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ニュースによればクルド人はイラクでもトルコでも
孤立しているようです。
周囲の民族に溶け込めないのはどうしてでしょうか?
特別な意味がありますか。

よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

クルド人は、古代のメディア人の末裔と言われています。


メディア人は、現在のイランからクルド地区、小アジアにわたって住んでいましたが、ペルシャに滅ぼされ、現在のクルディスタン周辺に閉じ込められました。
クルディスタンの地は、山がちで中心となる都市もまともな産業も無い地区ですので、クルド人としてまとまる事はなく、部族単位での生活が最近まで続いていました。
そのため、クルド地区には、他の地区では消滅してしまった宗教や文化などが部族の中に残っています。
キリスト教の中のネストリウス派は、イスラムの中で消滅したと思われていましたが、19世紀にクルディスタンの中で見つかり、キリスト教世界に驚きが広がりました。
イスラム教で、悪魔崇拝者として排斥されたヤジード教(イスラム原理主義者がヤジード教徒の村で爆弾テロを起こし、村が全滅に近い状況になった事が今年ありました)もクルディスタンの地には残っています。
また、イスラム以前の宗教ともいわれるサービ教なども残っています。

クルド人は、村々が個々に独立した状態で連携が弱かったため、民族としてまとまる事は、第一次大戦ころまでありませんでした。
第一次大戦で、トルコ帝国が解体された時も、まとまりの無かったクルド人は、全く無視されました。
そのため、クルディスタンの地は、トルコ、イラン、イラク、シリアに分割されてしまいました。

これらの国が独立すると、各国とも統一民族国家としての政策を打ち出します。
その政策が、クルド人の民族慣行と対立し、その結果クルド人としての自覚が育ち、各国との対立となってゆきます。

さこに、周辺国どうしの対立がくわわり、状況は益々混迷をふかめてゆきます。
イランでは、イラン国内のクルド人を弾圧する一方、イラク国内のクルド人勢力を支援します。
イラクでは逆にイラン国内のクルド人勢力を支持する一方イラク国内のクルド人を弾圧してきました。

トルコでは、クルド人そのものを認めず、東部トルコ人としてトルコとの統合政策を進めました。

そのため、クルド人勢力は、互いに敵対しあい、大きな力を持てませんでした。
しかし、アメリカのイラク攻撃で、クルド人自治区ができると、周辺諸国のクルド人もクルド人としての民族意識が高まり、各国からの分離独立を主張し、一部が過激派として行動するようになります。

「クルド人が住んでいる地区は、全てクルドとして独立すべき」といういわゆる大クルド主義を掲げての行動がめだつようになってきました。
しかし、クルド人が住んでいる地区の多くは、クルド人以外も住んでいます。現在特に問題となっているのは、イラクのモスルやキルクークなどです。
クルド人は、モスルやキルクークもクルド人国家に含めようとしていますが、その地区の住民の半数はイラク人で、イラク政府はクルドに含める事に反対しています。
イランにおいては、クルド人の民族意識の高まりに対してイラン国民のイラン人としての民族意識の高まりがあり、両者の対立が顕著になってきています。
トルコでは、一時期トルコのEU加盟の事もあり、クルド問題を顕在化させないように融和策をとり小康状態になりましたが、クルド人の民族意識の高まりに加え、トルコのEU加盟が絶望的になるに従い、トルコ人としての民族意識の高まりもあり、対クルド政策が変更されてきています。

つまり、イラク戦争の結果、クルド人としての民族意識の高まりが、周辺諸国との軋轢を生んでいるのです。

これは、コソボ紛争の時のアルバニア人の場合、チェチォン独立紛争の時のチェチェン人の場合と全く同じ構図です。
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民族というのは偏見・差別の原因として古く一般的なものであり、元々孤立するものです。

過去の東南アジアでの騒乱で、華僑やインド人がリンチにあった例は多いですし、国を持たなかったユダヤ民族の受けた仕打ちはご存知の通りです。
米国においては二次大戦時にひたすら溶け込もうと努力していた日本人が民族差別を受けましたし、現在問題になっているサブ・プライムについても、サブ・ヒューマンであるヒスパニックの問題と言った論議がある様に、溶け込んでいる民族と言う事自体が稀有と考えた方が良いでしょう。
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 まず、あの地域の国境が欧米諸国の都合で確定されたものであって、もともとその地域に住んでいた部族の領地とは異なった線引きがなされてしまった(中東だけでなくアフリカもそうですね)。


 そして、クルドの民がもともと遊牧民で定住生活をしない(近年は定住生活者も多いようですが)人々であることから、『国民は基本的に国土に定住する』ことを前提とした近代国家のありようから排除されてしまった、というところでしょうか。加えて、彼らが遊牧を行なっていた地域がかつて辺境の政治的にどうでもいい場所であったのが、第一次大戦以降、一転して紛争地域の最前線に変わってしまい、政治的に邪魔者扱いされるようになったという経緯もあります。
 つまり、溶けこめないのではなくて、遊牧という暮らしようが、近代国家には許容されえないが故に彼らが国際的継子扱いされる原因となったのではないかと考えられます。
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