プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

本当の愛ってなんなんでしょうか?
私は以前から自己犠牲の上に愛がある。
そう考えていました。
けれども、その考えに矛盾を抱くようになりました。
犠牲と考えているうちは愛ではないという矛盾です。
うまく伝わるでしょうか。

自己犠牲の上になりたっていた愛だから、とても苦しいものでした。
病気になるほど苦しいものでした。
それでは、本当の愛とはいったいなんなんでしょうか?
自分を捨てずに愛が語れるものなのでしょうか?
哲学という意味もよく解っていないのですが(一応ウィキペディアは確認しました)、こちらのカテゴリーで質問させていただきます。
今は、純粋に愛の意味が知りたいのです。

A 回答 (34件中1~10件)

 No.33です。



 つづけて 引用から入ることをおゆるしください。
 《思っていない》からと言って そのことを《知らない》わけではないという議論から始まっています。《知っている》としても 《思っていない》なら まだ 実践ではないという意味にも進みます。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 例えば 私たちは多くの学問に通暁している人について かれが今 医学について思惟していて 文法学について思惟していないからとて 文法学を知らないとは言わない。つまり 自己を知らないことと自己を思惟しないこととは別なことである。

 したがって 愛の力は非常に大きく 愛によって長らく思惟しており 気遣いの膠(にかわ)によって固着していたものを 自己を思惟するため或る仕方で〔自己に〕還帰するときでも一緒に連れ込むほどである。
 それは 精神が肉の感覚をとおして外側で愛好した物体である。精神はそれとの長くつづいた或る種の親密な交渉によってそれと縺れている。

 だがいわば非物体的な本性の領域である内面へ 物体そのものを一緒に引き入れることは出来ないから 物体の似像(にすがた)を思い廻らし 自分でつくり上げたものを自己自身の中へ引き入れるのである。
 その似像をつくり上げるとき 自分自身の実体の或るものをそれに与える。しかし精神は自分のうちに このような似像のかたちについて自由に判断する能力を保持している。これは適切な意味で精神( mens )であり 判断するため保持されている理性的な知解力( intelligentia )である。
 物体の類似によってかたちづくられるあの魂の部分を私たちは動物と共有していることを知っている。
(アウグスティヌス:三位一体論10・5)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである》というとき その《試練》をめぐって 思索するわけです。
 相手との関係において 《愛の力は非常に大きく 愛によって長らく思惟しており 気遣いの膠(にかわ)によって固着していたもの》があると 知ります。精神すらも それら固着物と もつれています。
 大きくは 偉大なこととしての試練を進むで いいわけですが この言わば外側で《固着していたもの》については 必ずしも 讃えられるべき愛ではないと知ります。それでも 必要に応じて わたしたちの《魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなものを〔も〕愛する》と思いますが 要するに このように広い意味を持ったいろんな情感としてのような《愛》を 仕分けしてゆくこと これが ふつうの愛なのではないでしょうか。
 仕分けが出来れば それに応じて どんな《小さなこと》・たわいないことをも ないがしろにせず 人と ふつうに――つまり 自然本性にのっとって―― つきあっていけるのではないでしょうか。

 これは 概念や理念としてであるよりは 実践としての愛の問題ではあるのですが。
 理念としてなら 人間存在・その生命から始まって 自然本性 つまり 特には自由意志 これを 互いに とうとぶということ それを 互いに 踏みにじらないで守るということが ほんとうの愛なのではないでしょうか。

この回答への補足

締め切る前に補足です。
書いてみて気づいたのですが、
>愛は心で実感するものであって、頭で考えるべきものではないという拒絶感があることに、まず気づきました。
この言葉は次の意味に置き換えることが出来ました。
自分は感情で実感するものであって、頭で考えるべきものではないという拒絶感があった。(もう過去形でいいと思います)

自分の周りにある愛を少し観察してみようと思います。

補足日時:2008/11/01 23:11
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
仕分けというからには、どこかに人間の計算染みた考えがあるようにも捉えてしまいましたが、
人の愛はやはり人でしかないから、小さなことは仕分けするよりほかないのでしょうね。
>《思っていない》からと言って そのことを《知らない》わけではないという議論から始まっています。《知っている》としても 《思っていない》なら まだ 実践ではないという意味にも進みます。
まさに、愛を仕分けするということについても、今このような状態です。
説明しづらいのですが、自分の中で
愛は心で実感するものであって、頭で考えるべきものではないという拒絶感があることに、まず気づきました。

けれどもここは哲学カテです。
ここで得たものは、従来の自分では持ち得なかった知識ばかりでした。
回答いただいた皆様に大変感謝いたします。
たぶんどの回答も愛なのだと思いました。
皆様にポイントを差し上げられず、大変申し訳ないのですが、
自分とは別の角度から、愛を考えていただき衝撃を受けた回答にポイントを付けさせていただきます。

