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戦国武将 加賀00万石 前田利家のすごさを教えてください。

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A 回答 (10件)

前田利家が参戦した戦は37です。


その中でも、近江箕作城の戦い及び越前金ヶ崎城の戦いでは槍をふるって敵の首を取っている。また、摂津・春日井堤の戦いは「堤の上の槍で」と信長に讃えられている。武勇に優れていた事は間違いありません。

慶長4年(1599年)2月、病躯をおして、利家は和解の実を示す為に伏見に家康を訪ねている。
また、同年3月、家康は病気見舞いと答礼をかねて、大阪城に利家を訪ねている。その際、利家は病状が悪化し、やっと床を這い出て中の間で家康と対面している。この二つの状況からも利家の「律儀さ」が窺えると同時に、家康が一目置いてた大大名利家の存在感を現しています。

石田三成は病中の利家を訪ね、看病と称して前田邸に詰めた。加藤清正、黒田長政、浅野幸長、池田輝政、福島正則、細川忠興、加藤嘉昭の七大名から逃れるためであった。七大名も利家の顔を立てて、三成に手だしをしなかった。ここでも、利家のすごさが窺えます。

意見の分かれるところですが、もし利家があと10数年生きていたならば、徳川幕府は生まれていなかったかもしれません。
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バサラですからねぇ。

彼は。
すんごい長~い兜をすてきに、かぶりこなします。
糟糠の妻であった、おまつ夫人が、冷や飯食いの時分の彼を見捨てなかったのは、見どころがあったためでしょう。
子どもに「父を見習え。あなたは、父の足元にも及ばない」と、言い切れる妻が他にいるでしょうか。
彼が、基礎を作った町、金沢は、今も、文化や、伝統を踏襲する、すてきな町です。
破綻のない円満な性格で、誤った選択をせず、今現在も、子孫が繁栄している。
これは、たいしたことだと、思います。
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利家は体格すぐれ、槍の又左といわれた剛勇の士ですが、合戦の軍略は平凡です。

  しかし形勢の判断が確かで、政治家、外交家としては抜群の、立ち回りの上手ないわゆるやり手です。  しかも経済家としてもすぐれ、当時家康と並ぶ算勘上手といわれました。  兵、金銀、米の計算に巧みで蓄財家でした。
これらが秀吉の死後家康が恐れた只一人の大名となった理由です。  加賀の一揆には手を焼きましたが、能登の平定には巧みな外交戦略をつかいました。   秀吉には娘を差し出して安泰を計でり、金に困った政宗などに、貯めた金銀を貸して親睦を計るなどです。
しかも死期をさとると、政宗や忠興など7,8人の大名の金子借用書を跡継ぎに見せ、「自分の死後味方になった者には返済を免除せよ」と命じました。   吝嗇ともいわれましたが、深い考えがあった訳です。 敵対関係にあった加賀一揆に対しても、文禄2年本願寺系の再興を許しています。
茶道、和歌、能なども好み書以外は、すぐれてはいなかったようですが、外交手段として利用しました。
毛利、上杉、伊達、島津より一段上のしたたかさを持った人物です。
 余談ですが私の好きな佐々成政は武勇にすぐれ、領民から慕われていましたが、正直一徹さでほろびました。  利家の十分の一のしたたかさ、ずるさがあればなあと思っています。
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賤ヶ嶽の合戦での利家の行動ですが、裏切りというより「遁走」と表現する方が正しいかもしれません。

押し寄せてくる羽柴軍と戦うのが怖くなり、接敵の前に自ら壊走したと。若いときから親しい秀吉と事前に通じていたとかいう話は、「敵前逃亡」の汚名を隠すためのフィクションだったと考えれば納得できます。羽柴軍の総大将である秀吉と事前に打ち合わせがあったのであれば、関ヶ原の裏切り部隊のように勝者の羽柴軍に合流すれば良いわけで、撤退時に損害を出すこともありません。

同じ賤ヶ嶽の合戦では、柴田側が攻勢に立った時に羽柴側の中川清秀が一歩も引かずに陣地を死守して全滅しています。利家が遁走を決意した時、清秀の「惨めな最期」(利家の視点)が頭を過ぎったことでしょう。この時点で中川清秀と前田利家は同じくらいの身代だったと思われますが、江戸時代には前田100万石に対し中川は数万石。なるほど、命あっての物種です。(笑)
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 「前田利家のすごさ」ですか。


