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「前世」があると考えている方、あるいは、あるかないかは別として、「前世」について調べたことのある方にお聞したいことがあります。

ひとことで言うと、「前世」について、もう少し「具体的」に知りたいのですが、以下のことがわかったら教えてください。

(1)「前世」が意味する事は、具体的には、現在我々が住んでいる地球の過去のどこかに「生きていた」ということでしょうか? それとも、現在我々が住んでいる地球とは別の世界(宇宙の他の場所、あるいは、現在我々が存在している宇宙とは別次元の世界)に住んでいたということでしょうか?

(2)「前世」は、どのくらい過去に遡れるものでしょうか? 例えば、我々が現在住んでいる地球に人類が登場したのは、数万年前(?)とすると、それより前の「前世」はなかったと考えられるでしょうか?


よろしくお願いします。

A 回答 (29件中11~20件)

 NO8の補足質問へ回答させていただきます。

(NO4,6,8の回答者です。)

>自分の特技や特性に合わせて分野を選び、それぞれの分野の中で更に上位のレベルを目指すといった感じでしょうか。

はい、まさにおっしゃる感じのとおりです。
なお、補足しますと、学校でも学び終えた後は今度はその人自身が教師役になって後輩を導くことに生きがいを感じるようになるのです。
この指導者としての成長には更に大きな余地があります。
指導者としてどれだけ多くの人々を成長させ、幸福感を味わってもらえたかということの余地は多大なものです。
そして、スポーツ界でよく言われるように、自分が選手として優勝した時よりも弟子の優勝の方が何倍もうれしい、ということになるようです。すばらしいですよね。
また、音楽家が自らの腕を向上させて行くこと自体も喜びですが、それによってより多くの人にもよりすばらしい感動を味わってもらうことができるわけで、こうしたあり方が幸福だというわけです。すばらしいことですよね。

>「中間世」がどのような「世」なのか大変興味があります。「中間世」では、家族というようなものはあるのでしょうか? また、社会や階層と言うものがあるのでしょうか? また、留学先である「現世」を選択するとき、一定程度の認定・許可のようなものが必要ということですが、認定・許可をするのは、誰ですか? 中間世を統治している神とか上級霊魂とかがいるのでしょうか?

中間世は波長・比重に応じて分かれて存在すると、NO8の回答に書きましたが、ここは心だけの世界ですので、心の趣向のままに展開するのです。
この世は3次元ですが、あの世は人霊レベルでは4~9次元までに分かれているとのことです。
5次元は、自分は肉体存在ではなく霊・魂であることがわかっていて、かつ善なる心に目覚めている人達が住んでいる世界です。
4次元にいる人はその辺りの自覚が不充分で、更にその中でも利己主義的な人等は地獄にいます。
家族で住んでいるのはたしか主としてですが5次元辺りまでのことが多いようです。5次元までは生活様式もこの世と似ていることが多いようで、この世と似た社会生活を送っていることが多いようです。ただ、5次元はその社会生活の中で職業等を通じて他者に喜んでもらうことに精神的な喜びを感じるというわけなのです。
しかし家族でも趣向は別々であるように、次第に自分の趣向に合ったあり方へ移行して行くようにもなるようです。
それで6次元は、更に自分の研鑽に励み、より高い見識技能等を身に付け、より一層人の役に立てることを喜びとしているリーダー達がいる世界です。
7次元はそこそこ自己確立ができ、他者への奉仕を自身の喜びとしている人達のいる世界です。天使・菩薩の世界であり、マザーテレサや坂本竜馬等のいらっしゃる世界だそうです。
8次元は神仏の代理が務まる方々のいらっしゃる世界だそうです。聖徳太子等がいらっしゃるそうです。
9次元は地球の責任者の方々がいらっしゃる世界だそうです。イエス様やお釈迦様、孔子といった方々がいらっしゃるそうです。
ちなみに同じ音楽家でもベートーベンは7次元、バッハは8次元だそうです。その心境境地に違いがあるそうです。

次に現世を選択するときは、5~6次元辺りでは、自分の人生計画書をあの世の役所に提出し、あの世の役所で許認可を受ける、という形があるそうです。その際に、前世や前々世での人生があの世のコンピュータに記録されていて、その時々の課題とその後の精進程度も把握されていて、それで今回地上に生まれてこの課題を実際に成功させてみせる、そのためにはこの年齢の時にこういう体験をするのが望ましい、等々計画し、役人からもこの点は大丈夫かとか、色々つき合わせたりして大体の計画が決まり、ではこれでOK、という形に許認可が下りたりするようです。もちろん上位霊からの助言もある場合もあるでしょうが、まあ以上が一例です。
ただ、それ以外も色々あるようではあります。例えば4~5次元辺りの人で、3次元に生まれたくなってフラフラーっと生まれてくるような人もいるようではあるとのことです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>なお、補足しますと、学校でも学び終えた後は今度はその人自身が教師役になって後輩を導くことに生きがいを感じるようになるのです。

後輩の指導に生きがいを感じるようになるのは素晴らしいことですね。ただ、ここで、一つ疑問が出てくるのですが、「後輩の指導をしよう」と思った人は、実際に現世に生まれ出たときには、多くの場合、そのことを忘れてしまうわけですね。もちろん、中には、自分の中間世での決意を覚えているという人もいるかも知れませんが、一般には、ごくわずかですね。そうだとすると、現世に生まれても、自分で定めた使命を思い出せなくて悩んでしまうのが普通ではないでしょうか? なぜ、中間世にいたときの自分の現世での使命とか目的とかを皆が覚えているようになっていないのでしょうか? もし、覚えていられれば、「生きることに、どんな目的があるの?」というようなことで悩む人がいなくなると思うのですが。


