No.1
- 回答日時:
トップは 無論 皇帝です。
ラストエンペラー 愛新覚羅溥儀
実際のトップはその父 醇親王
西太后は、その前の皇帝同治帝の実母で東太后は前の前の皇帝咸豊帝の正室。
日本で言えば、大正天皇の実母は明治天皇の皇后でなかったが、その実母も大正時代には、今上天皇の母として尊敬された。
というようなことでしょうか。
ただ、この西太后が、やり手だったというのが、清朝末期の鍵です。
この回答への補足
ありがとうございます。??しかし、ややこしいですね。
なぜ、西太后は皇帝ではないのに権力をにぎれたのでしょうか?皇帝のただの摂政??
また、李鴻章は皇帝愛新覚羅溥儀の(実際には違いますが)、命令を受けて日清戦争などの戦争を起こしたのでしょうか?日本でも、第二次世界大戦の際は、天皇の命で行われたの聞きましたが。。。
高校生の教科書から入ったほうがよさそうですかね、、、??
No.2
- 回答日時:
1.なぜ二人大后が存在するのでしょうか?
えーと、日本でも同じですが、今のような一夫一婦制になったのは、大正天皇からです。例えば大正天皇自身は明治天皇の正室(皇后)から生まれた子どもではありません。
一般にどの国でも昔の王室(皇室)では、源氏物語を読めば分かる通り、正室(皇后)の他にたくさんの側室がいるのが普通でした。これは徳川将軍家(大奥ですね)でも同じだし、中国の歴代王朝でも同じでした。
で、清朝に咸豊帝という皇帝がいました。この人の正室(皇后)が後の東太后で、側室が西太后だったのです。
もちろん正室(皇后)の方が圧倒的に地位は上で、側室は本来皇后の部下に過ぎませんが、側室が皇帝の子供を産み、その子が次の皇帝になると話は別です。なにしろ、生みの母ですから。
経過は省略しますが、咸豊帝が死に次の皇帝として、西太后(この当時はそういう名前ではないけど面倒なので)が産んだ同治帝が皇帝になったわけです。そうすると、東太后はお父さんの奥さん(義理の母)で元は正式の皇后だから、皇太后になる。西太后は側室だけど、自分の実の母ですから同じく皇太后という扱いになったわけです。
2.大后というのは日本の天皇みたいな感じですか?
全然違います。大后というのは、元々、「先代の皇帝の正室」という意味しかありませんから、歴代の清朝(だけでなく王朝)にも常に大后はいました。ほとんどの大后は未亡人として政治権力とは関わりなく、宮廷で余生を過ごしていました。
ところが、同治帝が即位した年齢は6歳でした。つまり幼稚園生の年齢で皇帝になった。
当然、誰かが補佐というか実質的な政治をしなければなりません。このような場合、皇太后がその補佐役の1人になることはよくあります。でもこれは、あくまで「名目」で普通は大臣などが補佐役を務めていました。
西太后の場合、特殊なのは、普通は「名目」だけなのに実質的に政治に関わったという点です。反対に東太后は、伝統通り「名目」の補佐役でした。
3.またこの頃の中国のトップは李鴻章ですが、日本でいう首相??
そうですねぇ、彼は直隷総督と北洋大臣を兼任していましたから、実質的には首相といっても良いでしょう。普通、中国の場合、各地に省という大きな行政単位があって、その省のトップを巡撫と言います。
総督というのは、その上の地位で、いくつかの省を束ねています。その中でも直隷総督は特別な地位でした。まず、首都である北京が管轄下にありますし、その周辺の省の支配もしています。つまり、単なる地方行政官ではないわけです。その気になれば、首都でクーデターだって起こせる。
また、北洋大臣は、外国との交易を通して実質的に外交交渉も行うし、北洋艦隊という近代海軍も配下に収めています。
清朝末期は、外国との交渉ができる人物、軍事力を持っている人物(彼は淮軍という、個人的な軍隊も持っていました)が一番権力を持っていましたから、実質的には首相のようなものでした。後の袁世凱も同じく直隷総督・北洋大臣になっています。
ただし、清朝は皇帝独裁国家でしたから、トップは皇帝(後見としての西太后)です。有名な話として、西太后の庭園(頤和園)を造る予算として、戦艦の建造費が流用され、そのために日清戦争で北洋艦隊が敗北したという話があるくらいですから、李鴻章といえども、西太后には勝てないということでしょう。
また、正式な官制から言えば、軍機処というのが正式の中央内閣にあたり、その大臣達(軍機大臣、6名)が本来首相となるはずです。
この辺りの事情については、あなたが読んだ陳舜臣の別の本「中国の歴史(近代編)」に詳しいですから、併せて読むと良いかもしれません。
この回答への補足
ものすごく分かりやすい回答ありがとうございます!!!!!
