人生最悪の忘れ物

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は武将ですよね。
この時期は武将が一番権力があったんですか?
武将と殿様と将軍の違いもわかりません。

A 回答 (6件)

>織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は武将ですよね。



武将の定義
 広い意味で家来もった武士となります。下は足軽大将から上は一国一城の主
 まで武将です。
 狭義ですと、ある程度の領国を持った自由度の高い軍事組織の長を指します。
 織田信長の時代の秀吉は武将とは呼ばれず、部将と呼ばれる場合が多くなり
 ます。部将は誰かの家来ですが、主人から軍事的権限を与えられた武士団の
 長である場合に呼称されます。
 よって回答は「織田信長と徳川家康は、当初から武将であるが、秀吉は時期に
 より部将であったり、武将であったりした」だと思われます。

>この時期は武将が一番権力があったんですか?

織田信長が生誕した頃、権力は誰にあったか。
 日本を包括的に支配する権力は無かった(精神的支柱として天皇は健在です
 が権力があったとは言えませんし、将軍家も権力はありませんでした)と、
 なりますから、この時点では武将や宗教勢力等が地方に群雄割拠していた。
 が正解となるかと思われます。(武将が一番とまでは言えません)
本能寺の変後
 この頃は、宗教勢力もかなり弱ってきましたから、武将が一番権力があった。
 としても間違いないと思われます。

>武将と殿様と将軍の違いもわかりません。

殿様は、江戸時代の領国の主か、禄の高い旗本を指します。
(広義では、支配層の人という意味にも使われます。よって庄屋は権勢があっ
 ても殿様とは呼ばれませんが、武士は下級武士でも嫌味も込めて殿様と呼称
 する場合もあります)
それに対し武将は戦国時代の武士団(武士団の大小はありますが)の長。
よって、武将の末裔が(没落しなければ)江戸時代に殿様になったと理解す
れば、強ち間違いで無いと思われます。
将軍は、征夷大将軍の事です。天皇から征夷大将軍に任命されたものだけが
名乗る事ができます。それ以外の者は名乗れませんから定義は簡単です。
よって、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7% …
に記載された人だけが、将軍となります。
(その他、征狄大将軍や征西大将軍などの職名もありましたが、質問者さんが
 お尋ねの将軍は征夷大将軍の事です)
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彼らは正確には、戦国大名で、武力で国を治めていた。

武将は、今の会社でいう重役のようなものです。 殿様は、江戸期の大名に多く使用される。     将軍は、天皇制の役職。この時代は、武家の棟梁の意味。本来は、源氏のみだが(足利家も源氏)、徳川家(元は松平)、家系図を改ざんして将軍(征夷大将軍)になった。                  実力はあったが、権威はなかった。権力は両方あってのもの。
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武将とは、その集団の長(軍団長)ですので、


規模によっては、侍大将から部将、宿老、家老まで戦国武将となります。
もちろん、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康も戦国武将です。

狭義的には部将以上、城持ち(つまり有名である事)などと限定する場合もあります。

備、そなえ
(軍隊)の定義から言いますと、足軽隊、弓隊、槍隊などの集合、
戦が出来る単位以上(部将以上)となります。

殿様とは、御殿様から来ているとも言われています。
自分より良い御殿に住んでいたからですね。

また、#3様が良くまとめておられです。

将軍は征夷大将軍、大名は家臣になります。侍の長です。
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>織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は武将ですよね。



その通りですね。

>この時期は武将が一番権力があったんですか?

一番難しいところですね。
当時は、京都に天皇を中心とした公家社会が独自に存在していました。
信長・秀吉・家康の官位は、天皇が任命する事になっています。
信長の右大臣就任、秀吉の関白就任、家康の将軍就任も天皇家からの任命です。
大岡筑前守などの○○守就任も、天皇の任命です。
信長・秀吉は、公家社会の一員として右大臣・関白として国内統治を行ないます。(形式上だけですが)
家康は、将軍就任と同時に「天皇家からの行政権委任」として国内統治を行ないます。
慶喜の時に、行政権を天皇家に返還してます。(大政奉還)
天皇家・公家は、この任命権を握っていたので実力者から援助を受ける事ができました。

>武将と殿様と将軍の違いもわかりません。

武将は、兵卒を率いる人物。つまり指揮官です。単純に、豪族や大名を指す場合もあります。
殿様は、城・陣屋・武家屋敷の主です。家臣が足軽3人でも、殿様と呼びます。
将軍は、武家の棟梁を意味する役職で武将から天皇家が選びます。
実際は、武家の実力者が天皇家に「私を将軍にして」と奏上し「任命する」と天皇家が宣下を行ないました。
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 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は武将です。

領土やら家来やらを持っている武人は武将です。
 例えば織田信長の家来に明智光秀という人がいましたが、明智光秀からみて織田信長は殿様です。明智光秀は明智光秀で家来や領民がいて領土があるので、明智光秀の家来から見れば明智光秀は殿様でしょう。
 日本はかつて天皇の国であったので、将軍というのは天皇に任命された人物がなる役職です。一般にこの国では将軍=征夷大将軍ですので、ここでは徳川家康のみが将軍ということになります。なぜなら、信長も秀吉も天皇から将軍という役職を任されていないからです。
 「偉い=権力がある」という風に感じがちですが、そこは勘違いしてはなりません。偉いとか位が高いという意味では天皇が最高位にいましたが、力でいくと信長や秀吉や家康の方があったといえるでしょう。天皇の方が身分が上だから家康は将軍を任されたわけですが、強いのとは別なわけです。
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信長 秀吉 家康は武将です。


戦国時代は武将(武士)が一番権力があったわけではありません。最終的に権力を握った・・・つまりは結果論でしかありません。

当時の日本には京都の天皇と公家勢力(権威だけ。分かりにくければなんとなく偉そうにしてたと思ってください)一向宗を始めとした仏教勢力(これも分かりにくければオウム真理教と暴力団がタッグ組んでるのを想像したら一番近いです)堺など独立都市を根城とした商人(ゴロツキ雇った悪徳商人。時代劇の越後屋がもっと武闘派に走ってるのを想像して下さい。)と戦国武将を始めとした武家がそれぞれ泥沼の権力争いしていた時代です。まぁこれも分かりにくければ時々ニュースに出てくる暴力団同士の抗争をイメージしてくれたらほぼ正解です。

簡単に言うと武将は城を持った侍です。殿様はその侍の部下が彼を敬称付けて呼びかけ方です。学校では先生とか会社では部長とか社長とかというのと同じです。
最後の将軍というのは少し違います。将軍とは主に役職を指します。なので支那では同じ時代に同じ場所に将軍は複数存在しても別におかしくはありません。日本でも最初はそうだったんですが源頼朝が征夷大将軍となってからは基本的に1人だけであり複数は存在しない建前となりました。今ならば総理大臣やアメリカ大統領が同じ時代に複数居ないのと同じ理屈です。
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