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『 自由は進化する 』 ダニエル・C・デネット (著), 山形 浩生 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757160 …
を読んで感動しました。
『 利己的な遺伝子 <増補新装版> 』リチャード・ドーキンス (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4314010 …
を読んでいたという下地があってのこととは思いますが、
そうでなくても分かり易く、そして衝撃的な内容の本でした。

哲学は、思考のお遊びではなく、その時代の最先端の科学を内包したものでなければいけないと思います。

主題は何でも良いのですが(上記本では「自由」についてでした)、古い哲学をこねくりまわしているものではなく、真に最先端の哲学を一般向けに解説した本からお勧めのものを紹介してください。

・門外漢でも理解できるように構成されており、極力専門用語を使っていないもの。
・理解に数式の必要ないように書かれているもの。


宜しくお願い致します。

A 回答 (4件)

本自体のおすすめはしません。



10940さんは、哲学を誤解されておられるのではないかと思い、書き記しておきます。
哲学が思考のお遊びではないことは確かなのですが、「その時代の最先端の科学を内包したものでなければいけない」というのは、少し違います。
本当は哲学というのは、時代に支配されるようなものではないのです。
時代に支配されるのは「思想」です。
それゆえ、「現代哲学」という言葉はなく、「現代思想」という言葉が使われています。
ご紹介の本は、哲学に分類すべき本ではないということです。
「自由は進化する」という文言自体、哲学の徒にしてみれば荒唐無稽なものです。時代によって自由の見え方が変わってきているだけで、それを進化と呼ぶのは、さすが「進化・進歩」を重視する現代らしいな、と思う程度のものです。

10940さんは最先端であることを重要視していますが、新しいものの方がよいというのは本当でしょうか。見ようによっては新しいものは未熟です。思考には熟成というものが必要だとは思わないのでしょうか。
新しい時代はその存在を正当化するために古い時代を否定する傾向がありますが、現在最先端のものも、さらに新しいものが来れば否定されるものになるのではないかと思います。

また、最先端を求めるなら、自分からそこへ向かわなければならないのに、一般向け・専門用語を避けるなどといった条件をつけるのは、最先端の方からこっちに来てもらいたい、と言っているのとあまり変わりません。
自分が一般ではなくなろうという努力、探求をしなければ、最先端には到達しないのです。
わかりやすい本というのは、考える努力をしなくて済む本ですから、人を愚かにします。それならば、考えさせる本を考えようとしながら読む方が、読者のためにはいいと思います。

どんな本を読むかより、どのように本を読むかの方が重要です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

nabayoshさんご指摘の通り最先端の方からこっちに来てもらいたいと思っています。啓蒙書の類を求めています。書き込み時に啓蒙書という言葉がでてきませんでした。門外漢の私がいま知りうるうちで最先端で十分です。

「哲学」か「思想」かそういう言葉の遊びに興味はないのでそのへんはどうでもいいです。

「自由は進化する」をお読みいただければ分かると思いますが、論じられていることは決して簡単ではありません。平易な言葉で説明されているので「分かりやすい」というだけです。とても考えさせられる本です。

また新しいものを無批判でよいものだと言っていません。いまの新しい哲学を知りたいというだけです。

nabayoshさんも見聞を広めずにそれだけのご意見をもたれているわけではないでしょうから、質問内容に該当しなくともお勧めの本がありましたらご紹介ください。よろしくお願いします。

(「自由は進化する」をお読みではないようなので本への的外れな批判には答えないでおきます。)