お礼日時:2008/11/01 23:06

 かなり途中からの初めての投稿になりますが 《QNo.4172511 :情欲は 罪ですか(続編) = 

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4172511.html 》の質疑応答を お贈りしたいと思います。わたし自身の設問ですので。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(*1)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的な判断によってその実践として)為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。

  *1 (私註)《このようなもの》とは 端的には 情欲です。一般
  化して 《理想のようなもの あるいは 理念とその美 これらの
  たぐいを みづからに心地よい観念としての想像をとおして その
  表象に自分から依り憑いていく心の片向き つまりは その弱さ》
  です。

 それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。
 しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。
 魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。
 自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。
 (アウグスティヌス:『三位一体論』中澤宣夫訳 12・10)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《愛》にしろ《慈悲》にしろ 精神の想像物としての理念となった場合 そしてその理念を 後生大事に守る場合 それは 単なる人為的な規範であり 倫理行為であるとなります。自己犠牲にしても 同じようです。
 もし人為によって 解決しうるとなれば 話は別ですが。

この回答への補足

>私には、「小さなもの」が「謙虚であり続けること」に思えてきました。
「小さなもの」=存在そのもの?
なぜ、自分はそれを認めたくないのだろうか?
それはまた今度、心理学カテの方で質問させていただきたいと思います。

補足日時:2008/10/28 16:16
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
質問まで辿り着けず(たぶん読んでしまったら、お礼が書けそうもない)、尚且つ回答の意味が理解できてはおりません。
無知で申し訳ありません。
ただ、ひとつ思ったのは、
「情欲がもし罪であるならば、アメーバーの増殖もまた罪であろう」という単純な感想です。
そう考えると、人の情欲が許されていくように感じるので、これは不思議ですね。

> ☆ 《愛》にしろ《慈悲》にしろ 精神の想像物としての理念となった場合 そしてその理念を 後生大事に守る場合 それは 単なる人為的な規範であり 倫理行為であるとなります。自己犠牲にしても 同じようです。
私の解釈間違っていないでしょうか。感想を書きます。
私が今欲している回答は「愛」という名の理念なのだと思います。人生の目標のようなものです。
過去が「愛」という名の「自己犠牲」でうまく行かなかったから、
今度は「愛」という名の「自己の無」をを感じ取っていこう。
けれども、本来「愛」というのは「本能」の中に存在するのではないか?とも思うことがあります。
どちらにしても、「人」は「人である」という枠を超えて話を進めることはできないのですが。

>自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。
この言葉に反応する自分がいます。
うまく書くことができませんが、かなり反応しています。
それは、自らが自己中心的で誤謬に満たされているからでしょう。
全くもって無力です。
けれども、この言葉における「小さなもの」とはなんでしょうか?

●拡大解釈すると、宇宙からみれば地球でさえ「小さなもの」に成り果ててしまいます。
人から見れば、蟻のような存在。

と上記●のような自己中心的な考えを、少し排除して考えてみました。
私には、「小さなもの」が「謙虚であり続けること」に思えてきました。

間違いだらけのお礼かも知れません。
指摘していただいて、結構です。
少し、ゆっくり考える機会をいただきましたことに、感謝します。

お礼日時:2008/10/28 16:11

愛は執着の極致です。

今から2500年程前に、人類の偉大な教師の一人、お釈迦様が現れました。インドでの都市問題の行き詰まりの解答を与えようと徹底的に思索をした結果、彼は都市問題の根本的な原因は、人々が共通して持っている「執着」にあることを見抜きました。そこで、お釈迦様は皆に「執着から離れよ」「解脱せよ」と説くようになったのです。

そうなのです。お釈迦様は「愛」が人々を不幸にする源であると気がついたのです。この発見は大変な説得力がありました。その結果、その後の人類の文明に多大な影響を与えることができました。でも、まだそのことに気付かず、「愛」を幸せの源だと考えている文化も存在し、その執着故に略奪や戦争や喧嘩を繰り返して人々もいるようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そうなのです。
仏教でいう「愛」とは「欲望」であったり「執着」であったりするのです。
だからこそ迷い、悩んでいます。
けれども、それを超えたところにあるのが「慈悲」ではないか?
これこそ本当の人が持つことを目標とできる「愛」なのではないか。
そのためには、自分の心を俗にいう「欲望」という「愛」から「無」の状態に解放し、
「慈悲」という「愛」を心の中に持つ。
それを無意識に行う行為こそ「無償の愛」である。
これが、現在の答えになりつつあります。

お礼日時:2008/10/28 12:59

私もこのテーマについてはいつも考えています。



本当の愛は暖かい気持ちを感じて感動するものであると私は思います。

つまり本当の愛とは見返りをもとめない無条件の愛情を
・自分から人に対して発するものと、
・人から自分に対して頂くもの
というふたつの方向で存在するものと解釈しています。
前者は自分が発するのであるから分かりやすいですが、後者は気づかないこともあるかもしれません。
でもこの二つを少しでも多く感じて感動して生きることが人生の本質だと思います。

