回答のほうは常連ですが質問するのは初めてです宜しくお願いします。
「私は何も考えないであたまを真っ白にする特技があります」
この挨拶で始まるとっぴな回答もご覧になった方も多いと思いますが、私の場合どんなにつらくても自らを救うことを諦めきれたことはありません。
多分人間の本性として誰もがそうだろうと思います。
そうすると大乗仏教でよく使われる「仏の慈悲にすがる」と言うのがそれだけでは納得できないのではないかと考えました。
仏教の経典と膨大な研究成果は尊敬に値するものでして、その中には「仏の慈悲にすがる」についてとりすがりの拝み屋根性とは違う確かな知的理由があるのではないかと期待しています。
私は哲学にも宗教にも素人ですので判り易く平易な文章でのご回答をお願いします。
No.9
- 回答日時:
primeapeさん。
brageloneさんへのご投稿でずいぶん存じ上げているみたいでしたが、それにしても、ご両所様はいろいろなことば、思い入れの難しい文章をよくきちんと読まれておりますね。
あぁANo.4です。どなたかがいっているように、大乗や小乗ってどうして区別するのでしょうな。宗教ってみんな大乗だし小乗なのではないのでしょうかね。
そして他力でない自力なんて宗教なのでしょうかね
自力をしない他力なんてあるのでしょうかね。
キリスト教でさへHeaven helps temselves who help themselvesといていますしね。儒教だって「我鬼神に祈らず」とかいうのでしょう。
宇宙から自己は除去できないし、自己から宇宙を除去できないですよね。自己ってそんなものですものね。どこのどんなところにも自己が。
ですので、イコールでしかありませんよね。
brageloneさんへよろしく、といってもここじゃしょうがないけれども。そんなものと存じております。私の実感獲得と期せずして、同時でした。
ご回答有難うございます。
所感として理解も共感も出来る判りやすい文章です。
私はまだ何かに翻弄されています。
今までは無意識だと思っていたけどそれも違う感じになり始めました。
No.8
- 回答日時:
回答への返答ありがとうございます。
ひとつ補足しますと、「無心」とは心を無にして、なにも思わなくなる
ことではなく、
「心が止まることがない」境涯をいいます。
仏教の説く最上の教理は、「心が何かにとらわれること」を嫌うのです。
つまり、何かに一心不乱になっている姿(三昧とも)は、まさにそのまま無心の仏の境涯なのです。
当たり前のことを当たり前に見る人のことを仏というのですが、
これが案外難しいのです。
「当たり前のことはあまりの近さに見る人なし」
といわれているように。
坊さんは、生涯かけて、「とらわれることのない心もち」を
参禅し、教理を学ぶことに勤めるのですね。
とらわれることのない心「無心」を悟るためだけに、8万4千もの手段があり、多くの宗派があるのです。
もし、ほんとに「無心」を知れば、自他対立の境界線が薄れてきて、
自分を救うことと、他人を救うことに隔てがなくなり、
いつも、カラっとした心持ちでいられます。
昔の傑僧と言われる人は「心をとどめること」がなかったのです。
ここまでくると、本当の孤独というのが、寂しいことをさすのではなく
「独座大雄峰」つまり、われ独り壮大な峰の山頂にどっしり座る。という
絶対的な自信の境涯につながるのです。
さらに、「無心」を知れば、自分以外もみな、大雄峰にどっしり
いることを知るのです。
補足がながくなりましたが、つまり
「無心とは心が無いのではなく、心をとどめないことである」こと
「心がとどまらなければ、自他の区別がなくなること」
「独座大雄峰になれる本当の『無心』であれば、まったく孤独に寂しさを感じないこと」
と思います。長々とすみません。何かのご参考までに。
ご回答有難うございます。
確かに無心の意味を取り違えていました。
そして調子のいいときには、確かにその無心になれる一日も有ります。
普段はなんと言いますか、体では無く心の中が世の中にもまれています。
刺激への揺らぎと少し違う感じです。
No.7
- 回答日時:
primeapeさん brageloneです。
かえって なぞを深めるかも知れませんが 非科学的なことを含む話になります。わたしたちは 《永遠の現在》ということを言いますが おとぎ話としては 《永遠の生命》のことです。あの《さかづき》つまり十字架上の死という杯を前にして イエスが言ったという言葉の中にもありますが この《永遠の生命》にかんして ブッディスムは 《あるがまま》だと捉えると思われ そこに 分かれ道があるように考えます。逆に イエスの徒は 勇み足になりがちであり 実際に そうなってもいます。あえて 長い引用をしてみます。
▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《ヨハネによる福音》
16:31 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。
16:32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
17:6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17:9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
17:14 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。
17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
17:16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
17:17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
17:18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。
17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。
17:20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
