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教えてgooやっていて、自己満足のために回答しているひとが結構いるもんだなと思いました。質問をちゃんと読まないで答えたい事を答える。
社会も体勢はそうで、いらないものを売りつけたり、とにかく自分の利益のために人の満足感とか求めるものとか幸せをないがしろにするパターンの多い事には、絶望感も麻痺してしまうほどです。

もし、ユートピアかも知れませんませんが、
「人も企業も人のためのみに行動する」
という社会が実現したらどうなってしまうのでしょうか。

A 回答 (27件中11~20件)

No.6です。



他者のため・・と言う場合
本当にそれが他者ならびに自分のためになるのか・・

その他者にとって最も大切なことは、本当に本人が望んでいることでいいのか、それで本当に幸せになれるのか・・

自分自身が他者のためと思って一生懸命に行動していることが、本当にその人のためになることなのか・・・

などど色々難しい問題が起こります。
これを解決できるのは当事者の「視野の広さ」です。


トンチンカンな善を為す場合、原因は当事者の心の視野の狭さだと思います。
心の視野が狭いから自分からみた解釈しかできないのです。
別の考え方があることが分からない・・。
他の間違った考え(のように見える行為)もその立場にたてば、それなりの事情と原因を抱えていることが理解できない。・・

人は誰でもこのような心の視野の狭さを抱えていると思います。
だからこそ争いが起こり、戦争が起こり、世の中の不平等が存在します。

世の大宗教家、哲学者などと呼ばれている方々は、歴史上最も視野の広い人たちでしょう。

でも、一般人はその狭い心の視野の中で、精一杯意考えて、誠意を尽くすしかないでしょう。

そして、そのトンチンカンな行為によってかえって恨まれたり、非難されたり、大切な人と決裂したりします。
そして相手のことを、何て酷い人だろう・・と憤慨し、自分の不幸、災難をなげきます。
中には人間不信に陥って、二度と人の為になんか尽くすもんか・・と言う人もいるでしょう。


しかし・・です。
人はその失敗の繰り返しの中で何かを学んでいきます。
時には逆の立場になって、ありがた迷惑を経験し、少しずつ相手の立場に立って考えられるようになります。

いつも心の中に「誠実さと思いやり」を持っている限り、心の視野を拡大していけると思います。

そして何時の日か、世の大宗教家や哲学者と同じくらい広い視野を持つことができるでしょう。

他者に対する思いやりや誠意をもたない人は、遅々としてなかなか進歩がないかもしれませんね。
心の状態は本人にしかコントロール出来ないので致し方ありません。


人は所詮、精神のレベルがマチマチで、他人を本当に理解するなんて出来ないと思います。
それぞれのレベルで理解して、努力するしかないでしょう。

そして、自分の考えに沿って、
人生一度きり・・と思っている人は死ぬまでに出来る限り視野を広げ、達成感と幸福を味わう・・

「輪廻転生」を信じている人は、魂が人生の数だけ、その努力の数だけ視野を広げていける事を信じて、すべての努力がいつか実ることを確信しながら努力すればいいのです。

とまあ・・現在の私の視野の狭さでは、これくらいのことしか書けません。
他の色々な考え方も有るとおもいます。どうか悪しからず。
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この回答へのお礼

最後ご回答ありがとうございます。
人は現在ある能力で「良心」を持つことは可能だともいます。
それがあれば、心の能力をアップできなくても、ほとんどの問題は消えるのではないでしょうか。

能力のなさというより心の持ち方、良心の持ち方を誤っているために、人に不利益憤りを与えるような事態が起こる面のほうが大きくないでしょうか。

お礼日時:2007/03/06 12:36

お邪魔します。


一杯書いてありますね、大変だ。

別世界のお話ですが、どこぞのユートピアでは、箸が長いくて、自分では食べられない。
そこで、他人に食べさせてあげ、その代りに、自分も食べさせてもらう。
めでたしめでたし。