 百万石の礎を築いたこと→数々の重大局面における判断に、誤りがなかったということでしょう。
 彼の最大の決断力を要したのは、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家のもとを離れ、秀吉についたときのことでしょうね。
 これは裏切り行為には違いありませんが、当時と現代との倫理観は大きな差があると思います。
 親兄弟でも信用できない戦国の世です。皆生き延びるのに必死です。彼は勝家の家来ではありません。大先輩と後輩の関係でしょう。もちろん勝家には恩義を感じていたでしょうし、当時としても後ろめたさはあったと思いますので、苦しい決断ではあったったでしょうが、非情に徹し、誤りのない判断をしたわけです。
 戦国時代から江戸時代まで、沢山の大名の興亡がありました。
  1)小身者→大大名
  2)大名 →大名
  3)大名 →没落
 2)のケースの現状維持の大名でも、相当な人物だとおもいますね。 3)の場合は自分の暗愚を棚に上げて、家柄ばかりを誇り「世が世であれば」と嘆いている戦国大名失格者です。
 利家は1)の典型です。これは一にかかって彼の判断力の凄さによると言えます。
 極端な言い方をすれば、彼は確率50%のどっちに転ぶかわからない局面に、何回となく立たされたはずです。それを運もあったでしょうが、すべて間違いのない判断をしたということは、凄い人物、大した人物でしょう。
 また、自分の力をよくわきまえていたということも言えます。
(なんだかNO.5さんのご回答と同じことになってきました。ごめんなさい、NO.5さんのご意見に全面的に賛成します。)
 利家のような人物は現代の社会にも存在します。タイプはちょっと違いますが、不倒翁といわれた周恩来もそうですし、会社の中にもいますナ。
 3)のタイプの大名ならば誰でもできますが、1)は常人じゃできません。
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私はけっこうすごい人だったと思います。


なにがすごいというと、細川藤孝や今年の大河ドラマの山内一豊などにもいえますが、流れを読むという能力があったということです。また、自分の能力を見極めていました。自分は到底ナンバー1にはなれない、それならナンバー1になる人間についていく、ということを実践した人たちです。そのためには裏切りも辞さなかったのです。
歴史を後から見る私たちは、いかにも当然の決断をしたように錯覚しますが、実際にそれを実践するのはすごいことだと思います。
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前田利家が高く評価されるのは加賀百万石の基礎を築いたからです。


織田家の家臣団の中で幕末まで大大名で残ったのは
前田家ぐらいのものですし、何せ120万石ですから。
前田家は明治になって公爵家となり、現在まで続く家系です。
その開祖ともいえる人なので当然利家の業績は事実以上に
美化されるのは仕方がないでしょう。
実際の戦国時代の記録というのは我々がドラマで見るほどには
分かっていないので利家についてもそれほど分かっている
訳ではありません。

例えば賤ヶ岳の戦いで利家が柴田勝家を裏切ったとされていますが、
豊臣軍は前田軍を追撃して前田軍の武将もかなりの数が
戦死している、前田軍が府中城で豊臣軍の迎撃体制を
とっていた、敗走中の柴田勝家は前田利家に助けを求めている
などの事実から秀吉と利家の間に事前の取り引きは無かった、
秀吉側に寝返ったのではない等の説もあります。

利家の活躍と言えば織田軍による石山本願寺攻めでの
堤の上の槍といわれた奮戦が有名ですが、これにしても
土佐藩開祖の山内一豊の妻の内助の功みたいに藩開祖の逸話として
伝えられてきたものと見なすべきでしょう。

前田利家がすごいのはあくまで豊臣秀吉政権下で徳川家康に
対抗する布石として秀吉に用いられたことと織田信長の
直参として戦国時代を戦ってきた武将ということから
家康が警戒した存在だったというその存在感じゃないでしょうか。
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前田利家は、数千の兵を率いて鮮やかに勝利したとか、政治的に何か業績があるとか、はかりごとを巡らして主君を助けたなどの事績はありません。

彼が歴史に名を留めるのは「柴田勝家を決定的瞬間で裏切った」「加賀で大大名になった」ことだけです。

前田利家と比べますと、長久手の合戦で羽柴軍の面目を保った堀秀政、信長の娘婿になり器量を讃えられた蒲生氏郷、智謀で福岡50万石を得た黒田如水・長政父子、徳川軍の柱として家康の後半生を支えた井伊直政、関ヶ原の合戦で西軍に属して最後まで屈せず、戦後に大名に返り咲いた立花宗茂などの方が「すごい」武将です。

