プロが教えるわが家の防犯対策術!

かなり前の映画ですが、
「マルコヴィッチの穴」(でしたか)というのがありました。
人気俳優のマルコヴィッチ氏の中に、
うだつのあがらないあやつり人形師の主人公の男性が入って、
マルコヴィッチ氏になって考え、行動してしまうという映画でした。

そこで私は思ったのですが、
今日、哲学の世界で、
「自分が考え、行為しているようで、実はそれは他の何者かがしている」
ということがあるのでしょうか?

学生時代、そういったことを扱っていた哲学の授業にお邪魔したことがあったのですが、
専門でもなかったため、ちんぷんかんぷんで単位だけいただいてそのままでしたた…。

人の主観とか、その道に明るい方、よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

私も専門家ではないので、素人意見なのですが、


例えばもし「今自分が考えている」ということを証明しろといわれても
たぶん誰も証明できないと思います。
だから、
「自分が考え、行為しているようで、実はそれは他の何者かがしている」
という可能性もなきにしもあらず、ってことになりませんでしょうか。
背理法だったかなんだったか・・・。覚えてませんが・・・。

同じように、幽霊がいるかどうかを証明することもできないってことですよね。
今はまだ誰も証明していませんので。

いるかもしれないし、いないかもしれない。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
人間の主観って、なんとも不安定なものですね・・・。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
中学生のときにデカルトの「我思う~」を聞いたときは、すっげぇ~と思ったのですが、
「彼あり」はデカルトをどうやって克服したのでしょう?

お礼日時:2002/10/01 11:32

>「自分が考え、行為しているようで、実はそれは他の何者かがしている」



”存在というものは人の精神活動上の認識の中にしか存在し得ない”

”1つの存在はそれのみで自分の存在の証明をする事は出来ない”

と言う考え方だと思います


いえ、あの…その道には暗いんで、ただ先述の文章を意訳しただけなんですが…(^^ゞ
    • good
    • 0

#2です



ちょっと読み違いしてしまいました
マルコヴィッチ氏の台詞じゃなかったんですね

でも、↓のような仮説は本当にあるものです
…と、言い訳しておきます(^^ゞ

参考URL:http://www3.justnet.ne.jp/~yoshida-phil-sci/P3_0 …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど、相変わらずちんぷんかんぷんになりそうだけど、がんばって考えてみます。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/10/01 11:34

自分が体験してきたことは全てコンピュータが作り出した幻影であり、自分自身もコンピュータの中の住人に過ぎなかった。


・・・というマトリックスはもっとわかり易いですね。

#1さん、#2さんの仰る通り、証明は絶対にできません。哲学の世界で、というより純科学的にというべきでしょうか。
ただ、それ-「人間はどうやっても主観から逃れられない」という答え-が導き出すもう一つの真理として「なんにせよ、その人が見て聞いて感じているものがその人にとっての“世界”の全てである」というのもあります。


蛇足になりますが、機械論は生物の自由意志を認めていません。つまり、「人間を含めたあらゆる生物は、細分化すれば一般的な分子・原子で構成されていることは否定できない。思考や意思というものも脳の中の電子の振舞いに過ぎない。これらは全て物理法則に則って動くものであるから、人間が自由意志をもっていくつかの選択肢から一つを選んで行動する、というようなことは起こりえない。物理法則にそう思わされているだけである」ということです。

長い上に乱雑でごめんなさい。
なんせ主観から逃れられないもので・・・。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど。
マトリックスは海外で見たので、十分には理解してないかもしれませんが、
それでも確か主人公(キアヌなんとかでしたっけ?)は
とりあえず、「自分で」考えてましたよね?
だから、今自分があるこの世界を虚像なのではと疑うことができたんですよね?
そういう意味では「我思う故に<我>在り」の域を出ていないのでは?
しかし、マルコヴィッチ氏は、その疑う自分さえも存在せず、
思考しているのは全然別人の人形師だから「~故に<彼>在り」なのではと…
両者には、少しずれがあるかも…

いずれにせよ、ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/10/01 11:43

#4です。


「A思う故にB在り」
Aに入るのは一人称固定、つまり「私」のみです。「彼」が思うのかどうかは「彼」にしかわかりませんから。

で、Bに「私」が入った場合、
「この世界に根拠がないとしても、今自分が知覚しているのは間違いのないこと。だから『自分が存在すること』の根拠は『自分が考えているからだ』で十分だ」
となります。

Bに「彼」が入った場合、
「彼が考えているかどうかはわからないが、私には彼が見える。人間らしく振舞っている。いや、別にロボットでもかまわない。とにかく私が彼を感じている以上彼は存在するのだ」
となります。(ここはクオリアだとかイデアとかの話に繋がるような話になるかと思います)

デカルトがそれを考えたかどうかは知りませんが、考えたなら上の答えが出たはずです。

X氏がY氏に支配されているとします。
この場合、X氏が肉体以外の全てを支配されているならば、思考主体はY氏のみになりますから、
Y氏主観の「我思う故に我在り」
のみが存在することになります。

X氏に少しでも思考する隙間があれば、自分で思考しているのか思考されているかに関わらず、
X氏、Y氏それぞれの主観の「我思う故に我在り」
が存在することになります。

思考主体がなければそもそも疑問を持ちようがないし、少しでも主体があるのなら、「我思う~」が成立するのです。

なんかどんどんややこしくなっているような・・・。

無理やりまとめますと、
デカルトが言ったことは
思考主体の思考は、思考主体の存在を、思考主体にのみ証明可能である。
思考主体以外の話になると、まったく別の問題になるかと・・・。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

う~ん、ややこしくなってきました。
とにかくご回答ありがとうございました。

お礼日時:2002/10/13 12:56

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す