でも、そこに、習慣が出てくると大変、あの人は箸使いが素早く、沢山くれる。
あのひとは、箸使いが下手で、手前で落としてしまう、あらあら、いつの間にかグループ化。

ある人は、ひたすら他人を食べさせて、自分の食べる暇もない、死んじゃう、もう死んでるか。

例えば「人の為」と一言で言えますが、それは何でしょうか。
「私」に対する「他者」の存在ですが、それは私たちの理解を超えて無限に拡大します。
私たちの消費する石油は廻り回って、イラクの子供達に自爆の武器を授けるのかも。

シャルル・フーリエは「四運動の理論」だったか、
人間の限界を考慮して、小さな共同体を模索したようですが、成功したのだろうか。

ユートピアという概念は有りますが、万人に取っての「ユートピア」は不可能でしょう。
私たちは他人と比較するし、同じで居たく、同様、違っていたい、不思議な生き物です。

以上、自己満足と自由意志の証明でした。
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この回答へのお礼

たしかに、何が人のためか分かりませんね。人心を超えた問題です。
ただ、「良心」ということは自己管理できるはずです。それを意識できるかできないかの社会は随分違ったものになるのでしょう。

お礼日時:2007/03/06 12:32

鍵と警備、銃器が無くなります。


鍵は象徴ですがそれに類する全てのロックが解除されることになり、商品、サービスは無料、刑法、刑事訴訟法などが形骸化することとなります。個人財産、所有権の意味が無くなり、他者優先ですから列の最後尾からサービスを受けられることになり高級食材もホームレスに優先して与えられることになるでしょう。
ユートピア目指して実践あるのみ。
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この回答へのお礼

かもしれません。突き詰めるといい社会になります。
ただそこまで行かなくても、もっと精神的に充実した安心できるものができるのではと。犯罪はあってもいいけども、「悪意」などのマイナス感情は消滅したほうがよいと。

お礼日時:2007/03/06 12:30

いつも通りの返信内容ですね。

 


>レストランでビーフカレーを頼んだらうどんが出てきたという類のものです


なるほど!
相変わらず挑発的ですね。
挑発されると 私 燃えてしまいます。(苦笑)


それがあなたの個性なのでしょうね。
いいですよ その個性。 びりびりしびれます。



さて 一般とはなにか みんな とはなにか。


ある人が浮気しました。
問い詰められた男が「だって <みんな> やってるじゃないか!」と開き直りました。

「みんな 本当にやっているのか? 誰がやっているのか」と問いただすと、

「えっと。。。部長が浮気している」という。

「他には誰がやっているか? みんなといったからには他に誰がいるのか」と言うと黙る。

「部長一人が みんななのか?」と問いただすと、さらに黙った。



部長が浮気をしているから、みんなやっているということにはならない。

ということを前提にして。



>社会一般の傾向ですけど

あなたは一般とはどんなものか知っているのですか?
他の人が認識する一般社会とそれは同じですか?
あなたにとって一般社会という概念は、あなたのフィルター越しに見える世界であって、他人には通用しない かもしれないという疑いを持ったことはありませんか?

辞書に「これが日本の一般社会」と書いてあります?

そもそも 実は この一般という言葉が怪しいのです。
日本国民 全員中流家庭? 実に怪しいです。
(ちなみにアメリカでは100人に一人が億万長者らしい)


一般とするものが、半数が 「まあいいでしょう」とすれば、それは一般になるのか?
じゃあ 残り50人はどうなるのか?
無視か。
50人無視の社会がまかり通る世の中が普通なのか。

あなたの考えで行けば 普通なわけですよね。


私にとっては ひどい社会だ です。
個人を無視している。
個性を撲殺してまるでロボットのようにしようとしている。


人それぞれ違う。
本音と建前を人間は使い分ける。
この事実を無視してしまったら、哲学的な話はできません。
哲学は理想論を述べる学問じゃない。
あくまで 現実に沿って考えなければならない。
実は一般など無い 実は普通など無い これが普通の社会 普通の人生なんてものは な い。
 

人のためにのみ尽くせがユートピア?

伐採しまくって家をたてて みんな豊かになったと思ったら、その伐採にしすぎて 全滅。
後先考えない一時的なユートピア。

食べつくしてしまい 自然のサイクルを無視し 人間のみに重点を置いた結果、干ばつで食料不足。

あれ? 天に穴が開いちゃった。 
人間が増えたことで家畜が大量になり、げっぷのせいで?
人間が増えなければ 家畜もそんなに増えずに住んだのに。
家畜のエサをやるため、アフリカの援助して植民地っぽくしたら、アフリカが飢餓になった。

人のため とやっていたら、大量餓死が発生している。
これ 無視して、ユートピア?

