ここから質問投稿すると、最大4000ポイント当たる!!!! >>

こんにちは、今中国に設置されていた租界について興味があるので調べています。
租界について調べている内に疑問に思った事があるんですが、
欧米列強の租界が中国に与えた影響は分かり易いですが(建築や欧米の文化そのもの)
日本租界が中国に与えた影響はいまいちよく分かりません。
日本租界は中国に対してどのような影響を与えたのですか?
一応自分でも確認したいので書籍とかホームページなども教えていただけると助かります。
では回答宜しくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

この本がわかりやすいでしょうか?


中国における日本租界―重慶・漢口・杭州・上海 (神奈川大学人文学研究叢書) (単行本)
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81 …

こちらもご覧ください。
http://www.fsinet.or.jp/~kyouko-h/chinacave/shan …
http://4travel.jp/traveler/iskandal/album/101336 …

参考URL:http://item.rakuten.co.jp/book/4013134/
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2008/09/06 18:33

租界ではないのですが、満洲国についても調べてみては如何でしょうか?



戦後ソ連の収奪にも会いましたが、当時の中国では最も工業が発達した地域となりました。また、建国大学が設置され、満洲国全体では実現したとはいえない民族平等の思想が実施され、戦後の中国共産党もそれなりに評価していたそうです。
また、満洲国や植民地などに関する資料は、国内の各地にありますが、外交史料館やアジア経済研究所の図書館に比較的多くあるはずです。

さらに、上海にも東亜同文書院という大学に相当する教育機関がありました。戦後は、その教員が今の愛知大学に移っています。関連する団体として東亜同文書院があり、こちらは霞山会がその精神を受け継ぐものとして現在も存在しています。
これらの大学や団体の資料からも、参考になるものがあるかもしれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
一度調べてみようと思います。

お礼日時:2008/09/13 18:16

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qナポレオン ロシア遠征

ナポレオンによるロシア遠征が失敗した大きな理由は何か

Aベストアンサー

そのテーマは、聞くのは簡単ですが、答えるのは以外と難しい問題です。
というのも、いろいろな観点があるからです。
もちろん単純に兵站面に失敗の原因を見るのは簡単なのですが、
それは逆に言えば、最初から分かっていたことであって、
ナポレオンはそうなることを予期していたし、カール12世の失敗をよく研究していました。
しかしそれでも彼が試みて失敗したのは、全く別の観点から彼が
戦役を考えていたということであって、また彼が考慮せざる得なかった
複雑な経緯と情勢があったということを理解しないと、
どうして失敗したのかという本当の理由を知ることはできないのです。

ナポレオンが兵站や補給を重視しなかったというのは間違いで、
逆にナポレオンはこの時代のどの将軍、どの政治家よりも兵站の重要性を認識し
その準備に可能な限りの万全を期そうとしました。
しかし戦術的観点から、輜重隊のスピードに捕らわれて戦うことはできなかったし、
物資を広範囲に分配することは、この時代のインフラと輸送手段では不可能だったわけで、
無補給下で軍を機動させるというリスクは、勝利のためには必要だったのです。
だからもうこの時代の装備では(というか第二次世界大戦当時でも無理だったわけで)
ロシアを短期間で制圧することは不可能であったというのが
兵站面からの結論といえるのですが、ナポレオンは実は全く別の計画を持っていました。

そもそもナポレオンは、短期間でロシアを征服することが不可能であると
開戦前から理解していて、複数年に及ぶ戦役を計画していたのです。
だからこそこの戦役当初、「第二次ポーランド戦役が始まった」と称したわけです。
彼はロシアの野戦軍の撃滅を試みつつも、初年度は旧ポーランド・リトアニア領を占領するにとどめ、
ロシアの西と南の主要穀物生産拠点を占領して、ポーランド人の解放というなで
分離させようと考えていたようです。これは彼と側近が交わした幾つかの会話記録でわかります。
ただ、問題は国際情勢がそれを許さなかったことで、特にスペインでの半島戦争での劣勢が
ヨーロッパの東西の端で戦争を維持するという危険から、
戦争の早期終結の必要性をナポレオンに迫ったのです。
サマランカ会戦でのマルモン元帥の大敗で、半島が同盟軍の手に落ちることが
確実になり、スペインはフランスの隣国であり、ここの陥落は本国に敵が迫ることを意味していて、
ナポレオンは散々躊躇しまいたが、
スモレンスクからさらに前進して、モスクワ前面で待つであろうクトゥーゾフ軍と
決戦を交えようと考えるにいたるわけです。
最初の計画では、一年目はスモレンスクよりも東に行く予定はなく、
リガなど沿岸部の都市の攻略を待ちながら、冬営するつもりだったのが、
結局のところは急遽変更ということになったのです。

さて、いかにして戦争を終結させるか、ということなんですが、
クラウゼヴィッツが言っているように、戦争の終結は政治的に続行不可能になった場合に起こるということであって、
ナポレオンもロシアのツアーリが戦争継続を諦めるような状況を作り出すという
観点から行動することになります。
クラウゼヴィッツも同意するところですが、ナポレオンの戦略目標は、
野戦軍の撃滅、もしくは、首都モスクワに占領しつつさらにロシアに脅威なりうる兵力を保持するというものでした。
これについて詳しく説明しませんが、これが合理的にアレクサンドルが講和に応じざる得ない状況というものです。
で、結果論でいうと、ボロディノ会戦において、ナポレオンは野戦軍の撃滅に失敗し、
かつ塹壕での砲撃戦となった当会戦で大きな損失を出したことから、
兵力を減じ、アレクサンドルに講和を強要するに至らず、
冬の到来とモスクワの大火、破壊工作によって冬営も不可能となったことから
大敗走となるわけです。

ナポレオンがロシア遠征に失敗した本当の理由は両面作戦、
スペインで戦争をしていたということが大きいです。
そもそもロシア遠征と半島戦争の原因が、大陸封鎖令の徹底ということで、
因縁めいているけれども、これだけの大計画にもかかわらず、
細部がつめられていなかったのは、ナポレオンにしては珍しい感じですが、
突然の計画変更や、情勢の変化はナポレオンの足を引っ張りました。
逆に言えばこれだけの総力戦に近いような大規模動員・大量物量の作戦を
一人の人間の脳みそで処理するには大きすぎたといえるかもしれません。
しかし紙とペンと伝言ゲームだけで、全てを準備して、60万余の大軍を動員して
モスクワを占領するに至るのはとてつもないことでした。
ナチの機械化軍団がやれなかったことを、ナポレオンの軍隊は徒歩で達成したわけですからね。

そのテーマは、聞くのは簡単ですが、答えるのは以外と難しい問題です。
というのも、いろいろな観点があるからです。
もちろん単純に兵站面に失敗の原因を見るのは簡単なのですが、
それは逆に言えば、最初から分かっていたことであって、
ナポレオンはそうなることを予期していたし、カール12世の失敗をよく研究していました。
しかしそれでも彼が試みて失敗したのは、全く別の観点から彼が
戦役を考えていたということであって、また彼が考慮せざる得なかった
複雑な経緯と情勢があったということを理...続きを読む


人気Q&Aランキング