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東三河はその昔、飽海評と穂評が設置されていたということですが、いつ頃どのようにこういった事が分かったのでしょうか?
諸説あるので、詳しい方がみえましたら、教えてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

別に詳しいわけでもありませんが、知っている範囲内を書きます。


ご存知と思いますが古代三河は、三河と穂の国に分かれていました。
穂の国府が置かれ国造(朝別王)がいたといいます。   穂の国の中心が穂評(郡)でした。
大化の改新で二国が統一され、三河の国となり八名郡、宝飫郡、渥美郡の三郡が設けられたといいます。    穂(ほう)郡が宝飫(ほおの)郡ついで宝飯(ほい)郡に変わっていった。
飽海(あくみ)郡が渥美(あつみ)郡に変わっていったと考えられます。
平凡社の「日本歴史地名大系」23巻を参考にしました。

なお穂は稲穂で無く東三河で目立つ山が由来だといいます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2008/04/17 20:32

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