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「前世」があると考えている方、あるいは、あるかないかは別として、「前世」について調べたことのある方にお聞したいことがあります。

ひとことで言うと、「前世」について、もう少し「具体的」に知りたいのですが、以下のことがわかったら教えてください。

(1)「前世」が意味する事は、具体的には、現在我々が住んでいる地球の過去のどこかに「生きていた」ということでしょうか? それとも、現在我々が住んでいる地球とは別の世界(宇宙の他の場所、あるいは、現在我々が存在している宇宙とは別次元の世界)に住んでいたということでしょうか?

(2)「前世」は、どのくらい過去に遡れるものでしょうか? 例えば、我々が現在住んでいる地球に人類が登場したのは、数万年前(?)とすると、それより前の「前世」はなかったと考えられるでしょうか?


よろしくお願いします。

A 回答 (29件中1~10件)

こんばんは。


長い間のやりとりありがとうございました。
僕以外で主観客観に感心のある人と話したのは初めてだったのでとてもうれしかったです。

おおまかにいうと、やはり言われるとおりに、僕は前世や、あるいは来世というより、とにかく現世の分析をしたい(自分の悩み事の解決をする)、という流れなので、もらった質問の内容をみても視点の違いは大きかったんですね。

でもとにかく意見の交換が意味がある、と思いましたし
考えてる間に自分の考えも整理できてほんとによかったです。
2人とも考えが進んだら、またそれらを照らし合わせられたらいいなーと思うんですが。

またこんな機会があればいいんですが。
では失礼します。
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この回答へのお礼

そうですね。また、機会があったら是非よろしくお願いします。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/04 12:43

こんばんは。


お返事がずいぶんつっこんだ物だったので、僕はこれに返事できるくらい考えてたかなーと不安ですが。
でも今回も書いてて考えさせられたし、勉強になりました。

話はあらぬ方向に行ってるみたいですかいいでしょうか?

とりあえず推測だけ書きます。
あと、僕は客観と主観の完全な定義をまだ見つけてないので、不完全なままいろいろいうのは混乱の元なので心配です。そのへん割り引いてください。

では上から一個ずつ



>科学の客観的スタンスというのは、客観世界、すなわち、物質世界が、各人の心の有りようとは独立に存在することを認める立場
これは、僕は聞いたことがないんですが。別に否定や肯定ではなく、これはある種の暗黙の了解であり、明文化はされてないのでは?「人間原理」とか言う言葉もありますし、グレーゾーンではないかと思います。
独立して存在することを「あっているか間違っているかはわからないが前提」とする、なら分かるんですが。細かい話ですけど。



>客観と主観を統合するのに、何故、感覚の論理が必要なのでしょうか
感覚の論理が何かわかっているという前提で書きますと、それは僕が他の手段を思いつかないからです。他に手段があるならすぐにでも飛びつきたいんですが。



>「主観」と「客観」の定義
これは僕の一番のテーマです。
ほんとに最初のころ、頭に浮かんだのが「客観性と主観性の関係について」で、その後ずーっと考えてました。
僕の客観と主観は、「客観感覚」と「主観感覚」という意味です。
で、言われるとおり定義が違うと思うので、僕の考えを。
と言っても定義ではありません。客観と主観の「性質」についての分析です。それをとおして、2つの本質に迫りたい、という方針です。
結論としては、客観と主観は、存在と関係、と言い換えることができる。存在と関係は相補的であり、この世の本質の2面の表れだ、というのが、今のところの結論です。大幅に途中省略しましたが。
この結論が出たので、存在直観と関係直観、という考えが生まれました。
直観=総合判断力、というのが現在の僕の定義です。ほんとうだろうか?



>分析の論理ではなく、統合の、あるいは帰納の論理
具体例としては、本を読んでて、情景描写をして納得がいったことがあると思いますが、その時の感覚です。
統合機能の論理としては、推理小説での探偵の推理があります。明智小五郎や、金田一耕助の推理、推理の論理はまさに帰納法だ、と思うんですが、あまりここはつっこんで考えてませんが、直感的にそう思います。状況証拠、というやつでしょうか? 具体例が足りなくて済みません。
こういう推測能力がないと社会が成り立たないですし。
あるいは、ある時間に、ふと、今からなにしよう?と考えるときの考えは、個人的には帰納の論理だなーと自分で思うんですが。



>、「納得感」の有無に関わらず存在する客観的事実
納得感のない客観的事実は、多分ないと思うんですが。それらはすべて人の脳を経由しているため合意感覚は避けられないと思います。
赤ちゃんとして生まれて初めて外の事物にさわり、毛布の手触りや、目に見える物や、それらの相当統合としての現実を認識し、そういうものだと納得した、そのもっとも基礎的な納得事項が現実だと思います。客観もそういう無意識の合意の上にあると思います。心理学的になりますが。例外としては、量子力学の2重スリットの実験とかが僕はありますが、それはそれで納得できます。


あと、論理についてですが、僕はこれを「論理直観」と呼んでいます。論理的推論における整合性は、それは論理的だと思うときある種の「すっきりした」感じがあります。僕等は、1+1=2であると信じますが、それが正しいと思うのは、経験と内面感覚が合致するところの、直観という名の判断力だと思います。1+1=2であり、3ではない、ということを、僕等は5感の経験を通して正しいと思いますが、なぜ3じゃないのか、という疑問には答えられません。それは総合判断力である直観でそう思うからです。日本で1+1=2なら、アメリカでもノルウェーでもそうだろう、という判断は、直感的だとしか言えないです。論理的に正しい、すっきり!という感覚を、直観と呼んでます。思考と感覚は切っても切れない、といってもいいですし。
直観だ、という理由として、例えば殺人犯に「本気で1+1=3だと思え!!」とか言われても、仮に命がかかってても、1+1=3だとは僕は思えないです。無理です。その深さは単なる思いこみを越えて、ある意味の本質~直観だと感じます。そんなことを本気で信じるのは、ある種の自己否定、といえます。体が死ぬか、心が死ぬか、のレベルの問題なので。

客観的な事実に対しての納得感とは、最大公約数的なところがあります。多くの人の総意でもあるし、また自分の内面と外面感覚と経験、すべてのすべての条件に対して整合性がとれている、と感じるとき、それは客観的だ、とも感じるかもしれません。一つも自己中心的なところが無く、自分にも他人にも当てはまるだろう、というもっとも深い直観の判断です。



>帰納は、経験を元に見出す知見で、演繹は、経験から離れた論理的推論
これも僕は定義が違うんですね。言われてそうだなーと思いました。
これでも正しいと思うんですが、何か曖昧な定義だなーと感じませんか?経験を元に?どういう意味?とか、 経験から離れた、ってなに?とか、経験ってなに?とか、論理的とは?とか、つっこみどころ満載な気がするので、偉そうですがこの定義は使ってません。



>自分の心の内側に関することなので、主観的なことだと思います
これは、こうやって言葉にしてる地点で、あるいはこのHPに来てものを考えたり言葉を使って表現する地点で、基本的には客観的な姿勢を取っている、という意味です。
僕が本当に主観的なとき~~良く雲を見るのが好きでボーッと見るんですが、そう言うときは感動で胸一杯で、考えても居ませんし言葉もしゃべりませんし、そもそも自分すら居ません。自分は雲と一体なので。その時はあとから把握する自分ができたときに、あれは主観的だったなーとは思いますが。
僕は個人的には、この辺りの基本的なところから定義しないと、主観と客観を分離できない、と思います。といってる僕も別に完全に分離した訳じゃありません。

例えば、きれいな花が道ばたに咲いていたとします。花がきれいだなーと思うのは、僕の定義では、主観です。花がある、と思うのは客観です。言い換えると、きれいな花が咲いてる~!、と感じるのは、主観と客観のミックス、といえるかもしれません。



>この存在直観、関係直観については、全くお手上げでした。「物心一如」と何か関係があるのでしょうか?
これは本題と関係ないので、流れで書いたですが済みません。そのーー、関係と存在は、上に書いたように、客観と主観を作り出す原動力なので、物心一如は、物と心、つまり客観感覚と主観感覚の象徴が、物と心なので、関係はあると思うのですが、ただこれは、僕の理屈では、ということです。言葉の定義の問題もありますし、定義が変わればこの話はもちろん間違いですが。



