではないつもりですが、面白いと言っていただけて安心しました。

プログラムの2と3の順序は微妙なようにも思いますが、わかりやすい過程かもしれません。
人の場合、時と場合によっては、4の「心地よさ」や5の「有利さ」が1~3の条件に背いても優先されることもあるのが、前回も述べましたが生物学的に病的なところを兼ね備えていると言えるように思います。
もっとも背く結果になるということ自体がわかっていない愚かさという側面もあるのでしょうが・・・。
確かに「>本能というモノは「種の保存」を第一義」にはしているのでしょうが、動物と異なるのはそれが絶対的法則ではないという点でしょう。
「>泳げない人が溺れている人を見て闇雲に飛び込」むのは超自我の為せる業でしょうが、自我とのバランスが崩れている点で病的と言わざるを得ないでしょう。
病的というのは、その人のどこかに無理がありそこに起因した行動である可能性が高い、ということです。
親が子を守るために飛び込む場合もありますが、これは本能的なもの(おっしゃるところのプログラム2)と考えることが可能だと思います。
しかし、自分の本当の娘をセックスの道具にしたり、虐待で殺してしまう親もいますからね。
(事件として報道されるのは氷山のほんの一角にすぎないでしょう。)
プログラムとして優先されるというにはやや脆いかな、という印象があります。

「子犬を守る老犬」のほうがありそうな話ですし、必要もなくわが子を殺す動物もあまり聞いたことはありません。
ただ、そこに何かの意味があるわけではなく、「種の保存」ということもまた「快・不快」の領域を出る性質のものではないような気がします。
人間は「何かが壊れた動物」なのでしょうね。
どのような進化によってそれを修正していくのか興味あるところです。
修正できなければ、不自然なものは存在できないという自然の法則に基づき滅びるしかないのでしょう。

素人の考えですから、あくまで暇つぶし程度に捉えていただければ幸いです。
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この回答へのお礼

うんうん、なるほど。
体に悪いのを知りつつ私なども連日飲酒癖が取れませんね。
飲む正当性を自分に与えているあたり(飲まずにいると却ってストレス
が溜まって体に良くない云々)は、ひじょ~~~に「理性的」な気がし
なくもないですが(笑)。
子を殺す親の例も近年掃いて捨てる程ありますね、
これが生物学的に筋が通っていない=病的なのはもちろん納得ですが、
ブラックユーモア的にちょっとひねって、こんな解釈はどうでしょうか。
プログラム1より優先するプログラム0が実はあって、それは「地球を
守らなければならない」であり、プログラム0を守る為、我々は害悪と
なりつつある自らを滅ぼそうとしているのです。
あ、だから「不自然なものは存在できない」で「滅びる」のか。
我々が現在自らを滅ぼしつつある行程が本当に自然の意志であるならば、
生き残ることは「自然への反逆」か。

う~、ホント面白いな。ありがとうございます!

お礼日時:2006/10/26 21:15

こんにちは。


最も得意な分野でありますので、全ての問題に何らかのお答えをしたいと思います。ただ、少々長くなりますので、暇なときにお読みください。

「理性行動」といいますのは「学習行動」であり、「理性」とは我々動物が与えられた状況に応じた適切な行動選択を行うため、生後環境から学習獲得される「価値判断の基準」であります。
哲学の世界ではそれを人間の先天的能力として捉える考え方もあるようですが、生物学的には「理性」というものは存在しません。「理性」とは概念でありますから、これを生理学的に機序することはできませんし、解剖学的に特定することもできません。
我々は生後、様々な体験学習を積み重ねることによって無数の判断規準を獲得します。ですが、その中でどれが「理性」であるかを区分けすることはできませんよね。何故ならば、「理性」とは生後学習によって獲得される「判断規準」なのですから、如何なる環境からどのように学習されるかによって価値判断の結果そのものが変わってしまうからです。実体というものはなく、飽くまでそれは概念であり、普遍的な要素も全くありません。
このように、生物学的には「理性」なるものは何処にも存在しません。あるとすれば、それは選択される行動の結果や動機が「理性的であるかどうか」という「評価の基準」としてです。そして、それもやはり個人の価値観や社会通念など、何らかの比較が成されない限り運用することもできないわけですから、それに評価を下そうとするならば、必ずや学習が行われなければならないということになります。

