私は日々の生活の中で、同じ失敗を繰り返すまいと肝に銘じたり、肝に銘じすぎて硬くなったのを戻したり、そしてまた失敗したり、どうもうまく教訓が生かせないと思い、現在は歴史の修練に残った宗教の教えを参考にしようとしています。(生真面目な性格です。)
具体的には、中村元訳の仏典を読んだり、テーラワーダ仏教のスマサナーラ長老の啓蒙書を読んだりしています。しかしやはり読了後は眼光紙背に及ばず字面に影響されて、例えば「犀の角のように歩め」というと、どことなく仏教を学ばない人を見下してしまいます。(いかんいかん・・)
そこで、仏典の文献学的な解釈方法やその失敗例を学べばうまく距離が取れるのではないかと考ました。
すでに(物騒ですが)オウム真理教関係の本は何冊か読んでいます。
そういった非日常の事柄から日常の失敗を集めた資料、
そして解釈方法を書いたものがあれば、ぜひご紹介願います。
No.1
- 回答日時:
今のまま、志を失わずに進んでください。
諸々の先師も、そんな苦悩の日々をすごし、
晩年に大成したものです。
まさに、
「ただひたすらする修行の日々は、諸仏の普通の日常である」
(正法眼蔵)
ということに気づく日がきます。
お互い精進いたしましょう♪
この回答への補足
質問文を訂正させていただきます
名前の間違えで恐縮ですが
スマサナーラ長老でなく、正しくはスマナサーラ長老です。
とても聡明な方でいらっしゃり
半年ほど前から私淑し、
ご著書は10冊くらい読み、
公式HPのポッドキャストもすべて聞きましたが、
なぜかいつも名前を間違えます。
失礼しました。
No.2
- 回答日時:
最近僕もちょっと詰まりを感じていたのです。
そんなときに出会った・心に響いた言葉を書いてみますね。ダンマパダの解説書「一日一話」からです。
(48)
「ああなりたい、こうなりたい」と言う心はほっておくのです。今この瞬間をくつろぐのです。
(62)(63)
ポイントは体の感覚を丁寧に味わうことです。たとえば呼吸をするときには、吸う息と吐く息を「体全体」で味わうのです。「修行だ」「訓練だ」と言う思い出やっても楽しくないし、気づきも生まれません。
(155)
今何をやるべきかをよくわかっていて、それをきちんとやること=不放逸です。
(161)
お釈迦様は「自分以外のものに頼ってはならない」と説かれました。
(154)
「仏教を命がけでまなびます、必死でやります」と言うのは「仏教に依存していると言えましょう」そういう人は成長しません。物事は真剣すぎてもいい加減すぎてもよくない。だから中道が大切なのです。
以上のように、くつろぎながら自分の理性によって(自灯明)選んだ目の前になすべきことを不放逸にこなしていくのが大切なのかな。と考えています。日々あせらず怠けず強張らず、くつろぎながら精一杯、論理的に道徳的に自分の理性の中で納得したことを目の前で実験し続け、検証していく。と言うのが僕のいまの想いです。
サンガ出版の「仏法」もオススメですよ。正見の項目だけでも見れば役に立つと思います。
失敗例も成功例も自分の中にあるものと思います。理性により、自己を灯明にいたしましょう。
仏教にすら執着・固執せずに、理性を育む、心の科学者・実験検証者として日々自他共に役に立つこの八正道を精進いたしましょう。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
この回答への補足
質問内容をもう少し明確にします
1非日常の事柄から日常の失敗を集めた資料、
→ご自身の失敗談でも。
2解釈方法
→解釈したものでなく、解釈の方法、discipline、メタ解釈でお願いします。(法学で言うと、反対解釈・類推解釈・・・のような解釈学が書いてあるもの)
ご回答ありがとうございます。
なかなか難しいところもありますよね。結局は、悩む対象を変えているだけでもともと自分が悩む性質なんじゃないかと思ったりもします。それもあながち間違いではないでしょうけど(;^ー^A
質問の本旨とは少しずれますが、参考にさせていただきます。
magga様の文を見て思ったのは
私はくつろぎ理性などのいわゆる意義の有る言葉には引っ張られてしまいがちです。効きすぎの劇薬のような気もします。空や悟りなどなおさらです。