>客観世界とは、心(主観世界)から見て、”あたかも”心の外にあるかのように見える世界
上の雲の話でもありますが、そもそも主観世界では、ある、とか外とか内とか、そういう感覚は全部なしです。自分も存在しないので。なので、僕の気持ちとしては。
こういう言葉は客観性の中での判断ですし、僕は、哲学タイプの人が言うところのこの手の定義には、微妙な間違いがあるなーと感じます。

物心一如とは、このなんにもない主観と、何かがある客観を一人の人間が両方持っているのがおかしいのであって、その分裂が問題だ、という指摘だろうと想像します。

なので、これはやはり論理的に合ってる間違ってるではなく、把握の視点をどこに置くとよりうまく理解できるか、の問題を話してる気がします。
地球を中心に太陽が回ってると考えるべきか、太陽のまわりを地球が回ってると考えるべきか、どちらも正解なのだけど、どちらがよりわかりやすいだろうか、という話見たいかも、と思うんですが。



>主観」と「客観」の意味(定義)をどのように考えておられるかがわかれば
僕等の脳は、一つの現実に対して、常に無数の意味を重ねてレッテルを貼ります。例としては、多義図形があります。エッシャーのだまし絵とかご存じでしょうか?
あるものの「意味」など、こちらの思い方次第で、同じ物に対して意味は無限に付加できます。
主観と客観も同じなので、その定義、というより、それがどんなものか、という総合的把握ができるように、主観や客観と「等価」なものを見つけることに、流れとしてそうなっています。
定義というよりも、自分の実生活の中で、これは主観、これは客観と、朝起きてから寝るまで360度の感覚を2つに分類できないと分かったことにならないと思うからです。そういう総合的理解です。
それで、具体的に上にも書いてますが、
主観=関係直観の作成物=心=総合判断力・・・と続きます。
客観=存在直観の作成物=自分=把握能力=論理能力・・・
おおざっぱですが。この式の=は、同じ、というのではなく、等価、であったり、同じグループであったり、という分類です。
つまり今、この世にある、人が感じ取れる抽象的要素を、分類作業の最中です。



>「客観世界=心の外の世界=物質世界」、「主観世界=心の中の世界」
主観客観のあとに「世界」が付くと、ちょっとここでは書ききれない量です。前にお答えした中のリンクでもいくつか書いてるんですが。
一般論として、この式は正しいともちろん思いますが、でもここで終わってしまうとおもしろくない(笑)、という感じが僕はしますので。というよりこれはこれでもう正解なので、この話だと、もう主観と客観については話が終わってしまいます。


僕は主観世界を「実在と仮定」しています。それは本当にそういう世界があるんです。(と仮定します)。それによって主観世界は観測の対象になり、その構成要素や性質が分かってきます(と思ってます)。方針としてはそういう姿勢です。



2つの定義を、こうこうです、と簡単に言えたらいいのですが、でも哲学の人がずーっと考えてきて長い間、それでも未だに全く答えが出ていないと言うことは、根本的にそういう性質ではない、という推論ができます。分析の論理ではもともと表現できないからこそ解けない問題として存在するのだ、と想像します。
それらは、把握する意識と人格から見ると、何か一つの要素のように感じますが、実際にはその定義には、ある種の~~背理法や、帰納法的な証明でしか、定義できない存在、そういうものがあるように思います。数学でも現実そうですが、心の要素でもそれはありなんじゃないでしょうか? といっても、憶測ですが。

個人的には、背理法や、数学的帰納法や、補集合など、逆を逆を取ることで証明する論理が大好きなので(数学自体は苦手です)、それを使ってます。
あるいは、主観というものの定義を、徳川家康が、豊臣家の潜む大阪城を、外堀内堀、と埋めて滅ぼしたように、
僕も、主観の定義、という本丸を、その外堀から今埋めていってる最中(のつもり)です。



ど、どうでしょうか?
全体を通して、実は僕もよく分かってません。読まれたら分かると思いますが。
自信はないですが、今分かったと思っている範疇の話でした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

ご回答を何度か読ませていただいたのですが、結論としては、sheep67さんのお考えは、私の頭で理解できる範囲を超えている。もし、理解しようと思ったら、多分、何時間も講義を受けないと無理だと感じました。それで、これ以上、質問をするのは諦めました。ただ、「主観・客観」については、私の最も関心のある領域の一つなので、最後に一言感想を述べさせていただきます。


「前世」があるかないかとか、いつどこにあるかとかを問題にするとき、物質と精神の関係を問題にせざるを得ないと私は思っています。そして、現在の大勢の認識は、「先ず、物質ありき。然る後に、生物が誕生し、人類が誕生し、その結果、心や精神が誕生した。」ということだろうと、私は思います。例えば、もし、人類だけに死をもたらすウィルスが発生して、人類が全滅してしまったとしたら、この地球や宇宙はどうなるのか?

人類が全滅しても、この宇宙や地球は、今あるように、そのまま、存在し続ける。青い空、青い海、緑の森、人類以外の多くの動植物、人類が残した廃墟。そういうものが全て、今あるように存続する。と言うのが大勢に認識だろうと思います。

この人類滅亡後にも「確実に存続しているであろうこの物質世界」、これ以上の「客観的世界」というのはないように思います。多くの人々は、このような意味の「客観的世界」の存在を信じていると思います。科学がこれを明示的に認めているかどうかは別として、暗黙の了解があると思います。

これが、私の基本的な認識です。

この視点から考えると、sheep67さんのおっしゃる「主観」「客観」は、今ひとつ、具体的に何を意味しているのか、ぴんと来ないというのが正直なところです。


長いことお付き合いいただきありがとうございました。
考えるヒントをたくさんいただきました。

お礼日時:2008/10/02 08:32

こんばんは。


お返事を見ました、話のかみ合いがおもしろいですねー。
今回一致点が多かったですが、
お返事をなんどか読んでも話が全体としてどう動いてるのかうまく把握できないので、お返事に個々に応える形にしようと思います。


>この「自己」は「心」の働きの一部ではないのでしょうか?

客観と主観の関係をどう把握してるか、の問題になると思います。
客観と主観を統合するというのは、言い換えると、科学の客観的スタンスを離れると言うことです。
じゃーなにを目安に統合的論理を見つけるかというと、僕は感覚の論理、というものを目安にしてます。
普通に言うところの、ことわざ、や、教訓、や、普通に小説での心理描写や、そういうものが成立するのは、それらが、分析論理ではなくても、何らかの論理性に貫かれているからこそ、その文章を読んだ人が理解できると思いますし。僕自身は。
つまり、分析の論理ではなく、統合の、あるいは帰納の論理ですが。
一般に哲学の人が得意とするのは分析演繹の論理ですし、宗教が得意なのは帰納の論理だと思っています。
一つにまとめて、主観の感覚の論理的分析、といってますが、これはもともと、それらの主観の感覚ー感性や直観が、所詮作り物である、という前提で考えてます。心感性直観などは観測できるし、そういう観測の対象になる自己とは違うものは、この世の出来事であり、それは物質の変化に対応してるという前提です。ただ、対応してるからといって、無限の美しさなどが直接説明できるわけではなく、論理で説明できるのは、分析の階層の問題としては、それらの要素が、たの要素とどういう関係があるか、というメカニズムです。
この主観論理は、単純にその話が「納得がいく」「腑に落ちる」「筋が通ってる」という感覚が発生することをもって、正解としています。なぜこういう感覚が正解と思ってるかというと、本来自分もない心もない状態では、そもそもなにもないのがデフォルト既定値であり、すっきりする、という感覚は、引っかかる物があったのが片づいて無くなったときに感じる感覚そのものだと思うからです。片づいてなにもなくなって既定状態に戻ったので、その時の感覚フィーリングを「腑に落ちる、筋が通ってる、すっきりする」と人は表現するのだと思います。すっきりする=なにもなくなる=本来の状態に戻る正しい論理であった、という話です、強引ですが。

蛇足ですが、演繹と帰納、これについては、2つはもともと同じ物、というのは分かってもらえるかと思いますが。
全く物理的に同じ対象について、演繹と帰納が成立するということは、言い換えると、自然界では本来そんな分類はないのに、人の把握能力は、演繹と帰納を同時に感じたり考えたりできない、という脳の機能の限界の問題になります。僕も自分でやってみますが、2つは異質ですし、同時に・・は無理と感じます。というか絶対無理・・・

