「夫を成功」へ導く妻の秘訣 座談会

戦前の軍部はなぜ暴走したのですか?
張作霖爆殺は、なぜ軍の指揮権を持つ天皇に許可無く行われましたか?
そして、その実行犯を天皇が罰しろと言ったのに、罰せられませんでしたか?
柳条湖事件、満州事変、盧溝橋事件、日中戦争と、軍部と天皇との関係も教えてください。

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A 回答 (8件)

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。


これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に対する恐れから、戦前の日本では本来過渡的な体制であったはずの明治体制の抜本的な変革は、さしずめ戦後日本における改憲のごとく、タブー視されるようになってしまいました。
しかしながら元老のカリスマ性に頼った体制が長持ちするはずが無い事は自明の理であり、このために大正期は「軍の統帥権とはあくまでも純粋な作戦面に限定される」という言わば「解釈改憲」でこの問題を乗り切っていたのです。
しかしながら抜本的な改革が行われなかった結果、軍と政府の分立状態は次第に亀裂が大きくなり、張作霖爆殺事件でも真相究明ではなく田中義一内閣総辞職で幕を引く結果となりました。
そしてロンドン軍縮条約調印時、野党であった政友会は政府を攻撃するために「海軍軍令部の同意の無い軍縮条約の調印は統帥権の干犯である」と非難し、軍の統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。
この結果、これ以降に政府や議会が軍の行動を統制しようとすると「統帥権の干犯だ」と揚げ足を取られる事になってしまいました。
(当時の書籍を読むと現役の軍人でも「統帥権の独立は時代遅れであり、国家の将来に禍根を残す」と激しく非難している例もあります)

そしてもう一つ重要なのは、当時の日本では中国大陸に有していた利権(いわゆる「特殊権益」)は「日露戦争で多大な犠牲の末に獲得したものであり、絶対に手放してはならない」という、これまた戦後の日本における一時期の憲法九条のように、その是非を論じる事の出来ない不可侵の存在であるかのように評価されており、その利権の保持を目的とした武力行使は世論やマスコミの強い支持があったのです。
この為に満州事変では軍中央の意向に逆らって占領地を拡大し、現地軍が勝手に満州国建国を行った事をマスコミがこぞって支持し、軍中央も政府も暴走を追認してしまいます。
当然ながらこの結果として「軍中央や政府を無視しても戦果さえ挙げれば認められる」という「下克上」の風潮が生まれ、その後の日中戦争においてズルズルと占領地を拡大する現地軍を止めることが出来なくなってしまいます。

総じて言えば本来、過渡的な体制であった筈の明治維新体制が、皮肉にもその成功故にこそ維持され、時代に合わなくなった状態で行われた普通選挙による民主化が、党利党略しか考えない近視眼的な政治家を生んでその問題を拡大し、また政府及び軍中央が武力行使を支持する世論に阿って誰もが責任を取ることを回避していった結果だと言えるでしょう。
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歴史視点からは言われるとおりでしょう。



家庭的には人口爆発なのにおいしい所が全て年輩層が持っていた。
江戸時代にあった職業や就職の社会補償は明治政府がぶち壊したので自己責任の時代になってしまいました。
成人しても職の保証が無い。野宿生活ですね。
更に、大家族なので飯を食わせれない家庭が出てきてまともな家庭に育っていない人間が大量発生した。

明治初期の工業化と景気のお陰で何とか持ったけど、不景気と言われるような無能な官僚で益々自己責任が強まった。

自己責任を全うするには実力行使。
心の拠り所である宗教をぶち壊したしね。
それによってカルト宗教が出てきたしね。
そんな心がぶち壊れた人間が権力だの武装化したらどうなるかは世界大戦もそうだけど、最近でも良く分かると思いますが。
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これは日本人が持つメンタリティによるものが大きかったと思います。

最近ややそういった傾向は少なくなっていますが、かつては日本社会では「下が頑張る。上は黙って見ている」これが最も理想的な上下関係でした。これは今でも日本企業に色濃く残っているところがあって、何か不祥事があると「それは部下が勝手にやったことだ。私は何も知らされていなかった」と社長がよくいいます。これが欧米なら「部下が何をやっているのか把握していない時点で管理者失格」となるのですが。

