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インドで発祥し、中国を経由し、日本に伝わったことから、サンスクリット語の音を、中国で漢字表記し、そのまま日本へ直輸入といった流れのように想像していますが、
サンスクリット語(または発祥の地で使われていた言語)に長けた人の前で「ナムアミダブツ」と発音したら通じるもんなんでしょうか?
あるいは、「南無阿弥陀仏」を中国人に中国語読みしてもらい日本語読みとは別の発音となって初めて伝わるものなのでしょうか?
質問タイトルの「印度」はインド人には通じないですよね。これはおそらくインドの音を日本語で漢字表記しただけですから「印」にも「度」にもインドと直接結びつかない訳です。(フランスが「仏」や「蘭」を特に象徴する国ではないのと同様)

私は仏教徒を語るほどの信者ではありませんが、死亡時は仏教で葬式をして、墓に入ることとなろうと思われます。その際、ほとんどの弔問者が「まったく意味のわからない言葉」を発してることとなるわけですが、まあそれはそれで葬式仏教として良しとして、仏教を信仰するのに原典の意味を考える作業は必要ないのでしょうか?
公明党の先生にご回答願いたいですが無理ですね、きっと。

海外では漢字の刺青が流行っているようですが、彼らは漢字の意味を理解せずデザインとして取り入れているので、「ドクロの横に『笑』の漢字」や「ドラゴンがすごんでいる絵柄に『酢』の漢字」みたいな、漢字の意味を知っていれば、爆笑されそうなことを好んでしています。
しかし、そういわれてみれば、自分だってそれほど極端でないにせよ、同じようなことをしているような気がして質問にいたりました。

カテ違いかも知れませんが、その場合どこに移動すべきかご指摘ください。

A 回答 (5件)

こんにちは



「南無阿弥陀仏」これって、密教のマントラのことと感じます。
だったら、発音の正確さは重要、ちなみに密教、チベットの場合、"改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行"が、有名で、マントラ、瞑想方法等の記載が、あります。

あと、個人的感想で恐縮ですが、なぜ、こういう風に変わったかは、やはマントラの本質を理解できていなかったことと、ナム=南無、あとは対象の仏陀が、中国の阿弥陀仏だったので、そう表記されたものと。
正確・・ではないかもしれないが・・には「ナム アミターバー」とでも、呼ぶのでしょうか。
又、このマントラの意味も重要。例えば、この「ナム アミターバー」と唱えても、阿弥陀仏になにを、お願いというか、何を伝えたいのか、わからないでしょ??
意味は直感でわかるのですが、書いて良いかどうかが、不明なため省略。ちなみに、有名な「オ○ム ○ニ・○メ ○ー○」は、欲界のカルマを切る。という意味だったかと・・一部、伏せてますが。

この質問に関して??、以前、父の葬式等で感じました。漢文の発音で、お経をあげてもらいましたが、私自信も、それが、何を言っているのか、わからないから、父もお経を唱えてもらって、理解できるのだろうか??と。
まさか、死んだら・・漢文の発音を理解できる??のかな??、まさかね。

"海外では漢字の刺青"は、そのとうり。ただ、デザインの感覚のみで使用されるものと。
あっ、今回の回答、趣旨と違ったら、ごめんなさい。
以上
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
回答文を読んで漠然と感じたことなんですが、密教、マントラ、瞑想修行、書いて良いかどうかが、不明なため省略、「オ○ム ○ニ・○メ ○ー○」などを読むと非常に興味をそそられます。伏字の文は「有名な」とありますが、何が当てはまるのか想像もつきません(苦笑)

神秘的であるが故、魅力的だったり、難解であるが故、ありがたく感じるってことはあるんで、伝達方法としては有効でしょうね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/11 14:13

#1です。



 丁寧な御礼有り難うございました。
 詳細なご回答も挙がっているので、どうしようかな、と思いつつ出てきました・・・

 お経がそのまま読まれているという点ですが、前回触れた経典信仰の他にも、古代は知識人が漢文を読めることが普通だったこと、経典信仰と関連して、お経(経文や経本)自体がある種の呪力を持つものとして扱われるようになった等、何点かの要因があるかな、と思っています。