神経系というものを持つ動物の行動や反応は、その全てが身体内外の環境の変化に対し、中枢系で行われる「利益・不利益の価値判断」に従って選択されます。このような、我々動物の「行動選択」に携わる「中継中枢」の役割とは、主に知覚刺激、あるいはその他の入力に対して「価値判断」を下し、その結果を下位中枢や標的機関に出力するということです。
中継中枢は知覚刺激として入力された環境の変化に対して価値判断を行うわけですから、これにより、我々は与えられた状況に応じた適切な行動の選択を行っているということになります。このように、動物の行動選択といいますのは、その全てが神経系における「入力―価値判断―結果出力」というプロセスで行われます。

我々動物がこのような行動選択を行うための判断規準には、生得的に定められた「先天的」なものと、生後環境から学習獲得される「後天的」なものがあります。動物が生まれながらにして持っている反応規準に従って選択されるものを「本能行動」といい、生後体験から獲得された判断規準に基づくものを「学習行動」といいますね。そして、これらは共に反応様式や獲得の手段が異なるだけではなく、価値判断を行う場所も違います。
「本能行動」の選択に働くものは生命中枢として「脳幹以下脊髄」までの古い脳に分布しているのに対しまして、生後体験の基づく「学習行動」の規準といいますのは「大脳辺縁系」や「大脳皮質」といった新皮質に獲得されます。従いまして、進化の過程でその脳内に新皮質を発達させた我々哺乳類と鳥類を含む高等動物には、行動選択に関わる価値判断を行う中枢が、以下のように三箇所あるということになります。

「本能行動:脳幹以下脊髄まで」(本能行動)
「情動行動:大脳辺縁系」(学習行動)
「計画行動(意識行動):大脳皮質」(学習行動)

ご覧の通り、「情動行動」と「計画行動」は学習行動に分類されます。
「情動行動」といいますのは、生後体験を基に「大脳辺縁系」に発生する「情動反応」によって選択される行動や身体反応を言います。学習行動ではありますが、それは大脳辺縁系の価値判断に従って行われるものであるため、大脳皮質が反応の発生を知覚するまでの間は全てが無意識行動ということになります。判断が下されるならば行動や反応は即座に実行に移され、異なる信号が入力されない限り他の選択肢は一切なく、大脳皮質が気付くまでは抑制の手段もありません。しばしば我々は、このような反応を「感情行動」として体験します。
これに対しまして、「計画行動(意識行動)」といいますのは、「過去の学習記憶を基に与えられた状況に対して未来の結果を予測する」という、極めて複雑な大脳皮質の情報処理によって実現するたいへん高度な学習行動です。これにより、我々は複数の選択肢の中からより価値の高い行動を巧みに選択するわけですが、高等動物にこのようなことが可能であるのは、それは大脳皮質には「未来報酬」というものを想定することができるからです。

「本能行動」とは生得的に定められたものであり、それは種族全体に共通で個体差というものはなく、この反応規準は生涯に渡って絶対に変更されることはありません。これに対しまして、「情動行動」や「計画行動」を選択するための判断規準は生後環境から獲得されるものであるため、こちらには「自分にとっての利益・不利益」「何が好きで何が嫌い」といった明らかな「個人差・個体差」というものがあると共に、個人体験や生まれ育った社会の慣習や道徳観に従い、「地域差」や「お国柄」「時代の思想」といった様々な違いや変化が現れます。
このように、「本能行動」と「学習行動」の本質的な違いは、それが先天的なものであるか後天的なものであるかということです。これがどういうことかと申しますと、まず、学習行動の規準といいますのは生後環境から獲得されるものであるため、その学習結果を基にするならば与えられた状況の変化に応じたたいへん多彩な行動選択ができるようになるわけなのですが、これに対しまして、生まれながらにして定められた本能行動ではこのような柔軟な対応はまずほとんど不可能ということです。ですが、逆に言いますならば本能行動というのは生命活動に必要不可欠であるため、如何なる環境の下でも決して変更されることなく確実に実行されなければならないものであり、果たして生命中枢が学習機能を有するということは構造的に許されないことになります。
このように、我々動物にとってまず学習行動とは、環境から獲得した価値判断に基づいて与えられた状況の変化に対して適切な対応を行い、本能行動では実現することのできないより価値の高い結果を選択するためにあります。
では、「より価値の高い結果」と言いますならば、取りも直さずそれは、変更不能な本能行動であれ、臨機応変な学習行動であれ、自らの生命活動をより有利に実現するという意味でその目的は全く共通です。そして、その目的のために本能行動の規準というものは絶対に変更できないようになっています。従いまして、このご質問で最も重要な点に就きまして、ここでひとつの前提を述べますと、それは生命活動の主旨である「本能行動を補助する」ためのものであり、「学習行動とは、本能行動を効率良く実現するためにある」ということになります。では、どうしてそう言い切れるのでしょうか。