その典型としてノモンハン事変を挙げたいと思います。ノモンハン事変であの悪名高い辻政信を始めとした現地若手将校はソ連領への爆撃を敢行します。得意満面で「大戦果です」と報告した彼らは中央(東京)から「何が大戦果だ、バカモン!」と怒鳴られます。
これは考えてみれば当然で、あくまで地域紛争にしか過ぎなかったノモンハンの軍事衝突でソ連領に爆撃なんかした日にゃ全面戦争にもなりかねません。そんな重大事を現地の判断で勝手にやられては困るのです。
しかし、現地はこれに大反発しました。辻氏の回顧録によると「命をかけて任務をこなした兵士達にそれはないだろうと思った。こういうときに『大戦果は立派だが、こういうときはちゃんと事前に話してくれよ』といってくれれば私たちもハイわかりましたとなっただろう。中央は現場をわかっていないと私たちは憤懣やるかたなかった」と、かなり都合のいい言い訳をしています。
結局のところ彼らが罰せられることはありませんでした。「確かに勝手に爆撃したのは不埒だが、本人達はよかれと思ってやったことだし(←ここ重要)結果的に全面戦争にもならなかったんだから」というようなものです。

ここらへんのところは今でも変わらないところがあって、例えば官僚でも実際に動かしているのは課長クラスで、官僚の最高位である次官は半分名誉職みたいなものです。その上の大臣ともなると、官僚が出した書類に黙ってハンコを押せばいいんだと官僚は思っているでしょう。

また天皇の統帥権というのは、かなりそれを利用する人たちによって都合がいい解釈がされたものです。対米開戦を前にいわゆる御前会議が開かれたのですが、確かに御前会議で決まったものは国家としてゆるぎない決定事項となるのですが、それに対しての天皇の発言権はほぼ皆無でした。天皇は御前会議では「よきにはからえ」と承認するのが慣例だったのです。対米開戦に反対する昭和天皇は本来ただ承認するだけの場である御前会議で質問したいと言い出して侍従長たちを慌てさせています。侍従長たちは「御前会議で天皇自らがご発言されるのは穏やかではない」と天皇を諌めています。
もちろん戦後の東京裁判では御前会議で最終的に決定されたんだから昭和天皇にも戦争責任があるはずだとの声が上がったのですが、国体護持を求める日本側と天皇に責任を追及することによって人心が乱れることを恐れたGHQによって不問にされました。実際問題、手元のカードに「承認」しか持たされなかった昭和天皇にそこまで責任が問えるかというと厳しいと個人的には思っていますけどね。
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軍部と天皇の関係ですが、天皇は統帥権を行使して軍を統率するのですが、君主が直接軍を主導するのはせいぜい19世紀までですので、君主を輔弼する参謀総長が実質的に軍を指導するわけです。

勘違いしている人もいると思いますが、あくまで形式上は命令権は天皇にあり参謀総長は補佐役にすぎません。これが、ドイツやイタリア、ソ連といった独裁国家であれば独裁者が強力に軍を統制しているので軍が暴走することはありませんし、アメリカやイギリスといった文民統制が機能している国でも同様です。日本は天皇が絶対君主ではなく、立憲君主なので軍を強力に統率することもできませんし、政府と軍が完全に独立しているので文民統制も機能しませんでしたので軍の暴走を止めることができなかったのです。さらに軍も上層部が現地部隊の暴走を止めることもできなかったのです。日本は実権が無きに等しい(政府も軍も天皇が権力を行使するのを好まなかった)天皇の下に政府と軍が並立して、さらに軍も陸軍と海軍に分かれ、さらに軍政と軍令に分かれていました。これが満州事変などで現地部隊の暴走を止められなかった原因ではないでしょうか。
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田母神氏のような考え方の人が、軍部の実権を握り、それに反する人を次々と粛清していったからです。


日本人を教育の場で、洗脳していったため、日本人が自然と田母神氏のような主張を正しいと思うようになった事も理由です。

統帥権の独立は、建前上天皇が最高指揮官ですが、実際は軍部の独裁であり、手苦悩には、なんの実権もありませんでした。
軍に対する政府の干渉を排除するために、統帥権の独立が言われたにすぎません。