もし本当の愛というものが見返りや同様のお返しをもとめるものだとしたら、それはつらいものであろうと推測します。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>前者は自分が発するのであるから分かりやすいですが、後者は気づかないこともあるかもしれません。
大変わかりやすい回答をありがとうございました。
存在しているということで、人は何らかの「愛」を感じる生き物なのかもしれませんね。

お礼日時:2008/10/28 12:52

いただいた補足を拝見していて思ったのですが。

。。
>精神的に支えてくれる家族がいるということです。
>どんなに困った状況になっても最後の支えは家族なのです。
>恩返しどころか一生分の親孝行を自分の子供はしてくれたのだと思っています。
ニッコリ微笑まなくても、産まれてきてくれただけで子供は十分親孝行だと思います。
>>御家族は貴方にとって、いてもいなくても大したことではないですか?もしも、いなくなっても大して痛痒は感じないでしょうか?
>仮に距離が離れたとしても、どこかで生きて存在してくれていれば、あまり痛みは感じないですね。生きていてくれるということに感謝します。

ということならば、いったい「自己犠牲」の何について悩んでいらっしゃるのかしらんと少し戸惑いましたが
つまり質問者さまは、自分のほうが、より支えられ多く与えられている存在なのに、受け取っているそれに見合うだけのものを家族に返しきれていない返せないのではないか、そのために仰るところの「自己犠牲」を払おうとするのだけれど、どうやっても払いおおせないのではないかという不安感、不全感、徒労感等に付きまとわれるような感覚があって苦しい思いをされてるのかなあと思いました。
それで、御家族または御自分が「犠牲」を払ったつもりの相手が質問者さまの「犠牲」に対し、予想や期待を裏切るような態度であったら、まるで自分の払った「犠牲」は、まだまだ、こんな程度では足りないのだと一蹴され、ないがしろにされたような割り切れない御気持になるんではありませんか?

先回
>報酬を見込んで犠牲を払うというのは、それは、いわゆる「条件付の愛」とでも言うんでしょうか正確には「取引」ですよね。
と申し上げました。
>自分の生き残り策を練ることもできない赤ちゃんは自分の世話をしてもらうことを何らの気の咎めなくアッケラカンと要求し、世話をしてくれた者に礼一つ述べるでなく、ただ機嫌良く微笑みます。その微笑には何の媚びへつらいもありません。掛け値のないものです。
とも申し上げました。
ですが哀しいことに私たちは赤子のままのような状態ではいられません。「自分の生き残り策を練る」のです。そこで
>「理想と現実」の乖離、矛盾
にも付きまとわれることになります。

>>貴方は「自己犠牲」と名づけた貢ぎ物と引き換えでなければ愛を要求する資格はないと心の底で思っていないでしょうか?
>そうですね。尊いことをしっているから「自己犠牲」と引き換えでなければ「愛」を得る資格はないと感じているのでしょうね。

先回よりの繰り返しになりますが
>「自己犠牲のうえに」愛が成り立つじゃなくて、愛のうえにこそ自己犠牲が、でしょうね。
>とっても自然なもの
>克服ではなく湧き上がるもの

>子供の頃に見たいろいろなものが、良くも悪くも影響を及ぼしている
そういうことも考えられるかもしれませんが、成育時期に抑圧的な環境におられたというようなことであれば、自分の居場所や周囲からの庇護なくては生きられない幼い頃に、幼いなりに身につけてきた一種の(家庭内)「処世術」みたいなものを、いまだに引き摺っておられるようにも見受けます。
ですが、それは
>かつて周囲の他者から影響されたものかもしれませんし自分自身でも作りあげてきたものかもしれません。

>自分にとって「自己犠牲感」はある種のトラウマなのだと思います。一度手離してみなければ、次の段階にいけない気がしています。
>けれど心が空しさを訴えてくるのです。

「犠牲」を払わねば「愛」を買えない。「犠牲」を払わないと「愛」を売ってくれなくなるに違いない。売ってるものはタダじゃない。タダでオクレなんて厚かましい。私は違います、タダでもらうようなウヌボレやではありません。ちゃんと払います「犠牲」を。だから売ってください「愛」を。えっ「犠牲」が足りないって、では、もっと払います。まだ足りないって?なぜ?どこまで払わす気?アナタ図々しいわねえ!で、いったいアナタのほうは、いつ払ってくれるのよ!…
貴方が、「引換券」なしに受け取れる資格などない人間だと自己評価なさっていたとしても、そんな貴方を、お子さまは全面的に求めてくださったのではありませんか?御家族は、いくら払うべきかなどと頭を悩ますことなく貴方に安らいでおられませんか?貴方は、それを図々しいと感じるのでしょうか?払ってもらわないと信用できない、払っていないと安心できないでしょうか。
もちろん家族といえども互いに慮るべきことはあると思います、してもらいっぱなしで甘ったれるのは、だらしがないとかいうレベルでしたら、それはそれで分かります。

