出産前後の痔にはご注意!

軍幹部や閣僚、枢密院の事実上の強制である「助言」に逆らえなかったのはなぜなのでしょうか?
天皇は、軍部を最終的に指揮・統括する統帥権を持っていたのですよね。
様々な事由で軍や政治家の意見を聞き入れなければならない状況もあったと思います。しかしミッドウェー以後の戦況を正確に知っていたなら、最早戦況は絶望的で、このまま戦いを続けたなら軍人のみならず、多くの国民の命が失われることは火を見るより明らかであったことは知っていたはずです。
軍・政治家の「助言」は飽くまで助言であり、例えそれに反したものであっても、最終の決断を下す権限を当時の天皇は持っていたのですよね。そしてそれは、何人たりとも妨げることはできなかったのですよね?
にもかわらず「本当の」統帥権を発動できなかったのは一体なぜなのでしょうか?

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A 回答 (15件中1~10件)

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?



大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答されていらっしゃるように、昭和天皇が自身を「立憲君主」として律していた根拠でもあります。
つまり、統帥権を含め国務は輔弼の臣の輔弼行為に依拠し、天皇は積極的な国政への関与を控えていたと言うことです。皆さんがおっしゃているように田中首相への叱責、二二六事件、終戦の決断以外には判断を下していません。終戦についても最高戦争指導会議構成員会議および閣議が意見の一致をみないために、最高戦争指導会議に枢密院議長を入れ、御前会議の形式をとり、天皇の判断を仰いだために天皇が決断したのであって、昭和天皇も決断を求められるのは本来の形でないと思っていらしたようです。
ですから、戦争がいかに不利になろうとも、国務・統帥の輔弼がない限り停戦・休戦・終戦にならなかったのではないでしょうか。また、統帥部の輔弼がない限り、終戦への統帥権の発動もなかったと思います。
このように輔弼を受けることにより、責任は輔弼の臣が取るべきもので、天皇自身には及ばない体制が成立しています。西園寺が天皇に田中首相叱責で注意したのはこの点であり、長い伝統を持つ公家社会(天皇を含め)の伝統的方策(生き残るための知恵)にも合致していたからです。

以上、参考まで。
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No.14です。

更に追記。すいません…。

二二六事件と終戦において、大権を発動したというのもちょっと違います。
二二六事件では天皇はすぐに反乱鎮圧を命じたのに、
陸軍はなかなか従おうとしませんでした。

しかし統帥派は天皇を支持し、その結果、反乱軍を含む皇道派は
勢力として全滅しました。逆に言えば、陸軍が一致団結して
天皇に反対していたら、もう駄目だったという事です。

終戦時の御前会議では、降伏と抗戦とに分かれ、意見がまとまりませんでした。
総理大臣でさえ他の大臣を上回る権限はないので、総理大臣が
降伏に賛成したとしても、軍部は納得しなかったでしょう。
内閣が倒れる可能性すらありました。そこで鈴木首相が天皇の聖断を
仰いだところ、天皇が「外務大臣の意見に賛成する」と言ったのです。
(更に「阿南、頼む!」と言いました。命令ではありません)

もともと意見が真っ二つ(3対3)に分かれていたからこそ可能な手段だったのであって、
全員一致で継戦を主張したら、天皇でさえどうしようもありませんでした。

結局、天皇が単独で政治に介入したのは、田中義一首相に対してだけかもしれませんが、
これも政府と陸軍の話し合いがまとまらないという状態がありました。
田中義一が陸軍に味方して天皇の存在を無視すれば、やはり天皇に打つ手はなくなっていました。

東條英機を天皇が信頼していたのは、天皇に忠実だったからです。
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もう回答は出尽くしているので、追記の形になりますが。



制度上では天皇が統帥権を持っていて、陸軍海軍を従えた最高指揮官でしたが、
実際に昭和天皇が大権を振るおうとしても、誰もその命令を聞かなかったでしょう。

はっきり言うと、憲法と現実が違うのです。現実は慣習に従っていました。
そしてそれは現在もそうです。その事が良いか悪いかは、また議論が必要ですが。

ミッドウェーや台湾沖航空戦などにおいて、事実が隠ぺいされたのは、
皆さんのおっしゃる通りです。
そしてこれもはっきりしておきたいのですが、嘘の戦果を言い続けたのは、主に海軍です。

陸軍は退却を転進と言ったり、全滅を玉砕を言い換えたりしましたが、
それでも事実は分かるはずです。山本五十六などの影響で
やたらと海軍にいいイメージが残っていますが、
海軍のこの悪質な体質は統帥上、多大な影響を及ぼしました。

これでは東條英機もまともな作戦指導を行う事は出来ず、
昭和天皇も実際の戦局に即した判断は難しかったでしょう。
そもそも開戦経緯からして陸軍と海軍の対立があったのです。
(参考文献:鳥居民著「日米開戦の謎」)

天皇が自分で何もかもやってしまっては、独裁国家です。
戦前の日本の最も大きな問題は総理大臣の権限が小さい事です。
実際は天皇大権ではなく、内閣、陸軍、海軍の三者合議制でした。
現在の日本は総理大臣が政府の長であり、自衛隊の最高指揮官です。
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「日本がミッドウェイで負けた→停戦を希望する又は天皇の大権で一方的に停戦する


