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軍幹部や閣僚、枢密院の事実上の強制である「助言」に逆らえなかったのはなぜなのでしょうか?
天皇は、軍部を最終的に指揮・統括する統帥権を持っていたのですよね。
様々な事由で軍や政治家の意見を聞き入れなければならない状況もあったと思います。しかしミッドウェー以後の戦況を正確に知っていたなら、最早戦況は絶望的で、このまま戦いを続けたなら軍人のみならず、多くの国民の命が失われることは火を見るより明らかであったことは知っていたはずです。
軍・政治家の「助言」は飽くまで助言であり、例えそれに反したものであっても、最終の決断を下す権限を当時の天皇は持っていたのですよね。そしてそれは、何人たりとも妨げることはできなかったのですよね?
にもかわらず「本当の」統帥権を発動できなかったのは一体なぜなのでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

二・二六事件でもう呆れて嫌になっちゃった


というのがよくある説です。
天皇は二・二六事件で武力鎮圧命令を西園寺公望に諌言されてひっこめてから、ほとんど軍事的な決断はしなくなりました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
諫言:いさめること。また、その言葉。
   「主君に―する」
と、goo辞書にありました

お礼日時:2008/08/12 02:30

昭和天皇こそ「天皇機関説」の信奉者であった。


満州某重大事件の際に田中首相にきつく言ったがため田中内閣を崩壊させ、やってはいけないことをやったと反省された。

戦況を知らなかった
陸軍はミッドウェーの実態を知らなかった事は確実で、海軍が天皇に正確な報告をしていたかどうかも怪しい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE% …
台湾沖開戦では、アメリカ機動部隊は全滅に近い損害を受けたことになっていた。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました
なんともやるせないですね

お礼日時:2008/08/12 02:49

帝国憲法上の天皇は、統帥権も含め全ての決定権を持つ強権者でしたが、実際には、内閣・国会の決定を尊重してほとんど承認していたようです。

(露骨に言えばメクラ判ともいえなくも無いですが)
当時、内閣・国会とも牛耳っていたのは軍部ですから、結果的に軍部の方針を承認していたことになります。軍部も国民に対するのと同様に、天皇に対して体の良い報告をしていたと考えられます。天皇もそれを信じていたわけです。
しかし、度重なる空襲や事実上の敗退、そして遂にはポツダム宣言の通告となり、それへの対応を決める御前会議で、「自分はどうなっても良いから降伏して戦争を終結する」という決断をし、これで戦争が終結したわけですね。ですから最後の最後に統帥権を発動したと言えるのでは無いでしょうか。遅い、という批判は残るにせよ・・・。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました
確かにあまりにも遅すぎましたね
空しさだけが残ります

お礼日時:2008/08/12 02:50

陛下はかなり後まで戦争に勝っていると思っておられたらしいです


海軍の侍従武官だった城英一郎中将の日記があります
陛下に毎日の報告をするのですが職務上大本営発表の偽造した誇大戦果しか報告することを許されなかったそうです
もちろん陸軍侍従も総理大臣も同じ捏造報告を陛下に報告しました
ですから陛下はよほど戦局が悪化するまで作戦は順調と思われていたのでしょう
敵を日本近海に引き付けて大打撃を与えて有利に講和する計画だと誰もが口裏を合わせて陛下を騙したのです
敵の軍艦二隻に爆弾を落としただけで空母11隻を轟沈させてアメリカ太平洋艦隊を壊滅させたと発表した台湾沖海戦に陛下が勅語を賜ったのも武官からの報告でした(私は子供でしたが皆がこれで勝ったと喜んだのを覚えています)
後に城中将は陛下を誤まらせたことに責任を感じて辞任し前線に志願して戦死しました
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました
当時のことを記憶されている方からの回答とは驚きました!
軍と言うものはいつの時代、どこの国でも自己保身、面子を保つためならどんなことでもするのですね・・・。
「軍とは暴走するものだ」ということを念頭に置いた、確実な制御方法
を構築しなければ悲劇は繰り返される。
これが先の大戦が残した一つの教訓なのでしょうか。