利家の経歴は、
1. 織田家の家臣としては平凡な経歴。柴田勝家の組下だったようだ。
2. 柴田勝家の下で能登(15万石くらい)を任される。明智光秀と細川藤孝の関係に類似。
3. 賤ヶ嶽の合戦で柴田を裏切り、柴田敗戦の決定的要因を作る。関ヶ原の合戦での小早川秀秋の役割に類似。
4. 羽柴軍に属した後は、柴田勝家攻撃の先鋒となる。(戦国時代の慣例で、降伏した者はそれまでの敵に対する先鋒となる)
5. 秀吉に引き立てられ、加賀と越中の一部を加えられて大大名となる。諸大名のうちで頭一つ抜けた官位の大納言を得る。五大老の一人となる。ただしこれといった実績はなし。
6. 柴田勝家と豊臣秀吉に非常な信頼を得ていた人物であることが伺える。極端な話、それだけで大大名になった男。
7. 吝嗇家であったと伝えられる。

利家が「律義者」とされるのは、秀吉が死んでから利家自身が死ぬまでのほんの僅かな期間に過ぎません。その期間に律義者であったことを裏付ける具体的な材料にも乏しく、律義者のイメージは後世に作られたものと見るべきでしょう。引き立ててくれた柴田勝家を決定的瞬間に裏切った点では、小早川秀秋と同じく「武士の風上に置けない」と評価されて当然です。

利家の子孫は加賀100万石の大大名となり、現在まで続いています。皇室・五摂家・徳川家に継ぐ名門となったといえます。利家が「律義者
と実際以上に讃えられるようになったのは、「前田家の始祖が裏切り者ではシャレにならない」からと思われます。実際、そのくらいしか褒めようがありません。
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 はじめまして。

平成14年の NHK 大河ドラマ「利家とまつ」の原作本、竹山 洋著の、「利家とまつ」という本があります。ただ、この大河ドラマは、史実に反する描写が多く(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E5%AE%B6% …

 あまり評判は良くありませんが、彼の概略は分かります。

 また、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0% …

 には、詳しく書いてあります。
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 多分、すごくないです(笑)。

単に豊臣秀吉と若いころから近所で親しかったこと、賤ヶ岳の戦いの直前に秀吉方に寝返ったことで、地位を得た人です。
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Q加賀百万石って、今でいうとどれくらいスゴかったのでしょうか?

あの国と同じくらいの経済規模とか、わかりやすい例えで教えてもらえると嬉しいな(笑)

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教えて! goo を頼りに、木下優樹菜さんが3/18(水)東京へ、
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Aベストアンサー

「1石」というのは、成人男性が1年間暮らせるだけの米の量と置き換えられますので、
100万石の都市は、100万人の成人男性を養える都市だったということですね。
今で言うと、政令指定都市に認定される規模ですが、残念ながら、
今の金沢市はまだ政令指定都市の認定は受けていません^^;

Q100万石は今で言うとどのくらいすごい?

戦国武将が100万石の領土を持っているのって
今でいうと、どのくらいの資産・土地を持ってるくらいすごいのでしょうか?

100億円持ってるぐらいすごいですか?
100戸の家を持ってるぐらいすごいですか?

ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

戦国時代の石高なら、下の説明をみてください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011269740
http://bit.sakura.ne.jp/tuwamono/tizu-tougou1.htm
http://sengokutan9.com/sengokukassen/sekigaharazengokokudaka.html
 
石高は、領土の大きさを米の生産量に換算した『ような』ものです。
人口にも関係しますし、産業の状態にも、畑作や米作にも関係します。
単純には言えません。
 
石高は、一応、年間の経済力(その領土の年間総生産高)を示しているようなものですから、預金や資産の額との比較は出来ません。
1石を年間一人の生活費と考えれば、100万石は100万人の生活費相当ということになります。
 
領土全体の総生産高ですから、住民の生活費も、戦国武将の家臣や家臣の家族の生活費も、この中で賄います。戦国時代の武将ならば、築城費、河川改修費、干拓や開墾費、武器弾薬の購入費もこの中から出します。
 
なお、現在のように戸籍制度や帳簿制度、通貨制度がはっきりしていて、集計をする人が同じ方法で集計しているのではないですから、石高1万石と公表されている地域が10箇所あれば、10箇所が全部違う実態で、7000石~16000石程度にはばらばらだったでしょう。
また、天候などにも生産高は大きく左右され、戦争があれば農地も荒れたり、兵隊や労役にかり出されたりしたでしょうから、いつも同じ生産があるとは言えないと思います。 

戦国時代の石高なら、下の説明をみてください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011269740
http://bit.sakura.ne.jp/tuwamono/tizu-tougou1.htm
http://sengokutan9.com/sengokukassen/sekigaharazengokokudaka.html
 
石高は、領土の大きさを米の生産量に換算した『ような』ものです。
人口にも関係しますし、産業の状態にも、畑作や米作にも関係します。
単純には言えません。
 
石高は、一応、年間の経済力(その領土の年間総生産高)を示しているようなものですから、預金や資...続きを読む

Q前田利家が後15年生きていたら?