私も「トラウマ」の種とやらには人一倍、事欠きませんので、御気持は分かるように思います。私は生きていくため、強迫的に周囲に尽くしもしましたが、また生きていくために、それらを早く手離すことが非常に必要に迫られたことでしたので、ある程度、ですが、乗り越えることができています。
本当に次の段階に進まないと大変なことになると自覚したら、いやでも一つ所に留まってはおれないものだと思います。鬱病とかだと難しいのですけどね。

それでも、質問者さまの場合やはり幸いなことと思えますのは、なんといっても御伴侶や、お子さまの存在が質問者さまにとって、じゅうぶん掛替えのない良いものであると感じていらっしゃることです。そうですよね?
まぁだからこそ、今度は、それゆえの悩みを持たれることにもなるのでしょうが。。。
寂しく傷ついた生い立ちにして終生、伴侶一人も得ることなく淡々と人生を終えていった人なんて、いくらもいるわけですし。

私の父は、はたから見ると、家族の愛というものを、ほぼ知らずに育っています。でも本人は、そのことについて何も言いません。悩んだり気にしたりしないのです。なぜなら、知らないからです。知らないから、それほど欲しがりも悔しがりもしないのです。

どうやら質問者さまの御悩みは、手にしているものを「失うことへの怖れ」なのかなと思いました。
失いたくない良きものを御持ちなのでしょう。

仏教で「愛」なるものを良くは言わないらしいのは、執着心と紛らわしいからなのかなぁと思うのですが、大切な相手が満ち足りていてくれるかどうかよりも、自分が失わないでいられるかどうかのほうが重大問題なのでしたら、それは確かにアガペーどころではなく(「学問としての哲学という意味」だろうが分からないものは分からないのです!)「愛」のふりをした執着、苦しいのは当然だろうと思います。相手が本当に望んでもいない、自分でも別段やりたくもないことを必死でやって、感謝してもらうどころか、うっとうしがられたりなんかしたら、そりゃあショックです。
そして貴方は、相手が自分の顔色を窺うようにして払ってくれた「犠牲」が喜べるのでしょうか?「愛」とは無関係の「犠牲」。

私が実家にいた頃、御近所のかたから、来客用のカトラリーが足りないのを我が家で借りたお礼にと、たいそう過分なお返しをいただいた事がありました。母は怒っておりました。感覚がイヤラシイと言うのです。ウチからは、あの御宅でモノを借るまい、とも言いました。

>>「簡単には崩壊しない自分」を持つのは誰しも厳しいことでしょうが、「自分を崩壊」させないことは、自分のためだけではないのです。
>これぞ、言葉では理解していても、現実に行うことは難しいことなのだと感じました。

でも、なんとかやらなくちゃなりませんもの。どんな境遇にあっても、ひとりの大人として、どうにかこうにか、やっている人は皆さん多かれ少かれ何かしらに耐えて、努力しながら日々生活していますよね。
「自分を簡単に崩壊」させてしまうというのは、自分に責任持たない或いは持つことができないということですから。当然、周囲に対して責任を負うことができないどころか周囲に依存することしかできないですね。
でも、赤ちゃんや幼子のような無垢さとは無縁です。

>>つまり自分のことのように感じるからというよりは飽くまで自分なら…という視点によって、おそらく、こうであろうからと判断しています。そしてそれで、なんとか通常うまくやっています。また、ときに他者の深い苦しみに思い馳せ「いまの自分には思い及ばないことであろう」と、謙虚を忘れまいともします。
>「飽くまで自分なら」まさにそのとおりです。
自分からしてみると、相手の身になって考えたつもりなのです。
けれどもそれは「自分だったらこうする」「自分だったらこう思う」ということであって、「彼女だったらこうだろう」「彼だったらこう思うだろう」ではないのです。

ええ、「考えたつ・も・り」なのですよね。では、自分の予想や期待通りでなかったら、それは本当に「相手の身に」なんか、なりきれてやしなかった、ということなんでしょう。しょせん、そうなんです。限界があるんで、そこで「謙虚を忘れまい」とするんじゃないでしょうか。

理念とか理想論とかは、実感に乏しいからこそ、こねくりまわしたくなるものではないでしょうか、とも先回申し上げましたが、産む性でない男性のほうが、こういう傾向が一般的に強いようなのも興味深いことです。女性でも、そういう傾向の強い人いるようですが(私も以前は、そうだったろうと思います)多分、拠り所にする何かが頼りないのだろうと見受けます。「信念」なんて仰々しいものではなく。