17:22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17:23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
17:24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
17:25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
17:26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ こうであるならば 人は無力です。絶対他力です。しかも 自由意志を持つと想定します。たとえば上のように聞いていますが すべては 人間の言葉による表現として 単なる翻訳でしかありません。その有効性や是非も あるいはその根拠も わたしたちには分かりません。ゆえに 絶対他力であると同時に 自助努力による人生になります。そして 他者との関係において 人びとの間で 共同自治の問い求めが 始まります。関係性が 愛だという意味にとります。この共生が 永遠の現在なる過程であり動態だと思います。
ブッディスムでは むろん共生を言いますが 関係性の哲学が どうも あいまいなのだと思えてなりません。
* 一向一揆に関心があります。関心があるままで まだ 手をつけていません。浄土真宗ですが 加賀では 守護を追い出し 信徒市民たちによる自治共同を実現しました。
この回答への補足
ささやかながら技術的収穫もありました。
聖書にも「滅びの子」というのが出てくるんですね。
この「滅びの子」正しい表現かわかりませんがもてあましていたんです。
ご回答有難うございます。
brageloneさんの確かな信仰のおかげもあって聖書の引用は良く分かりました。
一時間ぐらい掛けてかみ締めながら読みました。
人間らしい心がけというのが知解のレベルでなく言葉にならないレベルでわかりかけてきました。
No.6
- 回答日時:
> 一見批判的論調に読み取れますが、
別に何かを批判している気も無いのですが、そう受け取るというのは私の修行が足りないのか、あなたの修行が足りないのか、両方か。
私の意図を述べれば、不明点を明確にするというものです。そして、それを批判と感じるのは、不明点を自覚するが故の防衛反応であるということは、踏まえて置いてください。
防衛と言うのは、例えば「そこまで深く考えてません」と答えることを避けようということです。別にそれは恥でもなんでもないのですが、世の人の多くは恥だと感じがちのようです。
> あっ、大乗仏教とはそうなのかもしれませんね。
違います。
> >誰が何にすがり付くことを想定していますか?
>
> 亡者が一般人にです。
涅槃に至ることを目指す本来の仏教では「亡者」を想定していないんですけど。あなたは解脱かという問いに Yes と答えましたが、解脱を言いながら亡者が出てくるのは、矛盾なんです。
もしかして、あなたが「大乗仏教」と呼んでいるものは、「日本仏教」の一部なんじゃないですか。
あなたが「大乗仏教一般」と呼ぶ相手として具体的に想定している宗派なりお寺なり個人なりを示してもらえますか。それが無いと、そもそも話が噛み合いません。
> それから他力本願をかいつまんでお聞かせいただけますか。
ヒトは自力で善をなすこと(自力作善)などできないから、既に解脱して如来となった阿弥陀に導かれて解脱するのが一番近道だ、という考え方です。
「本願」とは、弥陀の本願のことで、本来は包蔵菩薩が阿弥陀如来になるときに立てた誓いのリストを指す固有名詞です。そのリスト項目のひとつに、極楽浄土に至った人を無条件に解脱させるという項目があるので、輪廻転生の結果極楽浄土に生まれた(極楽往生)した人は、自動的に解脱できるということになっています。
「浄土」というのは、如来個々人が持っている領地のようなものだと思って下さい。他にも、薬師如来なら瑠璃光浄土などと、如来皆それぞれが持っていることになっています。
なぜ自力作善ができないかというと、それはヒトの手に余るからです。何が善行なのか、何が悪行なのか、その判断はヒトの狭い了見ではできないという意味です。イイコトのつもりでやったことも、人によってはえらい迷惑ということも多々あるのですから。また、イイコトをしているとの周りからの評価があっても、それは所詮たまたまその人の環境条件がそうなっているだけで、条件が違えば違うことをしているでしょう。
あなたや私が秋葉原でダガーナイフを振り回さなかったのは、あなたや私がたまたまそういう人生を歩まなかったからに過ぎず、それはあなたや私の意思ではないという考え方ですね。
この辺、かなりキリスト教の予定説に近い考え方です。
No.5
- 回答日時:
他力と自力は究極で同じものなんですね。
自力は自身の仏性を磨きだし、他力は自らを捨て仏の慈悲にすがった結果、自らの仏性を磨きだすことになるんですね。理由は人霊はみんな仏の一部だからですね。内も外もすべて仏のしろしめる世界なんです、故に一緒なんですね。仏陀の教えは、「利自即利他」のように自身を救うのが先ですが、救いの先を内に持っていくか外に持っていくかだけの違いですね。仏陀の教えは内が先ですが、イエスであれば外が先ということですね。仏陀は肝要だからどちらも容認してるのでしょう。 理解できるといいね。ご回答有難うございます。
論理がどうのこうの、教義がどうのこうのよりもよっぽどわかりやすい回答です。
私は自らに内包する問題に時間が取れないのが悩みだったのかもしれません。
No.4
- 回答日時:
仏教ではない、ヒンドゥの精進求道のものです。
今朝の精進・行のときに更に刻印されてきたことをご報告方々、ご参考に。みなさん同じことを仰せのようですので、回答をして再度訪問もできましょうし。
自分をきちんと思うと、一時的に自分の中に入っている、自分と思っているもので、私はそして、私たちの教えも、全体だということになります。皆同じ。いえみな一つ。
自分を生きることは全部をいきることである。それがきちんとできないと、自分を生きていない。全体を生きていない。描きごとか、架空のことになる。遊びごとの世界、とらわれ、奪われ、喪失の世界ということになる。
現状での自分においてしっかり解脱を、解き放しをするということは
全体、そして他人の解き放しである。
他人において自分もそうする。他人の中の自分は自分である。
世界全体である。宇宙である。という教えでありますが。
No.2
- 回答日時:
> >ちなみに、あなたの考える「救済」とは、どういうものですか?