>中間世は波長・比重に応じて分かれて存在すると、NO8の回答に書きましたが、ここは心だけの世界ですので、心の趣向のままに展開するのです。

中間世は、心だけの世界だったんですか。それはとても興味深いことです。そもそも心だけの人間関係というのを具体的に想像するのがかなり難しいのですが、身近な例で喩えると、電子メールでの交信みたいな感じでしょうか? お互いに会話するのは、「身振り、表情、声のトーン」などはなく、ただ、純粋言語メッセージが交わされるだけなのでしょうか? ちょっと、いや、かなり、味気ない気がしますが....。そもそも、老若男女も意味を成さないという世界ですか? 若くても老成したメッセージを発すれば、他の人からは、老人だと思われるし、男性でも、女性のような発想(そういうものがあるかどうかわかりませんが)を持てば、他の人からは、女性だと思われるのでしょうか?


>5次元は、自分は肉体存在ではなく霊・魂であることがわかっていて、かつ善なる心に目覚めている人達が住んでいる世界です。
4次元にいる人はその辺りの自覚が不充分で、更にその中でも利己主義的な人等は地獄にいます。

この次元に関する話は、ちょっと難しいです。次元の異なった世界に住んでいる人の間では交流はあるのでしょうか、それとも、没交渉でしょうか? 肉体がなくて「地獄」に住むと、どんな感じがするのでしょうか?
例えば、灼熱地獄に落ちたら、肉体がなくても熱いのでしょうか? 4次元の人たちは善に無自覚で、一部の利己主義的な人たちは地獄にいるとすると、4次元より次元の低い3次元に住む我々は、全員が地獄に住んでいるという意味でしょうか。すなわち、この現世がイコール地獄という見方でしょうか? 「地獄」の具体的なイメージが今ひとつよくわかりません。もう少し具体的な地獄のイメージをご存知でしたら、教えてください。

補足日時:2008/09/19 21:45
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前世に関しては諸説(あくまで仮説として)あります。


輪廻する主体?物?が何か、と云う事も諸説あります。
守護霊(先祖霊といわれるものとは別の存在)なる存在があるとして、それは三次元世界の全宇宙の全生命体と同数以上存在(この数も諸説あり)し、その存在によって生命が誕生する。前世とはその守護霊なるものの前回担当していた生命体の記憶が守護霊より流れ込んで来た事によって起きる錯覚、という説まで。

まあ こういう世界の事は 信じたい説があれば ご自由にどうぞ!って事になりますね。
信仰ってやつですね。
私は守護霊の記憶ってのがお気に入りです。
お気に入りが無ければ 『私は前世等存在しないと思う』っていう信仰です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

前世の記憶は自分が保持しているのではなく、自分の守護霊が保持しているということは、私に前世の記憶がないのは、私の守護霊が職場放棄してどこかに遊びに行っちゃったということでしょうか? この世には、そういう守護霊が多いっていうことですね。

お礼日時:2008/09/19 21:52

No.9です。


>誰から見ても素晴らしい人というのは、難しい気がするのです。

今の現世では何に価値を置くのかとか、何を素晴らしいと呼ぶのかとかいったことには多様な考えがあり、混沌としていますよね。それが今の現世を生き難い世界にしているという事でもあると思うんです。その中で揉まれて切磋琢磨することこそ向上につながるんだろうと思います。つまりこの事は現代に生まれた人間達の課題の一つでもあるんでしょう。

しかし、私達の本来の住処である霊界の価値基準は一つです。それは利他的精神です。利他的精神が強いほど素晴らしいという事です。逆に利己的精神は恥ずかしいです。幽世(かくりよ。あなたの言う中間世の総称)では自分の思ったことが周りの霊に全部筒抜けです。筒抜けになった利己的精神が恥ずかしくて、何としても向上したいと思うものです。利己的に思惟する部分は「弱い部分」「劣った部分」という事になります。
利己的精神は濁りです。
利他的精神は光です。
高次の霊になればなるほど光り輝いています。大霊(天照大神とか、神霊とか言われるもの。霊言を残した霊が感識出来る限界の高次の霊)は最も輝いています。霊界の全ての霊はその光に浴し、自分もより強い光を目指します。

現世生活を霊的に評価するなら、善の動機、利他的動機であるかが根拠となります。やったこと、結果、みてくれなど現世で評価される事はまるで関係ありません。結果や現世利益がどうだろうと、その行為に他者を思いやる真心があるかどうかだけが、霊界では評価されるのです。
もちろん現世では人の心が読めないのでそんな評価は不可能です(それが出来たら霊界と変らなくなって意味なくなります)。でも読心が自在な霊界ではそこしか評価しません。評価は自分でするものですが、誰が評価しても同じです。

>中間世でも、「人間関係や社会関係」があるのでしょうか? 例えば、「類魂の中で次の人生をどんなプランにするか話し合われる」という表現だけみると、個人的な内的対話が中心で、他者の介入が希薄なような気がするのですが、中間世においても、中間世の住人間で、様々な対立関係、競争関係、愛情関係、協力関係、上下関係、家族関係、組織内部関係などはあるのでしょうか?

