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自分の存在価値というものについて悩んでます。
自分は必要とされる人間なのか、ということです。
人間関係でたくさん悩んできたのですが、最近これが全てのベースな気がしています。
特にきっかけになったのは、サークル活動がうまくいかずに、居場所がないと強く感じるようになったことです。
携帯にメールが来なかったり、電話がかかって来なかった時はすごく不安に
なります。
逆に友達に悩みを相談されたりすると少し安心します。
でも、もし今自分がいなくなっても困る人なんていないんじゃないか、なんてよく考えてしまい、消えたくなったりします。
将来は人のために働ける仕事に、と思っていますが、それは自分が必要とされたいという自己満足のためなんじゃないかと思って迷っています。

なんだかすごく暗い内容になってしまいましたが、いろいろな意見や考え方をお聞きしたいです。よろしくお願いします。

A 回答 (8件)

 


>自分の存在価値というものについて悩んでます。
>自分は必要とされる人間なのか、ということです。

人はそれぞれ違った人生を持ち、違った生死を持つでしょう。しかし、それはまた「人の生」であり「人の生死」であるということで、似たものだとも言えます。

野に咲く美しい花のことを考えれば、人がこの花を切り、持ち帰って部屋に飾るなりすれば、短いときでしょうが、花の美しさを愛でる者が存在し、「花の美しさ」はそれを見る人にとって「意味」があるでしょう。

では、この花が人知れず、野に咲き、人に知られることなく、枯れしおれ消えた場合、「花の美しさ」は存在しなかったのか、花の価値はなかったのか、と問えば、どう考えればよいでしょうか。

「価値」というのは、絶対か相対かというような極端な話ではなくとも、それでも「実質的な内容価値」と、人のあいだの評価によってできあがるように見える「市場価値」のようなものが確かにあるでしょう。

或る人が誰かを、自己の命をかけて救ったとして、その行為の行われた場所が、山奥の人がほとんど足を踏み込まないような僻地のできごとだった場合と、同じ行為が、大都市の真ん中で、多数の人の視野のなかで行われ、新聞、TV、マスコミなどが、その行為を広く、尾ひれをつけて報道などをした場合と、何かが違っているのだろうか、という問題もあるでしょう。

大都市などの場合、このような行為の「実質内容価値」に加えて、それを評価したりいろいろと見積もる人々やメディアなどの評価価値、「市場価値」が重なったものになるでしょう。しかし、評価価値や市場価値が成立しなかった場合でも、行為自体の「実質内容価値」は存在するのです。

近代になって「疎外」という概念が「意識」されました。それは砕いていうなら、自分の代わりは幾らでもいる、自分は道具であって、何かの事業のなかの歯車で、壊れれば代わりは幾らでもいるのであり、「自分が自分であることの固有の意味」が「感じられない」ということです。

しかし、自分の行う仕事ができる者が幾らでもいるということは、その行いそのもの価値を無にしてしまうものなのだろうか、という疑問があるのです。幾らでも代わりはいる、というのは本当のことでしょう。しかし、千人の代わりの人がいても、一万人の代わりの人がいても、もし、千人の999人が死ぬとか何かの事情で仕事ができなかった場合、その仕事は、まさに、唯一の残された人の仕事になるのです。

近代以前、あるいは近代以降でも、農家や商家で働いている人は、基本的には「同じようなこと」をしていたと言えるのです。そんな仕事は誰でもできる、千人、万人と同じことができる人はいるといっても、実際に、千人、万人はその場にいないのであり、その場には、一人の人あるいは数人の人がいて、協力するしかなかったというのが現実でしょう。

あることを行って、それを、他者が評価してくれるかどうか、は、「価値」の半分の面でしかないのです。しかも、重要な価値の半面は、他者の評価とは関係のない「実質」の部分の価値でしょう。

他者がどのように見るか、評価するかによって、人の存在価値は決定的に決まる訳ではないのです。決まるのは、外部の市場的価値でしょう。市場的価値はまた、商品的価値だともいえ、人の材料的・道具的価値だともいえます。どれだけ社会や会社に貢献したか、その意味の価値は、人の道具的価値でしょう。

しかし、人が生きているのは、道具としてではなく、意識をもち、誇りや悲しみや苦悩や絶望や期待や希望をもつ「人」として存在するからでしょう。人の希望が、他者や社会の評価や賞賛を得られる方向に向いていたとしても、そういう希望や願いを持つ人の存在は、社会や他者の評価とは、また別のところに存在価値があるというべきでしょう。