ですので普段の生活では、あせらず怠けずなどの否定の形のほうがうまくいく気がしています。
そして昨日仏典(『和英対照仏教聖典』)を読んで気づいたのは、言葉の中でも比喩はなかなか実践的だなということです。
>心の科学者・実験検証者
というのは、私はそういう言葉を使わないけど(どうも硬くなってしまう)たぶん私のやっていることに近い気がします。
そこで気づいたのは、
論理的に考えることがふさわしい場面もありますが(論理学であつかうような厳密さではなくても)、論理を追えば真理にいたる保障などなく、論理への執着を和らげるためにあえて論理を厳密にして日常的に価値の有るとされる言葉を否定したり、もしくは、ありのままの感覚に意識を集中するということが有効だということです。
>『仏法』、
以前期待して読んだのですが、あまりしっくりこず、翻訳のせいにして投げ出していました。せっかくですのでまたトライしてみます。
やはり、実践されている方のお話は参考になります。(できればもっとみっともない失敗を披露して下さい。なんて)
それでは、お礼まで
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
少しばかりお話させていただきます。
>>私は日々の生活の中で、同じ失敗を繰り返すまいと肝に銘じたり、肝に銘じすぎて硬くなったのを戻したり、そしてまた失敗したり・・
私はそんな感じでいいと思うんですけどねぇ。非常に仏教的だと思いますよ。私は個人的には浄土教を信仰していますが、その中で説かれる信心のなかに「深心」というものがあります。
この深心とは、二つに分けることができると説かれています。一つは「信機」。二つには「信法」です。まず「信機」というのは自分の愚かさを省みることです。そして、「信法」とは阿弥陀仏に身を任せた生活に入ることを指します。この二つは「信機」、そして「信法」この二段階で終わりではありません。「信機」は「信法」を深めて、「信法」は「信機」を深めていくという、相互干渉しあうものとされます。
つまり、自分自身はなんと愚かであろうかという反省(信機)が、阿弥陀仏の救いのありがたさを感じ阿弥陀仏の本願に身を任せる(信法)。しかし人間というのは時が経つとそのときの心を忘れまた傲慢に振舞ってします。するとまた、自分の愚かさというものを身にしみて感じる(信機)。そして、阿弥陀仏の救いの心の尊さを感じる(信法)といった具合で深まっていきます。このように深まり続ける心だから、「深心」と呼ばれるわけです。
お釈迦様の言葉を借りれば、『法句経(ダンマパタ)』というお経の中に「愚かさを推し量る愚者は、それ故また賢者である。賢者であると慢心を抱く愚者は、それこそ愚者といわれる」と説かれており、お釈迦様は「愚かさを反省する必要のないほどの賢者」よりも、「自分の愚かさを反省し続けることのできる愚者」でありなさいと説かれるのです。
そういった意味では、質問者さんは非常に仏教的だと思いますよ。
>>具体的には、中村元訳の仏典を読んだり、テーラワーダ仏教のスマサナーラ長老の啓蒙書を読んだりしています。しかしやはり読了後は眼光紙背に及ばず字面に影響されて、例えば「犀の角のように歩め」というと、どことなく仏教を学ばない人を見下してしまいます。(いかんいかん・・)
そこで「どことなく仏教を学ばない人を見下してしまいます」と感じてしまうのが人間の愚かさなのでしょう。しかし、いかんと感じられるのなら私はあなたはなかなか自分を客観的に見る感覚はお持ちのようで、やっぱり仏教的な反省も得意な方のように思います。
まぁ、お釈迦様も「犀の角のように歩め」とおっしゃる一方で「善き友と交われ」とおっしゃっていますし、これはもうご存知だと思いますが「仲間の中におれば、休むも、立つも、行くも、旅するも、常に人に呼びかけられる。他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ独りで歩め」説かれているように「犀の角のように歩め」というのは、人々の中で仲良くしていながらも誰かに寄りかかるわけではなく、自分勝手に振舞うということではなく心は自由でありなさいという意味だと思いますよ。ですから、仏教を学ばない人がいても、その人とも仲良くできるのが本当の自由じゃないですかね。生意気申しました。悪しからず。
