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第2次世界大戦後に出来た新制中学校はどうやって作られたのでしょうか?
校舎などの設備や教師(そもそも教師免許はどうしたのでしょう?)、生徒などどういう経緯があったのかが分からないので教えてください。
(戦前の旧制中学校は新制高校になったのですよね?すると旧制の生徒の1~3年はいったん新制に転校したのでしょうか?)

A 回答 (4件)

新制中学校の母体は高等小学校です。



校舎は、空襲の被害がなかった場所では高等小学校のものを使い、空襲で焼けたりしていた場合は急増建築であったり小学校(もとの国民学校=尋常小学校)と同居したりと苦労があったようです。

中学校の教員も、高等小学校の教員が横滑りしたようです。英語教員は高等小学校には一人もおりませんでしたので、英語などろくに知らない小学校教員に急遽英語を習わせたり、英語が多少出来る民間人を採用したり色々苦労があったようです。

現在、小学校と中学校の教員は、基本的に同じ学校(各県に一つはある国公立の教員養成大学、国公立大学の教員養成学部)で養成されています。教員養成大学(国公立大学の教員養成学部)は、戦前に小学校(高等小学校、尋常小学校)の教員を養成していた師範学校の後身です。この辺に「歴史的な経緯」が残っているわけです。

一方、旧制中学校の教員は、主に帝国大学、高等師範学校(東京・広島)、各種専門学校の卒業生でした。旧制中学校が、教員・校舎ごと新制高等学校にスライドしたわけです。現に、各県の「学区トップ高校」は例外なく「県(府立)**中学」の後身です。現在も、各県の公立高校の教員は、旧帝大クラスの大学を卒業しているのが普通で、小学校・中学校の教員とは明らかに学歴が異なっています。

「戦前の旧制中学校は新制高校になったのですよね?すると旧制の生徒の1~3年はいったん新制に転校したのでしょうか?」

小学校(国民学校)を卒業して旧制中学に入学した人は、そのまま5年制の過程を卒業して旧制高校または新制大学を受験しました。
新制中学を経て新制高校に入学した人は、我々同様に3年制の過程を卒業して新制大学を受験しました。

旧制中学組と新制高校組では、前者は中学5年時に17歳、後者は高校3年時に18歳で1歳年齢に差が出てしまいますが、これは「混乱時なので仕方ない」と割り切られたようです。同じ校舎の中に、「旧制中学のクラス」と「新制高校のクラス」があり、同じような勉強をしていたそうです。私の高校の時の恩師が、同じ高校の大先輩で「最後の旧制中学組」で、色々話を聞かせて貰いました。

戦前の学制は、一番のエリートコースは
尋常小学校(6年)中学校(5年)高等学校(3年)大学(3年) 計17年
で、この過程を経た人は
「官僚」
「学者」
「医師」
「大企業社員」
など、社会のエリートとなりました。

これ以外に、さまざまなバリエーションがありました。

尋常小学校(6年)高等小学校(2年)師範学校(5年) 計13年。これで小学校の正教員になれました。師範学校は学費が不要なので、貧しい家の少年はこれを目標にしたようです。

尋常小学校(6年)中学校(5年)専門学校(3年) 計14年。これで社会では「エリート」の部類です。専門学校とは「高等工業学校」や「高等商業学校」などで、これを卒業すれば官公庁の職員、あるいは大企業の正社員になれました。
戦前の教育制度を詳しく説明すれば優に分厚い本が書けます。

こういった複雑な教育制度を、
小学校(6年)中学校(3年)高等学校(3年)大学(4年) 計16年
に整理したわけですので、教育現場では相当な混乱があったようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そういえば国民学校は結局元の小学校、高等小学校にいったん戻ったのでしょうか?