相対論と量子論だと、帰納と演繹、というと言い過ぎでしょうか、個人的にそう思ってますが、極論ですが、同じこの現実宇宙や時空物質の性質について、ものの見事に2つの違う理論が成立してます。同じものを対象としてるんですが、アプローチが正反対です。2つの違う感性が2つの理論を作るのですが、それは、でも同じものの違う2つの説明とも言えます。言い換えると、人は、演繹と帰納の2つの切り口で同時に物を見ることができないという・・すみません、これはちょっと無茶ですね~~。個人的にそう思ってるという話で。


主観と客観の関係については、本来この2つは統合して働いている物なので、自己は心の働きの一部か、という質問には強く客観性が表れています。
自分が観察できるものは自分ではないーと定義すれば、心は観察できるので自分ではない、といえます。無理矢理ですが。
なので、観察の対象にならない自分に関するものーとなると、何かを全力で信じに行くときの自分ー、これはその時には観察などできませんし、逆に強い自尊心があるときも同じと思います。
全力=強い集中力の状況では、自分と心は一体になるので、自分?は観察の対象にならないと感じます。
もうちょっと具体的にーー心の状態が常にありますし、直観にしても沸くときもあればそうでないときもあります。そういう風に変化する物が自分だと、とてもややこしくなるので、僕はとりあえずそう考えています。確信があるわけでもないですが、これを覆す論理があるわけでもありません。
また、心も直観も自分自身だ、といえばその通りになります。体だって僕の体ですが、それは僕自身だ、という感覚も現実に存在します。それを僕は「一体化」と言ってます。
この一体化の感覚がなければ、真の自分は小さな点でしかないし、逆に一体化の感覚が極限まで働けば、宇宙=自分、とも感じると思います。イメージとしては0と無限大、でしょうか・・。

話を戻して、自己は心の働きによるか、といえば、そういう客観的立場なら当然そうですし、主観的に感じればそれは主観的です。2つの違う性質が同時に成り立っている、という言い方が一番いいのじゃないかと感じるんですが。

これで、心と自分を分ける背景の説明になって・・・いるでしょうか??

等価について~~これは一緒ですね。
>「物質」というものは存在せず、人が「物質」という言葉を使用するようになった段階で、はじめて「物質というもの」が、この世界に生み出されたのだと思います
これも一緒だと思います。僕の知ってる他の具体例としては、アメリカ人には肩こりという言葉も概念もない、とか、ロンドンの霧は、詩人がそれを言葉にするまで存在しなかった、という話を聞いたことがあります。物質の存在、よりはレベル低いですが。言葉に伴う絶対感覚、といってます。
そう思うまでは主観的にはなにもなかった、なにもなかったということはそれを把握する客観もやはり無かった、ということで、そもそも心も自分もなかった、となるかなと思います。
>本来、「物心一如」
本当にそう思います。
付け足しですが、自説になりますが、この本質からの最初の能力の派生、分かれ目のことを、存在直観、関係直観、といっています。存在と関係が相補的なのはわかってもらえると思います。存在直観からは自分や自尊心や哲学や仏教、関係直観からは絆や宗教、ができた、という類推です。心理学でいう内向外向という対(相補性)と同じような物と思っています。ちなみに内向外向は、内向直観外向直観と思ってて、それは直観の種類の一つだと思ってます。
本来相補性、というのは、この物心一如の状態をダイレクトには把握できない脳が、その性質を、各自の性格に対応して、分割して担当することにしているような気がします。存在と関係でも、演繹と帰納でも、あとたくさんの相補的概念がありますが。
存在直観~「我ここにあり」(私はここに存在する)という感覚。
関係直観~「私は神(何か)を愛する」(愛するとは相手との関係なので)という感覚。
人間の性格ー直観に基づく性格は、相補性の分担?の集まりだ、と思ってます。
こんな感じなのですが、どう思われるでしょうか?



>言いたかったことは、「今現在は分かっていないし、不明だ」という所で足踏みをするのではなく、あらたな仮説を立て、その論理に矛盾がないかどうかの検証までは(たとえ実証の段階まで行かなくても)、進めることこそ科学的態度ではないかということです

これはもしかして・・・全く僕と同じかも?? 
全く同意見ですが、言葉は、ぼくは、科学的ではなく、論理的、といっていますが。でも同じですね。心の、感覚の論理を組み立てていく際に、どう考えても実証は無理ですし。仮説を立てる際には「常識なんかぶっ壊せー」という感じでやってます。


>「人間の記憶」は全て主観的なもので、「客観的に知り得る」ものはないのではないでしょうか?

これは、上にも書いてますが、主観と客観は別物、という前提で起こる話かと思います。主観と客観は、分離している限り、いりこ状態を取っています。2つは相補的であり、2つそろって一人前、という感じなので。
つまり、なにを前提に考えるかーー主観と客観が現実にあることを前提とするのと、2つは相補的な分裂で本来無い、という立場では、大きく変わるような気がします。
あと、前から思ってたんですが、客観的に観測されて知っていることと、それを感じて知っていることとの混同がある気がするんですが・・
2つは相補的であり、2つそろって初めてそれは「現実」と呼べると思ってます。
人間の記憶は主観的~~そう思います。
客観的に知り得る物はない~~これは、自分がその記憶を思い出せば、自分という主体が記憶の存在を客観的に知ったことにならないのでしょうか?
記憶が存在することは客観的にわかっても、その記憶を味わう、というか、その、「知り得る」という言葉が微妙なのではっきり言えないんですが、感覚的に理解するー記憶の情景だけでなく、その景色にまつわるフィーリングや深い味わいやら、を理解するのはあくまで主観的な物、という意味でしょうか?
ちょっと、意味を計りかねるので。あるいは混乱してるのは僕の方かもしれませんが。
そういう意味ならたしかに記憶は主観的ですが、ただそれに特別の意味はないと思います。つまり、本質的ではないというか、
客観は、科学的、という意味ではないですし、思考や把握、という意味にも思っていません。客観性、とは、現実に根ざすある種の感覚、フィーリングだと思ってます。違うかな~~? ん~~。少なくとも「現実感覚、リアリティー感覚」の構成要素であることはたしかと思ってますが。
把握能力、というより、自分がいる、とか、ある感覚を今感じた、ということなのなら、自分が分裂してる限り、どんな物も主観と客観によってできてるんじゃないかと想像しますし、そもそもそれは2次的な現象なので、僕は全体の構造の中で、それらを把握できるようになりたいなーと思ってます。
上に書いたのと同じことが言えると思うのですが、
自己は心の働きによるか、といえば、そういう客観的立場なら当然そうですし、主観的に感じればそれは主観的です。2つの違う性質が同時に成り立っている、と、こう言えないでしょうか? ん~~まだ僕もわかりきったわけじゃないのですが、多分、ということで。



あと付け足しで、この世は非存在だ、というのはどういうことかとなると、この世は物質も心も、すべてはそういう状態であり、存在ではないということです。(これは存在という言葉の定義の問題とも言えますが、平家物語で言ってるような、諸行無常というのは、今風に言えば、存在ではなく、状態だ、といってもいいのになーと思ってます。)
つまり、腕を上げた状態、というのが存在しますが、それは腕をおろせば消えてしまいます。腕を上げた状態は本質的な存在ではありません。
同じように、心もー心がある、といってもそれは一つの状態で、寝てるときはないですし、体も長い目で見れば消えて無くなりますし、一切の作為、が無いのに存在しているものは、この世にないように思いますし。つまり、力こぶを作ろうと努力してる間だけ力こぶはありますし。


なんかてんこ盛りで、いちおう全部書いたつもりなんですが、どうでしょうか?
あまり論理的な文ではないので~~僕のめいっぱいに近いところの話なので、ご勘弁です。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

今回は、かなり難しくて、あまり良く理解できませんでした。多分、私の理解が表面的なせいだと思います。済みませんが、表面的な理解のまま、補足質問をさせていただきます。かなりとんちんかんな話になっているかもしれませんが。


>客観と主観を統合するというのは、言い換えると、科学の客観的スタンスを離れると言うことです。

私は、「客観世界=心の外の世界=物質世界」、「主観世界=心の中の世界」と考えていますが、それで良いですか? 科学の客観的スタンスというのは、客観世界、すなわち、物質世界が、各人の心の有りようとは独立に存在することを認める立場という意味でいいですか?