ふざけるな! です。

この天然平和ボケ です。


一般という言葉ほど 都合がいいが危険な言葉はない。
そして人間個人を無視する凶器にもなる。

だから 普通 とか 一般 ってとても難しい語彙だと思います。



「あれ」「それ」ではわからない。
「あれ」は人によって違う。
「それ」は人によって違う。

それを「あれ」は全員同じものをさすと思っていると、とんでもないことになる。
「あれ」では駄目。もっと詳細に対象を描かないと。

自分のあれ と他人のあれ は違う。


今度は フォアグラを頼んだつもりで「あれ」と言ったら。、ラーメンが出てきたでしょうか。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
ただ、面白いと思いましたのは、私の今回質問した事とほとんど関連性のない言葉尻を問題にされていらっしゃるので、ちょっと悪い事をした気がしています。
「社会一般」はあまり関心がなかったといっていいので。
ただ、新しい方面で考えさせられました。
この多様な価値観というものをどうまとめて行ったらいいものか?
それは大事な事です。
それが「道徳性」なのかなと。そのために各人が普遍的に「思いやると」「謙虚になる」「マナーを気遣う」などの常識的意識が植え付けられなければと感じるわけです。いまさまざまな常識が浸透しています。キャッシュカードで引き出したり、インターネットしたり、昔にはなかった常識です。なので、「無関心無理解無マナー」という常識?が「関心理解マナー」という常識に変わることが大事です。

お礼日時:2007/03/06 12:28

自分はNo.6さんと考えが近いですが、


社会の大概の問題は解決すると思います。
なぜそう思うのかというと、

このことは、価値観うんぬんではなく人間の基盤のような所でみるなら、
現在の社会の悪い側面がエゴによって出来上がったものであるなら、
エゴの問題を解決出来さえすれば、
それによって付随して生じた現象も含めて解決されてしまうだろうと思うからです。

僕自身、エゴは持っていますが、
このことについて本気で考えている人とそうでない人とでは、
全然違うと思います。
また、このことについて僕自身宗教的感覚は持っていませんが、
宗教でこのことがよく言われるのも分かる気がします。
来世がどうこういうことについてはあまり真に受けてはいないですが、
大切なポイントだということは分かるつもりです。
ただ、自分なりに極めていくことができなければあまり意味がないとも思いますが。
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この回答へのお礼

まったく同感です。
道徳の形骸化無力化があると思います。
今はエゴをあまりにも放置容認している社会ですね。

お礼日時:2007/03/06 12:22

こんにちは。

お世話になっております。
すばらしいご回答が並んでいますね。とても参考になります。

質問の意味を確認したいのですが、
>「人も企業も人のためのみに行動する」という社会
:ということですが、これは、人や企業が、己の欲求を殺し、己を犠牲にして、
進んで他者の奴隷になり、他者に奉仕する、という意味を含みますか?
そうだとしたら、「してもらって当然」的な、「傲慢な人」だらけになり、「喜び」「感謝」
というものがなくなり、淋しい世界になるのではないでしょうか。
No.9様のご回答を拝借しますが「自我を喪失した社会」になり、
「精神疾患が急速に増えるのではないか」と思います。
No.12様のおっしゃるところの「偽善者(自己実現の対象として他者を使う人)」だらけに
なるのではないか、とも思います。
生身の人間の、「生きている」が無くなり、ロボットの世界になってしまうのではないか
とさえ思います。