お礼日時:2008/04/22 00:09

地元の中学校と高校の校史を突き合せただけのため、断片的な情報になりますのでご了承下さい。


ご存知とは思いますが、回答の前提として戦前の学制を確認しておきます。
それは、尋常小学校(6年)卒業後の進路が、2年制の高等小学校と5年制の旧制中学(高等女学校および商業学校・工業学校・農学校等の実業学校を含む)に分かれていたということです。

まず、校舎については、農学校の古校舎を使ったとあるので、一般的には小学校など既存の学校施設の一画をとりあえず間借りしてスタートしたと思われます。

教員については断定できませんが、レベル的には、それまでの高等小学校が新制中学校と同格なので、旧制師範学校を卒業して高等小学校の教員をしていた人たちが新制中学校に移行したものと思われます。おそらく、これらの人たちには当初から中学校の教員免許が付与されたのでしょう。
それだけでは人数が足りないので、旧制中学を卒業した程度の人をも臨時教員のような形で数多く採用したようです。それで、何年間かの実務経験を認めた上で、後追い的に教員免許を付与したのかと思われます。

次に生徒についてですが、6・3制が始まったのが昭和22年の4月なので、この時点で中1に当たる子どもは全員が新制中学に入学しました。
高等小学校の2学年に当たる者は、新制中学校の2学年に編入しました。問題は、前年度に高等小学校を卒業した者の扱いですが、これは希望者が3学年に編入できたそうです。だから、1・2学年に比べて3学年の人数は少なかったわけです。
一方、旧制中学は新入生の募集を中止して、2・3学年が属する課程は「併設中学校」という呼称に変更されました。これは、2年限定の暫定措置です。
ちなみに、新制高校が発足するのは翌年(昭和23年)なので、4・5学年については旧制度が存続していました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そういえば高等小学校は共学だったのでしょうか?
戦後の新制公立小中学校は原則共学と思うのですが、そのあたりはどうだったのでしょうか?

お礼日時:2008/04/22 00:14

旧制中学に最後に入学した者としての体験者としてお話しいたしますと。

私が小学校を卒業した年が敗戦の翌年の昭和21年3月でその年に旧制中学を受験して入学しましたがその時代の旧制中学は全国の中学校は田舎の中学校でも地方都市に建てられていたので、地方都市全てが戦災被害を蒙っていたので入学したものの校舎はなく、田舎の小学校教室の一部と講堂を借りて授業を受けていました。それでも机と椅子はありましたが、期末試験の時には講堂で腹ばいになりながら答案を書いたことを覚えています。普段の授業でも晴れの日は運動場で黒板の前にしゃがみこんで、現在でもカンボジアの農村地帯でおこなわれている授業風景が日本でも存在していました。その滅茶苦茶な教育現場を更に混乱させたのが新生の教育システムです。旧制中学一年生が二年になる時に新生中学が設立されて学区制で無試験の新生中学生が誕生しました。旧制
の中学生が四年生になる時に新生の高校一年生になったわけです。この時に学区制により居住地域別で高等学校が指定されたばかりに、旧制中学の学力差の問題を抱えてそれを解消するため途中から学力別クラスに変えていました。戦前の教育システムそのまま存続させる設備をアメリカが全て破壊しておきながら新しいシステムを要求するなど当時のアメリカは日本人を人間扱いしていなかったのだろう。当時の教育行政に関わった人々にどのような人がいたか知りませんが、よくこれだけバカバカしい制度を容認したものだと今更ながら憤慨している。
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この回答へのお礼

貴重な体験ありがとうございます。

お礼日時:2008/04/22 00:15

No.2です。



私は戦後生まれなので実体験はありませんが、ウィキペディアによると、昭和16年に国民学校令が施行され、それまでの尋常小学校が国民学校初等科、高等小学校が国民学校高等科に名称が変更になり、昭和22年の学制改革で前者が新制の小学校へ、後者が新制の中学校へ移行したとのことです。

なお、戦前は尋常小学校の高学年から男女別学でした。正確には、同じ校舎内で、男子のクラスと女子のクラスに分かれていたのです。
そうすると、新制中学校への移行に伴って男女共学になったものと思われます。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91% …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。共学ではなく別学だったのですね。
いきなりクラスが一緒になったりして混乱がなかったのか気になります(新制小学校の青空教室写真を見ると男女混合に座っていましたが、なかなか新制中学校の青空教室写真は見られなかったのです)

お礼日時:2008/04/23 18:27

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