すごく感謝です。しかし、また補足させてください、、すいません。
ラストエンペラー溥儀の映画を見たとき、最初のシーンで西太后と溥儀が一緒のシーンがありましたが、溥儀と西太后が重なった時代はあったのでしょうか?
お願いします。
No.3
- 回答日時:
西太后は皇帝ではないのに権力をにぎれたのでしょうか?皇帝のただの摂政??
→ No2で詳しく書かれていますが、皇帝である息子が「ぼうやだからさ」ということになります。女性は御簾の陰に隠れているので、こういう政治体制を垂簾聴政と言います。つまるところ、西太后がやり手だったとしか言いようがありません。
また、李鴻章は皇帝愛新覚羅溥儀の(実際には違いますが)、命令を受けて日清戦争などの戦争を起こしたのでしょうか?
→ 皇帝としては光緒帝です、西太后の甥っ子
No2の方への補足に 脇回答すれば
溥儀と西太后が重なった
→西太后が次期皇帝に指名して光緒帝が崩御した翌日に西太后が死んでいるので、重なってはいます。
No.4
- 回答日時:
#2です。
>ラストエンペラー溥儀の映画を見たとき、最初のシーンで西太后と溥儀が一緒のシーン
その映画自体は見ていないので、どのような情景かは分かりませんが、結論から言えば、一緒のシーンが有った方が自然だと思います。
溥儀(宣統帝)は光緒帝の次の皇帝で、清朝のラストエンペラーとなるわけですが、前代の光緒帝が死亡したのは、西太后死亡の前日です。したがって普通に考えれば、翌日に死ぬはず(しかも危篤状態)の西太后が、皇帝としての宣統帝と同席するはずは無いのですが、事情があったのです。
光緒帝という人は、清の衰退を止めるため、皇帝親政の元に政治改革を進めようとしましたが、これが西太后の反撃にあって失敗。挙げ句の果てには宮城内で監禁されてしまっていました。
その後の経緯は省略しますが、1908年8月に溥儀(宣統帝)が即位しています。この時点でもちろん光緒帝は生きているわけですから、おそらく無理矢理退位させられたのでしょう。つまり、ここでの皇位継承は、光緒帝の死去に伴って行われたのではなかったのです。
そこで、時系列を見ると
1908年8月 溥儀(宣統帝)が3歳で即位
1908年11月 西太后死去
*その前日、光緒帝が死去(まぁ、暗殺でしょうね)
ですから、溥儀が即位した時点では、西太后はまだ元気だったろうと思います。で、彼は3歳ですから、当然慣例に従って西太后が垂簾聴政を行ったとしても不自然ではありません。
この回答への補足
ありがとうございます。ごめんなさい、補足です。
光緒帝が即位したときも西太后が権力を握っていましたが、光緒帝というのは西太后の妹が母親と聞きました。それでは、彼の母親(妹)と父親はなぜ彼女が権力を握ることを許したのでしょうか?
また、最後の皇帝溥儀ですが、彼は誰の子なのでしょうか?光緒帝との質問と同じで母親と父親もご存じなら教えてください。
最後に、西太后が死んだあと誰が政権を取ったのでしょうか?
お願いします。
No.5
- 回答日時:
1.彼の母親(妹)と父親はなぜ彼女が権力を握ることを許した
この考え方は、発想が逆です。西太后は、同治帝・光緒帝と二代にわたり実質的な宮廷内の政治権力を握ってきました。光緒帝を廃して宣統帝擁立を決めたのも彼女です。権力を握っていたからこそ、先代皇帝が生存中なのに、わずか三歳の幼児を皇帝(宣統帝)にすることができたわけです。その時点で既に、誰も彼女に逆らうことなどできなかった。何しろ、宮廷内では「老仏爺」(観音様)と自分のことを呼ばせていたくらいです。
この人の生涯を見ていると、政治センスは全く無く、頑迷・無能ですが、政治権力を握るための感覚・行動力は凄い。
本来政治権力というのは、それを使って何かをする(国政改革だとか外交、民生など)ための手段のはずですが、宮廷政治というのは、権力を握ること自体が目的化される傾向があります。西太后という人は、権力を握ること自体を目的として行動する時には、素晴らしい行動力を発揮する人だったのでしょう。要するに一番迷惑なタイプ。
2.また、最後の皇帝溥儀ですが、彼は誰の子なのでしょうか?
