カンパ〜イ!←最初の1杯目、なに頼む?

明治以前、日本が夫婦別姓だった頃、特に江戸についてお尋ねします。
これは、「妻は実家の姓を名乗らなくてはいけない」制度だったのでしょうか。それとも、「妻は実家の姓を名乗ってもいい」制度だったのでしょうか。
当事者達の任意によってどちらかが選択できたのか、それとも、一般的に、余程の理由がなければ妻は実家の姓を名乗ったのか。

どなたかお詳しい方、または史料をご存知の方はご教授下さい。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (6件)

そもそも女性に名字は無かったということと思います。


つまり、北条政子などは「源頼朝妻政子」或いは「平時政女政子」という概念で、夫の死後、幕府運営の都合で、実家の名字である「北条」を名乗ったということになります。
源は氏ですから、平氏の出身である政子は、源政子は名乗れない理屈です。
同じく、日野富子も「源義政妻富子」或いは「藤原重政女富子」であり、足利氏は源氏の氏長者ですから、藤原氏が名乗れるはずも無く、実家の通称の日野を称する。
戦国から江戸期に入ると、夫の名字を使う例が増えてきて「細川ガラシア」や「前田まつ」など。
これらは単に「ガラシア」「まつ」ではどこの誰か分からないので、細川家内室ガラシア、前田家内室まつなどと、家臣や他家の者に手紙を出すときに書いたということで、実際には女性の名字は無かったということと思います。
明治期に氏と名字が統一され、家というものが出来ましたが、それまでは単なる通称では無いかな。
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この回答へのお礼

女性には苗字が無かったとのお話、確かに考えてみるとそのような例が多く浮かびます。
そういえば、武家でも、「武士」は当主一人だけで、その家族は身分的には「侍の妻」「侍の子」であったという事を思い出しました。
苗字が「家」につくものだとしたら、確かに「●●家の妻」「●●家の娘」には姓は無いかもしれません。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/03/01 16:38

現在のアメリカでも、既婚女性の正式な呼び方、例えば晩餐会の招待状を出す際の呼び方は「Mrs. William Clinton」です。

決して、「Mrs. Hillary Clinton」ではありません。日本流に言えば「ウィリアム・クリントン様令夫人」です。

最近は、後者のMrs. Hillary Clintonを使うことも多いですが、あくまでも略式のくだけた使い方です。ビジネスライクに行く場合は、既婚未婚を区別せずにMs. Hillary Clintonになりますが、

さて、質問者様の言われる
「明治以前、日本が夫婦別姓だった頃、特に江戸についてお尋ねします。これは、「妻は実家の姓を名乗らなくてはいけない」制度だったのでしょうか。それとも、「妻は実家の姓を名乗ってもいい」制度だったのでしょうか。」
は、全くピント外れです。

江戸時代以前、女性が単独で名前を名乗ったり公文書に署名したりすることがなく、嫁ぐ前は「木村庄右衛門の娘」で、嫁げば「山田市兵衛の妻」で、死んだ後は婚家の過去帳に戒名が載って終わります。系図には、「市兵衛妻 木村氏」と書かれるでしょう。

仮にこの女性の名前が「せつ」だとして、結婚する前に「木村せつ」と名乗ったり、結婚してから「山田せつ」と名乗ることはありません。結婚した後、誰かに自己紹介することがあれば、「山田市兵衛の妻でございます。名はせつと申します」と名乗ります。

で、江戸時代以前に夫婦別姓だったと質問者様が誤信した根拠の「日野富子」「北条政子」「細川ガラシヤ」などは、全て、歴史家が作った「通称」です。それぞれの人は、当時仮に呼びかけるとすれば「公方様の北の方」「右大将家の北の方」「細川越中守のご内室」でしょうか。