 漠然としていて申し訳ないですが、要するにお経が「有り難いもの」と思われていた、ということがキモかな、と思います。
 「信仰」ですから、「お経に有り難いと書いてあるから有り難いのだ」というある種の堂々巡りが容易に成り立ちますし、お経を有り難いものとすることが流布に役立つという側面もあったでしょう。信仰する側にしても、経典の内容よりも信仰によって得られるものをまず求めたでしょうし。
 とくに外来宗教として仏教を受け入れた日本では「何事か良いこと(効果)がある」ことを求める傾向は強かったと思います。

 これは顕著な傾向だと思いますが(そして自分も必然的傾向かと思っていますが)、ただ単にお経が「有り難いもの」と感じられ、扱われるという傾向、またそういう人の意識・感情が急速に薄れているという印象があります。
 ご質問者さんも、そういうふうにお感じになっておられるのではないでしょうか?
 科学が発達し、教育水準や個の地位が上がり、さまざまな情報が得られる現在、呪文と化したお経を「前近代的」とお感じになられても、それはそれでおかしなことではないでしょう。

 解釈というのも一通りではないでしょうけど・・・
 宗派によって一概に言えないところではありますが、経典信仰はいささか強調され過ぎた、というのは言えると思います。(禅系宗派では経典信仰は本来薄いですが、やはり読経や祈祷を行いますし。)

 経典は、真理に到達させる「手段(=方便)」とされます。方便も経典・論書で強調されるのですが、経典信仰を強調するあまり、手段が固定化されてしまい、機能していないように感じます。
 手段の固定化は、日本の「宗派」というものにも言えるかと。(宗派はまだ機能を失ったわけではないでしょうが・・・)

 方便は智慧をもって自在に駆使されて始めて有用なものになると思います。手段を手段として生かすためには、お経の内容(できれは歴史的な経緯なども含めて複数のお経)を知るということはきわめて重要だと思います。個人的には、そういう人が増えるとよいな、と思っていますが・・・では。


 
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この回答へのお礼

>お経がそのまま読まれているという点ですが、前回触れた経典信仰の他にも、古代は知識人が漢文を読めることが普通だったこと、経典信仰と関連して、お経(経文や経本)自体がある種の呪力を持つものとして扱われるようになった等、何点かの要因があるかな、と思っています。

封建主義社会であった時代的背景を考えると、インテリゲンツィアの驕りがあったのか、大衆にはシャーマニズム的な神秘性をあえて残したほうが、受け入れやすかったのかも知れませんね。

私の考え方は、「キリスト教でいうところの聖書=仏教のお経」にとらわれすぎているのかもしれませんが、たとえば聖書を読んだ際、信仰を統制するための書と感じ神学的な文体が鼻について、どうも読み進む気が起こりません。一方お経はそこにも達しない。まったく理解できない。なんだこりゃ?となってしまうんですが、そういわれてみれば、「科学で証明できる極楽浄土」や「5分で解る般若心経」なんてものがあったとしても、まったく引きつけられるものはないですね。

>経典は、真理に到達させる「手段(=方便)」とされます。方便も経典・論書で強調されるのですが、経典信仰を強調するあまり、手段が固定化されてしまい、機能していないように感じます。
 手段の固定化は、日本の「宗派」というものにも言えるかと。(宗派はまだ機能を失ったわけではないでしょうが・・・)

非常に共感を覚えるものですが

>これは顕著な傾向だと思いますが(そして自分も必然的傾向かと思っていますが)、ただ単にお経が「有り難いもの」と感じられ、扱われるという傾向、またそういう人の意識・感情が急速に薄れているという印象があります。 ご質問者さんも、そういうふうにお感じになっておられるのではないでしょうか?