お礼日時:2007/04/03 21:45

『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』


著者 トール?ノーレットランダーシュ

以下、参考に内容を

ユーザーイリュージョンとしての意識

意識が私達に示す感覚データは、既に大幅に処理されているのだが、意識はそうとは教えてくれない。意識が示すものは、生データのように思えるが、実はコンテクストというカプセルに包まれており、そのカプセルがなければ、私達の経験は全く別物になる。つまるところ、私達は接吻された、或いは蚊に刺された、という体験をするのであって、皮膚に漠然とした刺激を体験してから、それを解釈する羽目になるのではない。
意識の内容は、人がそれを経験する前に、既に処理され、削減され、コンテクストの中に置かれている。意識的経験は深さを持っている。既にコンテクストの中に置かれている。沢山の情報が処理済みだが、その情報が私達に示されることはない。意識的自覚が起こる前に、膨大な量の感覚情報が捨てられる。そして、その捨てられた情報は示されない。だが、経験そのものは、この捨てられた情報に基づいている。
私達は感覚を経験するが、その感覚が解釈され、処理されたものだということは経験しない。物事を経験するときに、頭の中でなされている膨大な量の仕事は経験しない。私達は感覚を、物の表層を直に感知したものとして体験するが、本当は感覚とは、体験された感覚データに深さを与える処理がなされた結果なのだ。意識の深さだが、表層として体験される。
意識は、世界に対する大幅に異なる二つのアプローチを結びつけるというトリックをやってのける。一方は外界から感じる刺激にまつわるアプローチであり、もう一方は、そういう体験を説明するために持つイメージに関するものだ。
人は感覚データを経験するわけではない。光の波長形を見るのではなく、多彩な色を見る。ニュースキャスターの声は、ヘッドホンからではなくテレビから聞こえる。そういう色やニュースキャスターの声を、今ここで起きているかのように経験する。あたかも自分が体験しているとおりのものであるかのように経験する。だが実はシミュレーションの結果なのだ。
人が体験するのは、生の感覚データではなく、そのシミュレーションだ。感覚体験のシミュレーションとは現実についての仮説だ。このシミュレーションを人は経験している。物事自体を体験しているのではない。物事を感知するが、その感覚は経験しない。その感覚のシミュレーションを体験するのだ。
この見解は、非常に意味深い事柄を述べている。すなわち、人が直接体験するのは錯覚であり、錯覚は解釈されたデータをまるで生データのように示す、というのだ。この錯覚こそが意識の核であり、解釈され意味のある形で経験される世界だ。
なぜ人は単純に、感覚器官から入ってくるものを経験しないのだろうか?それは、毎秒何百万ビットという、あまりにも多くのインプットがあるからだ。だから、感知するもののごく一部、すなわち、そのコンテクストで意味を成すものだけを経験する。
しかし、経験するデータが処理済みであること、そしてほんの少しの情報が示される前に、膨大な量の情報が捨てられていることが、なぜ私達には分からないのだろうか?
一つの可能性としてこう考えられる。この深さに達するには時間がかかるが、そんな時間が過ぎたことを知っても役に立たないからだ。その間になされる途方もない量の計算は、この世界における私達の行動に関係がない。私達は、〈結びつけ問題〉を解決してからでなくては全く何も経験できない。まず、音がどこから来ているかについての仮説を立てなくては、その音は聞こえないのだ。
ベンジャミン?リベットは、感覚器官から脳に繋がる特殊系の神経線維が、感覚の時間調整を許していることを実証した。非特殊系の神経線維が0.5秒の活動を起こし、その結果、経験されうるようになるまで、その感覚は経験されない。
こうして、例え感覚様相からの入力を脳の中で処理するのにかかる時間が同じでなくても、同一の対象からの刺激を受けた様々な感覚様相が送り込んでくる情報を、結びつけて経験することができる。もし、入力情報に同時性を持たせるために0.5秒がなかったら、リベットが言うように、私達は現実の認識に乱れを経験するだろう。
意識は、周囲の世界について、意味あるイメージを示さなくてはならないので「遅れる」。だが、示されるイメージは、まさにその周囲の世界のイメージであり、脳によってなされる素晴らしい仕事全てのイメージではない。
事は、感知、シミュレーション、経験の順に起こるのだが、シミュレーションについて知っても意味がないので、その階段は経験から外される。そして私達は、編集された感覚を未編集のものとして体験する。
意識とは、表層として体験される深さだ。
人はたまに、あるアイデアに出くわした途端、何故かは分からないが直感的に、自分にとってとても重要だと思えることがある。アイデア自体は既に登場していたのだが、ようやくそのアイデアが、リベットの実験に興味を抱いた私にとって決定的な意味を持つに至ったのは、それが世に出てから数年経ってからだった。だが、出会った瞬間に閃いたものがあった。
そのアイデアは、コンピュータ設計に由来している。〈利用者の錯覚=ユーザーイリュージョン〉と呼ばれる概念で、認識論のうえで相当の深さを持っており、先に述べた意識のイメージを非常にうまく象徴している。
ユーザーイリュージョンという概念は、著名なコンピュータ科学者アラン?ケイが書いた論文に登場した。ケイはゼロックス社のパロアルト研究所で働いていた。1970年代、ゼロックスには先見の明がなかったため、スモールトークのとてつもない潜在能力の実用化は、アップル社に譲ることになった。その結果でき上がったのがマッキントッシュのような機械、つまり、友達と一緒にお茶を飲みながらお喋りするような感覚で手軽にコミュニケーションができるコンピュータだ。
その根底にあるのは、コンピュータはプログラムしてやればどんなことでもこなせるのは勿論、愛想よく協力的に自己表現するべきだ、という考えだった。つまらない仕事をするべきなのはコンピュータ
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

