
No.11ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
我々動物の「行動の核」といいますのは「中枢神経系」です。
生得的に定められた本能行動を除き、我々人間の「価値観」「役割」あるいは「個性」といったものは、この中枢神経系の中に「外部情報に対する判定基準」として生後環境から学習されるものであり、その全ては「外界との関わり」によって作られるものです。従いまして、それを全部剥ぎ取ってゆきますと、それは「産まれたばかりの赤ちゃん」ということになります。我々の中枢神経系に獲得される「価値観」や「道徳観」あるいは「個性」といったものは、正にこの状態から学習が始まるものであり、自分が生まれ育った社会との関わりを全て排除するというのはこういうことであります。
「私が私である」ということは、我々人間は「外界の現象を主体的に扱うことのできる表象能力」を持っているということです。従いまして、「私が私である」という時点で既に、「私」というのは必然的に外界との関わりを持っていることになります。
生後、概ね0~2歳までを「感覚的運動知能期」といい、認知機能の未発達な赤ちゃんは「感覚系」や「運動系」を用いた、専ら「空間認知」の学習を行います。やがて大脳皮質における認知機能の発達に伴い、外界の情報を主体的に捉えることができるようになりますと、赤ちゃんの学習様式はこれによって飛躍的な転換を遂げると共に、この「表象能力」の獲得によってもはや二度と「感覚的運動知能の段階」に戻るということはありません。これがどういうことかと申しますと、生後2歳を以ってこのような「外界を主体的に捉えるための表象能力」を身に付けるならば、我々はその時点で社会との関わりを絶って生きてゆくことはできなくなるということです。
このように、我々の「個性」や「価値観」といいますのはその全てが社会との関わりによって作られるものです。ですから、我々はその社会からの影響を何も受けずに自分というものを持つことは絶対にできません。このため、そこには様々な苦悩や責任というものが発生するわけですが、決してこれは自分が世の中に振り回されているというのではなく、飽くまでそれは、このようにして自分というものを作り上げてゆくということです。世の中との関わりにおいて自分のあり方というものに複雑な思いを抱くのは誰しも同じです。ですが、この世に生まれた限り、生後2歳を以って我々が生きてゆくということは、即ちそういうことです。
そして、私が私であるということは、我々がその社会との関わりと認識できるということです。従いまして、これが即ち私が私としてそこに存在することの唯一の揺ぎ無い証拠となるわけでありまして、果たして、「我思う、故に我あり」とは、このようにして導かれた結論であります。
回答ありがとうございます。
専門的なお話でありながらとても分かりやすく書いていただき、ありがとうございます。
>それを全部剥ぎ取ってゆきますと、それは「産まれたばかりの赤ちゃん」ということになります。
no.1の方のおっしゃる「白紙」の状態になるわけですね。
>世の中との関わりにおいて自分のあり方というものに複雑な思いを抱くのは誰しも同じです。ですが、この世に生まれた限り、生後2歳を以って我々が生きてゆくということは、即ちそういうことです。
社会の中で「自分ってなんだろう?」と考えながら生きるそれが人間なんですね。個性というのはこの志向の方向や過程にもあらわれるでしょうね。「我思う、故に我あり」という言葉の理解も今までより少し深まったように思います。
No.12
- 回答日時:
科学的な考え方では説明不能だと思います。
普段、私と思ってる「ワタシ」は意識の部分ですが、その他にも無意識の部分、意識しようと思っても私の核の部分には、未知のモノも含まれています。 これはフロイトもそう云うし、仏教では更に紀元前後から言われています。
例えば仏教ではそれを
「霊・前世の記憶・業・仏性・阿頼耶識…」
いろいろ云いますが真剣に検べれば検べる程、安易な答え方は出来ません。
自分の思いを言う人はあっても、真実を語れる人少ないです。
ワタシの薄皮を剥いだら、私である必然は無いと私は思います。
命とでも言いましょうか? 誰であってもいいと思います。
その命に業(カルマ)のような記憶はあるかないか証明は難しいですが、
科学では遺伝子的な親・先祖から受継いだ情報がある事は知られています。DNAと云うらしいです。
私が私である証明は、私と云う認識は刻々変化していますし、
私と云う実態ではなく、貴方の思い(判断)なので、
