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さいきん神道についての本を読んだのですが神道での罪というのはどのようなものを指すのでしょうか?(例えばキリスト教での「神に逆らってはならない」のようなもの)

詳しい方いらっしゃいましたらご教授お願いします。

A 回答 (4件)

こんばんは!


神道にはキリスト教のような『原罪』という意識はありません.
それに似たような思考は『罪穢(つみけがれ)』というものと考えられます.

神道では禊祓(みそぎ・はらい)を儀式としておこないますが,
その起源は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)の
夫婦の『古事記』の中の物語から始まります.
伊邪那美命は35柱の神々を産みますが,
最後に火の神である『迦具土(かぐつち)』を産むときに,
女陰(ほと)を焼かれます.
それが元で死んでしまいます.

夫の伊邪那岐命は亡き妻を慕い,
死者の国『黄泉(よみ)』に連れ戻しに行きます.
黄泉の国で再会した伊邪那美命は,
「黄泉の国で穢れた火で煮炊きしたものを口にしたので,もう帰れない」と…,
ところが,伊邪那美命の激しい哀願に,
「黄泉の神に相談するから,絶対に覗かないでください」と言い残し家の中に入る.
伊邪那美命が長いこと出てこないので,
待ちきれなくなった伊邪那岐命は,火を灯し家の中に入ると,
伊邪那美命は体には無数の蛆がたかり八種の雷神が生じていた.

その醜悪さと恐ろしさに伊邪那岐命は逃げだすが,
伊邪那美命は約束を破った事に怒り狂い,八雷神などの黄泉軍にその後を追わせる.

葦原中国(あしはらのなかつくに)と黄泉の国の境に当たる
黄泉比良坂(よもつひらさか)まで逃げおおせると,
「自分はなんと穢い国に行ったのだ.身体を禊しよう」と,
筑紫の檍原(あはぎはら)で禊をする.
神道の禊はこの話から行われています.

神道では『罪と穢れ』はこのように,
『禊』を行って洗い流すことができると考えられているようです.

ではその罪とは何でしょう?
神道の罪観念は『延喜式』に,
『大祓詞(おおはらいのことば)』に所載された,
『天津罪(あまつつみ)』と『国津罪(くにつつみ)』があります.

天津罪
 畔離(あはなち)田の畔(あぜ)を崩し,田の水を干すこと.
 溝埋(みぞうめ)田に水を引く溝を埋め,水を流さないこと.
 桶放(ひはなち)田に水を汲み入れる桶を壊すこと.
 頻蒔(しきまき)種が蒔いてあるのに,再び蒔いて稲の成長を阻害すること.
串刺(くしさし)他人の田に差し押さえや,
没収の札をつけた串を立て,自分の物にすること
 生剥・逆剥(いきはい・さかはぎ)生きた動物の皮を剥いだり,皮を尻から剥ぐこと.
 屎戸(くそへ)神聖なところに汚物をまくこと.

国津罪
 生膚断(いきはだたち)死膚断(しにはだたち):生死に関わらず人体に傷をつけること.
 白人(はくひと)胡久美(こくみ):肌が白くなる病気.瘤なる病気のこと
 
己母犯罪(おのがははおかせるつみ)・己子犯罪(おのがこおかせるつみ)・
 母与子犯罪(ははとこおかせるつみ)・母与子犯罪(ははとこおかせるつみ).
つまり近親相姦のこと
 畜犯罪(けものおかせるつみ):獣姦.
 昆虫乃災(はふむしのわざわい):虫による病気や障害.
 高津神乃災(たかつかみのわざわい):落雷による災い
高津鳥乃災(たかつとりのわざわい):猛鳥による災い
 畜仆(けものたおし):家畜を殺すこと.
 蠱物為罪(まじものせるつみ):人をのろう呪いをすること. 

このように神道の罪は「外からの原因で起こるもの」という風に考える特徴があります.
思い出しながら書いたので,長い時間がかかりました.
まもなく午前5時になりますので,
もっと知りたければ近くの神社や図書館で調べてください.
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神道での罪は「古事記」までさかのぼる必要があるます。


延喜式エンギシキの祝詞ノリトの大祓詞に書かれています。***西暦927年完成***
天津罪は国家や地域など、社会生活の基盤たる共同体の維持に関する秩
序に対して背くこと。
国津罪は、地域社会の一員として、遵守すべき倫理や道徳的の基,又は優秀な民族の維持繁栄(日本人たる種の保存)に関して背くこと。

天津罪と国津罪は合わせて21項目ありますが、調べてみてください。
この祝詞は現在も神社などで奏上されています。
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神道には、「罪」の概念はないです。

基本的には、「村落共同体」の掟に従わなければならないという原則だけがあります。

神道が、元々氏神や同祖神、自然、五穀豊穣などを祭ってきたためです。そのため、「清める」という行為はありますが、これは「罪」を清めるのではなく、「精神」を清めることで、心の安寧や村落の発展などを祈願していたためです。なぜならば、心に罪があれば、それは罪を生みます。心に罪がなければ、罪を生まないからです。

国家神道の場合には、神道すら利用したし、利用されたのだと思います。人を神としてあがめるのではなく、自分自身の祖先や村落共同体の人々と共同生活を送るための知恵でもあるからなのです。

詳しくは、http://www.jinjahoncho.or.jp/ まで。
なお、「神社本庁」という名称がありますが、行政官署ではありません。
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自己判断だと思います。


神主さんに質問したことありませんが、
神道の神のほこらって、何にもないんですよね。一つありますけどね。

他の宗教と比べると、神道は「神とは無」みたいに感じます。
無思想への発見?って本もありますし。

キリスト教では、神に誓って結婚したのに、離婚率が多いのは
神への冒涜とかありますが、神道は何も語らない。
でも、キリスト教なのに離婚率が高いのはどんな意味か?
神に誓っても離婚してるに、信仰心がない?

仏教でもなく、神道って日本特有の文化であって、仏教も他も
受け入れる傾向があると思います。
七五三は神社、結婚式はいろいろ、死んだら仏教。

唯一言えるのは、神道のほこらには、鏡があります。
鏡に反射した自分を観れます、この反射は何でしょう?
勝手に、神の独りとして貴方を反射してるとも言えます。
こんなに恐ろしい、こんなに優しい・・・って、思うのは
人それぞれですが、昔の人は凄い発想としか言えません。

神道とは、誰が悪魔になろうが、すべて映し出すような存在で
無言な存在かもしれない。

鏡に反射で考えると、苦しむのは貴方ってことになりますよね?
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