ドキッとしました(笑)

何度もお付き合いいただきありがとうございます。非常に参考になりました。再度のご回答感謝いたします。

お礼日時:2007/02/11 13:58

私は浄土真宗を信仰する人間でが、


>>海外では漢字の刺青が流行っているようですが、彼らは漢字の意味を理解せずデザインとして取り入れているので、「ドクロの横に『笑』の漢字」や「ドラゴンがすごんでいる絵柄に『酢』の漢字」みたいな、漢字の意味を知っていれば、爆笑されそうなことを好んでしています。
しかし、そういわれてみれば、自分だってそれほど極端でないにせよ、同じようなことをしているような気がして質問にいたりました。
というご意見非常に共感いたしました。公明党(創価学会)の人間ではありませんが、阿弥陀仏のことでしたら少しお話できるかと思います。


 「阿弥陀仏」はサンスクリット語でAmitayusu(アミターユス)もしくはAmitabaha(アミターバ)という表記をされます。前者は「無限の寿命を持つもの」となり、後者は「無限の光を持つもの」という意味になります。この二つ源名の両方に相当する音写語が「阿弥陀」という名前になります。また漢訳仏典ではこの阿弥陀という名前に並んで「無量寿」という名前が用いられますが、これは文義の通り「Amitayusu」に相当するものですが、実際は「Amitabaha」の訳語として用いられることも少なくないようです。別々に訳すときは「無量寿仏」「無量光仏」と訳されます。
 続いて「南無」はサンスクリット語でnamas(ナマス)・na-mo(ナーモ)・namah(ナマハ)に相当します。「なも」と読むこともあり、「納莫(のうまく)」とも音写されます。意味は「敬意を表すために身体を折り曲げること」で、帰依・帰命頂礼と意訳されます。また、「南無帰命頂礼」と重ねて使うこともあります。
 以上が「南無阿弥陀仏」の言語としての意味です。南無阿弥陀仏は音写の言葉を繋げた言葉ですから、日本人の変な英語がアメリカ人に通じるように、案外サンスクリット語に長けた人なら分かるかもしれません。しかし、私も試したことはないのでちょっと分かりません。機会があれば私も聞いてみますが、やってみて通じたら教えてください。
 
>>仏教を信仰するのに原典の意味を考える作業は必要ないのでしょうか?
と質問にありますが、原典とはサンスクリット語経典ということですかね?それとも、原点てことですかね?どちらか分かりませんが、前者であればしたのサイトをお読みになるとサンスクリット語経典浄土三部経のうち、「仏説無量寿経」「仏説阿弥陀経」がのっています。

 原点ということでしたら、阿弥陀仏の起源をご説明します。
 浄土教の信仰対象である阿弥陀仏ならびに極楽浄土の思想が、どのような理由によって起こったかという問題は、資料や文献がほとんど失われている古代インドにおいて、その信仰の起源を探るのは非常に困難なことです。いまだにその的確な回答は出されていません。ですから、代表的ないくつかの説をご説明します。
 大乗仏教経典は主にカシミールおよびネパール地方より伝わったものが多いので、この地方に阿弥陀仏の起源を見ようとするものです。もともと、カシミールやガンダーラといった西北インドはは、イランの宗教の影響を多分に受けている土地であるから、阿弥陀仏信仰の起源をイランの古代信仰に求める説があります。この学説は主としてヨーロッパの学者が称える説で、阿弥陀仏の名前である「アミターバ」は無量の光明を有する仏ということですから、この観念はイランの太陽神崇拝の影響によって成立したとされます。そして、ゾロアスター教の善神悪神との両者を超越し、根源的存在として見られる「無限時」との関係において阿弥陀仏のもう一つの名である「アミターユス(無量寿)」という観念が成立したと論ずる説があります。
 また、原始大乗仏教の保護者であるスキシヤ族やイラン人は、元太陽神崇拝の種族であったから、阿弥陀仏の信仰はイラン人のオルズムという太陽神に由来し、それが仏教の中に取り込まれたことによるという説があります。