>>心からの切実な欲求がないからといって、いまさらお子さまたちの養育を放棄できませんよね?人間ですから一応まともな大人として生きる以上、責任は果たさなければなりませんものね。これは自分のためとは本当に無関係なことでしょうか?(もちろん気がつかなかったフリはできるかもしれません。そのかわりに自分で背負い込むことになるかもしれない重たいものに耐えられるなら!)
>すみません、ここが少し理解できませんでした。

失礼しました、一応もう一度、説明してみます。
私は当然ながら、御家族に対する質問者さまの正直な御気持というのを正確に理解できているわけではありません。
私の親は、というか親の親も、身内全体が、責任感の薄い、自分の保身上、仕方なくやるのさ、というのが本音、どうかしたら何もかも、うっちゃらかして逃げ出しかねない者が多いもんですから、先回は、もしかして御家族の御世話なさるのが質問者さまの本心では非常に御負担で、厭々ながらという御気持でなさっているのかなぁ?とも思ったんです。
それならそれでもいいから、大人として、人の子の親としての義務感のみであっても、つまり理念としてでも責任は果たしてくださいと申し上げたかったのです。それはそれとして、人間ならではの潔さだと思います。たとえ切実な、或いは身の底から湧き上がるような思いに裏打ちされたものではなくとも、それを知ったとき一抹の寂しさを伴ったとしても、許すしかない、許せることと思うので。

子が重大な切実な援助を求めているときに、それを知っていながら気づかないふりをする親だっていますから。そして、気づかないふりをしたことに気づかないのです。浅薄な自己保身のほうが大事だから。気づいてしまうと、まともに立って歩くことすらできなくなるのです。自らの恥の重さで!

>>自分という主張をあえてしてみるということですね。
これは、私が申し上げたことではないようなのですけれど、いずれにせよ「言わなきゃわからん」と言われるのでしたら、わかってもらえるように心がけて言えばいいことだと思います。
>家族は言わなくてもわかるだろうという態度が出ていますので、ちょっとつらくなるときがありますね。

これは御家族の側に、そういう態度が出ているということでしょうか?

>やはり、言わなければ理解してもらうのは難しいようです。

昔から日本人には、「言わなくても」という思いが強いのか、よく、そうした点を指摘されたりするようですが、それを苦になさるのではなく、基本的に、それが当然なのだと考えを切り替えてみてください。血を分けた親子でも一心同体なんかじゃありませんし、まして配偶者は、もともとアカの他人なのですし。
まぁ、いわゆる主婦というのは、ふだんなかなか家族に感謝してもらえない、と不満に思う声も、よく聞きますけども。

「愛する」ということは相手と自分のあいだにある距離も含めてなのだ、というようなコトバがあったと記憶しています。

>とりあえずの課題は「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」です。

『山月記』でしたっけ。『孔乙己』(魯迅)と共に私にとっても忘れ得ぬ作品です。
「己の珠に非ざることを惧れるが故に」 「己の珠なるべきを半ば信ずるが故に」
芸術や創作姿勢というものに対する厳しい問いかけや典型的な人間心理が描かれている作品ですが、特にハイティーンの年齢にある人には自身に思い当たり身につまされるような共感を感じる作品なのでしょうか、私も、ご他聞にもれず10代の頃の国語の授業で初めて読んで以来、中島先生の作品は、いずれも珠玉のごとくで、敬愛してやまない作家の一人です。
李徴は何ゆえ虎になってしまったのでしょう。気づくのが遅過ぎたのでしょうか。
質問者さまが御自分を重ねていらっしゃるらしい李徴の「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」とは、つまり何ゆえなのでしょうね。

貴方が越えるために用意された山、河、橋、歯を食いしばって、いつしか越えていた自分に気づかれたとき、幾分なりと御気持がラクになられるだろうと思います。私自身も、あと幾つなのか越えて行かなければならない身です。
哲学というよりも、このたびの御質問は心理学のほうの問題だったのかなと思いました。そういう視点から見てみるのもいいかもしれません。
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この回答へのお礼

再度回答いただきありがとうございました。
心理学カテとどちらにしようか迷いました。けれども心理学カテでは、
「愛」は「無」である。
という結論に達しなかったであろうと思いました。

また、心理的な面からの回答も頂くこともでき、大変感謝しております。

お礼日時:2008/10/28 12:22

誰かのために何かをするときに


精神的に満たされた人間にとって
犠牲などという言葉はまったく考えもしないです

では、相手のために何かすることが自己犠牲とは思いもよらず
楽しい、喜びとなる関係とはどういうものなのか?

それは、相手も同じように自分のことを思ってくれることだと思います
つまり、あなたが苦しんでいたということは
相手の方からあなたへの愛情が感じられなかったからではないでしょうか?