それは写真を見て、「これは私だ。」と云うのと変わらないと思います。
仏教から云えば、唯識の知識や瞑想によって、その無意識のワタシを覗くことはできますが、
私は深層に命・愛・神・エネルギーなどとしか表現出来ないナニモノかを感じますが、
それは、生きているとか、見えるとか、聞こえるとか、食べられるとか、そう云う一番身近な命の状態に感謝するような素朴で素直な気持ちが無ければ感じられるものでもありません。
この回答への補足
《回答してくださった皆さま》
軽い気持ちで質問してしまいましたが、皆様の回答から想像以上に深い話だということが分かり無知を恥ずかしく思います。勉強不足で皆様の回答の意図を的確に読み取れていない部分もあります。申し訳ありません。
色んな方の考えを伺う事が出来とても勉強になりました。皆様の回答それぞれ大変興味深いものばかりで、お二人にしか差しあげられないのが残念です。
ご回答ありがとうございました。
回答ありがとうございます。
>その他にも無意識の部分、意識しようと思っても私の核の部分には、未知のモノも含まれています。
ユングの言う集合的無意識ですね。
>ワタシの薄皮を剥いだら、私である必然は無いと私は思います。
魂のようなものを考えるなら、確かに私である必要はないようにも思えます。
>生きているとか、見えるとか、聞こえるとか、食べられるとか、そう云う一番身近な命の状態
私は、これが残るものだと思うのですが、その向こうにエネルギー的なものを据えるという考え方も面白いですね。
肉体までも取り去ったときに何が残るかということを議論するのも興味深いです。
ただそれが人間の創った概念なのか、人智を超えてあるものなのかを考えるとまた難しい問題になりそうです。
No.10
- 回答日時:
人は現代社会の中で生きていると思っている人が多いですがそうでもないのではないでしょうか?
今でも部族だけで生活していて外部の交流がほとんど無い人たちが居ますが様々なことを学び楽しみを持っています。
社会と切り離されたとしてもあなたはあなたであり個人として生きることができるはずです。
今の社会に振り回されているあなたこそ、個人としての生き方を失っていませんか?
回答ありがとうございます。
部族だけで生活している人は部族という一つの社会の中で生きているといえますよね。規則があったり、神があったり、固有の社会があるはずです。様々なことを学び楽しみがあるのは、「様々なこと」がその人の周りに存在しているからではないでしょうか。
それを全て取ってしまったら何が残るの?というのが私の疑問です。
無の世界に放り出されても人間は自分を保てる?そう思ったのです。
しかし、私が疑問をもったきっかけはまさに
>人は現代社会の中で生きていると思っている人が多いですがそうでもないのではないでしょうか?
ということなんです。
価値観との相違に悩んだり、役割をこなせなくて自分を見失ったり、そうしてどん底に悩むこともあるけど、でもそんなのは狭い世界の中で与えられた(選んだ)洋服みたいなものであって、別の服を着たって全然構わないし、全裸だってもしかしたら生きていられるんじゃないの?と思っているのです。
でもここまで言うと個人の主張になってしまうわけで、広がりもないし面白みもないので、そうではないような形に考え直して質問をしたのですが、tetsumyi様には見透かされてしまったようですね。驚きました。
No.9
- 回答日時:
面白い質問ですよね。
すでに、良い回答も有り、なかなかお答えしにくいことですが、
玉葱やらっきょみたいに、私を剥いてしまう、発想がりっぱ。
プラトンでしたか、本質としてのイデアとかをお探しですか。
でも、皮を剥いても、わからないらしいですね。
それに、痛そうですから、押してもだめなら引いてみろ、と。
逆に、私は何しろ「身体」と「いま・ここ」を根拠としていますから、
生物学的な発生、先験的・経験的な歴史の過程から、考えてはどうでしょうか、
>個に上乗せされたものを全て剥ぎ取ったら、
上乗せられたと、受動的に考えず、能動的に、上乗せたと。
そうすると、私は、器のようなもので、核はないですね、たぶん。
ものには、概ね、外形が有って、見ることができますが、
洞窟の外形、器の内部の外形、こういった見えないもの、と。
証明のことは、さっぱりで、失礼します。
回答ありがとうございます。
プラトンもイデアも詳しく知らない知識の乏しいままに質問してしまいました・・。
>「身体」と「いま・ここ」を根拠としていますから
この部分を読んで、上乗せされたものを剥ぐことはつまり時間を戻していくことと同じだと気づきました。