 これに対して、インド内部の思想に阿弥陀仏の起源を求めるものもあります。主に日本の学者が称えるものです。それは、ヴェーダ聖典に説くヤマ天(耶摩・日本で言う閻魔の語源とされるが人物ではなく、ここでは場所)は無上幸福のところであり、また安穏不死の世界であるとされている。そしてヤマの本体は太陽であって、無限の光を有するものであるとされています。このことから、阿弥陀仏の極楽浄土の光景はヤマ天のありさまをさらに誇大に記述したと考えられるところから、阿弥陀仏信仰の起源をヤマ天に求めるものがあります。
 また、梵天神話に起源を求めるものがあり、梵天世界の叙述に現れる梵天の玉座の観念が無量光につらなり、また玉座をプラーナ(生気)と呼ぶ点が無量寿の観念に結びついたとする説。
 さらに、インドのヴィシュヌ神話に起源を求め、この神への信仰が阿弥陀仏なる仏を作り上げたのではないかというもの。ほかには、西方の守護神ヴァルナを起源とする説や、アグニという神の呼称に関係を求める説等があります。また、最近の研究でアミダという仏教者が釈迦存命中に存在したという説があるが、阿弥陀仏がその人物であるかは定かではありません。

 このように阿弥陀仏の起源はさまざまな説がありますが、その発生は西北インドであるようです。それは、中国に阿弥陀仏経典を伝えた訳経家の伝記にうかがうことができる。阿弥陀仏経典を含めた大乗仏教を伝えた支婁迦纎(しるかせん)・竺法護(じくほうご)・鳩摩羅汁(くまらじゅう)等の四世紀以前の訳経家は、西北インドと縁の深い人々で、出身地や遊学の地で阿弥陀仏信仰を見出したということでありましょう。西北インドが発祥の地であることに意義は見られませんが、その中で具体的な場所は種々の学説がありますが、いまだはっきりしていません。

 
 経典ということで言えば原典をあたるサンスクリット語経典は当たったことがありますが、非常に難儀なものでした。どちらかといえば漢訳経典を当たったほうが賢明かと思います。そのかわり一つの訳にこだわらず、読んでみてはいかがでしょうか。
「無量寿経」
1、『無量清浄平等覚経』支婁迦纎 訳
2、『仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏壇過度人道経』(『大阿弥陀経』)支謙 訳
3、『無量寿経』康僧鎧 訳(浄土三部経に数えられています)
4、『無量寿如来会』菩提留支 訳
5、『大乗無量寿荘厳経』法賢 訳
「観無量寿経」
1、『観無量寿経』畺良耶舎 訳(浄土三部経に数えられています)
2、『観無量寿仏経』曇摩密多 訳
「阿弥陀経」
1、『仏説阿弥陀経』鳩摩羅汁 訳(浄土三部経に数えられています)
2、『称賛浄土仏摂取経』玄奘 訳
論書としては
『無量寿経優婆提舎願生偈』天親著 菩提留支訳
このなかで、浄土三部経と最後に挙げた「願生偈」をもって三経一論といわれます。また法然上人はその主著『選択本願念仏集』のなかで、他に浄土を説くお経・論書としてこのようなものを挙げています。
経典
1、『華厳経』
仏駄跋陀羅訳・実叉難陀訳・般若訳の三つがある。
2、『法華経』
竺法護訳・鳩摩羅汁訳・闍那崛多と達磨笈多共訳。このうち鳩摩羅汁の『妙法蓮華経』が最も広く読まれている。
3、『随求陀羅尼経』
不空訳・宝思惟訳の二つがある。
4、『尊勝陀羅尼経』
仏陀波利訳・杜行顗訳の二つがある。
論書
1、『大乗起信論』馬鳴著といわれる 信諦と実叉難陀共訳
2、『究竟一乗宝性論』堅慧著 勒那摩提訳
3、『十住毘婆娑論』龍樹著 鳩摩羅汁訳
4、『摂大乗論』無著著
が挙げられています。日本のものであれば、
『選択本願念仏集』法然
『一枚起請文』法然
『徹選択本願念仏集』聖光
『顕浄土真実教行証文類』親鸞
『歎異抄』唯円
などがあるでしょう。
日本における念仏の信仰を学ぶのでしたら、日本の祖師の解釈を学んだ方がよいと思います。原点に帰ることで見えることもありますが、入門編としては日本の祖師の解釈を学ぶほうが、日本人としては受け入れやすいのではないでしょうか。現代では幸運なことにこういったものの現代語訳も多く出ています。手にとってみてはいかがでしょうか?入門書としては『歎異抄』なんかが読みやすいと思います。
 個人的には
『無宗教からの「歎異抄」読解』 (ちくま新書) 阿満 利麿 著
がお勧めです。