どうなるか考えてください。米国が戦争止めると思いますか?」

ミッドウェイ海戦後の段階では、日本は4隻の空母を喪失しましたが、依然として
正規空母2隻(
準正規空母(飛鷹型)2隻
最新型艦載機を運用できる軽空母が数隻
戦艦12隻
を含む多くの艦艇と
飛行機
ガダルカナルでの大消耗戦の前で、基地航空部隊はほぼ無傷
と兵力を保有しており、広大な連合国領土を占領しています。アメリカの必殺兵器と言えるレーダーは完成の域には達していません。

これに対し、アメリカはミッドウェイの防衛と日本機動部隊の撃滅に成功しましたが、

* 稼動する正規空母はサラトガ、エンタープライズ、ワスプ、ホーネットの4隻。エセックス級、インディペンデンス級の戦力加入は当分先。空母戦力では、ミッドウェイの後でもまだ日本の方が上。

* 戦艦の勢力は真珠湾奇襲でかなり低下。新型戦艦はノースカロライナ、ワシントン、サウスダコタの3隻程度。

* 島国である日本を戦略爆撃できるB29は開発途上。

であり、日本海軍を米海軍が叩きのめした昭和19年、日本上空をB29や空母艦載機、硫黄島と沖縄を基地とする戦闘爆撃機が乱舞する状況まで日本を追い詰めるのは大変なことでした。

前置きが長くなりましたが、ミッドウェイ海戦後の段階で日本が
「全ての占領地を返還し、中国本土から撤兵する。日独伊三国同盟を破棄する。日本が求めるのは『一定量の石油の供給』のみ」
という条件で停戦交渉を求めれば、アメリカが応じたことはあり得ると考えます。何しろ、欧州のほぼ全域とソ連の主要部を占領しているドイツの勢いはまだまだ強力であり、アメリカとしても日本との戦争にケリがつくならつけたかったはずです。

米・英・支三国が「日本を徹底的に打倒する。無条件降伏以外は認めない」と合意したとされるカイロ会談は、1943年11月のことであり、ミッドウェイ海戦の実に1年半も後のことです。

この間に、ガダルカナルを巡る消耗戦(1943年2月に日本軍が撤退して終了)で日本が甚大な損害を受け、日本海軍の夜戦の有利が水上レーダーの完成で封じられ、アメリカ海軍にエセックス級空母が続々と就役し、「後は日本軍を叩き潰すだけ」となっていました。

欧州戦線でも、1943年初頭にスターリングラードでドイツ大部隊が消滅し、同年夏のクルスクの戦いでドイツ軍が戦力を消耗させてソ連との戦力バランスが完全に逆転し、北アフリカのドイツ軍を降伏させた連合軍がイタリアに上陸してイタリアが枢軸国から脱落、と、ドイツ軍の頽勢が明らかとなっていました。

カイロ会談の1943年11月の時点ならば「米国が戦争止めると思いますか?」は「止めません」でしょう。

しかし、ミッドウェイ海戦後、ガダルカナル島戦開始前(42年8月)の1942年7月の時点であれば「天皇の厳命による日本と連合国の停戦」は、連合国の合理的な選択としてあり得たと考えます。歴史にIFはないので論じても詮無きことですが。

ただし、私がNo10で書いたように、日本の政治体制が「天皇の厳命」で連合国との「全ての占領地を放棄し、ハルノートを受け入れる」形での停戦交渉を開始できるようなものではなかったのも確かで、これでIFの議論も終わってしまいますが。
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 簡単なはなし戦争を止める手段は天皇にあるのではなく、アメリカを中心とする連合国にあるからです。

いまのグルジアを見れば解かるでしょ。グルジアを日本に置き換えてみてください。

グルジアは戦争を止めたいがロシアが停戦に応じない→戦争継続

日本がミッドウェイで負けた→停戦を希望する又は天皇の大権で一方的に停戦する

どうなるか考えてください。米国が戦争止めると思いますか?

まず昭和12年からの戦争の歴史を勉強すべきです。
その戦争は決して軍部の暴走ではないですよ。有事に際して対応する方法を軍部・官僚が知らなかっただけのことです。
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昭和天皇が、例えばかつてのソ連のスターリン、現在の北朝鮮の金正日のような「独裁権力の持ち主」であり、かつ実際の昭和天皇のように聡明な人であったとすれば、アメリカとイギリスという世界のNo1、No2の強国を相手に戦争を始めることさえなかったでしょう。



対米英開戦計画を決定した御前会議の席上で、昭和天皇が意見を述べ、明治天皇が日露戦争開戦時に詠んだ和平を願う和歌を二度繰り返して吟じた、という話はご存知でしょうか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%89%8D% …

1941年9月6日、御前会議が開かれて「帝国国策遂行要領」が決議された。これは、「大日本帝国が対米戦争を辞さぬ決意で、10月下旬までに開戦準備を行なう」、「並行して、米英と外交手段を尽くす」、「外交手段が10月上旬までに目処が立たねば、対米開戦決定」というものであった。これに対し、昭和天皇は「この草案は、戦争が主で外交が従ではないか」と非難し、「四方の海、みなはらからと、思う世に、など波風の、立ちさはぐらむ」と、明治天皇が作った和歌を読んだ。

独裁者が独裁権力を振るうには、スターリンや金正日が備えていたような様々な「独裁装置」が必要です。

1. 独裁者の命令『のみ』で動く多数の秘密警察部隊。

2. 法律は関係なく、独裁者の命令だけで「独裁者の意に反する」と判定された者とその家族を処刑し、もしくは強制収容所に収容するシステム。

3. 強制収容所で言語に絶する虐待が行われているという実例。独裁者本人以外、どのような高官であっても独裁者の命令一つで強制収容所へ家族ごと送られるという恐怖。
北朝鮮では、全ての人民が強制収容所の恐怖を知っています。政府の高官であっても、金正日の意思一つで身分を剥奪されて強制収容所に送られます。