人が、自分の存在価値に自信がもてなくなるのは、道具的な評価の面ではなく、人と人との関係、魂の交流のような次元での「理解」と「共鳴」での孤独でしょう。

誰にも相手にされないとき、人が自殺を考えてしまうのは、実は、その人の存在に価値がないからではなく、価値があるのに、それが確認できない、実感できない失意と絶望のためだと考えればよいでしょう。

もともと価値がないものであれば、失意も絶望もないのです。人が失意し、悲しむことは、その人が、失意でき、悲しむことのできる「魂」を持っているという証左でしょう。生きていることに意味がない、存在価値がないが故に、自殺したり、自殺を考えたりするのではなく、実は、生きていることがあまりにも価値があり、貴重であるので、それが他者との人格関係のなかで確認できないとき、人は絶望するのでしょう。

>でも、もし今自分がいなくなっても困る人なんていないんじゃないか、なんてよく考えてしまい、消えたくなったりします。

人間は限りなく利己的な存在でもあるのです。上に述べた、自己の存在があまりにも価値があり貴重であるが故に、それが人格関係で認められないと人は自殺へと心が赴くと言ったことと、丁度同じことなのですが、あまりにも自己に価値があるということは、他者には価値がないということを意味しているのです。

自分を愛するほどに、他者を愛することなど、実は誰にもできないのです。親が、子のために己のいのちを犠牲にして、身代わりとなる場合、それは自分の子であるか、または子とも呼べる何かの関連があるものに対してなのです。見も知らぬ他人の身代わりで、自分の命をささげようという人はいないのです。

コルベという神父は、ナチスの収容所のなかで、ほとんど見も知らぬものの身代わりに、自分の命をささげたと言われています。しかし、コルベ神父には、見習うモデルがあったのだといえます。それはイエズス・キリストで、「キリストに倣う」ことが、キリスト教の真の信徒にとっては、無上の価値あることだともいえるのです。

コルベ神父は、大勢の人が見守り、その行為を記憶に留めるなかで自己犠牲を行ったのだといえます。キリスト者のなかには、誰も見守るものも記憶するものもない場面で、自己を犠牲にした人が大勢いたと思えます。しかし、その人たちの心のなかには、イエズス・キリストがいて、その人の行為を見守り、受け止めていたのでしょう。

そのイエズスでさえ、ゲッセマネの園で、「苦い杯」を前に苦しみ悩み、もだえたと「新約聖書」に福音書記者は記しています。

人は、動物でもあり、心底に利己主義で、他者が災難に会おうと、死のうと、別に自分が困らない限り、どうでもよい存在だとも言えるのです。会社に大いなる貢献をしたとされ褒めちぎられた人でも、使い道がなくなれば、簡単に捨ててしまうというのが現実でしょう。

そういうことをあまりに露骨にすると、永続的な事業や社会は営めないので、人間の底知れずのエゴイズムに見かけの歯止めがかかっているだけで、人間は本質的に利己主義なのです。なぜそこまで利己主義かといえば、自己の存在価値があまりに貴重で、他者の価値の重さなど、ほとんど意味がないからです。

何を書いているのかよく分かりませんが、最初の野の花の話だと、花は、人がそれを切り、その美しさをほめて価値を認めようと認めまいと、それ自身の価値を持ち、野にあって、生まれ生きて死に、その生死の存在は、他の草や動物や風や水の流れなどと互いに切り離しがたい関係を持っており、花は、この関係のなかで花としての存在の意味を持っているのだということです。

花を切り取って、その美しさを比較して価値を与えたような、あるいは見つけたような気分になるのは人間の錯覚だとも言え、実は、花に投影された自己の存在価値・意味だとも言えるのです。

わたしは「存在する価値のない人間」や「存在する価値のない生き物」、「存在すべきでない人間」などいないと思います。確かに、「人間の屑」のような存在がいます。よくも、このような破廉恥な自己中心の妄想人間で、他人に迷惑をかけて、それによって自分が利益を得るというようなことをする人間がいるものだ、というような人は実際大勢いるのです。

しかし、他者を「人間の屑」と決め付けたとき、その決め付けは自分に跳ね返ってくるのです。あれは人殺しだ、泥棒だ、嘘つきだ、欠陥人間だ、身体障害だ、精神障害だ、とか考え、心で言葉に出すと、そういうわたし自身は、そういう批判から免れた場所にいるのか、というと、違うという認識になるのです。