最後に一つだけ
>>まあそれはそれで葬式仏教として良しとして
と質問の中にありますが、私も俗にはボーズと呼ばれるものの一人です。葬式に出るときは「その人の最後にめぐり合わせていただくんだ」と思って勤めさせていただいています。それを機縁に仏教を広めようと勤めています。寺の怠慢もあるかもしれませんが、そういった機会がなくては一般の方がなかなかお話を聞いてくださらないというのも確かです。ですから、形式だけだと葬式仏教を嫌わずに、葬式仏教の善い所も見てやってください。
 余計なことを言いました、ごめんなさい。悪しからず。

本当に長々駄文を書き連ねました。申し訳ありません。的はずれなお答えだったとは思いますが、参考にしていただければ幸いです。
  合掌 南無阿弥陀佛

参考URL:http://mujintou.lib.net/skttexts.htm
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この回答へのお礼

詳細にわたり、親切でお丁寧な解説ありがとうございます。
「南無阿弥陀佛」については、信仰の対象の前で平伏し挨拶をするといった象徴的な行為と、概ね理解しました。
この通り、その後に続く経文は、サンスクリット語にさかのぼり、学者レベルのセンテンスで読み解く、またはご紹介いただいた書籍をあたる以外なさそうですね。

NO1様のお礼欄に「論語」の例示をしましたが、「子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来・・・」に相当するものが、「南無阿弥陀仏・・・」ととらえ、経文の現代語訳読み下し文はないのか?なぜその方向に転換しないか?若干シニカルな意味を含め疑問が残ります。
がしかし、その後考えたのですが、「そういった観念体系でない」とも思えてきました。形而上学、神学、あるいは経学的見解で考察するものであって、私のような凡夫が、「近代合理主義」になぞって理解しようと到底無理なことかもしれません。

拙文の中から私の意中をご高察いただいてのご教示、深く感謝いたします。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/11 13:24

死後極楽浄土行きを願う阿弥陀信仰は、インドを離れた後現在のアフガニスタン周辺で生まれました。


ペルシャのゾロアスター教の影響を受けて形成されたとされています。
それが、中国でさらに変換されて来日します。
そのため、インドには、阿弥陀信仰が基本的にありません。
ただし最近は、日本の仏教界がインドでの布教を行っているので、阿弥陀信仰の人もいるかもしれません。

もし、インド人で、南無阿弥陀仏を理解する人がいたとすると、それは日本から持ち込まれたものである可能性が非常に高いとお考えください。
また、サンスクリット語は、現在のアフガニスタンからパキスタンでの古代言語ですから、インドではそもそも通じないと思われます。
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この回答へのお礼

>サンスクリット語は、現在のアフガニスタンからパキスタンでの古代言語ですから、インドではそもそも通じないと思われます。

インドでは通じないであろうとは、想像していましたが、
>サンスクリット語(または発祥の地で使われていた言語)に長けた人
なら通じるんでしょうか?それとも解説いただいた複雑な経緯の後、原語を留めないほど変化してしまったのでしょうか?(国々の自国語で発音しやすい様変化するのは想像できます)

>インドには、阿弥陀信仰が基本的にありません。
そうなんですか、まったく知りませんでした。ひとつ勉強になりました。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/10 22:32

こんにちは。



 かじった程度なのですが・・・お邪魔します。(一応、自称仏教徒ですが、浄土系でも日蓮系でもない者です。)