逆説的な話なのですが、戦前の日本は今の北朝鮮より、今の中国よりはるかに民主的な国でした。

大日本帝国憲法
http://www.houko.com/00/01/M22/000.HTM
を良く読んでください。この憲法で、

第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

と書いてあり、一見天皇はその意思で何でも出来そうです。しかし、その後の条文を読んでいくと、天皇の行為は全て「『天皇の名の下に』行われるもの」に過ぎないことが分かります。

そして、明治天皇はもちろん、昭和天皇は「天皇機関説」に徹底して忠実でした。これは、大日本帝国憲法に書いてあることを忠実に実行すればそうならざるを得ない、ということで、近代立憲国家としては当たり前のことです。
そして、昭和天皇は「自分の命令のみで動く秘密警察組織」も「自分の命令を聞かない高官をブチ込む強制収容所」も持っていませんでした。これは、平成の現在の天皇陛下と同じです。違いは、大日本帝国憲法では「一見、天皇が独裁者であると読めなくもない記述になっている」のに対し、日本国憲法では「天皇は日本国の象徴であり、政治権力を持たない」と明記してあることくらいです。天皇の役割は、大日本帝国憲法下でも日本国憲法下でも実質的には同じと考えて下さい。

最終的に、ポツダム宣言の受諾による連合国への降伏は、御前会議における「聖断」で決定しました。

ただ、確か昭和天皇が戦後に述懐したことが何かで記録されていると思いますが、昭和天皇は下記のような趣旨のことを言ったはずです。

「自分がいわゆる『聖断』を行った御前会議で、御前会議出席者が討議しての結論が『戦争継続、本土決戦』でまとまれば、自分はそれを裁可するつもりであった。議論がまとまらず、議長である鈴木貫太郎首相が『聖断を仰ぎ、それに従いたい』と述べたので自分の意見を述べた」

鈴木首相、米内海軍大臣、阿南陸軍大臣は、ひそかに打ち合わせて「陸軍はあくまでも戦争継続を求める」「政府と海軍はポツダム宣言受諾もやむなしと考える」と言った「意見がまとまらない」状態を作り出し、昭和天皇の「聖断」を導いたといわれます。

阿南陸軍大臣は、「聖断」で御前会議の結論が「ポツダム宣言受諾、降伏」となった後、陸軍の幹部を集めて「天皇陛下のご命令で降伏しなければならなくなった」と「天皇の聖断」を「利用して」、本土決戦(日本民族の滅亡)へ向かっていた陸軍諸部隊に急ブレーキをかけ、陸軍を抑えたようです。

阿南惟幾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97% …
「戦時最後の陸軍大臣を務めた阿南は、昭和天皇の聖断が下る最後の瞬間まで当然のごとく戦争継続を主張し続けたが、戦後、当時の阿南の真意をめぐっては、
『当時書記官長であった迫水久常によれば、終戦を望む天皇の真意を悟り、また本土決戦を主張しつつも阿南自身の本心も終戦にあり、極秘裏に鈴木貫太郎首相と協力して終戦計画を遂行したと言う。ただし表向きは、天皇が最も恐れた「終戦に反発する陸軍の暴発」と、「倒閣」を阻止するため、強硬な言動により主戦論を装い戦争継続を主張し続けたと迫水は推測している(いわゆる腹芸説。もし阿南が終戦を唱えていれば、阿南は陸軍に暗殺され、補充大臣が出ず鈴木内閣は総辞職し、終戦は実現しなかっただろう、との分析)。』

これが、終戦直前の阿南陸軍大臣の行動に対する定説と言えます。阿南陸軍大臣は8月14日の夜に自決しましたが、御前会議の席上で戦争継続を巡って激しく争った米内海軍大臣は、阿南陸相の自決を聞いて深く弔意を表したといいます。

陸軍の大方に異議を唱えさせない「聖断」を、天皇機関説を忠実に守る昭和天皇から引き出すには、「御前会議でどうしても意見がまとまらない」という「大芝居」が必要だった、という皮肉な話です。

なお「大元帥たる天皇陛下の聖断でポツダム宣言受諾が決定した」にもかかわらず「天皇の周辺の者が勝手に天皇陛下に『聖断』を出させた」として、ポツダム宣言受諾、降伏を阻止する、あるいは戦闘を継続しようとする動きがいくつもありました。「聖断」があり、政府・陸軍・海軍の上層部が全て「ポツダム宣言受諾」で固まってもこれですから、質問者さんが言われるような「ミッドウェー海戦後、天皇の命令で停戦交渉開始」が不可能であったことが想像できるでしょう。

陸軍省と近衛師団の一部の将校が、近衛師団長を殺害してニセの近衛師団長命令で兵を動かし、宮中に侵入して、昭和天皇の「玉音放送」のレコードを奪おうとした事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E% …