霊の段階には2種類あります。霊の根本的レベルの問題と、現世の気分を捨て去る(現世の垢取り)の段階があります。
根本的レベルの方は、霊界の中で霊の上下があるという事です。先ほども申し上げた、光り具合いの問題で上下が決まります。そこでは利他的精神が喜びで、利己的精神が恥ずかしいので愛情関係しかありません。相手を思いやる部分しか表現し合おうとしません。弱い部分はなるべく出さないようにします。
そんな訳で協力も惜しみません。
家族関係は、現世の肉の関係はありません。その代わり自分に近い霊達との親和関係があります。自分に近い程寄り集まっています。親和関係をたどって行くと、結局みんなつながっていたという事になります(広義の類魂)。利他性の向上は他者との親和力を強めることでもあります。
ところで、人生のプラン設計に他者の介入が希薄かどうかですが、はっきりとは分かりませんが、周りの想念がつぶさに読心されること、大霊から流れてくる意識をみんな感じている事など、みんなつながっているので、独断的な判断で決定されるという感じでもないように思います。

現世の垢を落とす段階とは、霊界の他に幽界というシャワー室のような世界があり、現世を他界後、そこで魂は類魂に溶ける前に50年くらい垢を落とします(ただし期間は個人差があります)。幽界も垢の落ち具合で明るさ、階層が分かれています。幽界は現世の感覚が継続した世界で、ここで徐々に徐々に霊界の感覚を取り戻して行きます。完全に垢が抜け切ったら類魂に溶ける事が出来ます。

で、どっちの段階にしろ、霊は自分のレベル以外の世界に行こうとはしません。自分の段階を飛び越えて上の階層に行く事は不可能です。自分より下に行く事は可能ですが、不快なのであまり行きたくありません。

長々と説明してしまい、失礼しました。私に答えられるのはそろそろこんなものです。ではそろそろ失礼致します。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

ご回答を読ませていただいて、改めて、色々感じるところがありました。以下は、新たな質問というよりは、感想とお考えいただければと思います。

一番感じたことは、「前世」についての関心の有りどころです。同じ「前世」についての関心でも、2通りの視点があるように思いました。一つは、「宗教的な視点での」前世(あるいは、中間世)、一つは、「現実存在としての」前世(あるいは、中間世)です。

私の関心は後者です。宗教的な視点に全く関心がないとか、無意味だとか言うことでは全然ないのですが、その前に、何よりも「この現世が実際に存在している」のと全く同じような現実的、客観的なものとして考えるところの「前世(あるいは、中間世)」に興味があります。すなわち、「中間世」では、もし、肉体がないのなら、そこではどうやって他者を具体的に識別するのかとか、どうやってコミュニケーションをするのかとか、食っていくために働かなくても良いのかとか、病気になったり、怪我をしたり、死んだりすることがないのかとか、他人に対する好き嫌いはないのかとか、対人関係に悩まされることはないのかとか、そういう非常に現実的・具体的なことがどうなっているのかに関心があります。

そして、思ったのですが、このように、「現実的存在としての」前世に関心を持っている立場から、様々な疑問を持って質問をすると、「宗教的な視点で」前世を考えている方にとっては、ひどく不謹慎な感じを与えるのではないかということです。それで、ここでは、質問というより、私の個人的感想という形で、感じたことを述べさせていただくことにしました。

たとえば、「利己的精神は濁りです。利他的精神は光です。」ということについてですが、現実的には、人の行為というのは、単純に、利己的だとか、利他的だとか言い得ないのではないかと思いました。よっぽど極端な場合は別として、日常の多くの行為は、ある意味利己的ですが、ある意味利他的というのが通常のあり様ではないかと思いました。また、仮に、利己的行為と利他的行為が分離できたとしても、「自分を完全に犠牲にして、ただたただ人のために尽くす」ということが、本当に美しいことなのかどうか、大いに疑問があります。と言うのは、人間は元々、そのようには出来ていないように思うからです。人間は、先ずは、自分のことを考え、あまり自分のことばかり考えていると社会的に立ち行かなくなるので、だんだん、利他的な視点も考慮に入れて行動するようになるし、たとえ、利他的な行動をとるようになったとしても、そのときに、自分を完全に犠牲にするのではなく、自分も一定程度満足した上で、同時に、他者も幸福になれるよう努力するというのが、極自然な人間のあり様なのではないかと思います。だから、もし、「中間世」が、「利己を徹底的に廃し、利他に徹するのが立派なことだ」という唯一つの価値観に支配されているとすると、そこは、私にとってはすごく生き難い世界のように思います。

また、「家族関係は、現世の肉の関係はありません。その代わり自分に近い霊達との親和関係があります。」ということについてですが、この前提として、あの世(中間世)は、肉体がない霊だけの世界だということがあるように思うのですが、そうだとすると、とても疑問に思うのは、「病老死」などが存在しない世界ということになるのではないかと思うのです。そうすると、当然、善悪の定義が、この現世とは、全く変わってしまうと思います。例えば、人を殺すことは良くないと言っても、肉体がないと殺すこともできないわけですし、人の物を盗んではいけないと言っても、盗むものもないということになってしまいます。そういう世界に住んでいながら、敢えて、肉体や物がある現世に生まれて、本来のあの世とは異なったルールが支配する現世で、その現世でのみ通用する善悪観を元に行動しても、どういう意味があるのか、あまりよくわかりません。一つ、よくわかる説明があるとすると、それは、この現世は「ゲーム」なんだという見方です。これなら、よく説明が付きます。でも、宗教的な視点では、このような考えは不謹慎ということになるのではないかと思うので、よくわからなくなります。

補足日時:2008/09/21 11:51
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 NO11です。

補足質問へ回答させていただきます。

>なぜ、中間世にいたときの自分の現世での使命とか目的とかを皆が覚えているようになっていないのでしょうか?