まさに私が求めている類の本です。
できればご自身の感想をいただけるとうれしかったです。(どこかのコピペですよね? 部分的に見覚えが...)

>非特殊系の神経線維が0.5秒の活動を起こし、その結果、経験されうるようになるまで、その感覚は経験されない。

この0.5秒の根拠や実験法がどこかで批判されていた記憶があるので、この本に批判的な本も読んでおくのがよさそうかな、といま思っています。もしそのような本をご存知でしたら教えてください。よろしくお願いします。

お礼日時:2007/04/03 21:55

>いまの新しい哲学を知りたいというだけです。



いやはや、まだお分かりいただけていないようで。
哲学というのは、1世紀ほど前に終焉を迎えたのですよ。
今更「新しい」などありもしないのです。
時代に合わせたファッショナブルな哲学、などないのです。
そのへんの事情を詳しく知りたいならば、哲学終焉期の二大著作、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」とハイデッガーの「存在と時間」を読まれることをおすすめしますが、前者は数式が含まれていますし、後者は語法が難解なので、10940さんには向かないかもしれませんね。解説本を読んでもなんのことやらさっぱりといったところになると思います。ウィトゲンシュタインについては、野矢茂樹の平易な解説がありますが。

あと、啓蒙を求めるのに、最先端からこっちに来てもらおうという姿勢になんの疑問も抱かれないのですね。
ショーペンハウエルの「読書について」という本(原典は随筆集で、これは訳された抜粋)がありますが、そこで読書というのは「他人の頭を借りて考えることに他ならない」と述べられています。
誰かが歩いて整備した道を歩いて、ここが最先端だ、というのはちょっと違いませんか。
誰も踏み込んでないようなところを踏み込んで、今まさに自分が最先端にいるとはじめて実感できるものであるはずです。
10940さんが希望されているのは、旅行ガイドを読んで旅行した気になりたい、と言っているのとほとんど変わるところがありません。
ここで本を紹介して下さい、とこの時点で他人の頭に頼ろうとしている、その易きに流れる姿勢を変える必要があります。
本来なら、本くらい自分で興味のある分野をさぐりさぐり読めばいいんです。
便利だからという理由で自分で考えることを放棄していませんか。