>じゃーなにを目安に統合的論理を見つけるかというと、僕は感覚の論理、というものを目安にしてます。

客観と主観を統合するのに、何故、感覚の論理が必要なのでしょうか? 例えば、「地球は存在する」は、感覚を伴わないので客観で、「前世は存在する」は、感覚(??)を伴うから主観だというような意味でしょうか? 多分、私は、sheep67さんの「主観」と「客観」の定義がよくわかっていないのだと思います。

>つまり、分析の論理ではなく、統合の、あるいは帰納の論理ですが。

この後の数行は、何をおっしゃっているのか、ほとんど理解できませんでした。


>この主観論理は、単純にその話が「納得がいく」「腑に落ちる」「筋が通ってる」という感覚が発生することをもって、正解としています。

例えば、「地球は存在する」は「納得がいく」と”感じる”から、主観的に(?)正解だけれど、「前世は存在する」は「納得がいかない」と”感じる”から不正解という意味でしょうか? そうだとすると、「納得感」の有無に関わらず存在する客観的事実や、論理的推論はどのような位置づけになりますか? 全部、不正解でしょうか?

>蛇足ですが、演繹と帰納、これについては、2つはもともと同じ物、というのは分かってもらえるかと思いますが。

帰納は、経験を元に見出す知見で、演繹は、経験から離れた論理的推論により見出す知見と考えていますので、これがもともと同じ物とおっしゃる意味がよくわかりません。

>主観と客観の関係については、本来この2つは統合して働いている物なので、自己は心の働きの一部か、という質問には強く客観性が表れています

「自己は心の働きの一部」と言う表現は、自分の心の内側に関することなので、主観的なことだと思います(物質世界の現象ではないという意味)。「客観性が現れている」というのは、どういう意味でしょうか?


>自分が観察できるものは自分ではないーと定義すれば、心は観察できるので自分ではない、といえます。

ここから後の数行は大変よくわかります。おっしゃる通りだと思います。ただ、「そういう客観的立場なら当然そうですし、主観的に感じればそれは主観的です。」のところは、よくわかりませんでした。多分、「客観」の定義が私と違っているように感じました。どう違っているのかがよくわかりませんが....。

>付け足しですが、自説になりますが、この本質からの最初の能力の派生、分かれ目のことを、存在直観、関係直観、といっています。

この存在直観、関係直観については、全くお手上げでした。「物心一如」と何か関係があるのでしょうか?


>つまり、なにを前提に考えるかーー主観と客観が現実にあることを前提とするのと、2つは相補的な分裂で本来無い、という立場では、大きく変わるような気がします。

「物心一如」の視点で考えると、客観世界とは、心(主観世界)から見て、”あたかも”心の外にあるかのように見える世界のことだと思います。「一如」ではあるけれど、それは、別々のもので”あるかのように”考えることができるということだと思います。


以上、何だか、まとまりのない補足質問になってしまいましたが、結局、sheep67さんが、「主観」と「客観」の意味(定義)をどのように考えておられるかがわかれば、もう少し理解を深めることができそうな気がします。

補足日時:2008/09/30 13:41
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この回答へのお礼

補足の問題点を明確にするため、具体的な論点として、以下の考えについては、どう思われますか?

「客観世界=心の外の世界=物質世界」、「主観世界=心の中の世界」

お礼日時:2008/09/30 13:47

「前世」がある事を知っている者です あると考えているのではありません


現在は誰でも知る事は出来 私の他にも沢山おります ですから自信を持って答えられます
従いまして心は物質か精神か等の議論は必要ありません 私には不毛の議論 無駄な議論をしていると感じます
とは言いましても 現代人の殆どは知らないのですから無理もありませんが
現在の進んだと言われる科学でも掴む事は無理です 各々体験するしか無いのですが詳しい事はこの場では、、、、
でも更に進んだ未来の科学では掴めるようになるでしょう

前世は宇宙の別な何処かにおった訳ではなく 過去の同じ地上の何処かに存在しておったのです
大抵は同じ一族の先祖であったようです
稀に何か縁のある別の一族であったりします 更に稀ですが遠く離れた例えばアフリカであったという例もあります
動物 例えば蛇であったり という例もありますが こういうのはプライバシーの問題があるのか あまり聞こえてきません

前世を知る為にある訳でもありませんので全て報告される訳でもありませんし全ての人の前世が解る訳でもありません 
私の推定ですが 現在では恐らくは百万人位の内 数万人程度でしょう
でもその情報を証明するのは2,3百年も前の事だけに難しいですが中には近年の方の例もあります
この場合は調べ易いですが その為にある訳ではないので殆ど調べる事はありません
本気になって調べれば数%位は それらしい事が確かめられるかも知れません

実例から 前世は2,3百年前が最も多いです その前の2,3百年もある訳で そしてその前も
凡そ2,3百年周期で生まれ変わると言う事です 遠い過去の周期は恐らくもう少し長いのでは と思います
2回前の前世となりますと戦国時代になります
地球外の別な何処かにおった実例はありません 報告はありません 報告されて無いだけかも知れませんが

前世があって今があるのだとなりますと来世があると推定出来ますから誰でも生き方が変わります
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。大変参考になりました。

お礼日時:2008/09/28 13:23

こんばんは~。


今回お返事を読んでちょっと混乱しました。多分僕の書き方が問題あると思います。多分何でもかんでも細かいことまで詰め込もうとしています。以下の文もそんな感じなので、適当にはしょってください。


>記憶は物質がないと不可能だ」に対して、反対なような、賛成なような、態度保留なような...
については、客観的に、他人にはっきりと言える意見としては「態度保留」です。心情的には「反対、多分物質が無くても可能」と予想してます。



>「”痛い”と感じること」そのこと自体が、何故、物質現象と言えるのか、逆にお聞きしたいです。物質が「痛い」と感じることなどあるのでしょうか?
もちろん物が痛いと感じることはないと思います。物とは、つまり脳であり、神経繊維などのことと思いますが。
質問の意味がー僕が正しく解釈してるならいいんですが、
痛い、と感じるのは何か?という問題があります。心を僕等は感じますから、痛いと感じる主体である僕等は、心ではありません。ものでもありません。
心と脳は写像の関係があり、心の反応を脳は記録しますが、だからといって、脳の神経繊維という物質が痛いと感じる、のとは違います。
痛いと感じる主体は何か? というのはまた別の話になります。
つまり、物質が感じるわけはありませんが、でも、心が「痛い」と感じるわけでもありません。
心が発信するある種の感覚を僕が受け取ったときに、痛い、や、うれしい悲しいとなります。

痛い、と感じるのはこの僕等自身ですし、それは心とも物とも別物だと考えます。
脳と心ーー言い換えると、物質ー精神、という一つの「系」が作るものは、どっちにしてもあまり本質ではないので。
僕は、自分の本質が物質だ、などとは思ったことはないですが、でも同時に考えた結論として、僕の本質は心でもない、という結論になっています。(物より心の方が大事だ、とは今でも思ってますが)



>物質である「脳」と非物質である「心」が写像関係ということではないでしょうか? すなわち、心は非物質であり、心の記憶は物質がなくても可能ということにはならないでしょうか?

 写像の関係がある、というのは。写像ですか? んーーー、物理学で言うところの、物質とエネルギーが等価な事実は、物質とエネルギーは写像の関係にある、と表現していいのか悪いのか・・・。もしこれがOKなら、写像だと言えると思いますが・・・言葉が微妙で・・・。ぼくは違和感あります。
単純に関数で結ばれるという数学の概念より、感覚的に明らかに異質である2つが実はより本質の部分で結びついてる、という意味の物理用語である、等価、の方が、フィーリングにあってて好きなんですが・・。
つまり、等価には、この2つのもののさらに基礎に、この2つの異質なものを生み出すより本質的なものがある、というイメージが含まれてるからです。単純な2元論というのではないです。写像にはそういうイメージは全くありませんので。あ、でもここは写像で行きますね。



>心は非物質であり、心の記憶は物質がなくても可能ということにはならないでしょうか?