お礼日時:2008/08/12 03:16

>しかしミッドウェー以後の戦況を正確に知っていたなら、最早戦況は


>絶望的で、このまま戦いを続けたなら軍人のみならず、多くの国民の
>命が失われることは火を見るより明らかであったことは知っていた
>はずです。

例えばバブル期に「土地神話なんかあり得ない。このままバブルが続けば必ず崩壊し、空前の不況が訪れる」と警告して国民の大多数が聞き入れたでしょうか?
後世の視点で見れば火を見るより明らかな事でも、当事者はそう言うワケにはいかないのです。
実のところ戦時中の日本でも米国の軍需生産量の膨大さや戦況の不利から「早く講和した方がいい」と言う主張自体は決して珍しいものでは無かったようです。
(参考文献:日米もし戦わば―戦前戦中の「戦争論」を読む)
しかしガダルカナル戦後でも日本は開戦直後に占領した広大な地域の大半を確保し続けている状況であり、ここで連合国が受け入れる可能性のある講和条件(中国、及び南方の占領地の殆どからの撤退)を軍部や議会は勿論の事、日本の国民世論が受け入れる事はまず考えられません。
逆に言えばもし連合国との講和が可能であるならば、そもそも日中戦争が泥沼になる前に講和出来た筈であり、当時の日本はいわばバブル期に土地神話に狂奔したのと同様に、国家全体が踊っていたのです。
つまり「政府も軍部も国民も皆、暴走していた」のであり、独裁者でもない昭和天皇がどうする事も出来ない状況だったと言うことです。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました。
一度得たもの(土地・資源)を手放すことは世論が許さない。
確かにそうでしょうね。
それを持ったまま死んでしまっては元も子もないと言っても
誰も聞き入れない状況だったことも否定できない事実でしょうね。

お礼日時:2008/08/12 03:31

奈良時代に藤原氏に政権を奪われてから、天皇家は、一度も実際の権力を手中にしたことはありません。


実際明治以降も、五摂家と呼ばれる藤原家の子孫達と、薩長の人間に政府の実験はありました。
戦時中に総理で、五摂家の近衛家の当主近衛文麿は、天皇の前で平気で足を組むとして有名でした。
五摂家にしてみれば、天皇はいつでも挿げ替え可能なお神輿、そして、政府においても、天皇はお神輿に過ぎません。
皇居の奥深く、民間人の目の触れない場所で、宮内庁に押さえ込まれている天皇には、何も力はないんです。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました
おっしゃる通りかもしれませんし、事実そうであったとも思います。
しかし少なくとも旧憲法の下では「制度上」は天皇は誰からも何の制約も受けず政治上、軍事上の最後の決定を下す『大権』を持っていたこともまた事実なのではないでしょうか?
おっしゃるような歴史上の慣習、実際の為政者との実務面での力関係などの、非常に強いしがらみに常に縛られていたせよ、天皇が自らの意思でその大権を発動すると決めたのなら、それを結果的に阻止する、大権以上の権力は制度上存在しなかったこともまた事実であると私は思うのです。

お礼日時:2008/08/12 06:07

昭和天皇はもともと「立憲君主制」をモットーとしておられる方で、それゆえ、(国民はまったく知らなかったのですが)政治には直接口を出されなかったようです。

2.26での悲しみと、満州事変の報告を受けた際に田中義一首相を叱責し、辞任に追い込んだばかりでなく、田中義一を死に追いやってしまったこともあったようです。

また、陸軍が特に暴走しすぎて、日本のいろんなところでの敗戦を天皇に知らせなかったというのもあります。御前会議は、本当にただ参加しているだけで、口をはさませなかったという話もあります。