それは逆にそれこそこの世に出てくるからこその楽しみでありますし、また決意が本物かどうかを試し確認するためでもあります。
例えばテストやクイズで回答が先にわかったまま問題に向かっても何のやりがいも感じないでしょう。宝探しも同様です。
記憶として明確には無いけど、深い決意として心に刻んだ志として出てくるものこそ本物であるわけで、記憶が無いからこそ自分の志が本物だったのかきれいごとだったのかわかるわけです。それが次のステップにもつながるのです。
また、自分が実は聖徳太子だったことが最初からわかっていたらプレッシャーになるだけだし、おもしろみもないでしょう。
なお、「後輩の指導をしよう」と思うような優れた魂ほど通常はむしろ志がしっかりしていて、実現する力を持っているものです。ただ、そういう優れた魂は人数としてはやや少なくなるということはありますが。

>そもそも心だけの人間関係というのを具体的に想像するのがかなり難しいのですが…

4~6次元の人は、この世の人間の肉体と同様な姿でいることが多いようです。わかりやすく言うと、「夢」で色々な人に出会うと思いますが、あれと同様です。「夢」を見ている時は、魂が肉体から抜けてあの世に行っている状態であることも多いのです。肉体の姿のイメージを自分が持っていれば、そのような姿になるのです。幽霊もいい例の一つです。肉体はもう無くて魂なのですが、あのような感じで存在することができるのです。
7次元以上になると、人々を救おうとか思って忙しくかけ回っているうちに、ふと気付くと肉体の姿をとっていなくて意識として存在していることに気付くというようなこともあるようです。もちろん肉体の姿をとろうと思えばそのような姿になりますが。

>次元の異なった世界に住んでいる人の間では交流はあるのでしょうか、それとも、没交渉でしょうか ~ 4次元より次元の低い3次元に住む我々は、全員が地獄に住んでいるという意味でしょうか。

東京ドームの中に缶詰がたくさんあるという状況をイメージして下さい。
東京ドームの中がこの世(=3次元)の宇宙・地球であり、その中に肉体(缶詰)に入った魂(缶詰の中の気体)がいるようなものです。
死ぬと缶詰の中の気体が空中に出、ドームも抜け出ます。(幽霊は物質ではないので壁を抜けられるのと同様です。)
あとは気体の比重に応じて層が分かれて存在することになります。
ただ、単なる気体と違って魂には意識がありますので、上の層から下へ行くことはできますが、下から上へは通常行けません。
例えば、私が聖徳太子のように生きようと思っても無理なのと同様です。そんな立派な心境にはなれないからその層へは行けないわけであり、逆に優秀な魂はレベルを落として合わせることはいくらでも可能だということです。
この層を下のレベルから4次元5次元~と言っているわけです。
4次元以上はあの世の霊界世界になります。
3次元だけは特殊で、物質の世界になっていて、それは上述したように東京ドームや缶詰(=3次元物質界)の中に「気体」(霊)を閉じ込めることで、あの世では気体として各層に分かれるしかなかった霊達が自由に出会うことができるというわけです。
4次元以降は東京ドーム(3次元物質界)の外に広がっている霊界だという感じです。
ただ、生きている時は、3次元缶詰の中に気体(4~9次元霊)が入っているという形になります。
そして死ぬと3次元缶詰・ドームから抜け出て、外のあの世(4~9次元世界各階層)へ行く、という感じです。
ただ、これは一つの例えとしての描写ですので、厳密には別の説明もできるのですが、まあ一例描写として説明した次第です。

ですので、3次元は4次元より低いから地獄か、というとそうではなくて、3次元だけは物質界として特殊だということです。霊存在(4~9次元霊)を閉じ込める物質界だというだけのことです。
また、地獄では肉体が無くても熱かったりするか、ということですが、あの世はどこも心情やイメージがそのまま実現する世界ですので、相手に殴られたと思えば痛い感じがしますし、逆に弓矢しか知らない人へ戦闘機から爆弾を落としても、「でっかい鳥がフンを落としてきた」としか認識できないと実際そのようにしか感じられないわけです!また、他者から実は多くを施されていても心が不足不満渇望状態の人は、砂漠の灼熱地獄をさまよい続けるように、その心情そのままの世界で実際に苦しみを味わい続けることになるのです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>例えばテストやクイズで回答が先にわかったまま問題に向かっても何のやりがいも感じないでしょう。宝探しも同様です。

現世が修行の場ではなく、ゲームの場ならよくわかります。「学校」のたとえは非常にわかりやすかったので、その例で考えると、「学校」の進路を決定するとき、例えば、高校を卒業して建築家になろうと思って、大学の建築学部を選び、実際、大学に入ったら、自分が建築をやりたいと思っていたことを忘れてしまったなどという話になったら、進路を選んだ意味がなくなるように思います。