心は非物質であるというのは、それはそうですね。でも心の記憶は物質が無くても可能だ、というのは、客観性を重視するならー科学のスタンスを肯定するなら、それは「わからない」というのが正確だと思います。
論理性や検証可能かどうかを無視して、直観を優先するなら、僕も、心の記憶は物質が無くても可能だ、と思います。(状況証拠的に直観でそう思うのですが) 
でも、客観性を重んじる人が相手の場合、現実問題、それはそうだ、と人に主張できるものではないと思います。もしこのことで議論するなら、お互い、どちらの土俵で議論するのか、をあらかじめ設定しないと、議論はかみ合わないと思います。科学的客観性に基づいた話をするのか、感覚や直観や心の動きに基づくのかで、全く違うので。
もし客観性に基づいて話すなら、「今現在は分かっていないし、不明だ」というのが冷静な判断ですし、
もし主観的な、感覚や直観に基づくなら、「物質が無くても、心は記憶可能な気がする」と言ってもいいと思いますし。

物質がない→記憶がない。という主張は、対偶を取ると、記憶がある→物質がある、ということになりますが、これは、僕等の観測にかからない記憶や人格が存在するか、僕は、死後の霊の記憶などを想像したのですが、人間は、観測可能なものを全部知り尽くしたかどうか?もう未知のものはないのか? という質問と同じと思います。記憶があるところには必ず物質がある、ということを証明できる人はいませんので。ただこの世で観測され客観的に知り得る限りの記憶はすべて物質に依存して存在している、これも事実ですが。



これだけ書いても、何か話の食い違い感がぬぐえないので
アトランダムに、思いつくことをばらばらに書いたのですが、
以上の中に答えがあるでしょうか? すごく自信がないんですが、いちおう書いてみました。

この回答への補足

今回は、おしゃっていることが大変よくわかりました。ありがとうございました。

>痛い、と感じるのはこの僕等自身ですし、それは心とも物とも別物だと考えます。

このお考えは、私にとっては初めて聞く考えで、大変興味があります。心と物以外に、さらに、「僕等自身」というものがあるという考えですね。「僕等自身」とは、所謂「自己」のことでしょうか? この「自己」は「心」の働きの一部ではないのでしょうか? 「自己」と「心」を別物として分けて考えるに至った背景は何ですか?


>物質とエネルギーは写像の関係にある、と表現していいのか悪いのか・・・。もしこれがOKなら、写像だと言えると思いますが・・・言葉が微妙で・・・。

前回、「主観と客観は等価」と書かれていた「等価」の意味は、「物質とエネルギーは等価」と言う場合の「等価」と同じ意味だったんですね。そうであれば、確かに、これを「写像」と言う言葉で表すのは無理ですね。そのことはよく理解できました。


>つまり、等価には、この2つのもののさらに基礎に、この2つの異質なものを生み出すより本質的なものがある、というイメージが含まれてるからです。単純な2元論というのではないです。

「脳と心は写像関係」ということについて、私自身は、これは単なるモデルとして考えることはできますが、実態としては、「物質と心は唯一つの実体の2つの異なった側面」であると考えております。ですから、sheep67さんの上の考えに近いのではないかと思います。正確に言うと、元々、「物質」というものは存在せず、人が「物質」という言葉を使用するようになった段階で、はじめて「物質というもの」が、この世界に生み出されたのだと思います。「言語」とはそういうものだと思います。昔のヨーロッパには「子ども」という言葉はなかったと聞きます。あったのは、「小型の大人」だけで、従って、「子供服」もなかった。それと同じで、「物質」という「言語」が「物質」を生み出したのだと思います。「物質」と「心」という言葉を作ることで、本来、「物心一如」だったものをあたかも別々のもののように分離してしまったのだと思います。


>もし客観性に基づいて話すなら、「今現在は分かっていないし、不明だ」というのが冷静な判断ですし、
もし主観的な、感覚や直観に基づくなら、「物質が無くても、心は記憶可能な気がする」と言ってもいいと思いますし。

これは、大変よくわかります。

そして、これについての私の考え方は以下の通りです。

「今現在は分かっていないし、不明だ」といのは、全くその通りです。
そして、問題は、「その次の一歩」です。

「科学的態度」というのは、何でしょう?
「わからない」と言って、そこで留まっているのが科学的態度でしょうか? 科学には2つの側面があると思います。

(1)仮説(帰納)
 経験(観察、実験など)を元に、仮説(あるいは理論、あるいは、モデル)を構築する。
 
(2)実証(演繹)
 仮説(理論、モデル)が事実と符合するかどうか、観察や実験を通して検証する。

「科学的事実」として認知されるためには、「仮説」と「実証」の両方が必要です。しかし、未だ、「実証」が出来なくても、「仮説」を立てることは、科学的態度の第一歩だと思います。ただ、「仮説」は、最終的には「実証」されることによって、はじめて、「科学的事実」として認知されます。ただ、「実証」される前の段階の「仮説」であっても、何でもありではなく、「仮説」として成り立つためには、その「仮説自身」の無矛盾性の検証が必要です。この検証を通して初めて「仮説」としての正当性が得られると思います。

話がくどくなりましたが、言いたかったことは、「今現在は分かっていないし、不明だ」という所で足踏みをするのではなく、あらたな仮説を立て、その論理に矛盾がないかどうかの検証までは(たとえ実証の段階まで行かなくても)、進めることこそ科学的態度ではないかということです。

また、現在、「科学的事実」と認められている事柄であっても、それは、永久の「科学的事実」ではなく、「論理的矛盾や、仮説に反する観察/実験事実の発見」が提示されるまでの「仮の事実」であるに過ぎないということです。ですから、「科学的事実」と認められている事柄であっても、その論理的矛盾を追及することは、新しい仮説構築の一歩だと思います。


>ただこの世で観測され客観的に知り得る限りの記憶はすべて物質に依存して存在している、これも事実ですが。

基本的な疑問ですが、人間の記憶に関するもので、「客観的に知り得る限りの記憶」とは例えば、どのような記憶でしょうか? 具体例はありますか? 「人間の記憶」は全て主観的なもので、「客観的に知り得る」ものはないのではないでしょうか?

補足日時:2008/09/26 12:24
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こんばんは。


補足の方になりますが、今回補足要求ではっきりいろいろ書いていただいたので、とても書きやすいです。

でもいろんな話を書かれてるので、その中で
引っかかるところを書きますね。
問題点は大まかに、この問題に対する切り込みかたの違いかなと思います。
>(5)は心の中での反応であり、物質現象ではありません。
この文がまずわかりません。心の中の反応は、その通りですが、だからといって物質現象ではないというのは飛躍があると感じます。心とは何か正体が分かれば、それが物質現象でないと断言できますが・・。

>すなわち、「色」を付けるのは「心」であって、「物質」ではありません。従って、物質に「赤い色」を記録する事は、「原理的」に不可能です
こちらも、上の話と同じで論理的飛躍を感じます。

もうちょっと厳密に書くと、心は物質ーあるいは時空間とリンクしている、と考えています。つまり、心は物質ではありません、もちろんそうですが、でもリンクしてる、と考えます。つまり、心の動きは、物質的な変化を借りて表現できる、とでも言えるかと思います。
脳は、無限の心の働きを、有限の物質でどこまで表現できるか、というとらえ方をしています。なので、絶対とは言わないですが、多分可能と思っています。心の働き→脳の働きにリンク→脳の働きなら原理的に記述可能。ということです。
これだと、心は物質ではないが、論理的表現(帰納的、統合的論理による)が、あるいは不完全でも可能かなと、予測してます。
僕のこの考えは、違う言葉で言うと、主観と客観は等価値である、と自分で言っています。物理の言葉を借りて「等価」という言葉を当てています。
客観と主観、あるいはデジタルとアナログでも、唯心と唯物、宗教と哲学、でもいいですが、とてもとても世間に良くある2項対立、この2つが別のものと認識されるのは、人間の論理思考能力や、把握能力の限界によって起こっている、と感じます。

oilllioさんが頭に浮かべる情報処理体系というと、やはりコンピュータや、ここ数世紀の科学の結実である、デジタル処理のようなものだと思いますが、僕もそれで心が表現できないと思います。アナログも論理であり、デジタルとアナログは互いに補い合う、といイメージは分かってもらえないでしょうか?