どちらにしても、開戦も彼の決定ではありませんし、終戦はどうにもならないと初めて知らされて、2.26以来はじめて彼自身が判断した決断だったようです。
そのため玉音放送の録音テープも一部の陸軍軍人によって奪われそうになったり、63年前の今頃は大変だったでしょうね。
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天皇は幼少のときから王家存立のための絶対条件である「君臨すれども統治せず」という原則を叩き込まれ、理屈の上では分かっていたつもりに成っていたのに、二・二六事件での天皇の一言で、時の首相を死に追いやってしまった驚きが、この原則の天皇の認識について目から鱗を落とさせたとのことです。

ですから、天皇はその後この原則の実行を、国体の護持の中心に据えたのです。統帥権が如何に成文化されていようが、そんな物を実行してしまうと、天皇家の存続まで危なくなってしまうことを理解したのです。

そう考えると、逆にこの原則を破って敗戦を宣言するというように、統帥権を行使ざるを得なかったほど、あの時は国家の存続に対して異常事態が起こってしまったと言うことでしょう。

政治の世界や国家間の事柄について、もっともらしい論理を展開して、ある種の法律や条約を成文化しても、それを鵜呑みにしてしまうと自分が滅んでしまうと言うような例は、歴史の中に幾らでもあったようです。ですから、こんな法律があったのにとか、こんな条約があったのに、と言うレベルで論理を展開してしまうと、何が何だか分からなくなってしまう物ですよ。人間の営みを理解するには、言葉に表現されていない部分をえぐり出すことも大切な作業です。
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制度上の問題と個人としてそれをどう運用するかは別の問題です。


昭和天皇は日本の拡張期にあたり軍人として成長された趣があります。
公式に国民の前に出られる姿はすべて軍服姿でした。 それ以外のお姿は見たことがありません。  敗戦後マッカーサーに会見されたモーニング姿は国民として初めて拝見するものでした。

したがって、昭和天皇は公式としては軍人でありそのように判断、また思考されていたと考えるべきだとおもいます。
どのように側近に騙されていたにせよその時々はそれを信じて行動されていたとおもいます。

天皇の大権は制度として確かに存在しますが当時の昭和天皇に大勢に逆行する行動までは考え及ばぬことだったのでは。

その意味でポツダム宣言の受諾の決断は大変な勇気のいる決断でした。 少なくとも当時「国体」そのものの存続すら不明となる決断でしたから。
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昭和天皇が、例えばかつてのソ連のスターリン、現在の北朝鮮の金正日のような「独裁権力の持ち主」であり、かつ実際の昭和天皇のように聡明な人であったとすれば、アメリカとイギリスという世界のNo1、No2の強国を相手に戦争を始めることさえなかったでしょう。



対米英開戦計画を決定した御前会議の席上で、昭和天皇が意見を述べ、明治天皇が日露戦争開戦時に詠んだ和平を願う和歌を二度繰り返して吟じた、という話はご存知でしょうか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%89%8D% …

1941年9月6日、御前会議が開かれて「帝国国策遂行要領」が決議された。これは、「大日本帝国が対米戦争を辞さぬ決意で、10月下旬までに開戦準備を行なう」、「並行して、米英と外交手段を尽くす」、「外交手段が10月上旬までに目処が立たねば、対米開戦決定」というものであった。これに対し、昭和天皇は「この草案は、戦争が主で外交が従ではないか」と非難し、「四方の海、みなはらからと、思う世に、など波風の、立ちさはぐらむ」と、明治天皇が作った和歌を読んだ。