「理性行動」とは学習行動であります。
では、何故ここで本能行動が無条件で除外されてしまうのかと申しますと、その反応基準は先天的に定められており、結果というものが万人に共通であるため、何れが理性的であるかに就いて評価を下すことができないからです。
果たして、「生殖行動」というのは非理性的でしょうか。Hなんてものは誰でもすることですし、理性の評価というのは時と場合なのですから、このようなことを明らかにする必要は一切ありません。
人前で堂々とそれを行うのでは、恐らくほとんどの国の道徳観と法的秩序に反することになるのではないかと思います。かといってHをしないひとは世界中何処にもいませんし、それは生涯に渡って変更不能な判断規準に従って確実に選択されなければならない本能行動です。にも拘わらず、我々人間の「社会環境」には、道徳観という理性を評価するための規準が設けられているために、その実現には「非自然環境的な制約」があります。ならば、Hはひと目に付かないところで行えば良いわけでありまして、これが即ち、未来報酬を想定することのできる大脳皮質の働きによる「計画行動」であります。
つまり、生得的な反応規準では対処できない問題を学習行動によって解決し、多くのひとが限られた条件の中でHという本能行動を最も効率良く実現しているということですね。我々は自分に与えられた「社会環境」に適応するために「理性」という判断規準を獲得し、それに基づいた未来報酬を想定することによって複数の選択肢の中からより価値の高い計画行動を導き出します。その全ては学習行動を選択するための判断規準に他ならず、そして、学習行動とは本能行動を実現するためのものであり、「理性」といえどもその例外ではありません。従いまして、理性行動とは本能行動を補助するものであり、生命活動の実現という全く共通の目的を持って選択される学習行動ということになります。

生物学的には理性というものの定義はありません。ですが、国語辞典をひきますと、「理性とは感情に影響されない判断能力」ということになっています。では、この定義に従いますならば、本能行動を除外した上で、学習行動の内「情動行動」がその資格を失います。従いまして、これまで述べました通り「理性行動」とは「学習行動」であり、それは未来報酬を想定することによってより価値の高い結果を獲得するための「計画行動(意識行動)」ということになります。ならば、全ての情動を抑制して計画行動のみを実行するならば、それが最も理性的いうことになるわけですが、当然のことながらここには幾つかの矛盾が発生します。
まずひとつは、大脳皮質の計画行動といいますのは、より価値の高い結果を獲得するためにあります。では、大脳辺縁系の情動反応を全て抑制したと致しまして、より価値の高い結果を獲得するために、もっと良い結果が欲しいという情動が発生しないのであるならば、我々はいったいどうやって最善の行動を選択したら良いのでしょうか。
また逆に、如何に緻密で冷静な計画行動であったとしましても、それが犯罪計画では間違っても理性行動とは言えません。では、捕まったら刑罰を科せられるということに対して人並みの恐怖や不安といった情動が全く発生しないとしますならば、どうやってこの非理性的な犯罪行動を抑止することができるのでしょうか。
これらの問題に対する答えは至って簡単です。つまり、大脳皮質が如何に高度な計画行動を立案する能力を持っていたとしましても、大脳辺縁系に情動反応というものが発生しない限り、我々は一切の行動選択を実現することができないということです。
何にもできないとは言いません。ですが、何らかの反応や行動は発生するでしょうが、奇人変人と呼ばれはしましても、大脳辺縁系の情動機能が正常に働かない限り、それはまともな日常生活にはなりません。つまり、一切の情動反応を抑制してしまうならば、我々は理性的な日常生活を送ることはできないということになります。
何れにしましても、本能行動を除く我々のあらゆる行動において、情動反応を伴わない選択はまずあり得ないというわけです。