一言でいうとギブアンドテイクだと思います
自分が相手のためにしてあげることが自分のためにもなり
相手のためにもなる。 
相手もまた同じように考えて自分に接してくれる

これが愛だと思います
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
知らないうちに受け取っているのもまた「愛」なのだと思います。
そういう意味では、ギブアンドテイクもまた「愛」ですね。

お礼日時:2008/10/28 12:22

つづけます。



その4つ巴の矛盾、行き場の無苦なったように見える人間性や進歩への前に立ちはだかる壁を 打ち破る道は、 私の場合、神あるいは存在からの贈り物がなんであるのかを知ることから始まりました。

一つは 前回 別格と書きました音楽の世界です。

音がそのように鳴るように創られていたから 音楽を人間が発見し、そして創作してきたわけです。 人間と存在との合作が音楽だったわけです。

と、その原点の世界に私は引き戻されるのです。  同じ音楽を聴いても眠くなる時もあり、ただのバックミュージックとして聞き流すだけの時もある。 が虚弱児施設で聞いたときのように あまりにも深く胸の奥を打つような聞こえたをする時もある、 音のほんの小さな極微の変化さへ理屈を越えて胸に届くこともある。    

あるとき私は 逆に何年も灰色の感性の世界にいたときがあります。 何をしても何があろうと何も感じないし、感動もしない世界です。 緑も紅葉も川も海も青空も何も関係ない世界。ただ灰色の暗い暗いさびしい心の世界です。 でも そんな時に、もう心身疲れきって ある日川原の土手に寝そべっていたら、  何時間もそうしてるうちに、川のせせらぎの音に気がつくようにもなり それが心を癒し始めたのにも気がつきました。

そして私は その時になって始めて空が青空として、寝転がって見ていることに気がつきます。 白い雲が ゆっくりと流れてるのにも、 その時までは気がつきませんでした。    

大自然の方は いつでも待っています。 その感性の気づきの訪れをです。 それが存在の贈り物ということなんです。

風の音、海の音、 木々の風になびく時の音、 それと光との交響楽。

音楽以前にそうした光と音との ほんとうは無限に深いともいえる音楽の源泉が存在の中 大自然の中自体に存在していたのです。

*、
わたしの記憶や体験は 次第に その贈り物の世界をとらえ始めました。

海の波のなんともいえない香り、 なつかしいなつかしい砂、 森や 森のある村、

かと思うと、 別なひどい過酷な労働と暴力に、殺される夢でうなされては目をさますという都会の真っ只中での状況下にて、 あるときそのぼろアパートの二階の風呂場の窓を開けたとたんに、目についた大きな二回まで伸びた葉っぱに 雪が降り積もり始めたことに、   なんであんなにもたったそれだけのことに感動するんだろうとそれ自体が不思議なほど 心の奥の奥までいやされたこともあります。



今の藝術の世藝術の世界も本物は奥深く深く、 それが同時に弱い同じ人間の作品でもあることで、  真実の涙をながさせるものであることも体験するようにもなりました。

*、

答えは こうして見えてきました。 

ほんとうに幸せと言える お金で買えない世界が見えてくることで、しかもそれが感性との交響楽となって、 底なしの深みと 頂上なんてみえない高みを持って存在し人間を待っていることを知った時、  

oore0129さん、 たぶんあなたと同じ ジンジャ惑、あの4つどもえの矛盾、袋小路の壁また壁の どうしようもない心の迷いの世界は 崩れていったんです。



昔の人も 同じにこのことでは悩んだのでしょうね。 もっともっと過酷は生活の中にてです。  それが仏教の中の絶望と光の交差する求道の道だったのだと思います。 今の私にとって十界互具論とは そういうものとして理解されています。  たぶん、昔も今も 誰もが 生きることに誠実であろうとする時にくぐる門なのでしょう。

* 

創価学会に触れたのは、この回答にて余計なことと思うかもしれません。

たしかに、この「じんじゃ惑」の説明という形にて、法華経の世界ということでもそこに結びついたこともあります。

しかし、もう一つには 昔にどんなひどい衆愚性がそこにあり いまもその名残りが流れていようとも、 彼らが真の哲学を指導したくて始めたものであるのならば、 その過程の間違いを最後まで正し続けて欲しいという気持ちにならざるを得ない、 それだけのすばらしい可能性のあるコミュニティーを今の彼らはすで持っているからです。

今こそ そのコミュニティーが、哲学する人間の集団にもなって その互助性が深い力を持って世の中を助ける力となってほしいからです。

この回答にても、 ここに「本当の愛ってなんなんでしょうか?」につながる回答へとつながるかとおもいます。



けっきょく 人間は弱いです。  私もです。 だからこそ 大きな度量でそのよすがをみつめ 徐々にすべて徐々に進んでいくしかないのです。

強さを求め求めつつも、すべてを許して、 自分も幸せをそれこそその本物の心の宝を求めつつ、 人には長所をさがして、その長所とこそつきあってゆく これしかないと思います。

