ちくのう症(蓄膿症)は「菌」が原因!?

「昔、中国では皇帝(もしくは権力者)が亡くなると、
 その権力者と少しでも血縁のあった者は全て殺害され、
 殺された人々は権力者と血縁があったことすら
 殺害される段になって初めて知ったぐらい薄い血縁者が多く。
 その数は、2~3万人にも及んだ            」

と、いう話を子供の頃に社会の先生から聞いた気がするのですが
本当にあった話なのでしょうか?
「ありそうな話」とは思うのですが、
いつの時代の話なのか、一度限りか慣習なのか調べても分かりませんでした。
子供の頃の記憶なので、
・反乱の芽を摘むために次代の権力者が前権力者の関係者を殺害したのか、
・前権力者の墓に一緒に埋める[ささげもの]として殺害されたのか
どっちだったかも忘れました。。

A 回答 (5件)

全ての王朝の全ての皇帝がというわけではありませんね


だいいち「血縁を全て絶やす」というのはまずないでしょう。血縁者を全て絶やすとなったら一族による支配体系が崩れるし。血筋の危機さえないとは言えない。
とはいえ、皇帝の代替わりや王朝の代替わりに大きな虐殺・粛清はいくつかあります。
権力争いの一環として有名なのは前漢の呂后や、明の建文帝などは有名です。
 明では初代の洪武帝が皇太子の勢力基盤を守ろうとするあまり、やたらと粛清をしまくり、功臣の将軍や大臣まで粛清しています(胡惟庸の獄。トータルで3万人近くの被害者が出ています)。
 皇太子の早逝によりあとを継いだのは皇太子の息子(建文帝)ですが、粛清の空気を引き継いで身内までやたら殺そうとしてしまったために叔父の燕王朱棣(後の永楽帝)に逆にやられてしまっています。
何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」で……
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この回答へのお礼

回答いただき誠にありがとうございます。

たくさん教えていただいたので、まずは胡惟庸の獄あたりを
ネットで見て回ってきました。
「ありそうな話」と思いつつ空想歴史の可能性も考えていたので
史実に存在することを知り、おどろきです。

「一人を殺せば殺人で、百万人を殺せば英雄だ」
なぜだかチャップリンのこのセリフが浮かんできました(__;)

お礼日時:2006/10/25 23:41

先の王朝の場合には、次の王朝の寛大さを示すために逆に保護する場合もあります。



大臣クラスの権力者の場合にはまた異なります。例えば、秦の始皇帝に仕えていた李斯の場合には、次の皇帝に代替わりしたときに一族すべてが殺されていますが、これは次に権力を握った超高が李斯を追い払うのに「皇帝に対して罪を行った」という形を取ったからです(もちろん無罪なのに罪を「でっち上げ」ているわけですが)。

大臣クラスの権力者の場合には、このように「皇帝に対する反逆者」と言う形で権力の剥奪が行われるため、反逆罪ということで「三族(一族及び妻の家族、母親の家族)」が殺されることが多いです。お母さんのいとこなんて知らないでしょう・・・。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

>お母さんのいとこ
恩恵をうけていないのに殺されたりしたら悲惨ですよね。。

お礼日時:2006/10/29 11:53

いずれの国でも権力者が代わる時に権力争いはおこりました。



秦の始皇帝が死んだ時遺言では皇太子に後を譲るとあったのを、宦官が図って次男を擁立し皇太子には自殺するように偽りの勅命を送り自殺させています。

中国では王朝が変わった時、先王朝の一族を根絶やしした事が誇大に記述されているとおもいます。 「白髪三千丈」の国ですから。
殉死の習慣はありましたが権力者の周辺から殉死する事はなかったでしょう。 殉死の対象者は妃や家臣から選ばれた筈です。

兄弟皆殺しはオスマントルコでは習慣的におこなわれました。
国王に相当するカリフの代替わりには新しくカリフに就任した人の兄弟は後継争いを防ぐ為、その血脈に繋がる者は皆殺しか終身幽閉されました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2006/10/29 11:52

オスマントルコやムガール帝国で兄弟同士の殺戮が多発しました。



その先生もかなりいいかげんなのか、記憶が不確かなのか…
関係者殺害に関しては、嫡統が替わってしまったとき、宋、元、明などで行われています。清では、現皇帝が実権を握る段階で、前皇帝の側近を排除するという過程で行われているようです。
ささげもの説に関しては、秦以前の古代になるので、ちょっと不案内です。

この回答への補足

回答ありがとうございます!