そうではなくて、「人も企業も、他者の人生を侵害することなく、それぞれが他者を
尊重しあう」社会、ということですか。
そうだとしたら、「人のために行動する」ということができるためには、まず、
「自分のために行動することができる」ということが、どうしても必要だと思います。
「人のために行動する」のと「自分のために行動することができる」というのは、決して
「相反すること」「矛盾すること」ではないと思います。
自分には、自分の欲求に耳を傾けそれを表現する権利がある・自分を満たす権利がある、
ということを理解している人こそ、他人には、他人の欲求に耳を傾けそれを表現する権利
がある、他人には、それぞれ自分を満たす権利がある、ということを理解しているのでは
ないかと思うのです。
自分(の欲求や感情)に、ちゃんと「関心を持ち」「それを大切にできる」人こそ、
他者に対しても、関心を持ち、他者を大切にすることができるのではないでしょうか。
自分(の欲求や感情)に関心を持っている人こそ、自分(の欲求や感情)を「伝える」
ことができ、他者(の欲求や感情)を「受け取る」ことができるのではないでしょうか。

>自分の利益のために人の満足感とか求めるものとか幸せをないがしろにする
:これも、自分の幸福に、自分で責任を持つことができないから、つまり、自分の欲求に
耳を傾けることをしていないからこそ、他人を使って手っ取り早く幸福らしきものを手に
入れようとする態度ではないかと思います。


余談ですが、インドでは、善行を積むのは自分のためである、と考えられています。
ですから、物乞いをする人に、お布施をした人が、頭を下げて「善行を積む機会を与えて
くださってありがとう」というのだそうです。お布施を受けた人は、頭を下げないのだそ
うで、外国の旅行者は、そのことを不思議に思ったり腹を立てたりするのだそうです。
これは「他者に対して、してやった」的な傲慢さの仕業ではないでしょうか。
自己実現の対象として他者を使っていることを忘れているからではないでしょうか。

長くなってすみません。
申し上げたいことは、「人のために行動する」ということができるためには、まず、
「自分のために行動することができる」ということが、どうしても必要なのではないか、
ということです。
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この回答へのお礼

>これは、人や企業が、己の欲求を殺し、己を犠牲にして、
進んで他者の奴隷になり、他者に奉仕する、という意味を含みますか?
いや、そういう意図じゃないです。そもそもこの質問は言い換えれば
「もし悪意が消滅したら」っていうほうが強いんです。
「悪意」とはいわないでも、それに近いもの、金蔓に利用するとかそういう類の事、明らかに誠意の見られないものです。
もし、過剰な奉仕社会になれば、おのおの体力筋力精神力は弱っていくでしょうね。

>そうではなくて、「人も企業も、他者の人生を侵害することなく、それぞれが他者を
尊重しあう」社会、ということですか。
そうです。これなんです。

そのためには、自己の欲望希望をも大事にする必要がある、という事は納得いきます。しかし、それが自分勝手に他人に不利益を与えながら、という姿勢とかなり近いところにあるのが厄介なところです。

お礼日時:2007/03/06 12:20

何度か回答させていただいた気がします。


その説はお世話になりました。

納得がいく回答が得られない=回答者の自己満足だ といえるのか?

私も他でも質問することがありますが、いろいろな意見を聞く耳は持っているつもりです。
「どれも参考になる 回答してくれてありがとう」と刺激をいただいたという認識なので、「この回答は書いて欲しくないから削除してください」とか「この回答は聞くに値しないから読まない」とか「読んで損をした」「自己満足でしかない」など一度も回答者に対してそのような傲慢な気持ちを持ったことはありません。

それが議論に発展してしまった 喧嘩みたいになってしまった としても、<意見を交換したことことに既に価値がある> という認識です。

くだらない回答など思ったことなど一度も無い。

そういう考えもある 存在する と思い、どうしてその人はそう思うのか 回答をするのか 私とどこが違うから食い違うのか どうすればその人の思考を私が認識でき、一瞬同化できるのか、、、 など考えてしまうので、一つ一つの回答がどれも全て貴重なのです。


質問しては絶望感が芽生えるのに、どうしてまた投稿するのでしょうか?
実は絶望 つまり望みが0といいながら、実際は望みがあるという認識だから投稿するわけですよね。

つまり嘘をついてしまっている。

誰に対して嘘をついているのでしょうか?
参加者? それとも自分を騙そうとしている?

自分を騙そうとしているのではないでしょうか?
望みがあると思いながら、無いと口では嘘をついて自分を騙すことになれてしまっていませんか?