*、

たとえば 親の面倒を見ること、お年寄りの面倒をみることは 時には大変な自己犠牲をしいられます。  できるだけのことしかできないと思う。  でも、自分の心に見つけた神からの純粋な贈り物の世界、本物の宝の文だけ それは自己犠牲ではなくなっていくと思う。  苦しいことがあってさへなお、それは 受け入れられるようになっていくと思う。

子供達のことでも 同じでしょう。



84歳の母と暮らす61歳のワーキングプアーです。 ぎりぎりの時間しかないのに、いつしか こんなメールを人に書くようになってました。

この問題についてはとてもとても

書き足りない気持ちになってしまいますが一応これをもって回答とさせていただきます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
失礼な点も多々あるかと思いますが、回答に対するお礼をさせていただきます。

>十界の めちゃくちゃ幼稚にも思える人間分析を 今の学問の感覚から馬鹿にしないで聞いてほしかったのです。
十界については全く知りませんでした。
申し訳ないのですが、科学で証明できないことを理解するというのには、時間がかかります。もしかするとこの回答を理解するまでに何年も時間がかかるかもしれません。
また、回答者様と私は本質的な仏教に対する観念が違うということに気づき、どのようにお礼を述べれば良いのかわかりません。
私の中では、仏教の最終目標は無であるところの自分、無という「愛」にも感じるのです。
仏教の象徴である曼荼羅(無を表す)とフラクタル幾何学が非常に酷似していると知ったことが、私の中では仏教が科学によって証明されているように思えたきっかけでした。
たぶん回答者様と私とでは、スタート地点も解決方法もとてもよく似ているのだと思います。けれども目指すゴールが少し違うのかも知れませんね。
回答者様は科学で証明されていないけれども、正しい世界観はあると思い。
私は、正しい世界観なら必ず科学で似たような現象が証明されるはずだ、と思っている。

音楽は私もとても大好きです。
回答者様の音に対する観念に触れられ、自分の中の音が、自然に広がっていくように感じました。

>大自然の方は いつでも待っています。 その感性の気づきの訪れをです。 それが存在の贈り物ということなんです。
気づくということは大切ですね。
時々私も、マンションの窓から外を見て、自分は地球の一部なのだと感じます。
それも存在の贈り物なのでしょうね。

>強さを求め求めつつも、すべてを許して、 自分も幸せをそれこそその本物の心の宝を求めつつ、 人には長所をさがして、その長所とこそつきあってゆく これしかないと思います。
先ほど、ゴールは少し違うと書きましたが、この文章を読むと、
やはりゴールは同じなのではないかとも思えます。参考になります。

時間のない中、質問に答えてくださり、大変感謝をしております。

お礼日時:2008/10/28 12:19

>無償の愛が自分の中に欲しいということも、



 それは欲求そのものですよ。

 自分が先にあって、次に愛があることなんてないのです。それは欲求です。
 愛が先にあって、次に自分があるから、自己犠牲に見えるだけです。
 特に、自分の子供に対しては常に後者ですね。
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この回答へのお礼

再度回答いただきまして、ありがとうございます。
愛の前に自分の欲求があることに、気づくことができました。

お礼日時:2008/10/21 20:05

創価学会の人ならみんな知ってると思うのですが、仏教の教えの中に、 十界論というのがあります。



地獄界 餓鬼界、畜生界、修羅界 人界、天界、声門界、縁覚界、菩薩界、 仏界の、十界です。

そのうち 最後から4つまでを 「四聖」として尊んでいるのですが、この十界論の中身は、 もう一枚深い形になっていて、 全部の界にも仏の世界もあるという形となっています。 十界互具論とも言います。

このあたりが解りにくくてちゃんと説明してる文を実は読んだことがまだありません。でも、これこそ、仏界の心の姿をかなりえぐったすぐれた表現だと私は思っています。

ここではその説明はしませんが、

十界の めちゃくちゃ幼稚にも思える人間分析を 今の学問の感覚から馬鹿にしないで聞いてほしかったのです。

そうそう、創価学会の指導者達も このへんの詳しい説明はしていません。 でも彼らの池田氏がリーダーとなってからの実践エネルギーはかなり哲学的な改革の熱を持っていたことを私は知っています。  彼らの師弟感の道も私は否定はしていませんし、 行動力は応援したいと思っています。  ただ、 哲学としてはまだちゃんとして 説明できていたりはしてないのです。   池田氏は立派だと思います。 ならば 弟子達はもっと深く人生を思索できるようになってほしいと思っています。

上記は余談ですが、 十界論自体は 深い点もある仏典なんです。

その内の この質問と関わる点が、菩薩界という 「慈悲とは何かを心問いつつ生きる心の世界(oore1029さんと同じようにです)」のことを、 じんじゃ惑(漢字は忘れましたが 宇宙のチリのように多き惑いの世界)と言っています。