>宋、元、明、清、秦以前の古代
それら全てで何万人規模の殺戮がおこなわれていたと言うことでしょうか?
子供心に2~3万人という数字に驚いた記憶があるので
そこが特に知りたいです。

補足日時:2006/10/25 19:01
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それは「オスマン=トルコ帝国」の話です。


中国ではありませんよ。

この回答への補足

Wikipediaで該当項目を読んでみたのですが
質問のような記述は見つかりませんでした。
できれば詳しくお願いします。

補足日時:2006/10/25 14:36
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Q皇帝、王などが死亡した時など、寵妃やハーレムの愛妾はどうなるの?

昔の権力者は、寵妃がいたり大奥やハーレムに大勢の女性をはべらしていましたが、
権力者が死亡した場合や、愛妾が歳を取ってしまった、権力者に飽きられた場合、
愛妾達はどうなってしまうのでしょうか?

身分の高い女性が愛妾なら、実家に帰ったりして過ごせそうな気がしますが・・・
どうなんでしょうか?
また閉鎖的なハーレムや大奥、宮廷から出る事は出来たのでしょうか?

身分の低い召使とかが愛妾になってしまった場合などは、また召使に
逆戻りしてしまうのでしょうか?

最悪の場合は、正妻に殺されたりする事も考えられますが・・・
(中国の皇后の話なら読んだ事があります)

また華やかで有名な寵妃などのエピソードも読んだ事があります。
(楊貴妃、デュ・バリー婦人、ポンパドール婦人など)

実際の所、子供がいる場合などは優遇されそうですが
子供のいない大勢の大奥やハーレムの女性達はその後、どうなるのですか?
一応、先王の寵を受けたとして、次の皇帝や王様が部屋や屋敷を与え、
年金でも渡して生涯面倒を見るのでしょうか・・・?

検索してみたのですが、有名な寵妃の話しか出てきません。
断片的でも良いので、知ってる事があったら教えてください。

昔の権力者は、寵妃がいたり大奥やハーレムに大勢の女性をはべらしていましたが、
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最悪の場合は、正...続きを読む

Aベストアンサー

国々によって風習は変わります。世界中を一緒くたにされて質問されているのでちょっと回答しにくいのですが…(取り敢えず、イスラム圏・キリスト教圏・仏教圏ってだけでもだいぶ考え方は違いますから…)

