『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

柳条湖事件の首謀者として有名な石原莞爾は、天才戦略家、天才思想家などと天才呼ばわりされていますが、私には天才と呼ばれる理由がわかりません。
当時の一般的な陸軍参謀と石原の違いなど、石原が天才たるゆえんを教えてください。

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A 回答 (4件)

***補足に対して***


手元の書籍(「昭和史の軍人たち」秦郁彦)を参考に回答致します。

当時参謀第一部長だった石原は1937年7月10日中国中央軍北上の情報を聞き、迷った末に三個師団の派兵案を決裁しましたが翌日、閣議に派兵案が提出される前に近衛の元へ行き、閣議で廃案にするよう頼みます。しかし派兵案は閣議を通過し、なおも石原は動員中止命令を出したりしたようですが、結局7月27日には派兵は確定されてしまいます。

(蛇足)こうしてみると、一見、平和主義者のように見えますが、彼の著作「世界最終戦論」などには、先ずソ連を叩き、その後、最終戦として米と戦う、などとしており、要するに中国に構う暇があるならソ連と戦え、と言っているだけに過ぎません。
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございました
勉強になりました

お礼日時:2002/10/15 10:36

 あまり回答にはなりませんが、自分は東京スポーツの「激録 日本大戦争」を読んでいて、石原莞爾の活躍ブリを読んでなるほど!と思うところがありました。


 よかったら図書館で見てください。
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この回答へのお礼

図書館でチェックしてみます
ありがとうございました

お礼日時:2002/10/15 10:40

石原の凄いところは満州に目をつけたところだと思います。

というのは当時の大恐慌によって迫り来る民衆の不満と国際社会の圧力に対する対抗策を満州によって解決することを思いついたからです。

いち早く満州の重大性に気づいた数少ない日本人の一人ということもできます。当時、北からはソ連がいつ南下してくるか分からず、強国であるために満州を拠点に日本を防衛することが一番の方法だったみたいです。国防拠点としての重大性です。

また、当時は一次大戦後の不況、関東大震災に加えて世界恐慌によって国内経済は混乱し、日本の経済専門家、政治家、軍も資本主義経済そのものに対して、そして欧米依存型の経済体制に対して疑問を持ち始めていました。そんな中、日本の幹部は一時対戦時にドイツが見せた計画経済を見本に半資本主義体制、欧米に依存しない経済体制を実現しようと考え始めたのだと思います。計画経済とは生産量や価格などを国の指導によって決めてより効率的な資源配分により国家全体の生産量を上げることです。それによって国力増強を、そしてなにより大恐慌の後遺症から抜け出そうと考えたのです。しかし、その前に実験する必要があった。その実験の場としてどうしても必要だったのが満州です。満州で半資本主義体制のデータを経済官僚はほとんど収集し、日本に持ち帰って日本本国で実行することに役立てたのです。そのおかげで日本は列強のなかでも類を見ないほどの経済の回復を見せました。このまま戦争が起こらなければすべて順調のはずでした。


しかし、満州に目をつけていたのはソ連だけでなく、アメリカ合衆国もずいぶん前から興味をもっていたんです。アメリカは日本、ドイツ、イタリアと同じく後から近代化し、植民地分割に参加してきた国家です。しかし、アメリカはもちろん、これらの国が植民地を取ろうとした時は、すでにヨーロッパ各国によって植民地分割は終了しつつあったのです。アメリカにとって唯一アジアで植民地とできる可能性のある地域が中国大陸北部、つまり満州だったのです。アメリカが興味を示し始めた頃には、ちょうどその地域をめぐって日本とロシアが日露戦争をしていた頃でした。そこでアメリカは両国の仲介をして日本にとりあえず満州を取らせた上で日本に貸しを作り、後に満州の権益の一部を日本から分けてもらうことで、満州進出のキッカケとするつもりでした。しかし、日本はそんな余裕はなく、さっさと満州を要塞化してしまいます。この時期からアメリカでは「日本に大陸進出を許してはならない」という伝統的な国家政策が国内で支持され始めました。そして世界大恐慌が起こり、日本は満州にすがる思いで国家を建設しました。この行為をアメリカは許すわけにはいかなかったのです。このような理由からアメリカはロンドン・ワシントン会議で日本が一次大戦で取ったドイツ権益を吐き出させ、日英同盟を破棄するように画策し、日本を孤立化させた上で戦争に引きずり込もうとしたわけです。それがドイツに参戦する口実にもなるため、嬉々としてこれを実行したに違いありません。


石原はよく日米開戦に引きずり込んだ人として書かれていますが、実際のところは石原は日米開戦に強硬に反対していました。負けると分かっていたからです。このことからも石原が日米開戦を望んでいなかったことが容易に想像できます。石原の対満州構想は、日米開戦の危険性を重々承知の上で、あくまで日米開戦が避けられることを前提として計画されたのだと私は思います。それほど日本は追い詰められていたからです。


そうだとすれば石原は相当優秀な戦略家です。すでに計画経済のやり方が正しいことが満州で実証されたわけですし、もし開戦がなければ日本は円圏によって経済をブロック化し、欧米の経済に影響されない国力増強体制が確立してたことになるからです。そしてその満州によってソ連に睨みを効かし、また一方では中国大陸に侵攻しようとする他の列強を防ぐことも可能になります。


要約すると、石原は満州を利用することによって対ソ連での国防、円圏を中心とする自立的国家の経済構造の建設、によって、一方で守りを固めながら国力を着実に増強する方法を考えついたといえると思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。
概ね理解できました。

確認の為教えてください。
私も以前はそう思っていました。しかし
満州に目をつけていたのは石原だけではないと思いますが・・・
仮に張作霖爆殺がうまくいっていれば河本大作が天才と呼ばれていたのでしょうか?

補足日時:2002/10/10 15:33
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私見ですが。

。。

石原といえば満州事変の立役者という以外にも、226事件の鎮圧者であるとか、不拡大論とか、日蓮の啓示とか、言論統制の厳しい時代に行った反東条運動などが挙げられると思います。
なかでも、民衆や軍人の支持を集めカリスマ性を高め天才と呼ばれるようになったのは、事前に日中戦争は泥沼化する、と予言していたことだと思います。

石原は、日中戦争が泥沼化すると言う事を藘溝橋事件前から予言していました。藘溝橋事件後、華北派兵を中止すべく近衛首相を説得しようとしたり、さまざまな和平工作(近衛・蒋会談、トラウトマン工作など)を試みましたが、すべて失敗し、そして不拡大論に敗れた石原は左遷され予備役に編入されてしまいます。やがて彼の予言どうり日中戦争が泥沼化してゆくと、この泥沼から抜け出たい軍人、右翼の民衆から「石原の言うとおりだった」とカリスマ視され、石原も彼らの声に応えるかのように東亜連盟運動を組織し、著作を刊行したり講演を行うなどして東条内閣を攻撃しつづけます。

やがて、戦争が終わると、戦争の責任は東条にあるとされたのに反比例して反東条の石原がさらに広く支持されていった。。。。よって天才と呼ばれるようになったのでは。。。と思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。
概ね理解できました。

確認のため、教えてください。
石原は華北派兵を中止するよう近衛を説得したとありますが、華北派兵作戦を策定したのは作戦参謀である石原自身なのでは?

補足日時:2002/10/10 15:20
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