厚木に基地を持ち、首都圏の防空を担当していた海軍三〇二航空隊の小園安名司令が、降伏命令を拒否して戦争継続の意思を示し、大騒動を起こした事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%9C%92% …
「1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送後も降伏を認めず、徹底抗戦を訴えたため厚木基地は反乱状態となった。8月16日の米内光政海軍大臣の命による寺岡謹平海軍中将や海軍兵学校で小園の1期後輩でもある高松宮宣仁親王海軍大佐、三航艦参謀長山澄大佐らによる説得があるも、小園の徹底抗戦の意思は硬く、やがて当時罹患していたマラリアにより、8月18日、40℃の発熱となり興奮状態が続いた。8月20日に小園は航空隊軍医長の少佐により鎮静剤を打たれ革手錠のうえ野比海軍病院(現独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センター)の精神科へ強制収容される。8月22日には反乱は収束し兵を強制退去させた。8月23日厚木基地に山澄大佐率いる大本営厚木連絡委員会がはいった。」

なお、他の方も言及されていますが、ミッドウェー海戦の結果については、国民への大本営発表と同様、軍令部総長から天皇への報告も「ウソ」でした。ちなみに、東条英機首相への報告も同じく「ウソ」でした。内容は「アメリカの空母を2隻撃沈。日本の空母を1隻喪失、1隻大破」というものです。実際は「アメリカの空母を1隻撃沈。日本の空母を4隻、重巡洋艦を1隻喪失」です。

ミッドウェー海戦は昭和17年6月に生じました。その後の昭和17年7月に海軍の艦隊編成が大きく変わったのですが、その際に軍令部総長から昭和天皇に上奏されて裁可を受けた「第三艦隊編成表」には「付属:赤城、飛龍」と書いてありました。言うまでもなく、この時点で赤城と飛龍はミッドウェー沖の海底に沈んでおります。

この「付属:赤城、飛龍」という記載は、ミッドウェー海戦の結果を「アメリカの空母を2隻撃沈。日本の空母を1隻喪失、1隻大破」と天皇に対して偽装したことを糊塗するためのものです。両艦が「ミッドウェー海戦で蒙った被害を修理中で、いずれは前線に復帰する」と偽装しているわけです。

ただ、天皇も「付属:赤城、飛龍」に関する続報が全くないことから、どこかの段階で海軍の偽装工作に気づき、戦況を奏上する軍令部総長を問い詰め「実はミッドウェーで沈んでおります」と真相を聞いたと思われますが。その辺については記録が残っていないので永遠に不明です。
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制度上の問題と個人としてそれをどう運用するかは別の問題です。


昭和天皇は日本の拡張期にあたり軍人として成長された趣があります。
公式に国民の前に出られる姿はすべて軍服姿でした。 それ以外のお姿は見たことがありません。  敗戦後マッカーサーに会見されたモーニング姿は国民として初めて拝見するものでした。

したがって、昭和天皇は公式としては軍人でありそのように判断、また思考されていたと考えるべきだとおもいます。
どのように側近に騙されていたにせよその時々はそれを信じて行動されていたとおもいます。

天皇の大権は制度として確かに存在しますが当時の昭和天皇に大勢に逆行する行動までは考え及ばぬことだったのでは。

その意味でポツダム宣言の受諾の決断は大変な勇気のいる決断でした。 少なくとも当時「国体」そのものの存続すら不明となる決断でしたから。
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天皇は幼少のときから王家存立のための絶対条件である「君臨すれども統治せず」という原則を叩き込まれ、理屈の上では分かっていたつもりに成っていたのに、二・二六事件での天皇の一言で、時の首相を死に追いやってしまった驚きが、この原則の天皇の認識について目から鱗を落とさせたとのことです。

ですから、天皇はその後この原則の実行を、国体の護持の中心に据えたのです。統帥権が如何に成文化されていようが、そんな物を実行してしまうと、天皇家の存続まで危なくなってしまうことを理解したのです。

そう考えると、逆にこの原則を破って敗戦を宣言するというように、統帥権を行使ざるを得なかったほど、あの時は国家の存続に対して異常事態が起こってしまったと言うことでしょう。

政治の世界や国家間の事柄について、もっともらしい論理を展開して、ある種の法律や条約を成文化しても、それを鵜呑みにしてしまうと自分が滅んでしまうと言うような例は、歴史の中に幾らでもあったようです。ですから、こんな法律があったのにとか、こんな条約があったのに、と言うレベルで論理を展開してしまうと、何が何だか分からなくなってしまう物ですよ。人間の営みを理解するには、言葉に表現されていない部分をえぐり出すことも大切な作業です。
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昭和天皇はもともと「立憲君主制」をモットーとしておられる方で、それゆえ、(国民はまったく知らなかったのですが)政治には直接口を出されなかったようです。

2.26での悲しみと、満州事変の報告を受けた際に田中義一首相を叱責し、辞任に追い込んだばかりでなく、田中義一を死に追いやってしまったこともあったようです。

また、陸軍が特に暴走しすぎて、日本のいろんなところでの敗戦を天皇に知らせなかったというのもあります。御前会議は、本当にただ参加しているだけで、口をはさませなかったという話もあります。

どちらにしても、開戦も彼の決定ではありませんし、終戦はどうにもならないと初めて知らされて、2.26以来はじめて彼自身が判断した決断だったようです。
そのため玉音放送の録音テープも一部の陸軍軍人によって奪われそうになったり、63年前の今頃は大変だったでしょうね。
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奈良時代に藤原氏に政権を奪われてから、天皇家は、一度も実際の権力を手中にしたことはありません。


