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私の家は公家の落人らしいのですが、ルーツがいまいち分かりません。
どなたかわかるかたいませんか?
名前は更家で、和歌山県の山間部に住んでおります。
また落人とはなんでしょう?落ちたのならどの戦いで落ちたのか知りたいです。よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

【訂正】回答No.6の者です。



×鳥羽天皇
○後鳥羽天皇 でした。すいません。
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2007年に投稿されてるようなのでもう見てないかもですね(;´Д`)


でも他に調べている同士の方々もいらっしゃるかもしれないので参考までに書き込みます^^

質問者様と僕は多分遠いご親戚だと思いますw。
いや、体操のデューク更家さんも実はご先祖が一緒なはず。
デューク氏家系は宮内で「祭事」をされてた家系と確か番組か雑誌で昔読みました。
ちなみに僕の家系は多分ですが、鳥羽天皇の頃からその祭事に使用する刀を作ったり
してたようで、代々献上したりもしてたので、ご褒美に「菊の紋」を頂いたと伝わっております。
なので以後、一族の家紋として現在に至ります。(天皇家とは違うデザインの菊紋)

名字の件ですが、僕も○家と付きます。上北山という所に元々居てその後屯田兵として
北海道新十津川町に明治期に一族で上がった家系です。
南朝方が破れた後は普通に十津川村や北山村周辺あたりまで半農半士みたいな
暮らしだったようですよ。僕の家系は刀物や農具等作ってたりしてたけど、
米なんか”猫の額”ほどしか採れないので戦国~江戸期は秀吉公も家康公も

「あんな山奥に家来付けるとコストかかるからおまえら年貢イラネーわ。
その代わり悪させんで働けよ」ってw言われて真面目に明るい農村暮らしをしてたようです。
(本家さんの話ではw)んで、明治期からは得意な鍛冶屋とか林業ですね^^

で、落ち人というのは十津川~周辺の村一体は「南朝:後醍醐天皇」に仕えていた
家臣や一族の末裔ですね。
幕末~明治初期にあの辺一体「十津川郷士」としてやっと武士ランクに認めてくれたと。
うちの死んだ爺ちゃん達の話だと元々代々隠してただけで「名字帯刀の公家侍」だったんで
元に戻っただけじゃとのことでしたw

質問者様はその後どうなったでしょうか?
武士なら十津川郷士で幕末の天誅組とかに属されてるような家系かもしれませんよね。
元は「南朝方の公家侍」だと思います。長文失礼しました(^ω^)ノ
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更家(SARAIE)は三重県南牟婁郡にも少し居ます。



まあ、和歌山県新宮市の隣かもね。
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>私の家は公家の落人らしいのですが



お公家さんの落人は「都落ち」といいます。
応仁の乱から(自分の荘園に)逃れた公家さんが多いですよ。
(一番新しい都落ちは、幕末の岩倉具視ら7名のお公家さんです)

都落ちしたお公家さんは、現地で「土地・人民」の支配を行います。
荘園といっても名ばかりですが、天皇の威光を背景に守護・地頭と争いました。
その過程で、お公家さんも「戦国武士化・在郷武士化」していきます。
あなたの先祖も、この過程を進んだのでしようね。
大多数のお公家さんは、武士化する課程で滅ぼされていますけど。

>また落人とはなんでしょう?

戦いでの敗者を「落人」と称する場合が多いです。
源平合戦での、平家一族は有名です。全国各地に「平家の落人」があります。
大阪の陣における、豊臣側残党。青森・下北半島にも「豊臣残党」があります。
九州には、豊臣秀頼・真田大助が逃れてきたとの伝説があります。
勝てば官軍負ければ賊軍。敗者は、一族・家族の命を守るため、本拠地を離れ(名前を変え)山深い地域でひっそり暮らしたようです。

>名前は更家で、和歌山県の山間部に住んでおります。

祖父・祖祖父の戸籍謄本を見れば、明治初期の住所その他が分かります。
その住所から、最寄のお寺で「過去帳」から先祖を探しましよう。
独りでも、「過去帳」が見つかれば後は遡るだけですよ。
「デューク更家」も、和歌山新宮市出身ですね。
何か、関係があるかも????

この回答への補足

デューク更家とは関係ないようです。
新宮市の更家とはルーツが違うらしいです。
ただその市と私の村とはかなり密接な関係がありましたが。

私の家は武家になって、江戸幕府崩壊後に、林業をやりはじめたそうです。なんだかせつないですね。

やはり過去帳ですか。今年の夏帰省して、調べてみます。

補足日時:2007/06/23 22:14
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落人伝説では、けっこう、それらしい、話が残っているものです。


例えば、群馬県妙義山の近くですが、苗字に、落ち延びる時、身を隠した橋の名を入れている、一族がありまして、もちろん彼等は、本気で、信じています。
栃木県のほうには、鶏が鳴いて、敵に見付かったために、鶏を飼うことは、おろか、食べることもしないと言われる、一族がいるそうです。
和歌山県ですか?屋島の合戦が近くないですか?
那須の与一が、扇の的を射た戦いです。
平家の肩を持つなら、源氏側の戦い方がルールにのっとっていない、野蛮なもの(特に木曾義仲とか、義経とか)だったので、負けてしまったのです。
源平の合戦の頃は、鉄砲もなかったので、戦いのあと、生き残れた可能性もありました。
自軍の大将に愛想を尽かしたとか、自軍にさほどの愛着がなければ、「逃げてしまおう」と、考え、実行した人たちがいたのでしょう。
全国各地に落人伝説は、数多く残ります。

この回答への補足

戦争が起こるとそういうのは残るものなんですね。
ちなみに地理的には北山村辺りです。
奈良に近く、三重県の中にある、和歌山県の飛び地です。
全国各地にあるというのがまたおもしろいですね。

補足日時:2007/06/23 00:06
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あなたの家の菩提寺に行って過去帳などをお寺の住職に聞けばある程度までわかると思います。


戦争とかでそのお寺が焼けてなかったらわかると思います。
後、役場に行って戸籍を調べてもわかると思いますが、役場は簡単に戸籍を見せてくれませんので「先祖供養のため」とかそれらしい理由をつけてください。
公家だったら家紋から推測できると思いますが。これは自信がありません。

この回答への補足

今度お寺に行って確かめてみます。
私の家の家紋はたいしたことがありません。抱き茗荷です。
仮に私の言うことが事実で、公家の落人だとするならば。
その後江戸時代に入り、武家になった可能性があります。
現に私の家は江戸時代は武家でした。
明治以降林業に携わったと思います。

補足日時:2007/06/23 00:13
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落人とは戦争から逃れて鄙びた里にやってきた人たちです。


大概は戦争に負けたほうですね。
あなたの家がどの戦いで負けて和歌山の山間部にやってきたのかはわかりません。
あなたの家の昔話に後南朝あたりの説話があったら面白いのですが・・・(^^ゞ

この回答への補足

位置的には後南朝は近いのでつながっていたらおもしろいですね。
京都にも同じ名前の人がいるため、あながち否定できない気がします。
同じ名前を名乗ったと言われてしまえばそうかもしれませんがw

補足日時:2007/06/23 00:18
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