日本に関してだけ申し上げますと、
後宮の場合、女性はかなり自由な立場におかれていましたので、もし天皇が死亡した場合や、天皇の寵愛を失った場合、たしかに出家することもありましたが(後追い自殺なんてまねは、限りなくゼロだったはずです)家臣や皇族と結婚する、なんてことが行われていました。そしてそれに対して「不貞だ」などと言われることは私が記憶する限りなかったと思います。女性の「不貞」という観念が定着しだしたのは江戸時代からですから…(民衆にまでそれが広まったのは明治以降です)。また、天皇が褒美として妻妾を家臣に与えるということも屡々行われていました。有名なのは万葉集にも歌が入っています藤原鎌足の話、それに平家物語に平忠盛の話があります。
そして後宮の場合は外出もけっこう自由で、みんな宮詣や寺参に出かけています。こういったところは枕草子などに詳しいでしょう。
よってこんな自由な状態で何が起こるかというと、「誰の子か判らない子がたくさんできてしまう」という事態です(笑)。天皇の御落胤、なんて言われる人がたくさんいるのも、上に挙げたような開けっぴろげな性環境があるんでしょう。
ちなみに、子供がいると生活が楽!かと言えばそうでもありません。親王・内親王にかかわらず、日本の場合皇室の男女は母親の身分によって序列がつけられます。階級が低い女性の子供は「親王」という位さえもらえません。うまくいって姓をいただき、それが平氏・源氏につながっていきます。「親王」の位をもらえても一品・二品…と序列がつきます。そしてそれにより、衣冠も決まりますし、皇位を継げるかどうかもかかわってきますので、生めばこっちのもの!という発想には及ばないと思います。
対して大奥ですが、こちらは基本入ったら出られません。一時期、大奥の規制がかなりゆるみ、それが絵島事件の起こる背景ともなりますが、ごく例外的です。一部の許されたものだけが外出可能であり、正室ともなるとほんとうに外には出られなかったようです。勿論親の死に目になんかあえません。
将軍が死亡すると大奥の女性たちが次の将軍に引き渡されると言うことはなく、基本的に内容は一新されました。愛妾たちは正室同様出家して二の丸などに引き移ったようです。ただ、三代将軍の愛妾お万の方のように側室を退いて後(大奥ではある年齢を過ぎると将軍の夜伽を辞さねばならないという決まりがありました)大奥の内政に深く関わっていった人もいます。

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Q古代中国の後宮制度

古代中国の後宮には、皇后、貧妃、貴妃、などいくつかの身分制度があったと聞きました。

中国の昔の後宮の身分制度、その他のことについて教えていただけないでしょうか。
後宮の見取り図など
参考文献もありましたらお願い致します。

Aベストアンサー

后妃制度は、皇后一人、女官である三夫人(唐の時代は四夫人)、九嬪(ひん) 、二十七世婦(せいふ) 、八十一御妻(ぎょさい)からなります。

 夫人は上から 貴妃(きひ)、淑妃(しゅくひ)、徳妃(とくひ)、賢妃(けんひ)の四人。
 九嬪は上から 昭儀(しょうぎ) 、 昭容(しょうよう) 、 昭媛(しょうえん) 、 修儀(しゅうぎ) 、 修容(しゅうよう) 、 修媛(しゅうえん) 、 充儀(じゅうぎ) 、 充容(じゅうよう) 、 充媛(じゅうえん)。
 二十七世婦は上から9人づつ、 しょうよ(*漢字変換できなかった) 、 美人(びじん) 、 才人(さいじん) の3ランク。
 その後に八十一御妻の 宝林二七人、御女二七人そして釆女二七人。釆女は後宮の最下層の身分で皇帝の室の一人。
 そして位の無いその他大勢。


 たぶんこれで合っていると思います。

Q白人はどうして黒人を差別するのでしょうか?

アメリカで黒人が白人に差別されたと
デモや暴動が起きているそうです。

どうして白人は黒人を差別するのでしょうか?

日本では、ボビーオロゴンやビリー隊長とか
大人気だし。野球でも黒人が大人気なのに
どうして差別されちゃうのでしょうか?

私にはどうしても分からないのでよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 まずアメリカは国土が広大で地方分権も進んでいるので地方によって人々の考え方が大きく異なり、アメリカと一口に言っても州や地方によって差別の現状は大きく異なる事と、アメリカにおける人種差別をもって白人全ての人種差別を語る事はできない事を申しあげておきます(北部ヨーロッパやイベリア半島では人種差別差別はまた違う様相を呈しています)。
 それとビリー・ブロンクスは大学教育を経て社会的に成功している黒人で、ボビー・オロゴンはナイジェリアの富裕層の出身です。一般的に差別を受ける黒人系アメリカ人とはその立ち位置は大きく違います。
 アメリカでの黒人差別は様々な要素が複合的に絡まりあって成立しています。差別の原因となっている要素を幾つか列挙してみます。