実際明治以降も、五摂家と呼ばれる藤原家の子孫達と、薩長の人間に政府の実験はありました。
戦時中に総理で、五摂家の近衛家の当主近衛文麿は、天皇の前で平気で足を組むとして有名でした。
五摂家にしてみれば、天皇はいつでも挿げ替え可能なお神輿、そして、政府においても、天皇はお神輿に過ぎません。
皇居の奥深く、民間人の目の触れない場所で、宮内庁に押さえ込まれている天皇には、何も力はないんです。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました
おっしゃる通りかもしれませんし、事実そうであったとも思います。
しかし少なくとも旧憲法の下では「制度上」は天皇は誰からも何の制約も受けず政治上、軍事上の最後の決定を下す『大権』を持っていたこともまた事実なのではないでしょうか?
おっしゃるような歴史上の慣習、実際の為政者との実務面での力関係などの、非常に強いしがらみに常に縛られていたせよ、天皇が自らの意思でその大権を発動すると決めたのなら、それを結果的に阻止する、大権以上の権力は制度上存在しなかったこともまた事実であると私は思うのです。

お礼日時:2008/08/12 06:07

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Qなぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

なぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

関東軍の暴走や、5.15事件、2.26事件…。
真珠湾攻撃の前には既に南方で勝手に戦端が開かれていたとか。
それから、敗戦時にも玉音放送を中止させようと陸軍のクーデターが起こるなど、なぜ戦前の日本では、軍事がコントロール不能になってしまったのですか?

当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?

※これはド素人の質問ですので、質問文中に認識違いなどがあった場合は遠慮なく指摘して頂いて結構です。その際はどうぞお手柔らかに…

Aベストアンサー

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良かったのでしょう。
内閣・国務大臣も戊辰戦争を戦ってきた人々でしたからね。

時代が進むにつれて、「統帥権」の変容したのが、軍部の暴走した要因だと思います。
大日本帝国陸海軍には行政組織の陸軍省と海軍省が有り、それぞれに大臣がおりました。
これらは内閣の一員の行政組織で、人事権、徴兵などを行政事務を行ないます。
それとは別に海軍には軍令部、陸軍には参謀部があり、軍令部総長・参謀総長がおりました。
実際の作戦立案、実行を一手に握っていました。

最初は海軍省>軍令部、陸軍省>参謀部の関係でした。
現役の軍人とはいえ、官僚ですのである程度の常識を持ちイケイケの軍人を抑えていたのですが
それに不満を持つ軍人が「天皇は陸海軍を統帥す」の文言を盾にとり、統帥権の独立を画策し始めました。
次第に省令等を改定し、海軍省<軍令部、陸軍省<参謀部の力関係になりました。
つまり、軍人の文が弱まり、武が強くなってきました。
国会議員が異議や反対意見を述べたりすると「統帥権干犯」を持ち出し、反対意見を封殺していきました。
つまり、建前上、天皇のみしか軍隊を指揮命令する事が許されない
神聖にしてだれも犯す事の出来ない武力集団に仕立て上げたのです。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tousuikennnokannpann.htm

しかるに、昭和天皇は皇太子時代、大英帝国を訪問し、英国の立憲君主制に触れ、それを模範にするお考えが有りました。

国王・皇帝が独裁的に指揮・指示・命令をするのではなく、それを輔弼する内閣・国務大臣の政策を承認する形を取りました。
それで、天皇の名の下に、自分の都合よく相手国に武力行使を独断専行で行い、全て事後承諾で戦争へと進んだのです。
結局は、降伏か戦争継続かで意見が分かれ、収集が付かなくなり、昭和天皇のご聖断となった訳です。

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良か...続きを読む

Q軍部の暴走を止められなかった理由

戦前の軍部はなぜ暴走したのですか?
張作霖爆殺は、なぜ軍の指揮権を持つ天皇に許可無く行われましたか?
そして、その実行犯を天皇が罰しろと言ったのに、罰せられませんでしたか?
柳条湖事件、満州事変、盧溝橋事件、日中戦争と、軍部と天皇との関係も教えてください。

Aベストアンサー

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に対する恐れから、戦前の日本では本来過渡的な体制であったはずの明治体制の抜本的な変革は、さしずめ戦後日本における改憲のごとく、タブー視されるようになってしまいました。
しかしながら元老のカリスマ性に頼った体制が長持ちするはずが無い事は自明の理であり、このために大正期は「軍の統帥権とはあくまでも純粋な作戦面に限定される」という言わば「解釈改憲」でこの問題を乗り切っていたのです。
しかしながら抜本的な改革が行われなかった結果、軍と政府の分立状態は次第に亀裂が大きくなり、張作霖爆殺事件でも真相究明ではなく田中義一内閣総辞職で幕を引く結果となりました。
そしてロンドン軍縮条約調印時、野党であった政友会は政府を攻撃するために「海軍軍令部の同意の無い軍縮条約の調印は統帥権の干犯である」と非難し、軍の統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。
この結果、これ以降に政府や議会が軍の行動を統制しようとすると「統帥権の干犯だ」と揚げ足を取られる事になってしまいました。
(当時の書籍を読むと現役の軍人でも「統帥権の独立は時代遅れであり、国家の将来に禍根を残す」と激しく非難している例もあります)