>肉体はもう無くて魂なのですが、あのような感じで存在することができるのです。

肉体がない魂だけの世界では、病・老・死もなくなるのではないかと思います。そうだとすると、人を殺したり、人のものを盗んだり、飢え死にしたりすることもなくなると思います。そうすると、現世の道徳観(人を殺すな、人の物を盗むな、自分のパンを貧しい人に与えようなど)は、意味をなくしてしまいます。そうなると、魂しかない本来の世界から見ると、現世のルールは余りにも非実際的で、そこで、敢えて苦労する意味は、「ゲーム感覚」な楽しみしかなくなってしまうのではないでしょうか。それならそれでも理屈は通りますが。

>東京ドームの中に缶詰がたくさんあるという状況をイメージして下さい。

この喩えは、すっごくわかりやすかったです!!
特に初め疑問に思っていた「比重」の意味がすっきりとわかりました。

>あの世はどこも心情やイメージがそのまま実現する世界ですので、相手に殴られたと思えば痛い感じがしますし、逆に弓矢しか知らない人へ戦闘機から爆弾を落としても、「でっかい鳥がフンを落としてきた」としか認識できないと実際そのようにしか感じられないわけです!

イメージがそのまま実現する世界というのは、ちょっと、想像が難しいのですが、「客観的現実」というものがなくなってしまうのではないでしょうか? Aさんに取って「殴り掛ける」イメージは、殴られるBさんとっては「愛情を持って抱きつかれる」というイメージで捉えることにもなりかねないのではないでしょうか?

補足日時:2008/09/21 12:15
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>私の守護霊が職場放棄してどこかに遊びに行っちゃったということでしょうか?



そこでまた 数種類の設定が発生する訳ですよね
放棄しているのか? 守護霊が甘いから記憶を抜かれるのか? 睡眠時何らかの守護霊との交流があり、前回を見せてもらっているのだけど、目覚めたら忘れてしまっているのか?
もう無限に作れます。
否定派の前世に対する矛盾点も、幾らでも新しい設定でひっくり返せます。簡単な事なんですね。
あ、因に私は睡眠時の交流を支持しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/21 12:16

#10です


ご丁寧なお礼感謝します。

ところで
==この疑問の背後には、「人間の記憶は全て物質である脳の中にあって、それ以外の場所にはあり得ない」という「信念」があると思います==
勿論有ります、と言うか人間の理路整然とした記憶が物質が一切存在しない無の空間にも記録保存される筈だと言う理由がわかりません。記憶とは記録だと思いますし記録とは状態の変化を持続させる事だと思いますので物質の存在は絶対条件と考えます。真空中にさえ人間の人格、記憶が保持されると言う考えはイメージが全く沸きません。

==記憶のメカニズムは、科学的には、まだ、ほとんどわかっていないと思います==
そうかも知れませんが脳細胞間のシナプスの信号授受で記憶や思考が行われている事は証明されていると思いますが。

==「物質の性質」に関する記憶は、どこにも記憶場所などなくても、間違いなく、働いているという事実があるので、「記憶」があるためには、「物質」がなければならないという話は絶対的なものではないのではないかと思います==
たとえば電子Aと電子Bの性質に差が有るならそのような事も言えると思います。ABの電子はその構造に全く差は無く、他の条件も全く同じなのに異なる振る舞いを示すならそのような事も言えますが実際は無いと思います。
酸素原子と水素原子は外部エネルギーで簡単にくっ付きますがこれは原子の構造に起因する事は明らかで、まして酸素や水素と言う実体が無ければ【くっ付く性質】も存在しないと思います。仮にこれらの原子から電子を一個ずつ除いた場合全く違った性質を持ちますがそれは電子を今の状態にする事つまり物体を変化させることで【くっ付く性質】と言う記憶を持たせたのだと考えられませんか。
情報を記憶するのに物質が全く無くても可能だと言うお考えはあまりにも難しすぎて全く理解できませんです。ひとつ位そのような実例がありますか?

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>真空中にさえ人間の人格、記憶が保持されると言う考えはイメージが全く沸きません。
>情報を記憶するのに物質が全く無くても可能だと言うお考えはあまりにも難しすぎて全く理解できませんです。ひとつ位そのような実例がありますか?


ひとつの具体例として、信号機の赤、青、橙色を見たとします。
我々の意識は、赤を「赤い色」と感じます。青を「青い色」と感じます。
しかし、物質現象としては、信号機の赤は、例えば、650ナノメートルの電磁波を発信しているだけで、「赤い色」を発信しているわけではありません(電磁波そのものに色は付いていません)。青、橙も同様です。では、その「赤い色」や「青い色」はどこに存在しているのでしょうか? 少なくとも、物質界に存在しているわけでないことは確かです。「赤い色」や「青い色」は心の中にしかありません。まず、このように、物質界には存在していないけれど、心の中には間違いなく存在しているというものがあるという「事実」があります。

また、我々は見ているこの世界は、全て、我々の記憶の中(脳内)にある世界であって、記憶の外にあるものを直接見ているのではないという「事実」があります(「赤い色」などは例外です。その説明は以下)。

なぜかというと、我々はこの世界を見るときは、我々の心は、念力でこの世界を直接見ているわけではない。そうではなく、目を通して見ている。さらに、目を通して見ているだけではなく、視神経や脳の視覚像を処理する細胞を通して見ている。すなわち、何らかの形で脳細胞内で物質状態に変換されたものからこの世界のイメージを再構成している。すなわち、脳細胞に記録されたものから再構成されたイメージを見ている。従って、これは、我々の記憶の中(脳内)にある世界を見ているということになります。