>数量や論理値」を「質」に変換することは原理的に不可能ではないでしょうか?
心や感覚がはっきりしていない以上、現在のところ無理だというのは分かりますが、「原理的に」という言葉が使える理由が分からないです。分かっていない以上、確かに言えることは「わからない」と言うことだと思います。
前の回答で言ったのも、あくまで僕の推測です。
多分この原理、というのが、今の西洋的な科学の論理、のことかと思いますが、僕自身は、東洋医学や鍼灸、複雑系や非平衡系やホログラムなどの、今までのただ分析して論理を積み上げるだけでは解析できないものを科学が取り上げつつあるところに希望を感じますし、今は小さな芽でも、将来きっと在来の科学に並び立つ存在になって欲しいなと思います。こういう科学には興味はありませんか?

>何故なら、物質(例えば脳)なくして記憶が保存されるなどということはあり得から。という議論
記憶は、物質ではありません。記憶は、脳の細胞のの配列や、電気回路の流れ方であり(トポロジーなどが好きなので)、ものではなく、形、だと思います。違う言葉では「意味」と言えると思います。物質はその意味の表現のための道具の一つだとは思いますが。でも物質だけが、この手の配列や意味表現の唯一の手段かどうかはまだわからないですし、他の存在がその役割を担う世界があるかもしれません・・・妄想ですが。
こういう議論があること自体、結論を急ぎすぎじゃないか、と思うのです。まだ議論をする土台がないと思われます。科学的には。今の科学は信じられないほど遅れている、あるいはとても偏った成長を遂げてきた、という感想です。

もしかして、心が論理的に表現されてしまうことで、ある種の・・僕も前感じていたのですが、ーーなんというか、ある怖さというか、心の神秘や絶対性や、美しさや、その他もろもろの素敵さが消えてしまう感じを持たれてるのかも、とちょっと思ったのですが、
それは絶対そんなことはない、と今は思ってます。こう納得できるのに大変苦労したですが、今はいろいろ考えた結果、その点についてはいちおう、それは問題がない、と自分で了解してます。違ってたらすみませんが。
なぜそう納得するかというと、はじめは心の素晴らしさが、冷たい論理で語れるわけがない、と思ってたからですが、このとき大事なのは論理ではなく感覚を優先することです。でも、ある種の論理を考えるとき、僕は心を感じるときと同じ感覚を感じます。それは在来の西洋科学のものではなく、~~というのはもう書いてるので省略ですが、心の素敵な感覚が損なわれることなく付いてくる、付随する論理、というのがもしあれば、初めて心の素晴らしさが失われることを心配することもなく、かつ同時に論理にも取りかかれる、ということになります。感覚の素晴らしさを「一切」損なうことなく削ることもなしで、論理と対応させるにはどうしたらいいか、というのはまだ今も継続中なんですが、
少なくとも心なんてない、人間は脳みそだ、なんて言う人に正面切って言葉で違うよ、と相手が納得できるようになればいいな、と思ってます。
この上の話は、こういうことをもし気にされてるなら、心の素晴らしさを論理で否定されてしまう恐怖心と格闘されてるなら、という仮定で話したんですが・・。外れてたら気まずい・・・

では、失礼します。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

済みません。結論がよくわかりませんでした。結局、「記憶は物質がないと不可能だ」に対して、反対なような、賛成なような、態度保留なような...、いずれなのでしょうか?

私の考えは、「記憶は物質がないと不可能だ」に反対の立場ですが、sheep67さんの結論を読みきれなかった(理解できなかったのかも)ため、ちょっとピントがずれているかも知れませんが、幾つか質問を書かせていただきました。

>心の中の反応は、その通りですが、だからといって物質現象ではないというのは飛躍があると感じます。

「”痛い”と感じること」そのこと自体が、何故、物質現象と言えるのか、逆にお聞きしたいです。物質が「痛い」と感じることなどあるのでしょうか?

>心は物質ではありません、もちろんそうですが...

ここでおっしゃっていることと、上でおっしゃっている「だからといって物質現象ではないというのは飛躍があると感じます」とは矛盾しているように思うのですが。

>心の働き→脳の働きにリンク→脳の働きなら原理的に記述可能。
>主観と客観は等価値である

心と脳は「写像」の関係ということでしょうか? すなわち、「心のある部分の働き」と「脳のある部分の働き」が対応していて、心のある部分にある変化が起こると、それに対応して、脳の対応部分に対応する変化が起こる。その逆もまた同じ。そういうことでしょうか? もし、そうなら、物質である「脳」と非物質である「心」が写像関係ということではないでしょうか? すなわち、心は非物質であり、心の記憶は物質がなくても可能ということにはならないでしょうか?

>僕もそれで心が表現できないと思います。アナログも論理であり、デジタルとアナログは互いに補い合う、といイメージは分かってもらえないでしょうか?

お互いに違う論点について述べ合っているように感じます。一般論として「デジタルとアナログは互いに補い合う」と言うのは、全く、その通りだと思いますが、私が言いたかったことは、デジタルであろうがアナログであろうが、基本的には、無味無臭無色の「数値」を扱うだけであること。それに対して、心は、有味有臭有色の世界であり、互いに相容れない世界ではないかと言うことです。もちろん、デジタル&アナログ・システムで心の働きのある側面をシミューレートすることはできますが、それは、文字通りシミュレートであって、心を実現することではないと思います。ただ、「僕もそれで心が表現できないと思います」とおっしゃっているので、結論は同じと言うことでしょうか。


以上、sheep67さんのお考えをあまり理解できないまま、御質問してしまっているかも知れません。その場合は、ご容赦ください。

補足日時:2008/09/25 22:22
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こんばんは。


補足と言うことでお返事してかまわないでしょうか?
現在、可能と証明された無いものに対して、回答者様は、直感的に無理、と思われてるわけで、僕は可能だろうと思っているわけで、おおざぱには確たる理由はなくそれぞれそう思っているという場合、話はこれで終わるわけですが。
なので以下の話は、良く見積もっても間接的な根拠、というか、以下は雑談です・・・。僕のなぜ可能と思うかという材料を羅列してます、ごちゃごちゃ細かいですがあしからずです。
長文ですので、具体的な話に興味がなければ、一番下にジャンプしてください。



> <疑問>コンピューターや脳は「赤い色」と言うような単純なものさえ記憶できないのではないか。ましてや、「楽しい」とか「悲しい」などという感情を記憶することは不可能ではないか?

これはものすごく基本的な話ですね。
話としては、どうしてもクオリアとかの話題になってしまいますが、難しいことをいってもしかたないですし、そもそも今最先端で研究中の話で、結論も出ていません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA% …
個人的には、絶対に解ける!と信じていますが、理由は単なるいろんな状況証拠からそう思うだけなので、人に言い切るような理由はありません。
感情にせよ、色の質感にせよ、その仕組みが解けるか解けないかが、コンピュータで記憶できるかどうかの分かれ目だと思います。

感情の問題については、僕自身について言えば、自分の感情に対して系統立った客観視の視点があるかどうか、が、感情には仕組みがあるかないか、を思う分かれ目だと思います。
自分の感情、感覚ー朝起きてから夜寝るまで、+ねてる間の夢も含めて、その時の感情や、感覚要素を把握しているか、そして系統だって説明できるか、ということで、もしそういう把握ができれば、現在未知であっても、感情の流れや直観や、あらゆる感覚には理由があり、単純な論理でなくても、それは系統だったものだ、と思えるとは思います。

ただ、想像すると、心と自我は正反対で、なので、つまり感情と論理は正反対のものなので、帰納⇔演繹、統合⇔分析、と、要素的に逆です。
感情は、理解不能のものだ、という人が多いと思いますが、個人的には、感情は、分析的論理と逆の体系を持っている、と理解しています。個人的には、なので、その分析的論理体系と逆の論理体系によって作られる、そういう原理によって作られるコンピュータがあれば理論上は可能と想像します。
言われるとおり、現在のデジタルの原理に基づいたコンピュータで、感情が表記されるとは、僕も絶対に思いません。なぜそう思うかと言えば、メカニズムが違う、と思っているからですが。

アナログコンピュータ、というのがあります。研究は進んでいませんが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A% …
これが感情を記憶できる、などとは書いていませんが、一つの可能性です。