そしてもう一つ重要なのは、当時の日本では中国大陸に有していた利権(いわゆる「特殊権益」)は「日露戦争で多大な犠牲の末に獲得したものであり、絶対に手放してはならない」という、これまた戦後の日本における一時期の憲法九条のように、その是非を論じる事の出来ない不可侵の存在であるかのように評価されており、その利権の保持を目的とした武力行使は世論やマスコミの強い支持があったのです。
この為に満州事変では軍中央の意向に逆らって占領地を拡大し、現地軍が勝手に満州国建国を行った事をマスコミがこぞって支持し、軍中央も政府も暴走を追認してしまいます。
当然ながらこの結果として「軍中央や政府を無視しても戦果さえ挙げれば認められる」という「下克上」の風潮が生まれ、その後の日中戦争においてズルズルと占領地を拡大する現地軍を止めることが出来なくなってしまいます。

総じて言えば本来、過渡的な体制であった筈の明治維新体制が、皮肉にもその成功故にこそ維持され、時代に合わなくなった状態で行われた普通選挙による民主化が、党利党略しか考えない近視眼的な政治家を生んでその問題を拡大し、また政府及び軍中央が武力行使を支持する世論に阿って誰もが責任を取ることを回避していった結果だと言えるでしょう。

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に...続きを読む

Q昭和天皇の統帥権について

9/11の讀賣新聞1面に次の記載がありました。
・戦前、天皇は統帥権の「総攬者」とされ、陸海軍の最高司令官「大元帥」でもあった。だが、1931年の満州事変以降、軍部は「天皇は陸海軍ヲ総帥ス」とする明治憲法第11条の規定を盾に取り、内閣のチェックは統帥権には及ばないとして暴走。30歳代だった昭和天皇は、大元帥でありながらそれを抑えられない立場に置かれた。
これに関して2つの質問があります。
(1)内閣のチェックは統帥権には及ばないとは?
  陸海軍は天皇が統帥するので、内閣は陸海軍には口出しできないという意味ですか?
(2)30歳代だった昭和天皇は、大元帥でありながらそれを抑えられない立場に置かれたとは?
  昭和天皇は、当時30歳代と若かったので大元帥であるのに、軍部の暴走を抑えられなかったという意味ですか?以上、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

まず前提を書きます。君主と政府と軍の関係についてです。

君主国であれば、軍は「王様の軍隊」であり、王に忠誠を誓い王の命令でどこにでも行きます。君主国なら、政府も王がすべてを決める権限がありますので、議会や長老会議などの諮問機関があっても王様が決めれたことが政府の政策になります。

このような君主国であれば総帥権(指揮権)は当然王に属しており、王様が命令する、ことに誰も口出しできません。

逆に民主国(共和国)においては、軍隊は「国民の軍隊」です。政府も国民が主体となって運営します。このような場合、武器を持っている軍隊が暴走しないように、文民統制が敷かれます。
古代なら、軍隊は首都に武器を持ったまま入ることができない決まりを作って、クーデターを未然に防いでいましたし、現代なら、アメリカなどは軍隊が軍事行動を始めたことを24時間以内に大統領や議会長に知らせる(敵から攻撃があれば応戦するしかない、と言うときです)、と共にその軍事行動について議会の承認が得られなければ60日以内に撤退する、と決められています。

共和国では民主的に選ばれた議会や大統領が軍隊を指揮できように、文民のほうが軍隊よりも偉い、というつくりになっているのです。

で、戦前の日本の総帥権です。
(1)内閣のチェックは統帥権には及ばないとは?
  陸海軍は天皇が統帥するので、内閣は陸海軍には口出しできないという意味ですか?

はい、憲法を解釈するとそうなっていました。明治憲法では、軍隊の指揮権は「天皇の大権」のひとつと明記されていて、その点では君主国のシステムになっていたのです。
ですから、議会や内閣などは「天皇がお決めになったことだ」と軍部に言われると、それ以上なにもできなかったのです。

(2)30歳代だった昭和天皇は、大元帥でありながらそれを抑えられない立場に置かれたとは?
  昭和天皇は、当時30歳代と若かったので大元帥であるのに、軍部の暴走を抑えられなかったという意味ですか?

違います。明治憲法は「立憲君主制」であり、天皇は立憲君主として行動を制御していたからです。
そして、この狭間を解釈によって突き、暴走したのが軍部の悪知恵だったといえます。

立憲君主制は、現代の日本やイギリスのように「君主」はいるけど、国の運営は民主主義に任せる方式です。「君主が居る」という以外は共和国と同じで文民統制も当然にあります。

しかし明治憲法は文民統制規定が明確になっておらず、立憲君主制における天皇の責任も明確に書かれていなかったため、軍部がそこを突いて暴走を始めたのです。

つまり軍部の解釈では「政府としての機能は、たしかに立憲君主制なのだろうが、軍事指揮権(総帥権)は天皇の大権であって、政府がそこに口をだすことは総帥権干犯であり、天皇陛下に対して不忠である」

だから、軍隊は天皇の指示しかきかない、ということだったのですが、当の昭和天皇が「立憲君主として、(軍隊を含めた)政治のすべては臣民に任す」と、口出しすることを嫌ったので、軍部が暴走してしまったのです。

またそのために軍部は「帷幄上奏権(本来は戦争の前線で指揮官に状況説明する権利)」を盾に、文民統制を迂回する形で、天皇に上奏し「このような状況ですから、こうします」と勝手に決めて、当の天皇は立憲君主制を守るつもりですから「うむ、分かった」とか答えなかったために、どんどん暴走していったのです。

天皇が「立憲君主」的な君主であることをやめて、直接指示をしたのは、たったの2回だけだったといわれています。
1回は2.26事件を収拾すること(激怒したといわれている)、もうひとつはポツダム電源の受諾です。

日本の政治畝居システムが「解釈」ひとつで、いくらでも変更できてしまう怖い事例だと思います。

まず前提を書きます。君主と政府と軍の関係についてです。

君主国であれば、軍は「王様の軍隊」であり、王に忠誠を誓い王の命令でどこにでも行きます。君主国なら、政府も王がすべてを決める権限がありますので、議会や長老会議などの諮問機関があっても王様が決めれたことが政府の政策になります。

このような君主国であれば総帥権(指揮権)は当然王に属しており、王様が命令する、ことに誰も口出しできません。

逆に民主国(共和国)においては、軍隊は「国民の軍隊」です。政府も国民が主体となって運営し...続きを読む

Qなぜ昭和天皇は処刑されなかったのか?