>上乗せられたと、受動的に考えず、能動的に、上乗せたと。
質問の「上乗せされた」というのは受身ではなく、完了の意味でした。わかりづらい表現をしてしまってすみません。
No.6の方と同じ考え方のように感じましたが、上乗せた過程こそが「私」ということでしょうか。
>私は、器のようなもので、核はないですね、たぶん。
器という考え方も面白いですね。世界を自分の中に入れているという見方ですね。中身がラーメンでも親子丼でも器は器としてゆるぎなく存在すると。そしてそれは中身が入ったときにしか見えない・・透明な器ですか。とても面白いです。
No.8
- 回答日時:
それはあなたが今までに経験したことで育てられた「個性」が残るでしょう。
生まれ変わり死に変わりしてどのような人生を歩んでも「個性」だけは残ります。あなたがたとえ消滅するようなことがあっても宇宙の神の意識の中には消えることなく、あなたの「個性」が記憶されます。私はこの「個性」を豊かにして行くことが人間に与えられた使命ではないかと思います。そしてたくさんの「個性」を得た宇宙の神はさらに進化して行くのです。回答ありがとうございます。
様々なものが上乗せされた個こそ「個性」ではないのでしょうか。
それとも、それらを剥ぎ取った後もシミのように残っているものがあるのでしょうか。
>私はこの「個性」を豊かにして行くことが人間に与えられた使命ではないかと思います。
こう考えて生きると人生の可能性が広がりそうです。前向きになれますね。
宇宙との関連付けはno.3の方が回答してくださったアートマンと似ていますね。とても面白い考え方だと思いました。
No.7
- 回答日時:
「人間とは何か」という問いかけに対して、様々な答えを哲学者は出しています。
特にこの問いかけに対する見解は英語で「views of human being」、日本語では「人間観」と呼ばれており、「広大な宇宙の中で人間はどのような位置をしめているのか」という問題が人間の尊厳といった側面もあって哲学ではとても重要視されています。非常に幅広く、奥深い内容ですので求めに応じて書籍や大学で学ばれるとよいのではないかと思います。
回答ありがとうございます。
「人間観」というのですね。知りませんでした。
同じような疑問をどこかで見た気がしていたのですが、どう調べたらいいかわからなかったので、ここで糸口となること(哲学なのか心理学なのか等)をお聞きできたらいいなという気持ちもあって質問しました。
教えていただけて嬉しく思います。
みなさんの回答にお礼をするために軽く調べてみたのですが、本当に奥深く片手間では調べられないようなものだったとはじめて気づきました。恥ずかしながらみなさんの丁寧な回答もしっかりと理解できていない状態です。
「人間観」について、関連書籍をあたってみます。

No.6
- 回答日時:
《社会の中で生きていて、そこから生まれる様々な価値観や役割》というとき――たしかに人は 世界に対してそして自分の人生に対してさえも 基本的に受け身である(受け身の姿勢から出発する)と思われますが―― 価値観は 明らかに自分が取捨選択するものです。
自分が判断し自己の意志で選びます。《役割》が 一生をつうじて すべて自己を取り巻く身内などの環境や情況から 引き受けざるを得なかったものだったとしても 《価値観》は それとは別様に 自分の考えで形成し得ます。
ですから まづ役割は措いておきます。価値観は その中味の問題であるよりも それを自分が考えて選び摂ったという歴史が貴重なのだと考えます。これが《〈私〉というものを作っているのではないか、と思・・・います》。
ですから 《個に上乗せされたもの》に焦点をあてるのではなく 自分という《個》をどのように作り上げて来たか これが――とうぜんのごとく―― 《わたし》であり それが残ります。
《「私が私である」ということを証明する揺らがない証拠があるのでしょうか》――特に証明せねばならないとは思いませんが もしそうしようと思うのなら まづ自身が その残るものをしっかりとつかむのが先です。まづは 自覚でいいわけです。
そうして その証明は 目に見える証拠としてはないでしょうから おそらく他者との対話の中で 説得するというかたちがふさわしいものと思います。つまり それだけなのですが・・・。
もし 説得できないようでしたら それまでに形成してきた価値観を変えればよいのです。変えるという判断も 《〈わたし〉の核》となるものです。
回答ありがとうございます。
問い自体が間違っているというご指摘ですね。問いの妥当性も含めての質問ですので嬉しく思います。