ある意味、わたし自身、精神障害で、身体障害で、欠陥人間で、嘘つきで、泥棒で、物理的に人を殺したことはなくとも、その言動で、人の心の一部を傷つけ殺したことは、数知れないではないかと思うのです。しかし、またこういうことを書いて、自己正当化をはかっている自分は、何という卑劣人間、人間の屑なのか、とも思うのです。

ある人がこのサイトの回答に書いていた文章のなかの記憶ですが、少しでも心落ち着く場所で、一杯の暖かい紅茶を飲んで、わずかでも心が晴れるなら、それは幸せなことではないのか、そして人生において、これ以上の幸せを求めても、ただ比較の話であって、ささやかなことのなかに、心の安らぎと、ひとときの幸せがあれば、それで人生には意味があったのではないのか。

幸せを、ささやかなことでも感じられれば、あるいは、ささやかな幸せを求めている自己をみいだせば、そのように「ささやかな幸せを感じる心」をもつ者は、この心の故に、生きている価値や意味、存在価値があるのであると。

悲しむにときがあり、喜ぶにときがあり、悩むにときがあり、行動するにときがある。コーヘレトはそう語ったが、しかし、悩むばかりの人生もあれば、行動するばかりの振り返ることのない人生もあり、喜びも悲しみも、決してバランスをとったりしないのが人生ではないのか。

人生は矛盾と悲惨に満ちている。人殺しや泥棒などは生きる価値がない、そういう人は早く死刑にして処分したり、一生出てこれない、鉄とコンクリートの塀の向こうで終身懲役にでもついてもらおう、貧乏人は犯罪を犯しやすいので、家主はどんどん貧乏人を追い出して、新しい高級住宅を建築しよう、身体、精神の障害者は見ていて気持ち悪いし、社会の役に立たないので、苦しみのない安楽死で、見えないところへ行ってもらおう、ホームレスは町の美観を損ねるので、みなで石を投げ、川に落として流してしまおう。

そういう努力をすれば、すばらしい社会が訪れ、人間一人一人が生きる価値を真に実感でき、幸福や笑いや喜びが、町中に満ち満ちて、理想の世界が完成するだろう。

人並みに仕事ができない者や、社会の役に立たない者は、みな処分して消えてもらえば、理想の美しいすばらしい社会が実現するというなら、むしろ、処分されるほうに立つだろう方が、「人間として」存在価値をもつのではないのか。

悲しむ者は幸いである、彼らは天国に入るであろう。悩む者は幸いである、彼らは慰められるであろう。悲しみ悩む者は、ただそれだけで、人間として存在価値があるでしょう。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
すごく哲学的というか・・・きっとasterさんは様々な分野にわたる
幅広い知識をお持ちなのだろうと感じました。いろいろな例えでわかりやすく説明してくださり、感謝します。
私がきちんと理解できているかは不安の残るところですが、特に心に残ったというか、納得したのは次の言葉です。

>では、この花が人知れず、野に咲き、人に知られることなく、枯れしおれ消えた場合、「花の美しさ」は存在しなかったのか、花の価値はなかったのか、と問えば、どう考えればよいでしょうか。
 asterさんと同じく、私も、それでもその花の価値はあると思います。

>あることを行って、それを、他者が評価してくれるかどうか、は、「価値」の半分の面でしかないのです。しかも、重要な価値の半面は、他者の評価とは関係のない「実質」の部分の価値でしょう。
 私は「価値」の全てを他者からの評価に委ねていたようです。

>誰にも相手にされないとき、人が自殺を考えてしまうのは、実は、その人の存在に価値がないからではなく、価値があるのに、それが確認できない、実感できない失意と絶望のためだと考えればよいでしょう。
 私にとって新しい考え方でした。

お礼日時:2002/09/26 21:59

あなたのご両親にとっては確実にあなたは必要な存在でしょう^^


同じ様な事悩んだ事あります^^
今は時代が違う~って思ったのは、メールこないとか、でんわないと不安ってところです^^
 私が学生の頃は携帯ちょくちょく出てきてはいましたが、持っている子はほとんどいませんでしたし、学生寮などに(今はキレイなアパートに住む子がおおいけど^^)電話が一つあって呼び出しみたいでしたから・・・・
なんとなくですが、本当はあなたが誰かを必要としているのかな?
って感じました^^
仕事って、要は自己満足ですよ^^
でも、生半可な知識や学習での自己満足は危険。だから、仕事就いたって毎日勉強ですよ~^^
必要とされるということなら、青年海外協力隊とか、お医者になって無医村に行き開業するとか・・・スケール大きすぎますかね?^^
 お役に立っていなくてすいません。
悩むより、行動を起こせ!っと、私は学生時代教授に言われた事があります^^;
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「なんとなくですが、本当はあなたが誰かを必要としているのかな?」
きっとそうですね!結局誰かに支えになるような言葉を言ってほしくて、
質問を書いたんだと思います。なんか・・・すごく甘い人間ですね。
質問出した時は、回答が来ないかもしれないって不安だったんですが、
いろんな回答頂けて、それだけですごく大きな支えになりました。
いつも悪いほうに考えて悩み、行動できないことが多いですが、まず行動!
をがんばりたいです。