・歴史的経緯
かつて白人は黒人をアフリカ大陸から連れ出し(多くの場合、奴隷化したのは現地のアフリカ人達なのですがややこしくなるので割愛します)奴隷として過酷な労働条件で使役してきました。これを根源的な原因として加害者だった自分達白人を黒人は憎悪しているのではないかと考え、それ故に黒人との共存や黒人の社会進出を苦々しく思う白人は常に一定数存在します。

・社会階層的経緯
多くの黒人系アメリカ人は依然として貧困層であり充分な社会進出を行えていません。白人全体における犯罪経験者の割合と黒人のそれを比べるのであれば前者が明らかに高い数値を示すでしょう。その黒人は非文化的で危険であるというイメージが一部のメディアによって増幅され、それに強く感化されてしまう白人が人種差別に走り、さらにそれがイメージに輪をかけるといった悪循環がアメリカ社会には存在します。

・文化的経緯
同じかつての黒人奴隷を導入した国でも南米などでは人種の混合が進み、人種差別などそもそもどれを差別すれば良いのか解らない程複雑になっている国もあり、これらの国では当然人種差別は殆どありません。
 これとは違いアメリカでは人種・文化の混合が行われませんでした。原因については不勉強なのでなんともいえませんが(カルバン主義やアングロサクソンの島国根性が関わっているのかもしれません)、一部の白人にとって黒人が“同じアメリカ人”では無く“国内に居住するよそもの”的な存在になってしまった事は否めません。

 まずアメリカは国土が広大で地方分権も進んでいるので地方によって人々の考え方が大きく異なり、アメリカと一口に言っても州や地方によって差別の現状は大きく異なる事と、アメリカにおける人種差別をもって白人全ての人種差別を語る事はできない事を申しあげておきます(北部ヨーロッパやイベリア半島では人種差別差別はまた違う様相を呈しています)。
 それとビリー・ブロンクスは大学教育を経て社会的に成功している黒人で、ボビー・オロゴンはナイジェリアの富裕層の出身です。一般的に差別を受ける黒人...続きを読む

Qチャールズがカミラさんにこれほど惚れたのは何故?

イギリス王室の世紀の結婚式を拝見してました。
もし、ダイアナさんが生きてらしたら何処の席で息子さんの結婚式を
ご覧になってたんでしょうか?
いつも疑問に思ってたのは何故美しいダイアナさんよりあの下品なカミラ
さんと長い間不倫を続け、愛を注いだのでしょうか?
男女間のミステリーを感じます。
不誠実な夫に耐えかねた妻の最後はあまりにも悲劇的、それなのに
カミラはちゃっかりとイギリス王室の一員となってしまった。
カミラの前の夫が彼女は凄い床上手だと発言したのを記事で読んだ
事があります。
"君のタンポンになりたい”という信じられない言葉を盗聴されてしまった
チャールズ。
そこまでカミラを愛し続けたのは何故?相性?同じ趣味?価値観?
真面目に答えて欲しいです。

Aベストアンサー

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠れする方みたいですが、伝統を破るほどの革新的な王子ではないそうです。

ダイアナは正直、自分の言いたい事を言う、好きな時に好きなことを楽しみといった自由人で強く、暖かい人情のある方だったそうです。
しかし一般的な母性はあるとしても極端に甘えさせてくれるなどの懐の深さはなかったようです。

チャールズの母であるエリザベスは王女だった為にチャールズに対して母として接する機会があまりなく愛情不足だったと思われます。
チャールズは気難しく理屈っぽい。正直さ、率直な振る舞いが特徴です。
伝統や格式を担う公人としては適役と思われます。

そして問題なのが、公人としてダイアナを妃にした事としかしダイアナは公人としてでは無く私人として愛して欲しかった事です。
ダイアナは彼を変えられると幻想を抱いてたのかもしれません。
ダイアナは言いたい事を言う性格ですので、キレて文句を言う日々が続いたのかもしれません。
しかし、チャールズはグッと考え込んで大事な事だけ発言するタイプです。
ですから元々の性格は真逆だったと思われます。
その為チャールズはダイアナに寄りつかなくなったのかもしれません。

