No.4ベストアンサー
- 回答日時:
ANo.3 です。
ご質問とは全く関係のないことなのですが、ANo.3 の内容に間違いがありますので、訂正をさせて頂きます。思い込みでうっかり、
崇光天皇の后妃は「女御藤原氏」とあり、これは天皇の成人後の寵姫三条局のことと思われます
と書いてしまいましたが、これは間違いです。
崇光天皇にはもう一人「安福殿女御」という妃がいたらしく、これが女御藤原氏のようです。
大日本史によると、園太暦等の記載から
崇光女御藤原氏,太政大臣公賢女也。初侍徽安門院,稱東御方。入宮,為女御,稱安福殿女御。
などとあるようです。ところが、洞院公賢の孫以降の子孫が編纂したとされる尊卑分脉には、
洞院公賢の娘として「女子 徽安門院東御方」が掲載されているのに、「安福殿女御」とは
明記されていないという不思議さです。園太暦は洞院公賢の日記ですから、洞院公賢も自分
で自分の娘を崇光天皇女御だと主張している訳ですね。
このあたりは、足利氏が主張する「崇光天皇皇后源頼子」と似通っていますね。
ちなみに、尊卑分脉では洞院公賢と同世代の西園寺家の分家筋の公家の娘として
「(長嗣)女子 安福殿女御 京極」ともあり、実のところこの「安福殿女御」の実態は
良くわかりません。
お礼遅れて申しわけありません。
アドバイスありがとうございました。
尊氏の娘入内というのは、かなりあやしいというのが真相でしょうか。
江戸時代のようにきちんと記録が残っているわけでもないし、
ましてや南北朝動乱の最中ですから、検証は難しいんでしょうね。
足利氏が朝廷とのつながりをアピールするために、尊氏の娘入内という
資料を捏造した可能性もあるし、公家サイドが足利氏の朝廷への介入を
嫌って入内の事実をあえて書かなかったという可能性もあるかなあ・・・・と。
ましてや北朝朝廷をないがしろにする足利氏の娘ですからね・・・・。
義満の頃になると、公家社会にばっちり入り込んでいる気もしますし、
わざわざ娘を入内させる必要もなかったのかもしれませんね。
No.3
- 回答日時:
単なる感想と便乗質問?で恐縮ですが‥
ANo.2 さんの仰せの通り、尊氏が天皇の外戚になろうとして娘を入内させていたのなら、
その天皇をあっさり見捨てる尊氏の行動は確かに理解できませんね。
ただ、私が気になるのは、尊氏の娘の頼子が、当時の宮廷に本当に崇光天皇の皇后として
認知されていたか、という点です。
・崇光天皇の在位は少年期の3年。(光厳院政)
・頼子も幼な妻であり、天皇退位後まもなく14歳?で没する
(経緯は不明だが後に従一位を贈られる?足利氏による圧力か?)
・なお、崇光天皇の皇子女はみな退位後に生まれている
足利系図(群書系図部集2)には
女子 崇光院后妃 母義詮基氏同
とあり、義詮の母である尊氏正室登子の娘が崇光天皇の在位中の妃となったのは確かです。
この「足利系図」がどのような出所の系図かはわからないのですが、恐らく足利一門の
係累の中で編纂されたものでしょう。
ところが、私は公家の側で編纂されたものの中に「崇光天皇皇后源頼子」などの記録
を目にしたことがありません。
例えば、今手許にある「歴朝一覧」(東大史料編纂所「読史備要」)を見ると、崇光天皇
の后妃は「女御藤原氏」とあり、これは天皇の成人後の寵姫三条局のことと思われます。
また、他の文献などを見ても、崇光天皇の后妃は典侍庭田資子(栄仁親王母)、三条局、
治部卿局を挙げるものが多く、皇后足利頼子の名は足利氏側の史料でしか出てこない、
という印象を持ちます。
※詳しい方!!この認識が間違いなら是非とも教えて下さい!!
No.2
- 回答日時:
No1です。
いま気がついたのですが、尊氏が観応の擾乱の時に見捨てた崇光天皇の皇后は尊氏の娘の源頼子なんですね。足利尊氏も、北朝の天皇の外戚になろうとして娘を入内させていたことになります。
ただ、娘の夫である今上天皇をあっさり見捨てる尊氏の行動はやっぱり理解できません。
お礼遅れて申しわけありません。
そう、尊氏の娘が入内しているって記述もあるんですよね。
上の方の回答によると、ちょっと微妙な記録のようなんですが。。。。
尊氏の娘入内の事実があるなら、東福門院和子入内が「武家として初の入内」というのは間違っていることになりますよね。
朝廷を軽く見ていた、というにのは何となくわかります。
義満にしても、朝廷に対しては強気であたっているようですね。
No.1
- 回答日時:
面白い着眼点ですね。
正確な答は、「足利尊氏や義満に聞いてみないと判らない」でしょうが、「足利将軍家が、自ら擁立した北朝の皇室にあまり敬意を持っていなかった」
ということがあるのではないでしょうか。
実際、尊氏は、自ら擁立した北朝の崇光天皇が現に存在するのに、「観応の擾乱」で南朝に「降伏」し、北朝を放り出して、南朝の正当性を認めたことがあります。その後で、一度捨てた北朝を再度推戴したことも含め、現代人の常識では理解できないことです。北朝の皇族や公家たちは、尊氏の天皇を屁とも思わぬ仕打ちに唖然としたことでしょう。
その後の経過を見ると、南朝への降伏は「政治的な駆け引き」に過ぎなかったようではありますが、尊氏が北朝の天皇や上皇を軽く扱っていたことの例証になるでしょう。そのように軽んじている北朝の皇室の外戚になろうと思わないのは不思議ではありません。
足利義満以降は、南北朝が「合一」し、それまでの北朝が皇位を継承することになりました。その後も、足利将軍家が「北朝の子孫の天皇家」を軽く見ていたとしても納得できます。
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