ところが、この脳細胞に記憶されている情報に中には、「赤い色」という情報は記憶されていない。何故なら、650ナノメータの光が網膜に当たったとき、「650ナノメーターに感応する網膜の細胞が刺激されたという事実だけが情報として脳内に伝達されるからです。それを脳細胞で記憶しているだけだからです。脳細胞が記憶できるのは「650ナノメーター」という情報だけであって、それが、「赤い色」だという情報は記憶できません。要するに「650ナノメータ=赤い色」という対応関係は、脳の中のどこを探しても記録せれていないのです。その関係は、少なくとも、現在知られている物質界の中には記憶されていない情報です。にもかかわらず、我々は「赤い色」を記憶できます。すなわち、物質はなくても記憶はできるということです。

と私は思います。どこかおかしいところがあったら、ご指摘ください。


>そうかも知れませんが脳細胞間のシナプスの信号授受で記憶や思考が行われている事は証明されていると思いますが。

大雑把に言えば、おっしゃる通りかもしれません。でも、その大雑把さは、コンピュータは、「記憶装置と演算装置からできている」と言うのと同じレベルでの大雑把さだと思います。例えば、「今日は疲れたのでビールを一杯飲んでから帰ろう」と思いつつ、泡のあふれるジョッキや焼き鳥のイメージを心に浮かべているときの脳内活動が実際どうなっているのか、さらには、それがどのように脳内に記憶されるのか、その具体的なことは全くわかっていないと思います。

>たとえば電子Aと電子Bの性質に差が有るならそのような事も言えると思います。

この電子に関する説明は、おっしゃりたいことがあまりよくわかりませんでした。そのため、以下の説明は、とんちんかんかも知れません。

私が言いたかったのは、物質界には、様々な自然法則があるということ。しかし、その自然法則自体を記憶している媒体はどこにもないということです。例えば、「上田さんが怒りっぽい人で良く人と喧嘩する」という性質は、上田さんの身体や脳(などの物質的なもの)の中にその記憶(原因)があると一般には考えるのだと思います(私は必ずしも、物質的なものだけとは思いませんが)。そのように考えた場合、では、何故、それが可能なのかというと、上田さんが、単一物質ではなく、何らかのシステム(多くの部品、すなわち、脳、神経系統などがあり、それが、有機的に繋がっている)であるためだと考えられているのだと思います。同じ発想を、例えば、電子に適応した場合、電子が持つシュレーディンガ方程式に基づた行動をとるという性質は、電子が多くの部品の有機的統合体としてシステム化されていないと実現できないということになります。ところが、現実には、電子は素粒子であり、それ以上分割可能な部分を持ちません。

というような感じです。

よろしくお願いします。

補足日時:2008/09/21 13:19
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質問と直接関係ないですが。


アカシックレコード、という言葉があります。
といっても、現在科学的説明もないみたいですし、ややスピリチュアルよりの考えですが。
これも空間が記憶する、という考えですが、前世や、死後の世界があるなら、そう仮定するなら、あることを前提に考えるなら、それを論理的に説明するために、この考えは悪いものではない、と思います。
記憶ー特に人格の記憶や、意味付け、記憶に伴って感じられるクオリアなど、不明なものも多いですし。まだまだ追求が進めばなにがでてくるかわかりませんし、それが、空間記憶の存在を導く可能性が0というわけでもないですし。
現在観測にもかからず、確実な論証もないのですが。
個人的には嫌いでない考えなんです。
前世については、あるいは死後の世界もですが、あるといいなー、でも証拠もないのに信じるのは、ある種の依存心になるしなーと、思ってます。

もう知っておられたらごめんなさい。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB% …

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

アカシック・レコードという考えは面白いですよね。

これが、現在の科学で説明できないとかできるとかの話については、できないに決まっているので、それは、横に置いておいて、私の一番の関心事は、まずは、アカシック・レコードというものが論理的な可能かどうかということです。

例えば、「記憶」というのは、まず、第一段階としては、「誰かの記憶」ということになります。ところが、「誰かの記憶」というのは、一般に、かなりいい加減です。そのようないい加減な「誰かの記憶」を全部集めても、全体として完全な記憶ができるとはとても思えません。

これに対して、「記憶」というものを「誰かの記憶」ではなく、誰にも依存しない「客観的記憶」が可能だと考えるとどうなるのでしょう。その場合、この世界のありとあらゆる事柄をビデオカメラで摂ったものアーカイブに格納するというイメージになりますでしょうか。ところが問題は、「人の心の中の記憶」をどうするかということです。これは、ビデオには撮れません。そうすると、結局、また、個々人のいい加減な記憶を集大成するしかなくなってしまいます。

どうも論理的にはなかなかうまく行かない。何かよい解決策があったら教えてください。

補足日時:2008/09/21 13:39
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#16です


話題がが尽きませんねこういう話は大好きです。
ただoilllioさんの仰りたい事は分からぬでは有りませんが根本の部分で勘違いなさっていませんか?