>柳条湖事件、満州事変、盧溝橋事件、日中戦争と、軍部と天皇との関係も教えてください。

回答者の立場により見解が異なりますので、ご自分で調べることをおすすめします。
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226事変の後、それまで皇道派(天皇を至上と仰ぎ、民を救済する趣旨)と統制派(国家全体主義、ナチズム的思想)が陸軍の2大派閥でしたが、226は皇道派の勇み足と挫折に終わり、これを好機に統制派が全実験を握ります。

これは思想そのものが対外戦を主眼とするものですから、当然ブレーキがかからずに対外戦に一直線と言うことになります。
つまり、226ですべて邪魔になるものをつぶした、陸軍の一派独裁がさせた技です。

それから、この派は、「天皇は統帥権を持つがそれは便宜上のものであり、実験は軍部が握ってかまわない」という下種の集団であったため、天皇を完全に飾り物にしてしまいました。
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満州を植民地にしていた当時の日本の財政面から調べてみたらどうでしょうか。

現在でも戦争はお金によって起きていることがほとんどだと思います。一見お金とは関係がないように見えても特に長期にわたって戦争がやまない裏にはお金が絡んでいると思います。
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まずは自分で調べてみましょう。

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Qなぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

なぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

関東軍の暴走や、5.15事件、2.26事件…。
真珠湾攻撃の前には既に南方で勝手に戦端が開かれていたとか。
それから、敗戦時にも玉音放送を中止させようと陸軍のクーデターが起こるなど、なぜ戦前の日本では、軍事がコントロール不能になってしまったのですか?

当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?

※これはド素人の質問ですので、質問文中に認識違いなどがあった場合は遠慮なく指摘して頂いて結構です。その際はどうぞお手柔らかに…

Aベストアンサー

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良かったのでしょう。
内閣・国務大臣も戊辰戦争を戦ってきた人々でしたからね。

時代が進むにつれて、「統帥権」の変容したのが、軍部の暴走した要因だと思います。
大日本帝国陸海軍には行政組織の陸軍省と海軍省が有り、それぞれに大臣がおりました。
これらは内閣の一員の行政組織で、人事権、徴兵などを行政事務を行ないます。
それとは別に海軍には軍令部、陸軍には参謀部があり、軍令部総長・参謀総長がおりました。
実際の作戦立案、実行を一手に握っていました。

最初は海軍省>軍令部、陸軍省>参謀部の関係でした。
現役の軍人とはいえ、官僚ですのである程度の常識を持ちイケイケの軍人を抑えていたのですが
それに不満を持つ軍人が「天皇は陸海軍を統帥す」の文言を盾にとり、統帥権の独立を画策し始めました。
次第に省令等を改定し、海軍省<軍令部、陸軍省<参謀部の力関係になりました。
つまり、軍人の文が弱まり、武が強くなってきました。
国会議員が異議や反対意見を述べたりすると「統帥権干犯」を持ち出し、反対意見を封殺していきました。
つまり、建前上、天皇のみしか軍隊を指揮命令する事が許されない
神聖にしてだれも犯す事の出来ない武力集団に仕立て上げたのです。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tousuikennnokannpann.htm

しかるに、昭和天皇は皇太子時代、大英帝国を訪問し、英国の立憲君主制に触れ、それを模範にするお考えが有りました。

国王・皇帝が独裁的に指揮・指示・命令をするのではなく、それを輔弼する内閣・国務大臣の政策を承認する形を取りました。
それで、天皇の名の下に、自分の都合よく相手国に武力行使を独断専行で行い、全て事後承諾で戦争へと進んだのです。
結局は、降伏か戦争継続かで意見が分かれ、収集が付かなくなり、昭和天皇のご聖断となった訳です。

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良か...続きを読む

Q昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

軍幹部や閣僚、枢密院の事実上の強制である「助言」に逆らえなかったのはなぜなのでしょうか?
天皇は、軍部を最終的に指揮・統括する統帥権を持っていたのですよね。
様々な事由で軍や政治家の意見を聞き入れなければならない状況もあったと思います。しかしミッドウェー以後の戦況を正確に知っていたなら、最早戦況は絶望的で、このまま戦いを続けたなら軍人のみならず、多くの国民の命が失われることは火を見るより明らかであったことは知っていたはずです。
軍・政治家の「助言」は飽くまで助言であり、例えそれに反したものであっても、最終の決断を下す権限を当時の天皇は持っていたのですよね。そしてそれは、何人たりとも妨げることはできなかったのですよね?
にもかわらず「本当の」統帥権を発動できなかったのは一体なぜなのでしょうか?