私もテーラワーダ(上座部)の書物はよく読ませていただいています。平易な言葉で素直に受け取ることができて私も好きです。先に紹介していらっしゃる方もいらっしゃいますが、「仏法―テーラワーダ仏教の叡智」(ポー・オー・パユットー 著、 野中 耕一 訳)は名著ですねぇ。テーラワーダの教科書であると形容されることもあり、典拠主義に基づいた理論展開はすばらしいですね。個人的な感想であるかもしれませんが、個人主義的な部分も強いテーラワーダ仏教の中において、社会科学的な視点を取り入れ大乗仏教とも通じる部分を感じたしだいです。
>>そこで、仏典の文献学的な解釈方法やその失敗例を学べばうまく距離が取れるのではないかと考ました。
>>すでに(物騒ですが)オウム真理教関係の本は何冊か読んでいます。
>>そういった非日常の事柄から日常の失敗を集めた資料、
>>そして解釈方法を書いたものがあれば、ぜひご紹介願います。
なかなか、勉強家のようですね。私も本を読むのはすきなのですが、最近読んで面白かったのは
●釈徹宗 著 「いきなりはじめる仏教生活」
ですかね。この方は浄土真宗の方ですが、まずは現在の思想の解体から始まり、宗教とはいかなるものか、そして宗教の問題点等を挙げていき、お釈迦様の仏教を解説し、日本仏教の大きな流れである禅と浄土の思想を解説し、人間の問題の解決法を仏教の中に見出していくという流れになっっているかと思います。言葉も平易で読みやすい一冊でした。
文章が急ごしらえのため誤字脱字乱文、どうぞご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
ご回答ありがとうございます。
ご回答の後に、ANo.2に記したとおり本旨とは少しずれてしまうのですが、ともあれ本職の方に応答いただきありがたく存じます。
>「深心」というものがあります。 この深心とは、二つに分けることができると説かれています。一つは「信機」。二つには「信法」です
実は私はやや抽象度の高い話に食傷気味で、ご提示いただいたフレームを一知半解に取り入れると火傷しそうなので、判断を留保し、七覚支の「念」と「択法」のようなものとあいまいな印象にとどめておきます。
>釈徹宗 著 「いきなりはじめる仏教生活」
釈先生の書かれたものは、インターネット持仏堂というサイトで拝見したことがあります。そこでは読者を意識した対談の形で、やや冗漫なやりとりが私にはしっくり来ませんでしたが、ご紹介いただいた本は読んでみます。
仏教をめぐる思想といわれるような解像度の概念ないしイメージの本は、出版数も多いし私も少なからず読んでおります。
具体的には末木文美士先生、梅原猛先生、
それと、小室直樹氏や宮崎哲弥さんなど学際的なアプローチからの論考も興味深く読みました。
そこで学んだことは、超越的なものばかりでなく人間の学としての倫理学のような視点が重要だという見識や、グノーシス主義のような即超越的なものに近づくという考えは危険という教訓や、さりとて日常を脅かす可能性こそが仏教の生命というこということなどです。
思想という位相での私の弱点が詳らかになることは有意義です。しかし私のバランスとして、1もっと解像度を上げた実際的な解釈とその失敗、そして2解釈書と仏典との間の解像度が得られると助かります。
2は具体的には文(1)に解釈abc・・の相違がどうして生まれるのか、そして文(1)(2)(3)・・の解釈の相違のそれぞれの理由にどのような法則性があるかということです。それが分かれば仏典や解釈書とうまく距離が取れる気がします。
ともあれ、このたびはご回答ありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
仏典は古い言葉です、又他国の言葉です。
仏典の研究だけで人生が何回あっても時間が足りません。というわけで『禅宗』はどうですか?お薦めは鈴木大拙博士の著書です。博士は25才で悟りを開いています。その言葉はポイントを押さえています、無駄が在りません。読んでいて参考になります。すさまじいほどの量を残してくれています。面白いです。
ご回答ありがとうございます。