お礼日時:2002/09/25 13:31

こんにちは。


私も、自分の存在価値についてとても考えることがあります。
本当は自分は要らない人間なんじゃないかと思って、自殺未遂もしました。
仕事場でも体のことでイジメというか嫌がらせにあって、居場所がなくなって
しまったりして・・・。(今は退社しましたが。)
遠距離恋愛もしていたので、メールや電話がかかってこないととても不安でした。
自殺未遂をして、一つだけ分かったことがあります。
それは、要らない命は一つも無い、人は誰かの為に生きている ということです。
その誰かというのは、友人一人でも構いません。
私も、友達は数人程度しかいませんが、互いに相談しあったりする仲です。
引っ越した今でも付き合いは続いています。

あなたは人のためになる仕事は単なる自己満足じゃないかと思っていらっしゃる
ようですが、どんな仕事も、誰かの役に立っているんです。
仕事をして分かったんですが、お茶汲みにしろ、コピー取りにしろ、コンビニの
店員にしろ、役に立っているじゃないですか?
サービス業じゃなくても、事務仕事で文書を作るにしても、それは誰かに読まれ
る書類であり、それを読むことによって、その人に情報を与えている、役に立って
いる、とは考えられませんか?
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。
自分と同じような(と言っていいのかわかりませんが)気持ちを
経験された方がけっこういらっしゃるんだということに少し驚き、また
少し安心しています。考えてみると、確かに全ての仕事は誰かの役に立っていますよね。

お礼日時:2002/09/24 21:48

仕事なんかもそうですが、私の代わりなんていくらでもいるなあ、と思ったりもします。

正直、オフィスでは皆のようにお茶室にいりびたったりしないし、ご飯も一人で食べたりしてるしね(気がむいたら同僚や上司を誘って一緒に食べるけど)。
私は本当に友達が少ないです。信頼がおけて、双方お願いされたり悩みを相談し合える、それを嬉しいと思える人のみを選ぶからだと思います。大抵その友達も自分の生活を大事にしているため、会うのがつき1回~2,3回ですけど。
人のために自分は存在しているのではないのですが、誰か好きな人たちの助けになれたら嬉しい、そのくらいですね。
昔は本当に人に必要とされなくなったら終わり、迷惑かけてばかりと思ってましたが、そんな自分も嫌で何かひとつでも自分の為に何かやり遂げよう、とジムに通ったり、学校の勉強をすごくがんばってみたりしました。今はバランスもとれてきて、一人でいることを楽しむ余裕ができてきたと思います。週末はパンを作ってみたりしましたが(初挑戦)失敗。成功したらなかなか会えない友達やご近所の家に置いていこうと思いました。
あんまり参考にならないかもしれませんが、自分が楽しいと思えることに没頭してみたら、存在の価値とか考える必要がなくなってくると思います。っていうか、存在しなきゃ!楽しくないじゃないとか思えるんじゃないかなぁ。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。
一人でいる時間を自分のために有効に使えるようになって、
それを楽しめるようになったら、きっと自分の世界や視野も広がり
自信が出てくるのでしょうね。いろんなことに挑戦されていて素敵だと
思いました。

お礼日時:2002/09/24 21:40

世の中に、存在する価値のある人間なんてそうそういません。


「存在してはいけない人間」というのはあります。人の価値は平等じゃないです。

存在してはいけない部類の人間でなければいいんです。
気楽に行きましょう。
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。
「人の価値は平等じゃない」、ちょっとショックな言葉です。
でも「気楽に行きましょう」っていう言葉で少し気持ちが楽になりました。