こんにちは。
なぜ昭和天皇は戦犯として処刑されなかったのか?
これはヤフー知恵袋でも昭和天皇関連で一番多い質問なんですが
その理由は以下の2つに分けられるのですが、どれが正解なんでしょうか?

・そもそも天皇は戦犯ではない
・戦犯だけど、処刑なんかしたら日本が混乱して大変なことになるので、むしろ天皇制を利用した方が良いと考えた

分かりやすく教えて下さい。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「利用した」んだろうね。

ただ、戦犯かどうかはどっちでも良かった。
というより、戦犯だと困った。

どちらか白黒つけようとすれば東京裁判に訴追されたはずなのに訴追されていない。
昭和天皇を被告人にして陳述させれば、昭和天皇は自分を「戦犯だ」と主張しただろうし。
戦犯になれば、例え死刑が免れても、最低限「退位」になる。次の継承権者では「求心力」が見えない。
天皇が「戦犯」になれば、天皇陛下のために戦ってきた国民や兵士の心はズタズタになる。

日本国内に在留し日本国民を知ったマッカーサーは、本国で「天皇制廃止論」があったのを反対し、「存続させるべき」と主張した。
そこには、対中国ソ連に対抗するためには、日本が地理的理由で最も重要な国であり、一刻も早い復興が必要だった。
天皇制を廃止して、日本国民の心をバラバラにしてしまうより、「まとめる力(求心力)」として利用する方が得策と判断した。

Q太平洋戦争を早く終わらす事ができなかった理由

皆さんこんにちは。

昭和20年8月15日に太平洋戦争は終わるわけですが、
日本政府が勝つ見込みがないと、考えていたのは、
いつぐらいからなのでしょうか?

そして、それならなぜもっと早く終わらす事ができなかった
のでしょうか?

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

ええと、負ける云々の前に早期和平について、

はじめる前は当然、早期和平ではじめましたが具体的な方策がありませんでした。

真珠湾攻撃前、アメリカ国民は戦争賛成派は極少数でしたが、外務省の馬鹿のおかげで奇襲攻撃とされ、アメリカ国民が一挙に戦争賛成派にかわりました。

ある一定の有利(?)な条件で講和が進められる可能性のあったのはイタリアが降伏する前でしたが、相手のあることで上記のような理由と、海軍がミッドウエーの敗戦を海軍内部のみの秘密としていたため、東条総理ですら1年間しりませんでした。

負けを政府が悟ったのは?

これは難しいですが、まず、サイパンが陥落し、東条内閣が総辞職したときと判断するのが適切と思います。

なぜもっと早くできなかったか?

特攻隊の生みの親と言われる大西中将は、特攻などという戦術として成立しないことを行えば、臣民にたいし慈愛ある昭和天皇は、即刻、講和を行うと考えていたが、天皇は「不憫ではあるがやむなし」とお褒めになったので、やぶ蛇になった。

まず、陸軍は中国戦線では負けてないので感情的にも負けてないのに講和考えられない。海軍は特攻のやりすぎで、今までの死んだものに顔向けできんと自暴自棄状態だった。そうした現場の殺気だった中間管理職層を陸軍も海軍も抑えきれるものがいなかった。

また、外務省がとろく、連合国側の情報収集がまったくおそまつだった。

アメリカと和平工作を開始しようとした途端に、その責任者にしようとしていた吉田茂が憲兵に拘束され、対アメリカ工作ができなくなった。

などなど、あげればきりはありませんが、そもそもは、最初に負けたときのことを考えていない。勝ち方も考えていなければ、負け方も考えていなければ結果はああなるということです。よく、それで戦争を始めたという無責任ぶりに呆れるばかりです。

ええと、負ける云々の前に早期和平について、

はじめる前は当然、早期和平ではじめましたが具体的な方策がありませんでした。

真珠湾攻撃前、アメリカ国民は戦争賛成派は極少数でしたが、外務省の馬鹿のおかげで奇襲攻撃とされ、アメリカ国民が一挙に戦争賛成派にかわりました。

ある一定の有利(?)な条件で講和が進められる可能性のあったのはイタリアが降伏する前でしたが、相手のあることで上記のような理由と、海軍がミッドウエーの敗戦を海軍内部のみの秘密としていたため、東条総理ですら1年間...続きを読む

Q太平洋戦争中に戦争に反対した人はいますか?