独裁者が独裁権力を振るうには、スターリンや金正日が備えていたような様々な「独裁装置」が必要です。

1. 独裁者の命令『のみ』で動く多数の秘密警察部隊。

2. 法律は関係なく、独裁者の命令だけで「独裁者の意に反する」と判定された者とその家族を処刑し、もしくは強制収容所に収容するシステム。

3. 強制収容所で言語に絶する虐待が行われているという実例。独裁者本人以外、どのような高官であっても独裁者の命令一つで強制収容所へ家族ごと送られるという恐怖。
北朝鮮では、全ての人民が強制収容所の恐怖を知っています。政府の高官であっても、金正日の意思一つで身分を剥奪されて強制収容所に送られます。

逆説的な話なのですが、戦前の日本は今の北朝鮮より、今の中国よりはるかに民主的な国でした。

大日本帝国憲法
http://www.houko.com/00/01/M22/000.HTM
を良く読んでください。この憲法で、

第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

と書いてあり、一見天皇はその意思で何でも出来そうです。しかし、その後の条文を読んでいくと、天皇の行為は全て「『天皇の名の下に』行われるもの」に過ぎないことが分かります。

そして、明治天皇はもちろん、昭和天皇は「天皇機関説」に徹底して忠実でした。これは、大日本帝国憲法に書いてあることを忠実に実行すればそうならざるを得ない、ということで、近代立憲国家としては当たり前のことです。
そして、昭和天皇は「自分の命令のみで動く秘密警察組織」も「自分の命令を聞かない高官をブチ込む強制収容所」も持っていませんでした。これは、平成の現在の天皇陛下と同じです。違いは、大日本帝国憲法では「一見、天皇が独裁者であると読めなくもない記述になっている」のに対し、日本国憲法では「天皇は日本国の象徴であり、政治権力を持たない」と明記してあることくらいです。天皇の役割は、大日本帝国憲法下でも日本国憲法下でも実質的には同じと考えて下さい。

最終的に、ポツダム宣言の受諾による連合国への降伏は、御前会議における「聖断」で決定しました。

ただ、確か昭和天皇が戦後に述懐したことが何かで記録されていると思いますが、昭和天皇は下記のような趣旨のことを言ったはずです。

「自分がいわゆる『聖断』を行った御前会議で、御前会議出席者が討議しての結論が『戦争継続、本土決戦』でまとまれば、自分はそれを裁可するつもりであった。議論がまとまらず、議長である鈴木貫太郎首相が『聖断を仰ぎ、それに従いたい』と述べたので自分の意見を述べた」

鈴木首相、米内海軍大臣、阿南陸軍大臣は、ひそかに打ち合わせて「陸軍はあくまでも戦争継続を求める」「政府と海軍はポツダム宣言受諾もやむなしと考える」と言った「意見がまとまらない」状態を作り出し、昭和天皇の「聖断」を導いたといわれます。

阿南陸軍大臣は、「聖断」で御前会議の結論が「ポツダム宣言受諾、降伏」となった後、陸軍の幹部を集めて「天皇陛下のご命令で降伏しなければならなくなった」と「天皇の聖断」を「利用して」、本土決戦(日本民族の滅亡)へ向かっていた陸軍諸部隊に急ブレーキをかけ、陸軍を抑えたようです。

阿南惟幾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97% …
「戦時最後の陸軍大臣を務めた阿南は、昭和天皇の聖断が下る最後の瞬間まで当然のごとく戦争継続を主張し続けたが、戦後、当時の阿南の真意をめぐっては、
『当時書記官長であった迫水久常によれば、終戦を望む天皇の真意を悟り、また本土決戦を主張しつつも阿南自身の本心も終戦にあり、極秘裏に鈴木貫太郎首相と協力して終戦計画を遂行したと言う。ただし表向きは、天皇が最も恐れた「終戦に反発する陸軍の暴発」と、「倒閣」を阻止するため、強硬な言動により主戦論を装い戦争継続を主張し続けたと迫水は推測している(いわゆる腹芸説。もし阿南が終戦を唱えていれば、阿南は陸軍に暗殺され、補充大臣が出ず鈴木内閣は総辞職し、終戦は実現しなかっただろう、との分析)。』

