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神は何故、ヤコブに殴り合いで負けたのですか?
手加減していたのでしょうか。
それとも慣れない肉体バージョンだったからでしょうか?

A 回答 (3件)

 No.1です。

この件について詳しいわけではありませんが 若干補います。

 組み打ちの様子については 次のとおりです。
 ▲ (創世記32:23~26) ~~~~~~~~~~~~
  ヤボクの渡しを・・・ 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。
 そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。
 ところが、≫ その人はヤコブに勝てないとみて ≪、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。
 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。
 「お前の名はもうヤコブではなく、これからは≫ イスラエル ≪と呼ばれる。お前は≫ 神と人と闘って勝った ≪からだ。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《イスラエル Israel < yisraa El.》の語源ですが 必ずしも 明解ではないようです。
 まづは この記事にもあるとおり 《かれは たたかう( yisraa )。神と( El )》という解が 一般とされています。
 アブラハムとその女しもべであるハガルとの息子の名 イシュマエルが 《かれ(神 El )は聞きたまう( yishma'a)》という意味であるのと だいたい同じようにです。
 ところが この 《たたかう》という動詞は 現代には 伝わって来ていないようなのです。三千年四千年前の言葉から現代ヘブライ語は 作られているのですが。
 兄弟語のアラブ語に 《 sharaya 》という語があって これと同源だろうというのですが この語も 《売る・買う》の意味で伝わっていても 《たたかう》ではないようです。
 同じアラブ語なら 《 saraya 》という語があって これは 《夜 旅をする / もしくは 行き渡る・浸透する( pervade )》という意味があります。旅は夜がふつうだとすれば 《神は 旅をする / もしくは 神が染みわたる》という意味で イスラエルの語を解するといいのかも知れません。 saraya が yisraa となるのは 三人称単数の主語のための 不完了形(現在形)への活用です。

 ☆ なお 《ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた》あと 次のような記事があって どうも からだの打ち身であるようには 思われます。
 ▲ (創世記32:31~32) ~~~~~~~~~~
 ・・・ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。
 こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 推測を交えていますと おことわり致します。
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この回答へのお礼

詳しい説明をありがとうございます。

No.2さんも書いてくださいましたが、イスラエルの意味も色々な説があるんですね。
大変興味深かったです。

お礼日時:2008/11/16 03:17

天使と神は同一・・・でしょうね。


神にもランクがあり、最高位の神以外の神は、天の命令を伝える天の使い つまり 天使ってなるんでしょうね。

で、たくさんの神々がいたわけで、そのうちの何人?かが、上に行ったり 下に下りたりする光景を、ヤコブは見た。

もし そのようなことが実際起こったとしたら、夢か幻覚でしょう。


ヤコブはエサウからレンズ豆とひきかえに長子権をもらい、目の見えない父親は、兄エサウだろうとヤコブを思い、子孫繁栄を約束したわけですが、仕組んだというやましい気持ちがぬぐえず、もんもんとしていたわけです。

心の葛藤があり、それが夢の中に出てきた。
うーん うーーん とうなされ、これでいいんだ という夢になった。

夢の中で、心の葛藤が天使との葛藤となり、卑怯は手を使った自分にも栄光は与えられるという夢になり、満足したのではないかと。

というわけで、ヤコブの心の葛藤だと思います。


私の記憶では、天使はヤコブに負けていない。
勝負がつかず、朝になったからもう帰るという天使に対して、ヤコブは食い下がり、「私を祝福してくれるまで、放しません」となった。


途中で天使は、ヤコブのスネを打ったわけですが、これは比喩で、ヤコブの去勢を表していると思います。
神の祝福は子沢山のことですから、ヤコブはやましいことをしたから、子沢山になれない→去勢 という夢になったのではないか と。

では やましいことをした男は結局 祝福(子沢山)になれないのか というと、ヤコブはあきらめきれず天使を放さず「自分を祝福してくれ」と食い下がったわけで、天使は食い下がるヤコブを祝福して、手を放してもらって開放された。
これは、ヤコブの自分のしたことを受容し、トラウマから自己解放するという心理描写ではないかと。


で、イスラエルは、神に勝った者という意味だとされますがそうではないとすると。。

ラはラー(王)で、エルは主人という意味だとすると、イスは、、、、?

Is Ra El

うーーん Ra is El。 王は我が主(神)って意味でしょうか。
王と神は同一ってことかも。

今読み返していてふっと気づいたのですが、日って太陽の意味がありますよね。
「El おお 日だぁ」 ってちょっと感動しました。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

ヤコブが一晩中悩んだことが、神との徹夜の格闘と表現されているんですね。
確かに精神的に相当追い詰められていたという感じがします。
卑怯にでも生きていけるが、大きなケガを負うという教訓のような気もしますね。

お礼日時:2008/11/16 03:10

 伯父であり義父であるラバンのもとから帰るとき その帰る先では 仲たがいしている兄エサウのことが 気になります。

その兄に会う前に ヤボクの渡しで ヤコブは 人の姿をした神に出逢い 格闘をした。そして勝ったということですが それは 神がヤコブを祝福しているということを示しているのではないでしょうか。

 ▲ (創世記32:3~13)~~~~~~~~~~~
 ヤコブはセイルの地、エドムの野に住む兄エサウのもとに、さきだって使者をつかわした。
 すなわちそれに命じて言った、「あなたがたはわたしの主人エサウにこう言いなさい、『あなたのしもべヤコブはこう言いました。わたしはラバンのもとに寄留して今までとどまりました。わたしは牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでわが主に申し上げて、あなたの前に恵みを得ようと人をつかわしたのです』」。

 使者はヤコブのもとに帰って言った、「わたしたちはあなたの兄エサウのもとへ行きました。彼もまたあなたを迎えようと四百人を率いてきます」。
 そこでヤコブは大いに恐れ、苦しみ、共にいる民および羊、牛、らくだを二つの組に分けて、言った、「たとい、エサウがきて、一つの組を撃っても、残りの組はのがれるであろう」。
 ヤコブはまた言った、「父アブラハムの神、父イサクの神よ、かつてわたしに『おまえの国へ帰り、おまえの親族に行け。わたしはおまえを恵もう』と言われた主よ、あなたがしもべに施されたすべての恵みとまことをわたしは受けるに足りない者です。わたしは、つえのほか何も持たないでこのヨルダンを渡りましたが、今は二つの組にもなりました。どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます。
 あなたは、かつて、『わたしは必ずおまえを恵み、おまえの子孫を海の砂の数えがたいほど多くしよう』と言われました」。
 彼はその夜そこに宿り、持ち物のうちから兄エサウへの贈り物を選んだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが ヤボクでの格闘の前の様子です。この祈りがかなえられたというしるしとして 組打ちで 負けたということのように考えます。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

しるしということですが、確かにそうですね。
「格闘した」という事が、妙に頭に残っていて、前後の流れを忘れていました。
ヤコブは卑怯者だと思いますが、神の力に疑いを持つことは無かった。
そういう人間こそ、神は愛するのでしょうね。

お礼日時:2008/11/16 02:50

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