何が「より理性的」であるかという定義はありません。ですが、学習行動といいますのはただ複雑なだけではなく、複数の選択肢を取り扱うことによってより価値の高い結果を導き出すことができます。そして、その機能は生命中枢を離れ、高等動物が新たに発達させた大脳辺縁系や大脳皮質にあり、与えられた環境に対する柔軟な適応能力は、その発達と学習結果に比例します。従いまして、何がより知的な行動であるかと言いますならば、それはその動物の行動における、本能行動に対する「学習行動の比率」によって推し量ることができるということになります。
先に述べました通り、情動行動と計画行動を切り離すことはできません。そして、これらの学習行動は本能行動の目的を補佐するためにあるわけですから、呉越同舟という部分も若干はありますが、それぞれが連携した三位一体の行動選択であることに他なりません。どのようなものが理性的な行動であるかは価値観の問題でしかありませんが、果たして我々は、与えられた社会環境から理性の規準を獲得し、それをせっせと積極的に学習行動に反映させていることは明らかな事実ですし、かたや国語辞典の定義では、それは「感情に影響を受けない判断能力」ということになっています。
ならば、何がより理性的であるかと言いますならば、本能行動に対する学習行動の比率が知性の高さを示すものであるのと同様に、学習行動における、情動行動に対する「計画行動の比率」がある程度に達するならば、それを「理性的」と評価することが可能になるのではないかと思います。
従いまして、大脳皮質が未発達で生後体験も貧しい子供の場合、情動行動に対する学習行動の比率は押しなべて低く、十分な理性を獲得するには至っていないわけですが、二十歳を過ぎれば大脳皮質は成長期を終了しますし、法的にも成人です。ですから、ここで未だ理性に乏しいと言われますならば、それは紛れもなく本人の学習結果に対する評価でありますから、これはやはりお世辞にも好ましい事態とは言えないということになります。

>「理性」とは、「ああ、こいつ腹が立つ、殺したい」と思った時に、「イヤイヤ、こいつにも死んだら泣く人がいるだろう、可哀相だ。ましてや法律というモノがある。俺も捕まって死刑じゃ割に合わない」と損得勘定し、欲のままに流されないことですか? 

「腹が立つ」といいますのは、大脳辺縁系の情動反応が大脳皮質に知覚されることによって発生する「情動反応の自覚」という意識現象です。これに基づいて作成される「殺したい」という具体案が計画行動であり、この時点で未来予測に伴う複数の選択肢が発生します。「可哀相だ」とか、「死刑が怖い」といった情動反応は、その未来予測によって初めて発生するものです。そして、この事例でありますならば、情動行動に対する計画行動の比率は比較的高く、ほぼ理性的な行動選択として評価して良いのではいなかと思います。

>一方本能というモノは「種の保存」を第一義、「自己の保存」を第二義として生物に与えられた行動基準であってますか? 

そうですね、あっていまよね。
動物の行動選択とは、全てが「利益・不利益の価値判断」によって選択されるものであり、「本能行動の基準」とは脳幹以下脊髄までの生命中枢内に生得的に獲得されたものです。そして、「種の保存」と「自己の保存」は生命活動の主旨であり、本能行動の目的の全てです。

>だとするとエサを目前にした飼い犬が「おあずけ」と言われた時に、「あ、ごはん!食いてえ!・・・でも俺を養ってくれてる主人が『おあずけ』っつってるしな~。言うこと聞いたら喜んでくれるしな~。頭、撫でてくれるしな~。うん、ちょっとだけ我慢しよっと!」と思う(思ってますよね?)のは理性?
>それとも「自己の保存(ただ食欲を満たすことよりは多少先を見越した上等な)」に基づく本能? 

ワンちゃんが「おあずけ」を覚えるのは、これは本能行動ではなく、紛れもない学習行動ですよね。空腹の状態でご飯を目の前にしますならば、ワンちゃんは迷うことなくそれに食らい付くはずです。そして、これは本能行動ですから、全ての犬に共通です。ですが、状況に応じて本能行動とは異なる行動が選択されるということは、取りも直さずそれは、過去の体験に基づいて何らかの価値判断が下されているということです。
逆らえばご飯を取り上げられてしまうという不安情動かも知れませんし、飼い主にほめてもらえるとういう条件反射かもしれません。飼い犬のしつけというのは、最初はだいたいこのようなものですよね。ですが、犬を侮っては決してなりません。彼らくらい知能が高ければ、未来の結果を予測する計画行動でも予想外に高度なものが可能です。
ですから、本能行動や情動行動を「おあずけ」できるワンちゃんのこのような学習行動を人間の規準に当てはめるならば、主人に従うのは「理性的な犬」、逆らうのは「理性的でない犬」という評価も、場合によっては可能なのではないでしょうか。