Aベストアンサー

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答されていらっしゃるように、昭和天皇が自身を「立憲君主」として律していた根拠でもあります。
つまり、統帥権を含め国務は輔弼の臣の輔弼行為に依拠し、天皇は積極的な国政への関与を控えていたと言うことです。皆さんがおっしゃているように田中首相への叱責、二二六事件、終戦の決断以外には判断を下していません。終戦についても最高戦争指導会議構成員会議および閣議が意見の一致をみないために、最高戦争指導会議に枢密院議長を入れ、御前会議の形式をとり、天皇の判断を仰いだために天皇が決断したのであって、昭和天皇も決断を求められるのは本来の形でないと思っていらしたようです。
ですから、戦争がいかに不利になろうとも、国務・統帥の輔弼がない限り停戦・休戦・終戦にならなかったのではないでしょうか。また、統帥部の輔弼がない限り、終戦への統帥権の発動もなかったと思います。
このように輔弼を受けることにより、責任は輔弼の臣が取るべきもので、天皇自身には及ばない体制が成立しています。西園寺が天皇に田中首相叱責で注意したのはこの点であり、長い伝統を持つ公家社会(天皇を含め)の伝統的方策(生き残るための知恵)にも合致していたからです。

以上、参考まで。

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答さ...続きを読む

Q太平洋戦争を早く終わらす事ができなかった理由

皆さんこんにちは。

昭和20年8月15日に太平洋戦争は終わるわけですが、
日本政府が勝つ見込みがないと、考えていたのは、
いつぐらいからなのでしょうか?

そして、それならなぜもっと早く終わらす事ができなかった
のでしょうか?

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

ええと、負ける云々の前に早期和平について、

はじめる前は当然、早期和平ではじめましたが具体的な方策がありませんでした。

真珠湾攻撃前、アメリカ国民は戦争賛成派は極少数でしたが、外務省の馬鹿のおかげで奇襲攻撃とされ、アメリカ国民が一挙に戦争賛成派にかわりました。

ある一定の有利(?)な条件で講和が進められる可能性のあったのはイタリアが降伏する前でしたが、相手のあることで上記のような理由と、海軍がミッドウエーの敗戦を海軍内部のみの秘密としていたため、東条総理ですら1年間しりませんでした。

負けを政府が悟ったのは?

これは難しいですが、まず、サイパンが陥落し、東条内閣が総辞職したときと判断するのが適切と思います。

なぜもっと早くできなかったか?

特攻隊の生みの親と言われる大西中将は、特攻などという戦術として成立しないことを行えば、臣民にたいし慈愛ある昭和天皇は、即刻、講和を行うと考えていたが、天皇は「不憫ではあるがやむなし」とお褒めになったので、やぶ蛇になった。

まず、陸軍は中国戦線では負けてないので感情的にも負けてないのに講和考えられない。海軍は特攻のやりすぎで、今までの死んだものに顔向けできんと自暴自棄状態だった。そうした現場の殺気だった中間管理職層を陸軍も海軍も抑えきれるものがいなかった。

また、外務省がとろく、連合国側の情報収集がまったくおそまつだった。

アメリカと和平工作を開始しようとした途端に、その責任者にしようとしていた吉田茂が憲兵に拘束され、対アメリカ工作ができなくなった。

などなど、あげればきりはありませんが、そもそもは、最初に負けたときのことを考えていない。勝ち方も考えていなければ、負け方も考えていなければ結果はああなるということです。よく、それで戦争を始めたという無責任ぶりに呆れるばかりです。

ええと、負ける云々の前に早期和平について、

はじめる前は当然、早期和平ではじめましたが具体的な方策がありませんでした。

真珠湾攻撃前、アメリカ国民は戦争賛成派は極少数でしたが、外務省の馬鹿のおかげで奇襲攻撃とされ、アメリカ国民が一挙に戦争賛成派にかわりました。

ある一定の有利(?)な条件で講和が進められる可能性のあったのはイタリアが降伏する前でしたが、相手のあることで上記のような理由と、海軍がミッドウエーの敗戦を海軍内部のみの秘密としていたため、東条総理ですら1年間...続きを読む

Q日本がハルノートをを受け入れ戦争しなかったら?