 「ナムアミダブツ」は、通じないでしょうね。インドの方に言ってみたことはもちろんないですが、賭けても良いです。
 阿弥陀仏の真言「オンアミリタテイセイカラウン」を、正確に発音しれば通じるでしょうが、サンスクリット語は現在使われていないですし、真言は言葉として通じても、あまり意味らしい意味がない場合が多いですね。

 経典が漢訳される際、「訳」してしまうと意味が失われたり、支障があると考えられる言葉は、当て字か梵字表記をされました。真言・陀羅尼などはだいたいそういう扱いですが、仏様の名前はいろいろで、阿弥陀如来は訳されて「無量寿如来」「無量光如来」と呼ばれることもあります。通常訳名で呼ばれている仏様も原語が記録されていることが多いですね。
 原意や原典を探ることは興味深いものではありますが、実際は、これからも学者さんの領分のままでしょうね・・・サンスクリット語を習得すること自体がものすごーくたいへんなことだと思いますし。

 浄土三部経や法華経は原典が見つかっています。原典に当たることはとても大切なことだとは思いますが、信仰する者すべてが原典を当たることは実際上はムリかな・・・と思います。むしろ現代語訳でお経を読んでみる方が実になるかと。

 「南無阿弥陀仏」と唱える・想うことは、阿弥陀仏の「はからい」の中に生きていることの確認・感謝の意味だろうと思うので、結局、言語が何語であるかは問題とはされないのだと思いますが・・・(たぶん)

 漢訳経典をそのまま読んでいるのは、経典自体への信仰に由来するものかなと思います。(「南無妙法蓮華経」と唱えることも経典への信仰の表明。)
 お坊さんがいきなり「そのときわたしはききましたー」とお経の現代語訳を唱えたり、流暢なサンスクリット語で原典を唱えたりすれば、それはそれでヘンでしょうし・・・(面白そうだけど)

 仏教導入の経緯、経典自体への信仰、経典(教え)を仮の筏(悟りに至るまでの方便)とする考え方、仏事を行うことを「徳を積む行い」とする考え方、それに葬儀や先祖供養が仏事になっている日本独自の事情などが入り混じって「何言っているのかわからない、しかも原典でないお経を唱えてもらったり、唱えたりことが仏事」になっているのだろうと思いますし、言語が何語でも気にしないことにも関連しているのかな、と思っています。

 般若心経なら、サンスクリット原典を解説した読みやすい(?)書籍があります。もし未読であれば一度、原典というのはどういうものか触れていただくのも良いかな、と思いますが。

涌井 和『般若心経を梵語原典で読んでみる』明日香出版社

 長々と失礼しました。では。
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この回答へのお礼

早速のご回答感謝いたします。
結局のところ、
> 漢訳経典をそのまま読んでいるのは、経典自体への信仰に由来するものかなと思います。
あたりが正解なんでしょうかね。

質問が発展してしまいますが、たとえば「論語を読んだ」といった場合、原典の「子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来・・・」を読んだのでは普通意味がわからないですよね、そこで日本現代語訳の「子のたまわく、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや・・・」を読んで、まだ意味が理解できず、解説を読んで「孔子先生は仰いました。学んで時々復習し・・・」となってそれでもなお、「時々ではなく『時を選んで』『適時に』ではないか?」といった作業の後、理解に至るものと思います。

上記の例示にならって考えると、現在行われている読経は「意味不明の文字の羅列を見て音として発しているに過ぎない」とも思えます。
がしかし、本来「読経する、念仏を唱える行為」に神学(仏学)的意味があり、経典自体を紐解くことは重要としていないとも思えます。
ご紹介いただいた書籍があるくらいだから後者が正解かもしれませんが、
誤解を恐れずに言ってしまうと、「原始的」というか「前近代的」な気がしてしまうのですが、どう解釈すべきでしょうか?(お忙しいようでしたら、スルーしていただいて結構です)

大変わかりやすい解説ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2007/02/10 22:15

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