==「赤い色」や「青い色」は心の中にしかありません。このように、物質界には存在していないけれど、心の中には間違いなく存在しているというものがあるという「事実」があります==
==また、我々は見ているこの世界は、全て、我々の記憶の中(脳内)にある世界であって、記憶の外にあるものを直接見ているのではないという「事実」があります==
==すなわち、脳細胞に記録されたものから再構成されたイメージを見ている。従って、これは、我々の記憶の中(脳内)にある世界を見ているということになります==
その通りだと思います、要するにこれらを認識するには脳という物体は必要不可欠だと言う意味でも有ります。

==にもかかわらず、我々は「赤い色」を記憶できます。すなわち、物質はなくても記憶はできるということです==
ですから脳という物質が記憶しているのです、何もない空間が記憶しているのではないと思います。
==と私は思います。どこかおかしいところがあったら、ご指摘ください==
oilllioさんの仰っている事は電磁波や物質などには記憶を持つ部分は無いのにはっきりとした色とか性質が有るではないか、だから記憶には物質が不可欠とは言えないでしょう、と言う事なのでしょうけれど少し意味が違うような気がします。色や振る舞いを云々出来るのは電磁波や物質が存在するからであってこれが無ければ全て無意味になります。

ただ今回は人格、記憶を問題にしているのでしょう?

まとめると
==私が言いたかったのは、物質界には、様々な自然法則があるということ。しかし、その自然法則自体を記憶している媒体はどこにもないということです==
自然法則を記憶?
自然法則を決定付ける要素と言う意味なら#10で言った酸素や水素の件がそれです。元素の特徴がその後の法則に大きな影響を与えている事は当然だと思いますから自然法則自体を記憶(決定付ける)している媒体とは元素の特徴がそれだと思います。
元素が存在しないのにその性質を云々しても無意味なのと同じで意識を司る脳を無視して意識を語ってもやはり無意味だと思います。

※記憶=記録=変化した状態を保持、ですから変化する主体が存在しないなら全て無意味だと考えます。
まして人格とは記憶、思考、経験などの集大成ですから単に物質が有るだけでは駄目で人間の脳と言う極めて高度な組織が不可欠です。

上の※印の部分をどうお考えですか?

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>ただoilllioさんの仰りたい事は分からぬでは有りませんが根本の部分で勘違いなさっていませんか?

そうですね。この疑問にお答えするには、やはり、もっと根本的な疑問からスタートするしかないように思いました。最初の疑問は、「人間の記憶は全て物質である脳の中にあって、それ以外の場所にはあり得ない」ということに対する疑問でしたが、この疑問の背景には、そもそも、「物質とは何か」という疑問があります。

物質とは何でしょうか?

私は、我々は、「物質そのもの」については何も知ることはできないと思います。と言うのは、我々が物質世界と言われているものを認識するのは、常に、我々の心を通してだからです。「物質そのもの」については、心というスクリーンに映し出された「物質のイメージ」を通して推測するしかないからです。そもそも、「物質のイメージ」以外に、「物質そのもの」などというものが「心の外に」存在しているのかどうかすらわからないと思います。

科学が明らかにしたことは、「物質そのもの」ではなく、あくまで、心に映った「物質のイメージ」の運動が数学的シミュレーション・モデルによって計算した結果の通り動くということです。分子とか原子とか言っているのは、数学的シミュレーション・モデルであって、何らかの実体ではないということです。

と私は考えます。

(注)常識的には、「物質のイメージ」を「物質」と呼んでいるのだと考えれば、特に混乱はないかも知れませんが、この違いを明確にしておかないと、もっと本質的な議論ができなくなってしまいます。


>その通りだと思います、要するにこれらを認識するには脳という物体は必要不可欠だと言う意味でも有ります。

これは、「脳という物体」を「脳という物体のイメージのこと」と考えれば正しいと思います(本当はちょっと不正確ですが)。ただ、「脳という物体」が必要不可欠だとして、それは、記憶(正確には記憶のアクセス)の必要条件ではあっても、十分条件ではないと思います。何故なら、我々が心の中に抱くイメージは、「脳という物体」の中には存在していないからです。例えば、実在しない架空の動物を心にイメージした場合、そのイメージは、心の中にあるのであって、「脳という物体」の中にあるのではないからです。

心の中にイメージを持つことで、「脳という物体」に何らかの変化を与えることは確かだと思います。しかし、それは、イメージそのものの記憶ではないと思います。恐らく、心の中のイメージを呼び出すためのアクセス・タグのようなものではないかと思います(この辺はかなり宛て推量です)。いずれにしても、「脳という物体」がありさえすれば、人の経験を記憶することができるということはないと思います。もし、それができたら、そもそも、「心」などというものが存在する必要がなくなるのではないでしょうか。

例えば、意識をなくした植物人間の脳は、何かを記憶できるでしょうか?


>ですから脳という物質が記憶しているのです、何もない空間が記憶しているのではないと思います。

「物質」というものが、何らかの実体として存在しているのでしょうか? はっきり実体として存在を確認できるのは、「心に映った物質のイメージ」だけではないでしょうか? 「何もない空間」というのは、3次元空間のことかと思いますが、その3次元空間というのも、「心」が生み出したイメージではないでしょうか?

<以下、お礼に続く>

補足日時:2008/09/22 21:23
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この回答へのお礼

>自然法則を記憶?

