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岡山藩筆頭家老の伊木氏は3万3千石を領する大名並みの大陪臣ですが、ウィキによると伊木忠次はすでに徳川の世である1603年に陪臣ながら従五位下に叙任されているようです。
伊木氏も年寄に就任した加賀八家のように、陪臣ながら累代が従五位下に叙任されていたのでしょうか?それとも、これは忠次一代限りのことだったのでしょうか。

加賀八家、御三家御附家老以外の陪臣で、代々従五位下に叙任される家格の家は他にもありましたでしょうか?

A 回答 (1件)

ないようですね。

肝心の伊木家も代々が従五位下に就任していたのかとなるとわかりません。子孫の何人かはインターネット上に詳しく載っていますが、官位をもっているようにはなっていません。守名乗りにしても藩内では名乗っていたのでしょうが、対外に名乗っていたのでしょうか?資料を見てみたいものです。
伊木忠次はもと織田信長の家臣で5千石取りだったようですので、江戸時代はじめまでは池田家に附属している家と見られていたのかもしれません。
守名乗りも細川家の松井康之、毛利家の吉川広家などの家は1,2代のうちは守名乗りを許されていたようですが、江戸時代を通じて名乗っていないようです。吉川家は広正までと経幹、経健の2代だけです。広正を除くと官位も叙任しています。
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この回答へのお礼

織田家の家臣でもあったということで、完全な陪臣とはみなされてなかったのかもしれませんね。

記憶が定かではありませんが、吉川の当主で、柳沢吉保が松平姓を下賜されて出羽守から美濃守に変えた時に、美濃守を名乗っていた吉川当主がそれを憚って内蔵助?に変えていたように思いましたが、これも正式な守名乗りではなかったのかもしれませんね。

八代城主松井氏や白石城主片倉氏など城主クラスの陪臣でも許されていなかったようですから。伊木氏も累代で許されていた訳ではないのかもしれませんね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/21 11:12

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