お母さんはあなたが調べた通り、西太后の妹です。お父さんは、光緒帝の弟の醇親王(載ホウ)という人です。
3.西太后が死んだあと誰が政権を取ったのでしょうか?
この質問に直接答えるのは、簡単ですが、時系列で少し前から振り返らないと理解ができないでしょう。
1898年 袁世凱の密告により戊戌変法勢力失脚、光緒帝幽閉
この時点で、光緒帝は指導力を失い、宮廷権力は西太后が握ります。彼女の支持のもと、実際の政治を行ったのが、次の宣統帝のお父さんで、光緒帝の弟の醇親王(載ホウ)です。
1901年 李鴻章死亡
袁世凱は李鴻章の後を引き継いで、北洋大臣兼直隷総督に就任します。ここから、数年間は西太后の最高権力の下、醇親王(載ホウ)と袁世凱の二人が実質的な政治を行います。ただし、二人は協力関係ではなく、政治的には敵同士でした。
1908年 西太后死亡
同時に袁世凱も失脚(西太后の死亡後2ヶ月程度で)します。醇親王にしてみれば、兄の光緒帝を密告で幽閉させた裏切り者ですから、許せなかったのでしょうね。
1911年 辛亥革命勃発
醇親王(載ホウ)が罷免され、袁世凱が革命鎮圧の命を受けて「清朝の第2代内閣総理大臣、湖広総督」に返り咲きます。
ということで、西太后の死亡後の政治権力を握ったのは、ラストエンペラー溥儀のお父さんで、前代の皇帝光緒帝の弟である愛新覚羅 載ホウ という人です。彼は「監国摂政王」という地位に就いています。
袁世凱自身は、失脚し故郷に帰って隠遁生活を送っていましたが、彼の部下は北洋軍の中にしっかり残っており、その部下を通じて情報も得ていたし、様々な働きかけや政治的な動き(革命勢力との連絡もあったらしい)もしていたようです。
北洋軍は、李鴻章から引き継いで袁世凱が育てた近代陸軍です。醇親王にしてみれば、彼の部下も一緒に葬り去り、袁世凱の影響力を無くしたいところだったのでしょうが、何しろ編成・訓練など近代陸軍についての知識を持った人材がいませんし、北洋軍自体が袁世凱の私軍(軍閥)みたいなところがありましたから、外部から人が来ても言うことを聞かない。
これが後に辛亥革命の鎮圧のために袁世凱が返り咲いた理由です。また同時に、中華民国大総統になれた理由でもあります。
この回答への補足
混乱しますね、、このラストエンペラーの父親である愛新覚羅 載ホウという人は、西太后となぜこんなにも深いかかわりがあったのでしょうか?
またなぜ袁世凱は光緒帝を追放できるほどの権力を持っていたのでしょうか?西太后と手を組んでいた?
私が読んだ陳舜臣の孫文も、西太后や袁世凱などの時代の流れが書かれていたのですが、基本的な知識がなかったのであまりよく理解できなかったというか、おもしろいと思えなかったです。このような流れを理解するためには高校生の教科書を使って覚えたほうが良いのでしょうか?それとも歴史漫画?もし良いやり方があればぜひ!教えてください。
No.6ベストアンサー
- 回答日時:
>このような流れを理解するためには高校生の教科書を使って覚えたほうが良いのでしょうか?
私自身は、別に専門家でもありませんし、特別中国史に詳しいわけでもありません。ただの素人オヤジです。ですから、その程度(オヤヂの戯言)に聞いてください。
この清朝末期の政治情勢を理解するためには、たぶん
1.最低限高校世界史程度の基本知識
2.同時代の欧米、日本などの政治・経済・文化の状況
3.アヘン戦争、太平天国あたりからの、ある程度詳しい清の政治・経済情勢の変化
4.清朝の歴史的な推移と官制、文化などについての知識
例えば袁世凱を語るためには、日清戦争を抜きにはできません。そうなると、当時の朝鮮情勢についての知識も必要ですし、日本との関係も理解しなければ分からない。
なぜ彼が軍人になったのか、なぜ当初戊戌改革を支持したのか、なぜ西太后死亡直後に失脚したのか、等々は科挙という中国の制度、清朝の官制を知らないと理解できません。
義和団の乱と西太后の関係を理解しようとすれば、アヘン戦争に遡る必要があるし、その中で清朝の宗教史や文化史についても基本的な知識が無いと、義和団という団体の性格やスローガンの意味すら分からないでしょう。
つまり、高校の世界史程度の知識が、立体的・構造的に相互関連しながら頭に入っていることが最低ラインだろうという気がします。で、それは最低ラインですから、その上で様々な知識を積み重ねていくと自然と分かるようになるのではないでしょうかね?
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