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性善説と性悪説というのがありますが、孟子とじゅんしの後この対立的な2説に関する研究をした人物はいるのでしょうか?
またどちらが正しいといった結論はでたのでしょうか?
哲学は高校倫理の教科書レベルなら分かります。

A 回答 (7件)

 私は、性善説及び性悪説というものを教育・指導の方針としてその場その場で使い分けています。



 まず、性善説というのは「人は本来、善性をもって生まれている」という観点から、
その育つ方向性・志向性に任せて才能や意欲を望むまま伸ばすように陰助するものです。
ですから、創作活動に注力する人間をサポートすると言った「目標が決められていない」とか、
失敗を含め、その人間に目一杯羽を伸ばさせて仕事に取り組ませる場合、
おのずと周囲の人間は性善説に立つのでしょう。

 他方、性悪説というのは「人は本来、怠慢さを備えて生まれている」という観点から、
物事を完遂できるよう積極的に監視・指導するというものです。
ですから、組織として指示した事、将来のためと課した課題を与えた場合、
その人間が失敗・挫折するケースを想定においてバックアップが出来る体制を整える事になります。

 上記の通り、私は人の習性ではなく、指導者側の考え方という面から
この「性善説」「性悪説」というものを捉えています。
実際に会社で部下を持った場合、希望的観測だけで仕事を任せるわけには行きません。
仕事を任せた部下がどのような失敗をしでかすかわからない。
その「どのような失敗」が発生しても即座に次の手を打てる。
そしてアクシデントを修正できるように心懸けるのが性悪説です。
 他方、もちろん部下が失敗しないよう露骨に目をぎらぎらと光らせていたのでは
肝心の部下が縮こまってしまい、思うように能力を発揮できません。
そんな訳で表面上は、

「よし、お前に任せた。大抵のミスは気にしなくても良いから思うとおりにやってみろ」

と、性善説の面を見せ、部下の可能性を最大限に引き出してやるのです。

 要は、どちらか片一方ではバランスが悪いので、
両方の意識を忘れないという事が肝要なのではないでしょうか。
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どっちにしても人間を画一化した思想で大嫌いです。

結論なんて出すほどの問題ではないと思います。それぞれの主張や考え方程度のものですので同感できるほうを選べば良いと思います。そんな思想広めるより「善」とは何か、「悪」とは何かを後世にわかりやすく説いたものがあるならば、そちらを広めることのほうが役立つと思います。現代は善悪の区別が出来にくくなってますので。
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性善説にも性悪説にも共通項があります。


それはそれらがどちらも「説」であるということです。
「説」とは人の「意見」であって必ずしも「考え」ではない。
従来の性善、性悪の説明をみるかぎり、その論者の「考え」といったものではなくその論者の「人生観」といった方が分かり易いでしょう。
色々な方が色々な見方、つまりは方便をおっしゃるかと思いますが、
どちらが正しいのかも最終的にあなたの「人生観」によってしまうことは明白だと思います。
考えによって「識る」ことを望まれるならば「善悪」の定義を自ら規定し提出されるとよりまとまった思索が出来ると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
おっしゃる通りです。
たしかに難しい主張も時代やその人の人生観が影響しているように私も感じていました。

お礼日時:2001/04/02 18:24

性善説、性悪説は主に教育や環境をどのように考えるかを明らかにしようとしたものです。

現在分かっていることは、成長の過程で、ある刺激(環境)があったか無かったかによって人格形成や各種能力に大きな違いが生じると言われています。人間の性格、行動について今まで多くの考えがありましたが、科学的に解明できる方向にあるのです。
遺伝子と脳の研究が、人間の行動や性格がどのように決定されるかはっきりとさせるでしょう。
この研究が進めば、人格を自由にコントロールして作り出すことができ、性悪説、性善説という分類ははくなります。
人間は悪人にも善人にもなる可能性があることになったり、遺伝子の段階で、善人になる、悪人になると結論つけられることになったりします。
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この回答へのお礼

デザインドチャイルドですね。
たしかにその時代には哲学の在り方そのものが問われるかも知れないですね。

お礼日時:2001/02/01 15:26

う゛ーん、気になりますね。


でも残念ながら、答は出ません。これは科学や哲学が進歩していったとしても、絶対に出るはずのものではありません。
「大陸移動説(でしたっけ?)は真実があるので、証明されました。宇宙の大きさ、なんて言うのも、おそらく数値があるのでしょうから、そのうち証明されるでしょう(全く素人なのですが)。でもにんげんがそもそも善か悪か、なんて、主観の世界ですから。

たとえば「善のワールドチャンピオン」みたいな人がいたとして、その人の「これこそ善だ」という言葉なり行動なりをみたひと全員が「これは善だ」と考えるでしょうか。それはその言葉や行動を体験した人々の人間観によるわけです。

それに、性善説は人間の善の面だけをのべたものだし、性悪説は悪の面を示しているだけでしょうし。

「善か悪か」を解明するのが目的だったのではなく、「善だからこう生きろ」「悪だからこう生きろ」といいたいのではなかったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考にさせていただきます。

お礼日時:2001/02/01 15:23

 この2つの問題は回答のある問いではありません。

むしろ哲学そのものの問題ですから。
 ですから、歴史的な研究をした人はいるでしょうが、「人間が性善説か性悪説か」といったことを心理学的または生物学的に研究した人はいないでしょう。

 それに、よーく考えれば分かることですしね(^_^;
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考にさせていただきます。

お礼日時:2001/01/26 02:34

質問の回答にはなりませんが、現代哲学でやるなら善悪のきちんとした定義が必要なので、たいへん難しい問題になるでしょうね。


孟子と荀子の主張は、その前提が違うわけですが、性善説は「人間は本来善であるのに世間に歪められて悪になる。だからよく学んで善にならなければ」というもので、性悪説は「人間は本来悪である。だからよく学んで善にならなければ」というものです。儒教は実践の学ですから、そういう意味ではどっちゃでもええ、と言えそうです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
善になるべきという点では共通してるんですね。

お礼日時:2001/01/26 02:33

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