tumaritou1様のほかの回答を読ませていただきましたが、同郷のようです。
さてさて、禅は急げということで、早速、鈴木大拙博士のご著書を数冊、それと正法眼蔵、あと玄侑宗久著『禅的生活』を図書館から借りて参りました。まだ手をつけていませんが、とりあえずご回答のお礼まで。
No.5
- 回答日時:
感想を読んで、少しだけつけたさせていただきます。
少し趣旨がずれるかもしれませんがお許しを。>>ご回答の後に、ANo.2に記したとおり本旨とは少しずれてしまうのですが、ともあれ本職の方に応答いただきありがたく存じます。
本職といわれるとお恥ずかしい限りです。真宗ですと「非僧非俗」ですから、本来仏教の本職は戒律をいただいている方だと思っています。まぁ、仏教大好きっ子ということにしといてください。
>>実は私はやや抽象度の高い話に食傷気味で、ご提示いただいたフレームを一知半解に取り入れると火傷しそうなので、判断を留保し、七覚支の「念」と「択法」のようなものとあいまいな印象にとどめておきます。
おお!!「七覚支」懐かしい。勉強しておいでですねぇ。確かに浄土教であっても、そう言った理論展開が根底にはあるということもいえるでしょうね。
お釈迦様のお説教スタイルは「十二分経(十二部経)」などという名前で伝わっていますが、その中でも後々まで影響を残す重要な三点を仏教大学の関山和夫氏は「節をつけること」「たとえ話をすること」「因縁談をすること」と述べておられますから、後半の二つはモロに「実は私はやや抽象度の高い話に食傷気味」とおっしゃる部分に当たりますね。しかし、「たとえ話をすること」「因縁談をすること」は人の心に残るという点では、理論を理論だけ伝えるより有効な手段なんですけどね。お大事にしてください(笑)
>>釈先生の書かれたものは、インターネット持仏堂というサイトで拝見したことがあります。そこでは読者を意識した対談の形で、やや冗漫なやりとりが私にはしっくり来ませんでしたが、ご紹介いただいた本は読んでみます。
どちらかといえばそうでしょうね。釈先生のこういった文章は「仏教を好きになって」というような書き方をしていらっしゃいますから、学術的にどうこうというところとは少し違うかもしれません。先に紹介した「いきなりはじめる仏教生活」もそういった面は強いですが、もう少し踏み込んでいるとは思いますよ。
>>仏教をめぐる思想といわれるような解像度の概念ないしイメージの本は、出版数も多いし私も少なからず読んでおります。具体的には末木文美士先生、梅原猛先生、それと、小室直樹氏や宮崎哲弥さんなど学際的なアプローチからの論考も興味深く読みました。
私の好きな方も並んでおられますね。イヤーほんとに自分が恥ずかしいほど、asa532さんは勉強しておられますね。
>>思想という位相での私の弱点が詳らかになることは有意義です。
まったく、そう思います。
>>しかし私のバランスとして、1もっと解像度を上げた実際的な解釈とその失敗、そして2解釈書と仏典との間の解像度が得られると助かります。
>>2は具体的には文(1)に解釈abc・・の相違がどうして生まれるのか、そして文(1)(2)(3)・・の解釈の相違のそれぞれの理由にどのような法則性があるかということです。それが分かれば仏典や解釈書とうまく距離が取れる気がします。
うーん。この辺は私には難しくて自分がasa532さんの文意を読み取れているのか何とも言えないところですが、一冊本を上げさせていただきますと、もうお読みになったことがあるかもしれませんが、
●岸本英夫 著 『宗教学』
です。このなかで岸本英夫氏は宗教研究には大きく二つの立場を示します。
1、客観的な立場。科学的研究。「宗教現象がいかにあったか?」
2、主体的な立場。規範的研究。「宗教信仰がいかにあるべきか?」
という立場です(本の中ではもう少し細かく分類されていますし、説明も細やかで学術的です)。自分自身の研究の立場を明確にしたり、読んでいる本の研究の立場を明確にしておくと、asa532さんのお考えになっているように仏典や解説書とも距離が置けるのではないかと思いますが、文意を読み違え脱線気味の回答かもしれませんがご容赦ください。