もう少し別の面もあるのですが。
人間は、自分と心に、おおざっぱに分かれます。自分~自我は、分析的手法が得意ですし、それは究極デジタルの発想につながり、現在の科学が発達しました。
心は、統合ー帰納、という手法が得意です。直観~~というのは、僕は総合判断力、と決めつけていますが、でもこれらはこれらの論理を持っています。アナログの論理、とでも言いたいのですが。適切な言葉があるかな~と思うのですが。
仮にアナログと決めてかかれば、アナログは、現在科学的な視点でその論理は分析されてないように感じますし、もっとも基本的な部分の土台が、もう科学やコンピュータとは別物です。
なので現在の科学の範疇で感情が表現される可能性は0だと思います。僕自身は、現在の分析的な科学とは全く違う論理体系ーー心の仕組みに即した論理体系がこれから発達すると想像しますし、アナログや複雑系も含めてそういう論理が発達し、その論理を扱うコンピュータができれば、感情の記憶は可能じゃないか、と想像するのですが。


また持論を好き勝手書いてしまいました。
まーでも、現実問題、現在できてないわけですし、それができるという予兆すらありません。
なので上の話は僕の単なる希望的観測です。
ん~~~、まあ、根拠ですらないので、なんというか、
それこそ直感的な思いつきなので、これ以上は出てこないです。
僕自身がアナログ重要視でして、また、論理よりも感情、心、何より直観重視、というタイプなので、それを裏から支える論理、は、前から興味があります。
またヨーロッパで発達した分析的科学の勢いが弱まり、この20世紀の終わりから、科学界全体で、アナログ的論法による理論が増えてきているのを見て、僕自身は大喜びしてます。ただの素人科学好きですが・・・
アナログとデジタルは、常に相補的なので、互いに補い合う性質があるので、この200年とかの長い間、デジタルが勢いをふるってきました。客観性とデジタルの論理の時代でした。2つの相補性から考えても、この先アナログ的論理の時代がやってくるかも、と思っていますし、科学の反動として、反科学ではなく、科学を補完するもの、としての、新しい論理、心を説明できるような、かつ科学に並び立つような論理が打ち立てられるんじゃないかな、と想像してます。というかそうなって欲しい!!、という話ですが~。
感情のメカニズムについても、僕もまだ考えの途中なので、全体が分かるまではまだまだ、と思っています。

済みません、もう当初の前世の話となんの脈絡もない話になっていますが、かなり好き勝手書けて僕はうれしいんですが、でもこんな話を書いていいのかちょっと自信がなくなってきました。多分読むほうには負担をかけてるとは思ってるんですが。

以上私見でした。だらだらになってすみませんー。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>現在、可能と証明された無いものに対して、回答者様は、直感的に無理、と思われてるわけで、....

直観的に無理ということではなく、論理的に不可能ということです。
説明は以下の通りです。

人間が「赤い色」を認知するプロセスは、大雑把に表現すると以下の通りです。

(1)物質表面で650ナノメータ(一例です)の光が反射する。
(2)650ナノメータの光が網膜に当たる。
(3)650ナノメータの光に感応する視細胞が興奮する。
(4)その興奮が脳の視覚野に伝播する。
(5)その結果、心に「赤さ」として認知される。

ここで、(1)~(4)は物質におけるプロセスであり、物質現象です。
(5)は心の中での反応であり、物質現象ではありません。

ところで、(1)~(4)の物質プロセスのどこを探しても「赤い色」は存在しません。すなわち、「物質界」には「赤い色」などというものは存在しないのです。存在するのは「650ナノメーターの光」だけです。そして、その光には、そもそも「色」など付いていないのです。

すなわち、「色」を付けるのは「心」であって、「物質」ではありません。従って、物質に「赤い色」を記録する事は、「原理的」に不可能です。

以上の論理で、おかしいところがあったら、ご指摘ください。

>話としては、どうしてもクオリアとかの話題になってしまいますが、難しいことをいってもしかたないですし、...

クオリアが問題になるのは、「唯物論」が正しいという”信仰”のせいです。物質が高度の組織化されれば、その結果として、「心」や「精神」が生まれるという「何の根拠もない信仰」のせいです。「唯物論」の最大の弱点は、「物質とは何か」を明確に説明できないことです。「何かわからない物質」というものを基礎におく「唯物論」は論理的に根拠がないと思います。

>僕自身は、現在の分析的な科学とは全く違う論理体系ーー心の仕組みに即した論理体系がこれから発達すると想像しますし、アナログや複雑系も含めてそういう論理が発達し、その論理を扱うコンピュータができれば、感情の記憶は可能じゃないか、と想像するのですが。

論理体系という表現は、ちょっと漠然としていて正確にはわかりませんが、論理体系というとどうしても、情報処理体系を思い浮かべてしまいます。その情報処理体系がディジタルであろうが、アナログであろうが、所詮は数量、あるいは、論理値を操作するだけのことではないでしょうか?
しかし、「赤さ」とか「苦さ」とか「暑さ」とか「おかしさ」など心に存在するものは、全て「質」です。「数量や論理値」を「質」に変換することは原理的に不可能ではないでしょうか?

>もう当初の前世の話となんの脈絡もない話になっていますが....

元はと言えば、「前世の記憶」などというものがあるはずがない。何故なら、物質(例えば脳)なくして記憶が保存されるなどということはあり得から。という議論からスタートしました。それに対して、私は、「物質って何?」、心を離れて、そんなものが本当にあるのだろうか? 物質と言っても、結局、心に現れているイメージに過ぎないのではないかと考えたわけです。だから、心と言うものが完全に解明されないうちは、簡単に、「前世の記憶」などあり得ないとは言えないと私は思いました。

補足日時:2008/09/24 21:58
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こんばんは。


NO21です。
前の話は仮定の上に仮定をのっけた話なので気にしないでください。
それはともかく
記憶を、個人の記憶に絞った話なら、前に一度質問したことがあります。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3730037.html
こちらで尋ねたんですが。
ただ質問者様が求めていられるのとはだいぶ違うし、遠く遠く及ばないですが。
いちおう僕なりにちょっとだけ考えてます。
人の記憶の記録となると、この時空間=主観世界以外にも、内面での考え、感性、等も入ってくるのですが、仮に科学的に可能でも1000年くらいはないかなーと思います。
論理的思考の記憶はまだしも、感覚の記憶に絞ると、感受性には、無限感覚、絶対感覚などがつきものです。無限をどう表現するか、絶対と相対を表現して記録できるのか、等の問題があると考えます。あるいはクオリア、と呼ばれている構成要素もあります。クオリアに付随する無限感覚、と言えると思います。
つまり無限なら、「無限感覚」の種類の違い~闇より深い絶望と、天にも昇る幸せの「感覚」の違いを厳密に表現できるようになったらいいなーと思ってますが。
今の有限しか扱えない記録物では無理ですが
(コンピュータで無限の計算ってできるのですかねー?誰かに聞いてみたい。数学では無限を手のひらで転がすように扱っていますが)
、こういう感覚の無限の分析が進んで、なおかつその表記が可能な科学が開発されて・・・また仮の話ばかりですが、絶対無理だ、というのは時期が早いと思います。厳密には まだわからない、という意味ですが。
以上は個人レベルの記憶の記録ですが、さらに人類全体、とかなると、さらに仮定の上に仮定をのっけますが、それでも、不可能、とは感じないです。でも可能でも1000年くらい先?、とは思いますが。

これでも、最初の前世の質問には全然及びませんが。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

考えてみると、私の疑問は、以下のようなもっと単純な疑問に置き換えることができることがわかりました。

<疑問>コンピューターや脳は「赤い色」と言うような単純なものさえ記憶できないのではないか。ましてや、「楽しい」とか「悲しい」などという感情を記憶することは不可能ではないか?