質問内容はタイトルの通りなんですが。
最近、終戦60周年ということもありテレビなどで戦中のことを報道する番組を多く見かけます。
そして少年兵の出征や特攻隊の隊員の手記(遺書)戦地での過酷な状況などを紹介し感動的なエピソードとして放送しているものもあります。
しかし・・・。
どうも私は納得がいかないのです。
確かに特攻隊員の書いた家族への手紙など胸のつまる思いに駆られますし、召集令状により二十歳に満たない青年が出征の朝、朝食に使った食器を自ら洗い身を清め「行って参ります」といって両親に向かって敬礼をする・・・切なくも凛とした、ある種清々しさえ感じる光景であります。
でも例えばこの青年は「行って参ります」といってどこへ行くのですか?あえて感情を排して言えば、戦場へ人殺しをしに行くわけでしょう?
彼らの姿を「偉い」「立派だ」「男らしい」として評価するのは非常にシンプルでまた共感を得られやすいですが、しかしもしあの時代においてなお戦争反対を主張した人がいたとすれば、本当に立派だったのはそういう人ではなかったか、私はそう思うのです。あの時代に戦争に反対するのは大げさではなくリアルに命がけだったでしょうから。

そこで皆さんに教えて頂きたいのは、そういう人がいたとして

1.それはどんな立場の人で何人くらいいたのか?
2.具体的にどんな活動をしたのか?
3.その結果どうなったのか?

ということです。勿論「そういう人はいなかった」と言う回答もあるのかもしれませんが、よろしくお願いします。

質問内容はタイトルの通りなんですが。
最近、終戦60周年ということもありテレビなどで戦中のことを報道する番組を多く見かけます。
そして少年兵の出征や特攻隊の隊員の手記(遺書)戦地での過酷な状況などを紹介し感動的なエピソードとして放送しているものもあります。
しかし・・・。
どうも私は納得がいかないのです。
確かに特攻隊員の書いた家族への手紙など胸のつまる思いに駆られますし、召集令状により二十歳に満たない青年が出征の朝、朝食に使った食器を自ら洗い身を清め「行って参ります」とい...続きを読む

Aベストアンサー

私は、石橋湛山が最初に思い浮かびました。
詳細は、下記を参照していただければ判りますが、戦争中、戦争反対を言ってのけ、しかも言論封鎖を絶妙に避けた手腕と先見性は、勇気ある良識としか言いようがありません。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%B9%9B%E5%B1%B1

Q日本がハルノートをを受け入れ戦争しなかったら?

歴史で”たら、れば”は持ち出す事は駄目なんですが、もし、太平洋戦争に突入しなかったら日本はどうなっていたでしょう? 戦争で余りにも多くの方がなくなりましたが、戦争しなかった方が日本の将来は明るくなる事が期待できたのでしょうか?

Aベストアンサー

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の失業者が
街に溢れ、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
さっぱりです。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。
その現れがハルノートです。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。


米西戦争では、 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しています。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり戦争が始まっています。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の...続きを読む

Qもし昭和天皇が戦犯として処刑されていたら。

もし、昭和天皇が戦犯として処刑され皇族も追放されていたら、その後の日本はどのような状態になったでしょうか。
イラクのような内戦状態でしょうか。或いはGHQの占領政策を従容と受け入れていたでしょうか。

Aベストアンサー

昭和天皇自身、自らの処刑も覚悟してポツダム宣言受諾の意思を示したようです。実際、ソ連(一週間戦争で莫大な戦勝果実を得ただけ)は昭和天皇を侵略の責任者として処刑することを主張したようですし、「昭和天皇処刑、天皇制廃止」は十分ありえたでしょう。むしろ、「戦力を完全に失って降伏した国の王様が、天寿を全うするまで王位にあり続けた」ことの方が、歴史上稀なことです。

昭和20年の日本は、米軍の圧倒的な戦力によって全てを粉砕されて降伏したわけですので、占領軍(米軍)に立ち向かう気力はありませんでした。米軍に立ち向かう武器も民間には皆無でした。また、近代武器を持っていた日本軍をごく少ない損害で殲滅した米軍に、仮に天皇処刑に憤った民間人が竹槍を作って立ち向かったとしても「日本側全員射殺、米軍損害ゼロ」以外の結果はありえないと当時の日本人は骨身に染みて分かっていました。

昭和20年当時の米軍は、都市絨毯爆撃で非戦闘員を焼き殺し、非戦闘員を機銃掃射し、民間人を満載した商船を無警告撃沈する、今よりずっと「怖い」軍隊です。今のように「誤爆で民間人が3人死んだ」などということを問題にする欧米マスコミもありません。占領軍に竹槍で歯向かった日本人が全員射殺されるのは、当時の常識では当たり前です。
(現在、イラクやアフガンの内戦が容易に収束しないのは「21世紀の常識では、占領軍や政府軍に歯向かう民間人をみだりに射殺できない」からです)

昭和天皇は処刑に際し「敗戦の全責任は朕にある。国民は、朕の死を聞いて軽挙妄動せず、新日本の建設に尽くして欲しい」といったことをいい、占領軍はそれを宣伝したでしょう。これも、日本人を抑止する大きな力となったはずです。

昭和天皇自身、自らの処刑も覚悟してポツダム宣言受諾の意思を示したようです。実際、ソ連(一週間戦争で莫大な戦勝果実を得ただけ)は昭和天皇を侵略の責任者として処刑することを主張したようですし、「昭和天皇処刑、天皇制廃止」は十分ありえたでしょう。むしろ、「戦力を完全に失って降伏した国の王様が、天寿を全うするまで王位にあり続けた」ことの方が、歴史上稀なことです。

昭和20年の日本は、米軍の圧倒的な戦力によって全てを粉砕されて降伏したわけですので、占領軍(米軍)に立ち向かう気力はあり...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。


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