>あと一つ、最後に希望的観測を込めた見解を。例えば泳げない人が溺れている人を見て闇雲に飛び込み、結果亡くなったり、老犬が子犬を守って喧嘩して結果キズを負ったりするのは私の言う優先プログラム1と2です。これが先生の仰る「快・不快」に優先していることを信じたいですね。

これらの行動選択は全てが学習行動です。まず、本能行動であるならば死の危険を冒して水に飛び込むという行動は選択されないというのが原則です(確かリチャード・ドーキンスはもう少し複雑な解釈をしていましたが)。これらはほとんどが情動行動に分類されますが、大脳辺縁系の判定はほぼ全てが「不快情動」です。
情動行動といいますのは、大脳辺縁系に発生する情動反応が「快情動」である場合は「接近行動(報酬行動)」が選択され、「不快情動」には「回避行動」が選択されます。
怖くて飛び込めないというのでありますならば、それは本能行動であると同時に「不快情動」に従う行動抑制、すなわち「恐怖」という人情です。これに対しまして、無我夢中で飛び込んでしまうのは取り敢えず単なる「感情行動」ということにさせて頂きまして、人命救助という最も価値の高い行動選択を行うのは大脳皮質の計画行動ではありますが、本人が泳げないのであるならばあまり冷静な判断とは言えません。老犬が子犬を守るためにやむなく戦うのは、逃避という問題解決の手段を与えられていないため、大脳辺縁系の「不快情動」が攻撃行動という「能動的な回避行動」を選択した結果ということになります。
これらはみな学習行動ですから、何が優先されるかは与えられた状況と、生後に獲得された判断規準に従って柔軟に変化します。

>で、もしそれが「複層構造の本能」ならば、人間の「理性」も層がヤタラメッタラ多いだけで結局「優先順位の付いた」本能なのですか?
>理性とは複層構造の本能?

まず、理性行動は本能行動ではありません。ですが、生命活動の実現という行動選択の目的は全く同じです。
本能行動を司る「生命中枢(脳幹以下脊髄まで)」は、俗に「爬虫類の脳」と呼ばれておりまして、我々哺乳類は爬虫類から進化を遂げる際、それをベースに大脳辺縁系と大脳皮質を発達させました。これにより、哺乳類と鳥類は高等動物として本能行動では対処できない問題を解決し、生命活動をそれまでより効率良く実現することができるようになりました。
大脳辺縁系は生後体験を基に価値判断を下し、与えられた状況に応じた適切な情動反応を発生させます。更に、学習記憶を基に未来の結果を予測し、より価値の高い複雑な計画行動を立案するというのが最高次中枢である大脳皮質の役割です。「優先順位」を付けられるのは、その場の反応ではなく、未来の結果を予測することによって複数の選択肢が発生するからです。
そしてこのように、我々高等動物の脳は「生命中枢」「大脳辺縁系」「大脳皮質」という三層の「複層構造」を成しており、より高次の中枢がより高度な処理を行うことによって三位一体の行動選択を実現しています。但し、中枢が三つあるわけですから、当然のことながら価値判断が対立してしまうこともしばしばあります。そして我々は、脳内で発生するこのような価値判断の対立を人類の苦悩、即ち「悩み」と呼びます。

この回答への補足

思いつきに過ぎない私の意見に斯様な卓見によるお答えをいただき、
本当に感謝しています。ありがとうございます。
結局与えられたものに得手勝手に解釈をつけているだけなので無駄と言
えばこれ以上の無駄はないですよね。
コンピューターが、「ここまではプログラマーの意志、ここからは私自
身の考え」と断じているようなモノで、所詮は言葉遊びなのでしょう。
私は無神論者ではありますが、もし創造主があるならば、私たちのこの
ような議論を見て、鼻で笑うのだろうなと思います。
実に愉快ではないですか?