なお、江戸時代以前の武家の女性が公式に署名したものが一つ残っております。武田勝頼の夫人(北条氏政の娘)が、武田氏の滅びる直前に武田家の存続を願って神社に納めた全文ひらがなの願文ですが、
「みなもとのかつよりのうち」(源勝頼の内)
と署名されております。武田氏は甲斐源氏で、武田勝頼は正式には「源勝頼」だからこうなります。決して「北条氏(平氏)出身の勝頼夫人が夫の源姓を名乗っている」のではなく、「源勝頼の妻」と名乗っているのです。勘違いしないで下さい。

「今でも、昔風の家庭の奥さんは、当主に代わって親戚、知人に手紙を出すときには、差出人に当主の名前を「何野誰兵衛」と書きその下に「内」と書き、自分の名前は書きません。 / これは驚きでした。現代でもそのような習慣があったとは。」

これは、例えば中元歳暮の礼状を妻が夫に代わって出す時の作法です。山田一郎さんが誰かからお中元を貰ったとします。どんなに忙しい人でも礼状を出すのが社会常識ですが、通常は忙しい本人ではなく奥さんの山田花子さんが「山田一郎 うち」名義で礼状を出します。決して「山田花子」名義で礼状は出しません。「相手が誰にお中元を贈ったのか」を考えればすぐに分かることです。

なお、山田花子さんが例えばピアノの先生で、ピアノの弟子からお中元を貰ったとすれば礼状の名義は当然「山田花子」です。さらに、山田花子さんが自分の友達と手紙をやり取りする際は、当然「山田花子」名義となります。これも当たり前のことです。

この回答への補足

日本には昔から身分の高い者の名を憚る習慣があるので、てっきりそういう意図であえて「源勝頼の内」と書いただけで、実際は本名として姓名を持っているのかと思っていたのですが、違ったのですね。
目からうろこが落ちた気分です。

補足日時:2007/03/01 22:12
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この回答へのお礼

「山田市兵衛の妻」という名乗り方や、家系図に「女」と書く事等は、歴史好きの端くれとして存じてはおりましたが、「公の場では妻は○○の妻、と名乗った」「一般的に女は姓を記さなかった」と教わっていましたので、これまで勝手に「姓は持ってはいるが、公には名乗らなかったのだな」と解釈しておりました。

が、今回皆様のお話を伺って、姓自体を持っていなかったのだとわかりました。

お中元、お歳暮等の代理礼状に関しても確かにそうですね。
最近めっきりそうした習慣から遠ざかり、こうして言われるまで失念しておりました。常識なしでお恥ずかしい限りです。

詳しいご説明、どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/03/01 22:07

 明治以前は夫婦別姓であったということはありません。


 また、妻が実家の姓を名乗るということもありません。
 下のURLはある旧家の家系図です。
 http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/gotoh.htm
 この系図の代々の当主の名前の隣に「室○○氏」とありますが、これは「妻が○○氏の出である」ということです。名前は書いてありません。
 また「女」というのが沢山横並びで出てきますが、これは「むすめ」ということで、同じく名前は書いていません。
 本物の系図はこのように、女の名前は一切出てこないのが普通です。(ただし、このURLの系図は現物を見ないとなんとも言えませんが、明治以降に注釈めいたことを書き足している形跡があるように思いますが)
 このように、江戸時代以前は「女性は公式には姓名は名乗らない」ということです。
 もちろん女性には名前はついており、家の中や親戚、親しい間柄では名前を呼ばれることはあります。
 しかし、オフィシャルには「○○の内室」や「○○家の女(むすめ)」であったわけです。
 今でも、昔風の家庭の奥さんは、当主に代わって親戚、知人に手紙を出すときには、差出人に当主の名前を「何野誰兵衛」と書きその下に「内」と書き、自分の名前は書きません。