ちなみにこれもご存知かもしれませんが、岸本英夫氏は死ぬまで「無宗教」を名乗った宗教学者です。この姿勢一つとってみても、先ほどに1の立場である客観的な研究姿勢を貫かれていたことが伺えます。しかし、2の立場で宗教を学ぶ宗教者からも非常に慕われた人物であり、交流の深かった当時の浄土宗の法主(名前を度忘れしてしまいました。すんません。)は岸本氏の葬儀に参列したおり、無宗教の形式で行われた葬儀で「南無阿弥陀佛」と称えられたそうです。そうすると、ある人から「岸本先生は無宗教の葬儀を望んでおられたのに、なぜ念仏されたのですか?」と問われたときに「岸本君は分かっているよ。」とおっしゃったそうです。私見ではありますが、岸本英夫氏は自分自身の客観的な立場を大切にしながらも、客観であるからこそ、それぞれの宗学(先ほどの宗教学の分類で言えば2の立場ですね。)というというものに対しても理解が深い方であったのではないかと推察します。このような岸本氏の立場は非常に興味深く、私の研究姿勢に大きな影響を与えたエピソードでした。
また、長くなってしまいましたね。申し訳ありません。しかも脱線気味で文章もまとまってませんね。自分の愚かさを感じます。トホホ
合掌 南無阿弥陀佛
この回答への補足
質問とは直接関係が有りませんが、質問の動機を記します。
私が仏教に関連する理論、知識、智慧に求めているのは、社会や社会的実践を記述する理論や規範ではありません。社会を客観的に記述するには社会諸科学の理論(標準経済学、ゲーム理論、社会システム論etc)がより見通りがいいし、規範としてはそれらと関連した政治哲学でないと歯が立たないと思うからです。
その一方で、個人の実存を記述する上で仏教の言葉は優れていると思います。各種心理療法や処世訓、日常の経験知がバランスよくまとまる智慧がある気がしています。とはいえ、実際に学んでいると解釈を取り違えたり、近視眼的になったり、いろいろうまくいかないこともあり、質問した次第です。
ご回答ありがとうございます。
baka-hage様にはこのたびもご丁寧な回答をいただきまして、感謝申し上げます。
>asa532さんは勉強しておられますね。
いえいえいえいえ、先日『正法眼蔵』をのぞいてみましたが、さっぱりわかりません。素人の勉強ながら、諸派の使う言葉や間合いを理解できれば有意義かと思うのですが、なかなか難しい。
>岸本英夫氏は死ぬまで「無宗教」を名乗った宗教学者です
ドーキンスのようなアンチ宗教としての「無宗教」はまったく簡単ですが、宗教に関係なく、あるいは関係しつつも慕われるというのは、大変立派な方であったのだろうと推察いたしました
それと、ご推薦いただいた『仏法』の読解にまた挑戦しておりますが、ご指摘の通り私が2で求めていた本に適当であると思いました。おかげさまで『仏法』を読む心構えが出来ました。思うようにページが進まないのですが、寄り道しながら登頂するつもりです。
それでは報告とお礼まで。
No.6
- 回答日時:
同じような感じになるかもしれませんが。
<<1非日常の事柄から日常の失敗を集めた資料、→ご自身の失敗談でも。>>
私自身の失敗自体は、仏教に執着し、外に寄りかかりすぎたと言ったところでしょうか。ANo・2のところを読んで、再び、自己の理性をもって道を歩むことを思い起こしました。
必死にやる。死ぬ気でやる。では本題の「離れる」とはちょっと逆になってしますのですね…ハッとしましたw
恥ずかしながら「中道」を忘れていました。。
<<2解釈方法→解釈したものでなく、解釈の方法、discipline、メタ解釈でお願いします。(法学で言うと、反対解釈・類推解釈・・・のような解釈学が書いてあるもの)>>
「仏法」の正見の項目に結構書いてあるきがしますよ。
前述した「一日一話」や「一日一悟」はオススメです。
なんにせよ、自分の中に失敗成功もあると思います。それらを理性によって見るようにしていけば良いのだと思います。
「理性的とはどのような態度だろう」「理性的でないとは…」と時折考えることも必要でしょう。「仏法」にはその足がかりとなるものがあると考えています。
その上で実験検証を気負わず続けることです。
一歩一歩そのつどそのつど行きましょう。
~一切衆生が幸福を享受できますように~
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