補足日時:2006/10/27 23:38
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独学で心理学に興味を持つ単なる素人ですが、暇つぶしにでもなれば幸いと思い少し私見を述べてみます。



本能というのは本質的には生命力の源泉と言えるのではないかと考えているので、非常に広義に考えればたとえ理性といえども本能から派生した精神性であるということに間違いはないように思われます。
しかし、これは、男も女も人間であるという点では同じだと言うのに似て、正しいといえば正しいが、なぜ男女という区分けを言語によってする必要があったのか、という問題にフィードバックしていくことになるでしょう。
それはそれでまた意義のないことだとは思いませんが、ご質問の意図はそういうことでもなさそうです。

人の精神性は単純化すると、
本能(快・不快)
自我(損・得)
超自我(善・悪←必ずしもそればかりではないが)
の3層に分かれると良く言われています。
これに従えば、本能や自我を制御する超自我の状態が理性と言えるように思います。
「イヤイヤ、こいつにも死んだら泣く人がいるだろう、可哀相だ。」が超自我の関与で、
「ましてや法律というモノがある。俺も捕まって死刑じゃ割に合わない」は自我の領域でしょう。
また、個人的には、
「>本能というモノは「種の保存」を第一義」にしている点は同感ですが、
「自己の保存」という言葉は幅が広すぎて、本能の場合もあるでしょうし、自我の領域にかかる場合もあるような気がします。

犬さんの場合、
「>あ、ごはん!食いてえ!」はやはり本能でしょうが、
仮に「>・・・でも俺を養ってくれてる主人が『おあずけ』っつってるしな~。言うこと聞いたら喜んでくれるしな~。頭、撫でてくれるしな~。うん、ちょっとだけ我慢しよっと!」と思っているとすれば、それは自我の領域と考えたほうが妥当なように思います。
しかし、実際はこのように【思っている】わけではないでしょう。
『飼い主が喜ぶ反応が嬉しい』
『「おあずけ」っつってるのに食べると主人が怖い反応をするので嫌』という、あくまで刷り込みによる反射的(あるいは本能的)な反応ではないでしょうか。
つまり、主人がどう言ったから、という意味を判断しているわけではなく、こういう音声(おあずけ)が聞こえたら食べないほうが自分にとって快である、という神経回路ができているということでしょう。
食べたいという本能も当然同居するわけですが、それよりもこちらを優先するのだから損得を考えているわけで、これは自我の発露と言ってもいいのではないかという理屈もありそうです。
ただ、犬に自我があるのかどうかは私にはわかりませんが、たとえば人間にしても食欲と性欲両方を満たすことが可能な状況で性欲を選んだ場合、食欲は本能だったが性欲は自我によって選択されたと言うのは無理があるでしょうから、本能にも選択能力ぐらいはあると考えれば犬に自我が無くとも件の行動は説明できるかもしれません。

いずれにしても、理性といえども結果として自らを益するという判断(仮に無意識的にせよ)が無ければ発揮できないわけで、すべては自我のなせる業、と考えるのが本質を捉えることになるかもしれないという気は私もしています。
ただ、「自らを益する」という判断が必ずしも本能的欲求と一致しないのが人間で、それが人間の生物学的には病的な面であり、同時に(崇高であるかもしれない)未知への可能性を含んだ存在たらしめているのではないか、とも思います。
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この回答へのお礼

おお、面白い!質問して良かった!ありがとうございます。
少し補足(?)を。第四段「犬さん」で教えて頂いている箇所ですが、
私はこんな気がするのです。
これを私、Aと言う個人に置き換えた場合
1.「ヒト」という自分の種を絶やさぬ事
2.1に背かぬ限り自分の「血族」を守ること
3.1、2に背かぬ限り自分自身を守ること
4.(以下全て前出の条件に背かぬ限り)自分にとって心地よくあること
5.周囲が自分の保護に有利に働くようにすること(穿ちすぎですかね、
高評価を得れば延命に役立つ気がします)
など、延々とプログラムがあって、本来それに従って行動するように
設計されているのではないかって事なんです。つまりすべてアリモノ
なので「本能」。
まあそんなこと言っちゃえば創造物である我々は何から何までアリモノ
なのですが。

あと一つ、最後に希望的観測を込めた見解を。
例えば泳げない人が溺れている人を見て闇雲に飛び込み、結果亡くなっ
たり、
老犬が子犬を守って喧嘩して結果キズを負ったりするのは私の言う優先
プログラム1と2です。これが先生の仰る「快・不快」に優先しているこ
とを信じたいですね。

お礼日時:2006/10/25 18:56

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