本当の慈悲の心の世界は なかなか見えてこないで 無数の迷いが起る世界という意味合いのものだと思います。

これを十界互具論から説くつもりは、ここでは無いのですが、 あくまでそれによって答えを説明しようとしていた昔の人の知恵の深さはしのばれる世界です。

しかし、 それがいまだに仏教学者とかの間で明確に説明されていないということは、 その抽象性が間違ってるとは言えないまでも、 あくまで抽象的な説明に終わっているものであり、具体性に欠けるとは言えてしまうところと思います。

仏教への信仰、法華経への信仰自体を否定してるものではありません。 論理は進められるべきなんです。

いつまでたっても 仏界の入り口さへそれがなんだか見えてこないのではなんのための仏典なのでしょう。  解らないことを持って信仰の理由としてしまうのでは、怖さに限って言えば、オームといっしょです。ちがいますでしょうか。

こんな切実な問いへ、昔の仏教徒達は答えようとしていたのです。 創価学会の人たちの哲学を問わないではいられないところとなってしまうのです。

oore1092様、 私も 同じ悩みを悩みました。 ほとんど似ています。

自分を見つめると、自分は善人ですが、あまりにも普通にすこし善人であるに過ぎない しかも木の葉のように揺れもする弱い弱い人間にすぎなくて、 それはもう認めるだけしかできないのかな? ではなんで自分は善人の方に傾き、かつ人間全体がもっと幸せになってほしいとも思っているのかな?  こんなに自分自身が弱いくせに、 とかとか  さらにこの奥の自分の心も覗かなければならなくなりました。

私は 子供の頃死の床を何度もさまよいました。 右の肺胞が全部つぶれ左の肺胞もあと少しの状態の苦痛をもう耐えることも出来ない状態を意識はさまよっていたりしました。 死の恐怖は その苦痛以上だったことも私の意識では体験してたりします。  いじめで とうとう気が狂う体験も実はしています。  いっぽう、うれしいこととか、楽しいこともかなり深く体験もしてます。     

そうですね。 廃人になりかかって子供時代にて、 やっとまわりの人がいじめその他の状況に気がついてくれて ある海辺の虚弱児施設にはいることが出来たときには、まさにそのぶん天国のような子供時代を過ごすこともできたのですが、    その施設の就寝時に毎日のように流れてきたクラッシック音楽、アンダンテカンタビレーと、トロイメライと、ユモレスクの三つが主でしたが、そんな時だからこそ、それはもう子供心なんかではなく人間として胸の奥の奥まで 深く深く染み入ったものです。

音楽のそうした感動は別格なのですが、 楽しいことも私はその後もたくさんしていますし、 また地獄も別に味わってます。

そういう私自身の心を 私は観察しないではいられなかったのです。 ごまかすことはできなかったのです。

苦しい体験は ほんとうに同じ苦しんでいる人へのあたたかい思いやりに通じているのか、その心が私の中に それによって育ったのか? というと 逆にその奥には同じ苦しい体験をほかの人も味わうべきではないかという冷たい冷たい心も 奥のほうにですが見えてきてしまったということです。

楽しい経験も、同じくそれを独り占めしたい心と、それをみんなにも分かち合ってみんなで楽しみたい心との二つの心が なんと両方とも自分の中にあって、 まるで自分は木の葉状態であることが見えてきてしまったのです。

この4つどもえの 矛盾した心の葛藤と、    その 奥の奥の奥にですが、やっと見えてきた答えの世界、

いっぺんには、書けそうにないのですが、 この続きを書いていいですか?

今 時間が無いので 何日か後になってしまうかもしれないですが、書いてみたいです。
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No.14です。

上手く話が伝わっていなかった様なので・・・。
欲望と言うと、皆さんあまり良いイメージをお持ちでないようですが、私はそうは考えません。
根本的に、~をしたい、~がこうであるべきだ、と思うのが欲望ですよね。
そこでよく考えてみて下さい。根本的に、一つ一つ、丁寧に。
形はどうであれ自分の心の何かを満足させる為に、しているんじゃあないですか?それが、無償かどうかなんて問題ではなくね。
ですから私は、愛とは美しい欲望の形の一つだと考えているのです。
故に、欲望を超えた愛は存在しないと思いますが・・・。
まあ、そう言う訳で、欲望の形=人格だと考えている訳ですね。
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この回答へのお礼

再度回答いただきありがとうございます。
なるほど、#24の方にいただいた回答と併せて考えると、理解しやすいです。
人は人であるが故に、欲望を超えた愛は存在しないということなのでしょうね。
無償の愛を望んでいても、それは人の(いい意味での)欲望が生み出す無償の愛ということでしょうね。

お礼日時:2008/10/19 21:32
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