お礼日時:2002/09/24 15:50

私もそんな頃がありました。

だから自分の満足だけのために生きてます。例えば「人助けをしたい」と思ったら人のためと思わずに自分のためと思います。辛いことがあったら「自分が選んだんだからしょうがない。じゃあどうすれば改善できるか」と自分で納得しながら進めています。今は自分のことしか考えられない、自分に余裕のない環境で生活しています。だから寂しくて人に頼りたいときもたくさんありますが、最後にはじぶんしかいない・・・と日々苦闘中です。自分の話になってしまいましたが、私が言いたいのは、存在価値は自分のためにあるって事です。人のために働ける仕事が自己満足、それでいいじゃないですかっ!そんな素晴らしい自己満足はどんどんするべきです。ただ、それを押し付けるとか恩着せがましくしてはいけません。だって自己満足のために自分がするんですから!
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。
imukarさんは強い方のように思えました。
「存在価値は自分のためにある」・・・ハッとしました。
自分に自信がないから、他人からの評価=自分としていたのかもしれません。

お礼日時:2002/09/24 15:43

落ち込んでいるあなたに、こんな事を言っても


気休めだと思うかもしれませんが、真実と
思うことを書きます。

この世に不必要な人間などいません。

皆誰かに必要とされている。
だからこそ、そこに存在できる。



 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
一番信じるのが難しいけど、一番信じたい言葉です。
きっと「必要とされる人間」になるための努力も必要なんだろうな、と思います。

お礼日時:2002/09/24 15:31

25才男一匹です。


俺は携帯を持っていますが電話なんぞほとんどかかって来ません。
メールも着ません。もっぱらかける専門です。
かける相手も一人きりですからものすごいですよ。
着信履歴・発信履歴全部同じ名前がツラツラと出てきますから(笑
多分その相手と別れたら、電話解約でしょう。
それぐらい一人にくびったけかな…
社会人となった今サークルや何かの集いも皆無、
合コン…というノリも嫌いですからね…

でも、電話を解約しても俺は消えてなくならない、そう思っています。
それは何故か?アクションを起こすから。
昨日総武快速のグリーン車でどやかましい馬鹿野郎がいたので弾けました。
本人に直接ではなくこれみよがしに…○○○をしました。
それが俺の存在意義かな…なんて振り返って我ながら思います。

空気のような存在になっていると本当に空気になるようで…
かといっていい匂いの香水になれるわけも無く…
鼻に付く嫌な野郎になろう…これが俺の生きている活力かも知れません。

俺が怒るのはオヤジです。
子は親を見て育つ、甘やかしてるから馬鹿な子供が群生する…そう思うから親がオヤジが腹が立つんですね。
「最近の若者は…」なぁんて勝手な事を言うオヤジが多いですが
セクハラも車内での携帯も歩きタバコも、全部オヤジのあほさからの法整備ですからね。
そういう事考えた事無いですか?変だぞ…と思う事。
それを表現するそれがアクション、あまりちょっかいかけて危ない目に会うというのも考え物ですけどね…

という事で自分の存在価値なぁんて無駄な事は考えない事です。
他人と自分を比較してもどうにもならんことですから。

>居場所がないと強く感じるようになったことです
俺にも居場所なんかねぇ、
けど一人暮らしして一人で生計立ててるとおいそれと仕事やめられねえんだな。
居場所が無いなぁんて言っている暇があったら人の居場所(持ち味と言うかな…)を奪うような勢いを!それっきゃねぇと思う…わかるかな?

学校なら担任に食って掛かる
バイトしていたら店長に食って掛かる
今の仕事も、上司に食って掛かってるね…
某アニメ某キャラのセリフを借りると「責任者は責任を取るべくいる…」
フフフ俺っていつからブラックになったかな…

>もし今自分がいなくなっても困る人なんていないんじゃないか
俺の場合、今俺が居なくなったら喜ぶ人のほうが多いぞ(笑
でも何故いなくならないか?それは、嫌がらせをするという事ではない…
3~4行目に登場しているその人が居るから、それだけです。
誰でもいい、あなたも一人見つけてください。
できるならその人が異性ならば一番いいんですけどね。
「誰とでも仲良くできる」なぁんて人居ないんですから。
あなたをこんなにも陥れようとしている人が居る…
その人の通りになる…なぁんて、嫌だと思いません?
その「嫌だ!」と思う気持ちがあなたを変えるかと思います…
変な意見言って申し訳ない…
くれぐれも犯罪に手を染めたりしないでくださいね…
むかつく奴のために自分の手を汚すなんて馬鹿な事ですから…
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この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。
たくさん書いてくださってうれしかったです。
強気でGO!ですね。
あ、犯罪に手を染めたりしませんから大丈夫ですよ。

お礼日時:2002/09/24 15:23

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