人も企業も人のためにのみ行動する?
もし 本気でそんなことを言っている人がいたら、この偽善者 大嘘つきの詐欺師! 自分を知れ!とその人に言ってしまいそうです。


例えば福祉で働く人。
やさしい人? 他人に思いやりがある人?
普通はいい人だという認識ですよね?

でも、結局 それも自己満足の域をちっとも出ていないじゃないですか?
親が病気でなくなって非常に悲しい思いをしたから、このような悲劇をすくなくするために医者になる というのも、結局は他人のためといいながら、実は自分のために他ならないからじゃないですか。

それなのに他人のため など言うなんて偽善者以外の何者でもない。

と思うんですよね。

湖に落ちて他人のために自分に投げられた浮き輪を他人に渡し、とうとう力つきて沈んでしまった。
ヒーローとしてニュースで流れ、他人はその勇者に涙する。
この偽善者! と思います。
そしてその浮き輪を他人に渡した人も、「他人が沈むことに自分が耐えられないから自分のため 他人に浮き輪を渡した」 つまり 自分のためにやった の域を出ていないと思うのです。


ひねくれていると思います?

他人にありがとう といわれることにどう思います?
うれい? つまり満足感を得たわけですよね?

他人に親切にしたのに「ありがとう」の一言も無い。
つまり 感謝を当然の行為として期待したから落胆したわけですよね。


最初から感謝を求めず、自分の欲望にそって他人にやった行為に対して、ありがとう の言葉を期待などしないですよね?
「当然です」としか言いませんよね?


あなたが落胆する理由は、下心があって質問したからですよね?
自分が納得のいく回答をもらえて当然である その身分だ くらいの気持ちに立った上で質問していません?

そして自分が納得できない回答を見て、憤慨するわけです。
よく 他人の回答に対して難癖つける人がいます。
「その回答は気に入らない」など。
じゃあ 他人の回答を批判せず、自分がこれと思う回答を書けばいいのに、それはしないで解答欄に他人の回答の批判のみ書く。
回答欄に質問に対する回答ではなく、他人の回答に対する批判を書くというおかしなことをする。

稀に解答欄に他人の回答をこれでもかと批判したあと、そうではなくとして自分の思う回答を書いて、自分の回答をさもすばらしいもののように美化しようと工作する人もいます。 実に浅ましい。 これも自己満足です。



質問者が「それは自分が納得がいかないから 自分の満足を満たしていないから あなたの自己満足でしなかない」というのも、結局 質問者が自己満足を求めているからに他ならない。



ええ、ええ。自己満足を求めない人間など私は知りません。
それぞれが求めているし、ある程度 これじゃないか と思う回答も人からすれば それはその回答者の満足であって 自分の満足には該当しない となるでしょう。
あたりまえです。 人は違うのだから。 価値観が違うのだから。
人間の価値観は全て共通のはずだ など 世の中に出ていない人の感覚でしかない。



私はよく自分が回答を書き込んだツリーの中で、他人の意見が「おおお」ってものだったら、その他人の回答に「参考になった」ポイントをどんどん入れる人なんです。

「お見事」という回答をした他の人に どんどんポイントをあげています。

つまり 質問者一人以外 多くの人が質問者が質問したことに対して考え、その見た人のほんのごくごく一部の人が回答を書き、その背後には膨大な人がそれらの質問に対して考え、他の人の回答を読み、参考にしたり、さらなる思考をめぐらしたりしているわけです。


見えないですよね たくさんの人が 満足を求めて読んでいるということが。
納得する回答が一つも無かったとしても、それは何かになる種だったかもしれない。
社会に対する投げかけだったかもしれない。
投稿することが、社会に対する投げかけだとしたら、満足する回答が無かったとしても、投稿したこと自体に価値があるわけです。

よく、以前の質問や回答がリンクされます。
そのリンクされたものに、「これ」という絶対的な回答は無い。
が、以前にもよく質問として挙げられた価値のある質問ではある として再度 浮上したりする。
質問者が満足できていないものでも、その中にある回答に価値が見出され、数年後 リンクとして新たな質問者にその過去の一連のやりとりが紹介されたりするわけです。




自分が満足得られない回答は書くな! と最初から書くと回答はもしかしたら返ってこないかもしれない。
「こんな回答が欲しい」と回答例を書いて、その通りにコピーして解答欄に書いてもらえば、一番質問者が満足するのか?