 「日野富子」、「北条政子」など、また江戸期でも「○○△子」などのように、まるで姓名を名乗っているような、いろいろな名前がありますが、これは後年の著述者(物書き、歴史家など)が、わかり易くするために「勝手につけた呼び名」です。
 以上は武士階級の例ですが、現在の戸籍に近い「宗門改帳」に出ている名字のない庶民の例を見ても、妻のところは「女房」などと書かれているだけで、名前は書かれていないものが多いようです。
 
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この回答へのお礼

>明治以前は夫婦別姓であったということはありません。

別姓だと聞いていたので、これは意外なお答えでした。
しかし、他の皆様の解答を拝見するに、女性の姓は無いもののようでしたので、別姓とは確かに言えないようですね。

>今でも、昔風の家庭の奥さんは、当主に代わって親戚、知人に手紙を出すときには、差出人に当主の名前を「何野誰兵衛」と書きその下に「内」と書き、自分の名前は書きません。

これは驚きでした。現代でもそのような習慣があったとは。

とても参考になりました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/03/01 16:48

江戸時代、庶民には姓はありません。


姓というものは、天皇から氏族に与えられるものですから、庶民は豪族の部曲(付属品)であり、言わば「陪臣以下」ということになりますから、天皇から姓を与えられることは無いです。
その為、部曲の由来から「大伴部」「藤原部」という名字を名乗ったり、土地の支配者から開墾などに協力した恩賞として、名字を与えられたり、勝手に名乗ったりしており、これも過去レスでよく出ていますけど、現在の「藤原さん」や「加藤さん」「伊藤さん」は、姓としての藤原氏とは関係ない、部曲からきた苗字になります。
江戸時代の名字帯刀も、名字を使うことは許されますが、姓を公式に名乗った庶民は聞いた事ないです。
着物の紋は所有権を明らかにするためで、江戸時代は離婚するためには、夫から離縁状を書いて渡さないと、妻は離縁できず、夫も再婚ができません。
離縁状を書いて、妻にそれを受け取らせるためには、持参金などの妻が持ってきた財産を返さないと受け取りませんから、原則的に妻が実家から持ってきたものは妻のものという証で、実家の家紋を入れます。
因みに、離縁状は夫からしか出せませんが、夫が無理やり書かされるということはよくあり、三行半という文面も一種の定型文で、夫としても自分の今後がかかっていますから、穏当なことしか書けなかったようです。
それでは女性の名字は、となりますと、名字を名乗る必要もありませんから、「**の妻**」とか「**の娘**」で十分だったと思います。
従って、慣習的に江戸期は夫の名字を使うことが多くなりますけど、TPOにあわせて実家の名字を名乗ることもありということかと。
先日も知人の親戚内の喧嘩の相談に乗りましたが、兄嫁を「***(実家の名字)は財産を乗っ取るつもりだ」と、旧姓で罵っていました。
現在でも嫁はどうしても他家の人ということかと思いました。
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この回答へのお礼

言葉が足りずに申し訳ありません。
庶民ではなく、苗字を名乗れる身分の婚姻についての質問です。
紋に関しては、「妻が実家から持ってきたものは妻のもの」に納得いたしました。確かに江戸時代の財産は夫婦であっても別々でした。

江戸期は夫の姓を使うことが多いのですか。

参考になりました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/03/01 16:43

今でも 黒留袖等には 実家の紋ですよね



よほどのことが無い限り慣習に従ったことと思います

なお、他の回答にありますが 江戸時代には庶民には姓が無かった と言うのは正確ではありません
姓を名乗ることを許されなかった だけです 
それだから 名字帯刀を許される となるのです
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この回答へのお礼

私の書き方が悪かったですね。申し訳ありません。
一般的な庶民ではなく、姓を持つ身分の場合についてお伺いしたつもりでした。

確かに黒留袖は実家の紋ですね。
お答え頂きましてどうもありがとうございました。

お礼日時:2007/03/01 16:39

そもそも姓がなかったのでは?

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この回答へのお礼

その可能性がありましたか!
回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/03/01 16:35

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