もちろんダイアナは理屈を理解しようと努力をした事は伺えるのですが・・・理解は出来ても許容する事が出来なかったと思われます。

そしてカミラの場合は難しい理屈などは置いておきたい人のようです。
カミラにとって重要な事は自分を求め愛してくれる人がいること。
ドロドロとした三角関係にあってもチャールズの事を理解しそして許容する事が出来る方のようです。

気難しい彼に対してデリケートな部分を刺激したりしない、とても尊重してくれる方だと言われてます。
そして最大の彼女の魅力は強い母性愛です。
愛する男性を子の様に慈しみ、命を捧げて生涯を守るほどの古典的な母たる姿勢を崩さなかった事と周りから何を言われても誇り高く、強い女性であった為にチャールズにとっては不可欠な女性だったのだと思います。

長くなりましたが、カミラとダイアナでは性格が真逆であることは一番の原因だったのではないでしょうか?
ただ、誰が悪いとかでは無いと思います。

私も最初は否定派でしたが、現在はお二人の関係を暖かく見守って差し上げたい様な心情です。

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由は?

先日、池上彰さんのテレビ番組で「第2次世界大戦のソ連の戦死者は2000万人を超えている」「その恐怖からスターリンは、隣国を共産国にした」ということを知りました。

日本の太平洋戦争での戦死者は300万人くらいと聞いてますが、日本の戦死者と単純に比較できるのかどうかわからないのですが、日本の7倍の戦死者の数には、とても驚きました。

第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由をお教えいただけましたら助かります。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭であり戦略予備といえるシベリアの部隊はありましたが、ノモンハンのときに日本の帝国陸軍と正面衝突を初めてして大損害をうけた経験から、軽々しく欧州戦線に移動させるつもりに、ソ連軍指導部はなれなかったのです。
そのノモンハンのソ連軍総司令官が、スターリン直々に任じられたジューコフでした。

ジューコフは、

1 ソ連軍は弱い

2 だから勝つためには、敵より多くの兵器と兵士を前線に惜しみなく投入し、その重みで押しつぶすしかない

3 だから、兵士も戦車も大砲も、とにかく数をあつめる

ということを、理解していたので、必要なだけの兵力を敵がつぶれるまで投入しました。当然ながら自分より強い相手を数でつぶすのですから、犠牲はふえます。
さらに、この考えをスターリンも支持したので、党、治安組織、軍事思考、動員体制、といったソ連という国家の戦争体制そのものが、勝てるまで人命も装備も前線に突っ込むように構築され、上から下まで人命軽視というより、人命より目的達成、のドクトリンが徹底しました。目的達成が勝利なら、なおよし、です。

そのような体制のもとで運用されたソ連軍の基本的ドクトリンは、

最低でも幅50kmの線に分厚く、最低でも敵の3倍、普通なら5倍、理想は7倍の二陣の部隊を結集させ、

まず砲撃と航空攻撃だけで相手の6割に損害をあたえ、

そして第一陣が弱った敵に突っ込みその第一陣が自分の損害を省みず敵をなぐるだけなぐったら、

味方第一陣の残骸を乗り越えて無傷の第二陣が第一陣と戦ってボロボロになった敵を蹂躙する、というものでした。

装備は更新されたし、戦車・武器も疎開した工場と米英のレンドリースでそろえてはいるが、兵士の教育が低い軍隊にむずかしいことはあまりできません。字の読めない兵士が珍しくないどころか、ロシア語がわからない兵士も珍しくありません。
なので、時には下級将校は選挙で選び出され、そのような将校には反抗するものを軍法会議抜きで「処分」する権利はあたえられました。戦争をしている国家と党に異を唱える者はいらない世界です。
また、女性が前線で銃をとったり、戦車兵をやったり、戦闘機・爆撃機パイロットをしたりしたのも、ソ連軍だけでした。

この残酷な単純化となりふりかまわなさが、精鋭のドイツ軍相手に血を流しつつも、ソ連軍を勝たせたのです。

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭...続きを読む


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