自分で努力しない、それでいて知った気になれる。それは便利ではありますが、それによってかえって愚かになることに注意して下さい。

「啓蒙的な忠告」(啓蒙はしばしば反発を招くものですが)をひとまず終えたところで、初心者にもふさわしい、考えるヒントを与える本を紹介しようと思います。

東京大学出版局から出ている「知の技法」「知の論理」「知のモラル」「新・知の技法」の三部作+αです。
もうこの本たちでさえ10年近く前のものになっていますが、いろいろな分野を専門とする教授たちが、好奇心を誘発するように苦心して書いた教養学部のテキストです。
教養学部ゆえ、人文科学に偏向していることは確かですが、それぞれの分野での研究の最先端(人文科学の進歩は鈍く、鈍いものの最先端は理解しやすい)を垣間みることができ(る人はでき)て興味深い書です。
これらの中には若干悪文も混じっていますが、思考訓練には手頃だと思います。
この手のものは近年あまり出版されていないということもあって、最先端の事象についてどう考えるのかということも問題になると思いますが、ここで得るのは「情報をいかに解読・処理するか」という技法であり、「情報そのもの」でも「解読し処理され噛み砕かれた情報」でもないので、最先端の事柄についても自分の考えで対処することができるようになるための助けとなるでしょう。
これらの四冊は書店よりも古書店を探した方が効率的に見つかる類のものですが、探すだけの価値はあると思います。

どうしても新しい本を読みたいというのであれば「99.9%は仮説」(竹内薫)という本でもどうですか。タイトルのようなことは既に心得ていた私には内容の薄い本ではありましたが、知らない人には啓蒙的な本となるかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

いやはやと呆れられてしまいましたが前回頂いた回答では「哲学」と「思想」言葉の定義が示されていただけなので突然1世紀も前に哲学は終わったと言われましても驚くばかりです。(先に触れた「自由は進化する」はまだ結論には至っていませんが時代に支配されない真理の探究だと思うからです)
哲学の結論はウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」とハイデッガーの「存在と時間」にほぼ集約されているということでしょうか。これが結論だと。
それとも真の哲学ができる人物がいなくなったので100年の長きにわたって停滞しているということでしょうか。


あと、「啓蒙的な忠告」は至極ごもっともだと思うのですが、「しばしば反発を招く」のは門外漢だから哲学のガイドブックで哲学の旅行がしたいと割り切って考えている人に向かって的外れな(ある意味ど真ん中の)忠告をしているからではないでしょうか。別に自分の専門分野で、ましてや生活全般で自分で考えることを放棄しているわけじゃありませんし。

ご紹介いただいた本はどれも容易に入手可能なことが確認できたので、できるだけ近いうちに読みたいと思います。

お礼日時:2007/04/04 23:11

質問者さんの哲学感には賛成です。

ちなみに私も『自由は進化する』を楽しく読みました。しかし前半の決定論に関する議論では、デネットの分析方法で本当に問題が解決したことになっているのか正直よくわからない所もあり、むしろコンラッドの立場に共感を覚える箇所も少なくなかったです。
 
・心に関する哲学
ポール・M・チャーチランド『認知哲学-脳科学から心の哲学へ』
信原幸弘編『シリーズ心の哲学 全三巻』
デイヴィッド・J・チャーマーズ『意識する心』
ジョン・R・サール『マインド-心の哲学』

・科学についての哲学
内井惣七『科学哲学入門-科学の方法・科学の目的』
伊勢田 哲治『疑似科学と科学の哲学』

・その他
飯田隆『言語哲学大全 全四巻』
野矢茂樹 『哲学の謎』
柏端達也他編『現代形而上学論文集』
スティーヴン・D・レヴィット『ヤバイ経済学』(哲学書ではありませんが)

上に挙げたものはどれも定番で既にご存知のものも多いかもしれません。最後になりますが、現代の哲学者・科学者の書いたものもちろん面白いですが、いわゆる古典と呼ばれるものもお読みになられることも是非おすすめします。時代の制約上、彼らには科学的知識に当然限りがありますが、それでも問題意識、議論の進め方、アイデアなど今日とそっくりであること(もちろん彼らが先なのですが)に驚かされることも少なくありません。質問者さんのおすすめの本も是非お聞きしたいです。
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