個を創り上げた歴史こそが個の証明である、ということですね。
発端ではなく過程こそ《私》である、と。
とすると、社会と個を分離させるのは間違いということになりますね。
取捨選択するもののない世界では個を形成できないということになります。
>まづは 自覚でいいわけです。
「私は私である」と思ったときに私という存在が証明される、ということでしょうか。「我思う故に我あり」、やはりここに落ち着くのでしょうか。
No.5
- 回答日時:
ここでなにか回答を得られたとしても
それはあなたに上書きされるにすぎません。
だから自分でやってみるしかないんじゃないですか。
回答ありがとうございます。
頭の中でやってみましたが、とても恐ろしかったです。何にも属さないというのはこんなに恐ろしいものかと思いました。物凄く孤独でした。
しかし、こう感じたのは前提に社会に依存している自分がいるからです。
といいますか、この疑問自体、社会のある枠の中で生きてきた私がその上で考えたものです。枠の中でしか考えられないし理解できません。
だからこの問いの本当の理解はきっと得られないのだと思います。
それでも他の方の考えや既にある研究や学説を知ることはとても楽しいのです。
No.4
- 回答日時:
もしそういうものがあるとすればそれは個々人の発達した神経系の中にあるだろうと思います。
それは物質と切り離せない構造に由来するという意味では物質的なもの西がいないと思っていますがその実態は複雑な神経細胞によって作られているるネットワークの働きあるいはそのものではないでしょうか。本題ですが、私としては[人間の核」というのは認識の主体ではないかと思います。ところが認識の主体は自身の認識の対象になりえないからこそ主体であるはずなので、その存在は推測あるいは実感されてもその正体はどうやってもわからないものなのではないかと思っています。たとえとしては暗闇のようなものだその正体を知ろうとして明かりをつけると闇は見えずに認識の対象となる諸物だけが見えてしまうというような。デカルトのコギトエルゴスムはこのことを言っていると思います。それと並行してデカルトは肉体を機械のように考えていたと思います。神経回路の中に核を探そうとすると最後まで何をやっているのかわからない回路があればそれが認識の主体なのではないかと想像します。SFで心を持つコンピュータというのが出てきますがこのコンピュータは何をやっているのか分からない回路を持っていると思います。製品としてはきわめて危険な欠陥品です。現実の人間でも同じなのではないでしょうか。誰でも核そのものは制御できないとすれば誰でもとんでもないことをやる可能性があるということになります。核の危険性として核兵器の脅威とくらべるのは駄洒落でもないかもしれません。回答ありがとうございます。
神経回路の中に個があるという考え方は面白いですね。こういう考え方を唯物論というのでしょうか。
人間の核は認識の主体であるということですね。
>暗闇のようなものだその正体を知ろうとして明かりをつけると闇は見えずに認識の対象となる諸物だけが見えてしまう
確かにそうですね。こうやって考えていることも、既に様々な価値観をもとにしているわけですし、本末転倒といいますか、まさに明かりをつけて闇を見るような状況なんだと思います。
誰でも制御できない核を持っているなら、社会や環境だけでなく個々持っている本質の部分も人生に影響しているということになりそうですね。
No.3
- 回答日時:
私も中学生の頃にふっと同じことを考え、それから哲学書や心理学書を読みあさりましたがなかなかこれという答えが見つかりませんでした。
そして何年もたってから出会ったのがウパニシャッド哲学(原始仏教)の考え方です。よかったらリンクをご覧になってください。
私は「人間の核=アートマン」で納得してしまい、それ以降、まったく哲学や心理学に興味を失ってしまいました(笑)
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/アートマン
回答ありがとうございます。
長年の時をかけて学んでこられたものをここで教えていただいてしまい申し訳ない気持ちです。
リンク先拝見しましたがやはり私には理解するのが難しかったです。
アートマンとは、無とも有とも言える核の部分に名づけた名ということになるのでしょうか。
ちゃんと理解できていないためまだ納得には結びついていませんが、インド哲学の中にこのような考え方があるということが分かり大変勉強になりました。
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