>
> 普通に自助努力です。
聞き方が悪いのかもしれませんが、噛み合っていませんね。
仏教の文脈で「救済」と言えば、例えば輪廻転生の輪から解脱して涅槃に入ること、等ですよ。私はそういう切り口の回答を補足要求として求めています。
それとも、もしかして自助努力によって解脱するということですか?
> >また、あなたは何故「大乗仏教全般が自己の救済の放棄
> に繋がる」と考えるのですか?
>
> すがり付いてるように思えるからです。
個人的には、理解不能です。
誰が何にすがり付くことを想定していますか?
また、「すがり付いている」ことが、なぜ「自己の救済の放棄」なのですか? これは、「救済」の定義に依存する話なので、定義との関連を明確にして教えてください。
そしてそもそも、なぜ「すがり付いてるように思える」のですか?
例えば私からしたら典型的非仏の浄土教や浄土真宗という大乗で言う他力本願には、「すがり付く」というコンセプトなどありません。あなたは、どういう情報に基づいて「すがり付いている」ように思っているのでしょう。
この回答への補足
>それとも、もしかして自助努力によって解脱するということですか?
神にすがらないなら人間にすがることになります。
もちろんそんなことは出来ないのでおっしゃるとおり自助努力による解脱です。
ご回答ありがとうございます。
一見批判的論調に読み取れますが、いい頭の体操になる逆質問です。
>聞き方が悪いのかもしれませんが、噛み合っていませんね。
仏教の文脈で「救済」と言えば、例えば輪廻転生の輪から解脱して涅槃に入ること、等ですよ。私はそういう切り口の回答を補足要求として求めています。
そうはいっても自助努力です。
ありがたがっているだけでは先に進めないと思います。
あっ、大乗仏教とはそうなのかもしれませんね。
>誰が何にすがり付くことを想定していますか?
亡者が一般人にです。
それから他力本願をかいつまんでお聞かせいただけますか。
No.1
- 回答日時:
「救済」って、何だと思いますか?
それを考えた結果、いろんな解釈が生じて、根本分裂が起きたり、大乗仏教ができたり、大乗の大乗たる日本仏教ができたり、金剛乗(密教)ができたりしているのです。
ちなみに大乗仏教は本来の仏教ではありません。大乗非仏説というのは、そうとう昔からある議論です。現代では、それでも仏教だ、という解釈に落ち着いていますが、私から見たら思想的な理由というより教団群維持のための政治的理由が主ですね。まあ、それはそれで「教え」の維持管理には必要なことなので、ファンダメンタリズムに陥ることも無いでしょうから、悪いことでもないと思いますが。
あなたの考える「救済」の内容は、おそらく既に「仏教」の中の誰かが考えているでしょう。その人の論を読むことが、たぶんあなたの問いに対する回答になるのでしょうね。
ちなみに、あなたの考える「救済」とは、どういうものですか?
また、あなたは何故「大乗仏教全般が自己の救済の放棄に繋がる」と考えるのですか?
この回答への補足
>ちなみに、あなたの考える「救済」とは、どういうものですか?
普通に自助努力です。
>また、あなたは何故「大乗仏教全般が自己の救済の放棄に繋がる」と考えるのですか?
すがり付いてるように思えるからです。
ご回答ありがとうございます。
相当お詳しい方のようなので重ねてお尋ねしますが、
>ちなみに大乗仏教は本来の仏教ではありません。大乗非仏説というのは、そうとう昔からある議論です。
その日本仏教をRoman0様は信仰ゆえに研究されたのでしょうか。
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