これが、終戦直前の阿南陸軍大臣の行動に対する定説と言えます。阿南陸軍大臣は8月14日の夜に自決しましたが、御前会議の席上で戦争継続を巡って激しく争った米内海軍大臣は、阿南陸相の自決を聞いて深く弔意を表したといいます。

陸軍の大方に異議を唱えさせない「聖断」を、天皇機関説を忠実に守る昭和天皇から引き出すには、「御前会議でどうしても意見がまとまらない」という「大芝居」が必要だった、という皮肉な話です。

なお「大元帥たる天皇陛下の聖断でポツダム宣言受諾が決定した」にもかかわらず「天皇の周辺の者が勝手に天皇陛下に『聖断』を出させた」として、ポツダム宣言受諾、降伏を阻止する、あるいは戦闘を継続しようとする動きがいくつもありました。「聖断」があり、政府・陸軍・海軍の上層部が全て「ポツダム宣言受諾」で固まってもこれですから、質問者さんが言われるような「ミッドウェー海戦後、天皇の命令で停戦交渉開始」が不可能であったことが想像できるでしょう。

陸軍省と近衛師団の一部の将校が、近衛師団長を殺害してニセの近衛師団長命令で兵を動かし、宮中に侵入して、昭和天皇の「玉音放送」のレコードを奪おうとした事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E% …

厚木に基地を持ち、首都圏の防空を担当していた海軍三〇二航空隊の小園安名司令が、降伏命令を拒否して戦争継続の意思を示し、大騒動を起こした事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%9C%92% …
「1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送後も降伏を認めず、徹底抗戦を訴えたため厚木基地は反乱状態となった。8月16日の米内光政海軍大臣の命による寺岡謹平海軍中将や海軍兵学校で小園の1期後輩でもある高松宮宣仁親王海軍大佐、三航艦参謀長山澄大佐らによる説得があるも、小園の徹底抗戦の意思は硬く、やがて当時罹患していたマラリアにより、8月18日、40℃の発熱となり興奮状態が続いた。8月20日に小園は航空隊軍医長の少佐により鎮静剤を打たれ革手錠のうえ野比海軍病院(現独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センター)の精神科へ強制収容される。8月22日には反乱は収束し兵を強制退去させた。8月23日厚木基地に山澄大佐率いる大本営厚木連絡委員会がはいった。」

なお、他の方も言及されていますが、ミッドウェー海戦の結果については、国民への大本営発表と同様、軍令部総長から天皇への報告も「ウソ」でした。ちなみに、東条英機首相への報告も同じく「ウソ」でした。内容は「アメリカの空母を2隻撃沈。日本の空母を1隻喪失、1隻大破」というものです。実際は「アメリカの空母を1隻撃沈。日本の空母を4隻、重巡洋艦を1隻喪失」です。

ミッドウェー海戦は昭和17年6月に生じました。その後の昭和17年7月に海軍の艦隊編成が大きく変わったのですが、その際に軍令部総長から昭和天皇に上奏されて裁可を受けた「第三艦隊編成表」には「付属:赤城、飛龍」と書いてありました。言うまでもなく、この時点で赤城と飛龍はミッドウェー沖の海底に沈んでおります。

この「付属:赤城、飛龍」という記載は、ミッドウェー海戦の結果を「アメリカの空母を2隻撃沈。日本の空母を1隻喪失、1隻大破」と天皇に対して偽装したことを糊塗するためのものです。両艦が「ミッドウェー海戦で蒙った被害を修理中で、いずれは前線に復帰する」と偽装しているわけです。

ただ、天皇も「付属:赤城、飛龍」に関する続報が全くないことから、どこかの段階で海軍の偽装工作に気づき、戦況を奏上する軍令部総長を問い詰め「実はミッドウェーで沈んでおります」と真相を聞いたと思われますが。その辺については記録が残っていないので永遠に不明です。
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