それこそ自己満足でしかない。

自分でわからないから、他人の頭を借りにきたわけですよね。
他人と自分は価値観も違えば、考え方も違う。
この前提に立たない限り、永久に不満足のままです。
他人と自分は価値感が違う。 では どう違うのか を知っただけでも、何か得たものはあるのではないでしょうか?
それが例えば自分が気に入らない回答であっても、どうしてその人がそう思うのか そういう人も少なからず世の中にはいる と存在を認識するだけでも、読んだ価値はあると思うのです。

例えば浅はかな回答だと思っても、そういう考えの人が少なからずいるのだ とわかったじゃないですか。
いないということにしたくても、実際はいるし それは無視できないし 同じ世界に住んでいる。

また、よくあることですが、新鮮で斬新な回答を読み、今まで越えられなかった思考の壁が越えられたということもあります。
もちろん 質問者からはポイントが付加されていませんが、私にとっては 大満足な新鮮な回答となるわけです。
質問者じゃありませんが、100ポイントつけたいくらいですが、残念ながら参考になった 為になった ポイントしかつけられない。
(まあ これも私の自己満足ですが)



ここは議論を目的にした質問をしてはいけないことになっています。
従って、どうしても、質問者や回答者の真意をつかむことは難しいです。
だから質問者は回答者と議論できないので、海の上の波しか捕らえることができず、回答者の自己満足でしかない となりやすい。
それは仕方の無いことです。


このサイトだって「人のため」だけの目的で運営されてはいませんよね。
表面上はみんなの役にたつためのサイトですが、無料で運営していませんよね。
参加者は無料ですが、広告でなりたっていますよね。
見る人が多いほど、テレビの広告と同じで広告費を高く設定できる。
結局 サイトを開いている理由はお金のため でもあるわけです。
生活のため であるわけです。
100%無料社会奉仕 ボランティアではない。
従って広告主の都合に沿わない投稿は、当然削除されます。
広告主が一番トップで、その次が参加者で、最後に運営者です。

このような背景があり、結局 それぞれの満足のために存在しているわけです。

でも、それでいいのだと思います。
人間は生きていくためにお金を稼がなければならない。
そんなのするな 私が養ってやる 金に縛られるな 見苦しい など私は毛頭言うつもりはありません。
自分を第一に思う。 それでいい。
しかし、金 金 金 は見苦しい。
それで衣を着せるわけです。

エデンでは何も変化が無かったのに、斬新なアイデアによって変化が訪れ、人は変化によって不幸を感じた。
神は人間に衣を着せた。
意味深な古代の哲学者の思想ですねぇ・・・・



えっと、、、あなただって、絶望感も麻痺するほど とマンモス絶望であるといいながら、性懲りも無く来ているってことは、何かしら得るものがるからと来ているという証拠ですよね。
変化を求めているわけですよね?
それは誰でなく 自分のための行動ですよね?
誰でもなく自分が第一 、他人のためではなく自分のために来ている ということを否定できますか?

衣が・・・・

この回答への補足

御礼は後程します。
私がここの例を取って問題にした(例であって本当の問題は社会一般の傾向ですけど)のは、

『明らかに質問内容と違う答えがある』

レストランでビーフカレーを頼んだらうどんが出てきたという類のものです。

補足日時:2007/03/02 12:26
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この回答へのお礼

回答していただいたのですから、私がお世話になったのです。kigurumiさんの理論で行くと、それも一種の感謝対象になるわけですね。

お答えの理論論旨はよく分かります。そういう究極的な汎恩恵思想とでもいうのでしょうか、それにそえれば問題ないでしょうね。ただ、そんなに寛大な心感覚を持つ人は少ないですよ。

もっと社会を摩擦なく回していくことが大事じゃないでしょうか。そのためには「注文と違う料理が出てくる」回答などというのは、私に言わせると「誠意の不足」です。
いろいろな回答パターンがあります。その中には本当に役立たないものもありますが、気持ちいいものもある。それは「これは役に立ちませんが、これを話しておきたいんです」という回答者の一種の謙遜と良心が見えるんですね。今回質問した直前に受けた回答、それでこの質問の動機となった回答は#2さんのお礼でも書きましたが「そんな質問同でもいい、私はこれこれを知っているので自慢させろ!」という類のものです。
これは駄目ですよ。
単純な話だと思います。