NHKドラマで利家が諸大名より大きな人望があるように描かれていますが、秀吉末期の家康との位置づけはどうだったのでしょうか?又、仮に後15年前田利家が生きていたら、関が原、夏の陣など世の中が  どう変わっていたと思いますか?ご意見をお聞かせください。

Aベストアンサー

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
 前田利家が擁護派とならざるを得なかったのは、領地力差が大きく開いていたからと考えることもできます。
 もしも、家康と利家の領地をひっくり返していたら、利家は豊臣を擁護したのか、などなど。
 当時としては、力を失った主家に取って代わるのはあたりまえの考え方があり、私としては、もしも、家康より長生きしたとしても、徳川との実力差から保身に走ったと思います。また、擁護派を貫き、徳川を滅亡に追いやったとしたら、最大の実力者として豊臣の滅亡か無力化に奔走するということとなったと考えます。

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
 ...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q百万石

時代劇でよく使われる「百万石」とは、どれぐらいですか。
分かりやすく教えていただけますか。

Aベストアンサー

No.7です。ご質問が地位や権威についてとのことですので、補足します。

石高は領地から採れる米の収穫量で、その藩の経済力の指標となりますが、必ずしも地位や権威に比例するわけではありません。

地位や権威については、朝廷の位階、幕府内での順位、将軍との血縁等、様々な尺度があって、一概に比較するのは難しいのです。

例えば加賀百万石前田藩の場合、歴代城主は(十二代斉泰の正二位という例もありますが)大体正四位下が普通でした。朝廷の位階としては、他の大名と比較して特別高いものではありません。

幕府内では、大廊下下之部屋詰めで、御三家、御三卿に次ぐ格式でした。しかしあくまでも外様なので、政治の要職に就くことはできませんでした。その意味では、老中や側用人の方が実権を持っていたと見ることもできます。

金銭面については、No.6の回答の通りです。身分としては、町民はもちろんほとんどの武士にとっても雲上人に等しいのですが、貨幣経済の見地では、その差はかなり縮まることが分かります。

Q徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

こんにちは。

私の手元に、「江戸(嘉永)時代大名紋章及び城郭図」という地図があり、それを見ていて疑問に思ったのですが・・・。
徳川家は八百万石という力を持っていたにも拘わらず、江戸と呼ばれる範囲はあまりにも小さいと気が付きました。
他の裕福な藩は(加賀など)広々とした領土なのに、どうして徳川家の領土(城下町?)はこんなに狭いのでしょうか。
江戸以外にも、直の領土があったのでしょうか。
それとも、広い城下町を持つ必要がなかったのでしょうか。

教えていただけたら、ありがたいです。

Aベストアンサー

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。
大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。
この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。
佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代に...続きを読む

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q関ヶ原の戦いで前田家が東軍に味方した理由は?

題名の通りです。
歴史の勉強をしていて詰まってしまいました。ネットで探しても本で探しても全然見つからないのですが、私の見落としかもしれませんので、もし参考になるHPや本などありましたら教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

先の回答者さんがおっしゃるように、徳川家康から向けられた謀反の疑いを、母を人質に出して回避した前田家でしたが、関ヶ原の戦いで東軍に味方したのは利長で、弟の利政は西軍にくみしてします。
(ただし、利政は西軍を表明しながらも、七尾城を出て合戦に参加することはありませんでしたが)

また、西軍には、娘婿の宇喜多秀家が主力の1人として参戦しています。
つまり、「どっちが勝っても良いように保険をかけていた」のだという事だと思います。

東軍が勝ったので、利政は領地を没収され隠居生活を送りますが、その没収された領地は、利長にいきますから、前田家全体としてはプラマイ0です。
もちろん、この後、兄が京都で暮らす弟を援助し続けています。

また、西軍として参加して八丈島に流された宇喜多秀家には、実家の前田家に戻った奥さんを通じて援助の品を送り続けてもいます。

なので、逆に西軍が勝っていたら、宇喜多秀家と利政が、負けた利長を援助する手はずになってたと想像しています。

Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Q加藤清正と福島正則はのちに石田三成に着いたほうが良かったと思ったのか?

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。

●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

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Aベストアンサー

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。

これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対し...続きを読む


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