この件については、前回書かせていただきましたように、ご解答いただいた説明の意味がよく理解できませんでした。その理由は、多分、「自然法則を記憶」ということの、私の説明が拙かったためだと思いますので、あたらめて、説明させていただきます。

「物質そのもの」と「物質のイメージ」の関係は、「コンピュータ本体」と「ディスプレー」の関係に喩えることができると思います。我々は、コンピュータのディスプレー上の画像をマウスで見ながら操作できます。例えば、ディスプレー上で2つの円が接近してきて、ぶつかると、跳ね返ったとします。このとき、我々は、この2つの円のイメージそのものが反発する働きを持っていると考えるでしょうか? 通常はそうは考えないと思います。通常は、この2つの円の動作を定義するプログラムとデータをコンピュータのメモリ上に持っていると考えると思います。もし、このように考えるとすれば、物質としての電子が接近して、やがて、反発した場合も、その電子の動作を定義するプログラムとデータに相当するものがどこかに記憶されていてしかるべきだというのが私の疑問です。

>※記憶=記録=変化した状態を保持、ですから変化する主体が存在しないなら全て無意味だと考えます。
まして人格とは記憶、思考、経験などの集大成ですから単に物質が有るだけでは駄目で人間の脳と言う極めて高度な組織が不可欠です。
上の※印の部分をどうお考えですか?

まず、「人間の脳という物質」については、実際に存在しているのは、「人間の脳という物質」ではなく、「人間の脳という物質のイメージ」だと思いますが、ただ、それは、「物質のイメージ」=「物質」と定義すれば、在る意味同じことになるので、あまり本質的でないかも知れません。しかし、もっと本質的なことは、「心に抱いたイメージ」は、そのままの形で「人間の脳という物質のイメージ」に記憶させることはできないということです。脳は所詮、コンピュータのメモリと同じではないでしょうか。すなわち、1/0情報の体系に過ぎないと思います。

追伸: 我ながら、あまりうまい説明のしかたではないなぁと反省しています。今の段階では、ちょっとこれ以上良い説明が思いつきません。わかりにくいと思いますが、済みません。

お礼日時:2008/09/22 21:30

 NO14の補足質問へ回答させていただきます。

(NO14の回答者です。)

>「学校」の進路を決定するとき、例えば、高校を卒業して建築家になろうと思って、大学の建築学部を選び、実際、大学に入ったら、自分が建築をやりたいと思っていたことを忘れてしまったなどという話になったら、進路を選んだ意味がなくなるように思います。

人間には「頭脳的記憶」だけではなくて、「志的記憶」もありますし「魂の趣向」というものもありまして、これらは本当に備わっているものなら「頭脳的記憶」にあまり関係なく自然と湧き上がってくるのです。逆にいくら「頭脳的記憶」があってもそれが「志」「趣向」として身に付いてなければ、当初は上例でいう「建築学部」を選んだとしてもやる気が無くなって途中でやめたり、また建築家になってもいい加減な仕事ぶりになるでしょうから建ててもらう側にとって好ましくないでしょう。その「振るい」にかけられるという意味で重要な意義もあると言えます。
また、星をとりあえず「学校」として例えましたが、それもあくまで一つの例えですので、「国」と言ってもいいのです。地球上にも様々な政治経済文化趣向の違う国々があるように、星にも同様に色々な趣向の星があるということでもあります。
ですので、人生の意義はおおきく2つあるという言い方もできるのです。
一つは各人が神仏へ向かって成長成熟して行くことに伴う幸福感を味わって行くこと、であり、
もう一つはそういう人々が集い合って、理想社会を築き上げて行くことに伴う幸福感を味わって行くこと、
と言ってもいいでしょう。

>肉体がない魂だけの世界では、病・老・死もなくなるのではないかと思います。そうだとすると、人を殺したり、人のものを盗んだり、飢え死にしたりすることもなくなると思います。そうすると現世の道徳観は意味をなくしてしまいます。そうなると、魂しかない本来の世界から見ると、現世のルールは余りにも非実際的で、そこで、敢えて苦労する意味は、「ゲーム感覚」な楽しみしかなくなってしまうのではないでしょうか。
>イメージがそのまま実現する世界というのは、ちょっと、想像が難しいのですが、「客観的現実」というものがなくなってしまうのではないでしょうか? Aさんに取って「殴り掛ける」イメージは、殴られるBさんとっては「愛情を持って抱きつかれる」というイメージで捉えることにもなりかねないのではないでしょうか?

以上2つをまとめてお答えします。
低次元に行くほど、人間や世界を「物質」としか認識(イメージ)できない人が多くなります。
6次元の人だと自分は肉体ではなくて霊であるという自覚がハッキリしてきますので、あの世で空を飛ぶこともできるのです。
5次元の人は「人間が空を飛べる」とはそもそも思っていないので、飛べないだけです。
4次元で地獄にいる人は、人間は肉体であるとしか思えてない人達ばかりが集まっていたりするので(他のパターンもありますが)、暴力的な人同士が集まるとケンカが始まり、殴ったら殴られた方は「殴られた=痛い」と思うしかないわけで、そう思ったとおりに痛みを感じるわけです。地獄ではそういう「傷つけ苦しみ合う」ことがあったりするわけです。
ですから、この世で、
「人間=肉体+魂で缶詰+気体のようなもので、魂こそが大事です」
「人間はお互いに親切にし合うことが大事です」
ということを知ることは、意義そのものです。

ところで、NO4から回答を続けて来ましたが、
私の方の都合事情が出たため、回答は今回までとさせていただきます。
回答源の一例としましては、NO6を参照していただければと思います。
大事なポイントへのご質問をありがとうございました。
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この回答へのお礼

長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。
大変参考になりました。

お礼日時:2008/09/22 21:37

 NO19の一部を修正します。


 5次元の人は全員空を飛べないというわけではなくて、6次元に比べるとそうなりがち、ということに修正しておきます。
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この回答へのお礼

修正いただき、ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/22 21:38

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