あまりに恩恵思想では、限界があります。

お礼日時:2007/03/04 17:42

私もジコマンゾクしてる者でしょうが、意見させて下さい。


私は、社会とは人が生きたいと望む中で作り出した生存システムだと思っています。
中には不都合や、生きる以上を望む者によって問題が起きることもあるでしょうが、それでも1人よりはましだから存続してるんだと思います
あなたが絶望しているのは、逆に言えば自分の生命が脅かされていないからじゃないでしょうか。
人の幸せを考える余裕がある、もっと言えば生きる以上の物を持っている人だから、他人を批判しているのでは。
あなたがまさしく死に直面したとき、あなたは他人の生を考え、自分の死によって他人を生かすことが出来るでしょうか、その覚悟は。

これは、自戒も込めた自分への問いです。
人は誰しもいつかは死にます。何の落ち度も無い人もいつかは去ります
もし「人も企業も人のためのみに行動する」社会があったとして、そのような人を救えないとすれば、何がしてあげられるでしょうか。
一緒に死んであげることだけではないでしょうか。
その人の分も生きる、なんていうのは言い訳だと思います。
それが最高の社会なら、人類は消えてしまうでしょう。

それも理想の1つだと思います。
でも、理想を語って消えてしまうのは、逆に傲慢で愚かな事じゃないかな、と思います。
それよりも、私自身の傲慢と狭量を受け入れて、その分他人を許して、みんなで生きている方が良いという気がします。
それが出来るか、その先に何があるか、は分かりませんが。
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この回答へのお礼

究極まで行くとそうなりますよね。
ただ、もっと日常的なレヴェルで考えてもいいと思うんです。

とりあえず「良心」というか「平常心」が支配していること。
邪なことがないこと。人を陥れる事がないこと。

それだけで随分違うと思います。

お礼日時:2007/03/04 17:34

>幸せをないがしろにするパターンの多い事には、絶望感も麻痺してしまうほどです。



特には頑張ってもないが、麻痺しないようにしてます(笑)

人間は高度な知能を持っていることはその社会性や身体能力を見ても明らかですが、その高度な脳は何の為にあるのか?

自己満足や他者を傷付けることならもっと容量の少ない脳でも出来ます。
人間の可能性として誰もが等しく機会を与えられ、自由を手にし、戦争を生み出さない、争っても誰も傷付かないで済む能力(ユートピアも人間が獲得した想像力の所産ですし)があるんです。(気が狂ったと表されるので割愛します)

高齢少子化が進んで、離婚率も高まり、ニートや働き盛りの年代に自殺者が増えて、災害遺児の権利より加害者の権利を守る法、弱い個人の権利は削減され、権力や強い企業は果敢に保護される。
というのが今の日本の現状です。

この先真っ暗なのかというと、福祉大国である北欧を見ても
離婚率は高く(80%)、少子化は進んでいます。
つまり生活が安定すると人間関係も仕事も面倒なものなで
偏見を排除しても「人の幸せのための意志」は根本から改善されていません。或いは逆の方向に進み、意識すら薄まるのではという危惧もあります。

堂々と弱さを見せつけるのはアピールになりにくいです。
普段強がっている人が時折見せる弱さが際立って良い観賞作品になることもあります。
芸術の観賞に対比させる物を配置するのも
善が善として強まれるのも、ありえるのも悪や弱さのコントラストが美しいからでしょう。

完全から芸術も秩序も生まれない、人間は不完全であるからこそ、どんな風景にも対比させ、人間関係の美しさを示せるので、映画やドラマや小説や哲学も美しいのだと思います。
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この回答へのお礼

人間性の問題は、まことに厄介で、発展段階にあると思っていたら実は衰退だったりする。
ただ、強がったり偽悪?めいたことをしたらり、そういうことは実に肯定できますね。ただ、尊大な態度や、偽善、取り繕いなどのどうしても何もメリットが見出せないものがあると思うんです。