何故なら、コンピューターや脳は、「赤い色」を記憶するとき、R=100、G=0、B=0 のような数字や、物質の状態でしか記憶できないから。

補足日時:2008/09/23 21:01
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こんばんは。

NO17です。
記憶の論理性については、正確に書けることを持ってないのですが、今思っていることを書きます。
以下は暴論ですし、独断と偏見です。

まず、脳とこの世界に対して感じることの多様性が一律に論理的に表現できるか?というのがあります。

あらゆる記憶が、抽象と具体の組み合わせによって成り立つというのは納得してもらえるでしょうか?
抽象と具体というのは、抽象的な脳の機能と、具体的な外部の事物のことです。
怖いことを経験して、あとで思い出すことがあるのは、想起のトリガーとなることがあるためです。過去の具体的な経験を思い出すようなシチュエーションがあると、それに釣られて、抽象的な恐怖心が活性化し、過去の記憶を思い出します。
記憶は、恐怖や喜び悲しみなどの、人によって差異のない抽象性と、外部の具体的千差万別な具体性との組み合わせにより成立しています。ここまでいいでしょうか?
となると、脳内部の抽象性と、外部の具体性がともに論理的表記が可能であれば、この2つの組み合わせによって記憶は成立しているので、記憶は論理的に記述できる、ということになります。

そこでこれに使える概念として現在僕が思いつくのは複雑系しかありません。
複雑系について~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91% …

なぜ複雑系で考えることが可能かもしれないと思うかというと、
僕自身は、人の心理の土台は、存在と関係だと考えています。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3813558.html
こんな感じでいくつかこちらでも書いています。
なのでこの基礎的状態から精神構造がスタートしています。
脳内部の抽象性ー心が、複雑系により論理的表記が可能かどうかは、
この基礎からどう機能が発生してるかによります。
人の多岐にわたる才能や直観、正確は、単にそれに興味があるかどうかの違いと理解します。
たとえば、数学に才能のある人は、数学の才能なるものが脳の中にあるのではなく、数学に関心があるだけ、と思っています。
心理で言う内向と外向なら、内向はメカニズムや仕組みに興味があり、外向は人の関係が作り出す無限の複雑さに興味がある、という具合です。
それだからこそ、他人は、ある人の研究結果を読んで理解できますし、理解できないのは、理解する脳の仕組みがないのではなく、それに興味がもてないのだ、というのが、僕が観察しての結果です。
才能と、好き嫌いは、同じと考えます。
そもそも脳の神経ネットワークであるものに人によって違いがあるというほうがおかしいです。ただの物質ですから。実際、医学で、そういう人の才能を指示するような部位は見つかってないと思います(間違ってたらすみません)~興味を持って使い込むことで、特定の部位が非常に発達するのというのはもちろんありますが。
なにがいいたいかというと、記憶の一翼をになう脳内の複雑さ、心の複雑さは、無限にあるように見えても、上のようにより単純な脳機能の、好き嫌いによる使い方の偏向に過ぎないのではないか、ということです。
そうなると、脳の機能や、複雑に見える多彩な感情は簡単に論理的に記述できる可能性があります。
この脳の抽象的な、人による違いのない共通した機能は、存在と関係という土台から発生する複雑系の図形のような構図をしていると考えています。
この枝分かれの構造がどうなっているかについての一つとして階層構造があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8E%E5%B1%A4% …
このウィキに書かれてるような階層は物質に由来するわけではありません。物質はただの原子の集まりです。階層を感じるのは僕らの脳ですし、階層は脳が作り出しています。
この階層も複雑系の一部ですが、意味付けが階層をなしているということは、そういう仕組みが、存在と関係からの展開の仕方として脳内に成立している、と考えられます。これ以外にも、脳内の抽象性が複雑系である間接的な証拠はあるのですが、直接の証明は今の科学でもできていません。
なので、ここに仮に複雑系の体系をなしていると仮定したら、脳の抽象性は、無限に複雑にもかかわらず、小さな論理的構造として表現できる、という、複雑系特有の、演繹できないが、論理的に表現できる、という仕組みになります。

次に、記憶のもう一つの対となる、外界の構造です。
これは宇宙物理や相対論や量子力学の世界ですが、これら全体が演繹できなくても論理的に表現可能ならば、外界も論理的に表現できる。ゆえに、内面と外面の関係によって成立する記憶すべてが論理的に表現できる、という話になります。

宇宙の統一理論の完成は手が出ないのでおいておいても、複雑系以上に、ゆらぎや、それのもとになっている量子力学での不確定性原理の問題があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A2%BA% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%82%89% …
これらが数学的に表現可能であれば、演繹的でなく=還元主義が通用しない、とウィキにはかかれてますが、そうであっても、論理的に記述可能な可能性があると思います。
不確定性原理やゆらぎと、複雑系がどう関係するのがかかりません。関係ないかもしれません。
宇宙がビッグバンから生まれ、ゆらぎを仲介して、物質が誕生したのであれば、そこにある種の全体的な秩序があってもいいようには思われます=論理的に表現可能かもしれない、という話です。もっとも今の単純な論理、分析的手法だけでは原理的に不可能と考えますが。でも将来はわかりません。
これで持って宇宙=外部が、論理的に記述可能である、と仮定します。

そうなると、人の内面と外面が両方とも論理的に記述可能であり、記憶は、この2つの複雑系の組み合わせによって成立するので、それはものすごい数になり無限ともいえますが、でも論理的に表現できるといえます。

それでどういうモデルになるか、ということですが、複雑ネットワークという概念があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91% …
インターネットの仕組みなどを表現できるそうですが、ただこれは単一の複雑系です。
記憶は少なくとも2つの複雑ネットワークの要素の組み合わせと考えられるので、このモデルよりはるかに複雑だと思いますし、僕は2つよりもっと多い複雑系モデルの組み合わせと思うのですが、でもそれでも、論理的には、極めて単純に表現できます。
記憶が無限なのは組み合わせの数であって、要素や存在ではない、という話です。おおざっぱには。
脳のことで考えると、脳の記憶は、脳の、存在と関係から始まる感覚と、外部との結びつきが蓄えられたもの、といえます。(単純すぎるモデルですし、これで脳のことが全部説明してるわけでもなんでもありませんがー)

以上、上に書いた2つの仮定が正しければ、記憶は単純に?論理的に表現できることになります。ほんとかな~?

これらを記述し保存するようなものが存在するかどうかについては、現在そういうものは見つかっていませんが、将来もないとはいえません。
また、自分の記憶というものは、常に自分の過去の人格とペアで記憶されている、ということはわかってもらえるでしょうか?
記憶にはそれを統一的に保持する主体が存在します。僕らの記憶はあらゆる記憶がそうです。言い換えると人格、といえます。
過去の自分のさまざまな人格が記憶をにない分担して覚えています。多重人格症はその仕組みと関係のある病気です。
記憶は、「記憶」という単独のものであるように思いがちですが、実際には自分の内面と、外部との関係性でもありますし、存在から見ると、人格という存在と切っても切れないものです。
なにがいいたいかというと、もしこの世のどこかに、記憶の論理を保持しているものがあるなら、その背後には人格が存在するだろう、ということです。少なくとも、そういう記憶の論理があるなら、それに対応する人格を仮定できます。そういう人格が成立していても不思議ではないと思います。

テーマがおもしろかったので思いっきり飛ばしてみました。
納得・・・はいただけたかどうかわからないですが、仮説として悪い出来ではないと思いますし、また質問者様は、科学よりも、論理的説明ー納得がいくかいかないかにポイントを置いておられたようなので、筋の通った、すっきりした説明に興味があるようでしたので、こういう無茶な話でも問題ないかな。ともおもって書いたのですがー。
以上、思いつくまま、今思っている推測を書いてみました。長文であしからずです。書いていておもしろかったです。失礼しますー
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

回答を読ませていただきました。正直言って、私の理解能力を超えていました。折角、ご回答いただいたのに、良く理解できないというのも申し訳なく思いましたが、最後の方に、「書いていておもしろかったです。」と書いておられたので、少しほっとしました。

良く理解できなかったにも関わらず、何か書くのも変ですが、漠然とした感想がありますので、質問ということではなく書かせていただきます。


漠然と感じたことは、記憶のメカニズムを論理的モデルで表現できたとして、そのモデルを使って現実の人間の記憶を記録する現実的な手段があるのかということです。現実的と言うことになると、物質的手段を使うしかないように思うのですが、今、そのようなものとして最も有力そうに見えるのは、コンピューターです。でも、コンピューターを使って人間の記憶が記録できるとはとても思えません。また、脳についても、全く、同じではないかと思います。脳は、今のところ、物質の塊のように思えます。もし、脳が物質の塊なら、それは、結局のところコンピューターと同じことで、そんなところに、人間の記憶が記録できるとは思えないのです。

何故、そう思うかと言うと、人間の記憶は感情や情緒に支えられた具体的なイメージの総合体であって、デジタルな記号体系ではないからです。コンピューターや物質である脳のような「0/1」の構造体に、感情やイメージを記録することは、どう考えても不可能な気がします。

お礼日時:2008/09/23 15:46

 NO19の一部を修正します。


 5次元の人は全員空を飛べないというわけではなくて、6次元に比べるとそうなりがち、ということに修正しておきます。
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この回答へのお礼

修正いただき、ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/22 21:38

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