お礼日時:2007/03/04 17:30

>「人も企業も人のためのみに行動する」


という社会が実現したらどうなってしまうのでしょうか。

:「人のためのみ」という言葉の捉え方によって違ってくるでしょうね。
「自分のため」には行動しないのかということですが、もしyesであれば非常に住みづらい世の中になるだろうと私は思います。
これは自我を喪失した社会ということになるからです。
自我というのは確かに自分の得になることを優先しようとする、悪く出れば自己本位でご指摘のような社会問題などとして噴出するわけですが、
一方、これは個としての自己基盤を確立するためには必要欠くべからざる要素でもあります。
ナイフで傷つけられた人がいたとして、ナイフというものを全て無くすればよいということにならないのと同じでしょう。

同時に、人のためにといって行動された(行動を受けた)側からのジレンマも発生するはずです。
助けて欲しい部分だけを助けてもらう、というわけにはおそらくいかないでしょう。
その人の自我は抑圧される結果となり、おそらく精神疾患が急速に増えるのではないか、という気がします。
いくら快適な環境を整えてもらっても(楽ばかりをさせてもらう、という意味ではありません)、他人の引いたレールの上を走るだけで人間は満足するようにはできていないように思われます。

長ったらしい前置きになってしまいましたが、
「人も企業も【適度に】人のためにも行動する」社会がユートピアではないかと思います。
この場合、留意する必要があるのは、「人のため」と思っているうちは【適度】ということにはならない、という点です。
何らかの無理が生じるでしょう。
人間はもともと「善」を為したいという欲求を必ず持っているものです。
ただ、自分の生命が脅かされない、という条件がつくだろうと思いますし、それは当然のことでしょう。
広い意味で自分の生命が脅かされない体制が、あらゆる方面で確立されていくにつれて「他者への善」は自然に行使されていくだろうと私は考えます。
本能である快・不快、自我の基本である損・得による自己保全、これらの確保に必死で、善・悪を司る超自我の出番が極めて少ない社会であることはおっしゃるとおりでしょう。
しかし、これら本能・自我・超自我はどれが欠けても健全な生命を発揮することはできません。
バランスこそが肝要です。
このバランスの重要性がわかっていないと、他人の不利益や不幸を無視して自分の満足だけを追い求めようとしたり、無闇に利益ばかりを追求したり、逆に自己犠牲の上に他人を救おうとしたりします。

自分の満足がなるべく相手の満足になるように行動する、というのが基本的姿勢として適切ではないかという気がします。
「なるべく」という言葉で曖昧性を持たせたのは、その「なるべく」の程度が人類の進化度のバロメーターとなるだろうと思うからです。
「人のため」ということが強制的に、あるいは恩着せがましく為されているうちは本物ではなく、抑圧された自我が他の場面で噴出するという形で必ず何らかのしっぺ返しを社会は食うことになると推測できます。

その意味で、#6さんの見解に私は(基本的に)同感で、
自己の内面の課題として各人がそれぞれの問題を捉える勇気を持つ、ということが最も肝要であろうという気がします。
これを自己の問題として捉えるだけの方法論が確立していない。
これが最も重大な社会の暗渠と言えます。
この暗渠は負の遺産として連綿として受け継がれており、(解決の方法がわからないので)これに見てみぬ振りをしたいという無意識によって、人々はあちらこちらで道化芝居を繰り返し、人間としての持てる可能性を自ら一生懸命矮小化する愚を飽きもせず重ねているような気がします。
 
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この回答へのお礼

確かに、犯罪者がいるから高度な産業が発達する面はあります。戦争が高度な技術力を促します。気候変動が生き抜くために農業改革を促します。

たしかにお答えのようなバランス感覚の問題は大事です。
それがまだ「いい社会」への発展途上だから、我慢すべきだし、現状を容認すべきという事もあるでしょう。

お答えの最後の段
>その意味で、#6さんの見解に私は(基本的に)同感で、~重ねているような気がします。
実にすばらしい見解です。
人類の限界状態は今のところこうである。でももっといい方向に発展できるだろう。そう思いたいですね。
 

お礼日時:2007/03/04 17:27

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