歴史で”たら、れば”は持ち出す事は駄目なんですが、もし、太平洋戦争に突入しなかったら日本はどうなっていたでしょう? 戦争で余りにも多くの方がなくなりましたが、戦争しなかった方が日本の将来は明るくなる事が期待できたのでしょうか?

Aベストアンサー

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の失業者が
街に溢れ、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
さっぱりです。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。
その現れがハルノートです。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。


米西戦争では、 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しています。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり戦争が始まっています。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の...続きを読む

Q太平洋戦争は政治力で回避できましたか?

先の戦争で亡くなった方は日本人で330万人と聞いております。なんと言う惨状でしょうか?今更なにも始まりませんが、避けられたのでしょうか? 回避はできたとしても理不尽な要求を呑んで日本人としてのプライドも無くなっていたのでしょうか?歴史に”もし”は禁句ですが、色々想像しています。

Aベストアンサー

どこまで歴史を振り返るのかで変わってくると思います。

NHKの番組やその取材班の日米開戦の本などでは「南仏印進駐」を戦争不可避の分岐点としています。
私もその考えに賛成です。

そもそも、日本の大陸進出が先鋭化しなければアメリカと戦争になる事は回避できたと考えます。

1932年の満州事変ではアメリカを含め国連が日本の行動に反対しましたが、決定的になるところまではいきませんでした。

1937年に日支事変が起きた時も、アメリカ政府はすぐには中国に味方しませんでした。
日支事変発生を受けての九カ国条約会議の開催で、中国側が日本への経済制裁を提案した時、アメリカは反対に回りました。
なぜなら、日支事変発生によって、日本も中国もアメリカから購入する戦略物資の量が増えたからです。
つまり、戦争する両者に物を売ってぼろ儲けする立場にアメリカはいたのです。
だからアメリカは一方的に中国に味方する事はありませんでした。

その状況が変化したのは、中国大陸で日本が中国を負かすため戦略爆撃を開始したからです。
当時、アメリカは中国に多大な投資を行っていました。
それが日本の空爆で被害を受けます。
アメリカは日本に中国での空爆を止めるよう何度も抗議しますが、日本は受け入れません。
怒ったアメリカは日本へ徐々に経済制裁を開始します。
始めは空爆を止めさせるための飛行機関連の輸出停止でした。
しかし、日本の空爆は止みません。
しかも、日本は空爆での民間被害の補償は行わない方針を打ち出します。
さらに、爆撃を強化すると通告し中国にいる外国人の安全も保障しない方針を打ち出します。
アメリカの苛立ちはつのり経済制裁を日本に段階的に行いますが、日本の行動は止まりません。
しかも大東亜共栄圏構想という日本の植民地拡大政策と判断される政策を打ち出してきました。
そこでアメリカは中国への支援に乗り出しました。

アメリカが中国への資金援助を開始したのは1938年12月という日支事変開始より1年5カ月も経った時点からでした。

その後も日本はアメリカを怒らせ続けます。
1940年9月にアメリカがイギリスと防衛協定を結んでドイツを潜在的敵と見なせば、その二週間後に日本はドイツとイタリアと日独伊三国同盟を結びます。
アメリカが敵と見なしている国と同盟を結ぶのですから喧嘩売ってるのと変わりません。
怒ったアメリカは鋼鉄の対日輸出を停止します。

最終的には南仏印に日本軍が進駐してアメリカを決定的に怒らせ、アメリカの対日石油禁輸となりました。
この南仏印進駐についてはアメリカは日本に対して警告までしています。
当時の日本の外相は南仏印進駐はアメリカとの戦争になるから止めた方がよいと主張しますが他の閣僚が甘い見通しで押し切ってしまいました。
そしてアメリカは石油を止め、日本は戦争の決断を。

アメリカによる段階的経済制裁の始まりの原因は日本の行動にあります。
アメリカの抗議を受け入れ日支事変での戦略爆撃を止めていたら。
また、日支事変の戦略爆撃においてアメリカに与えた損害について補償をすぐに行っていたら。
大東亜共栄圏構想という他国に日本の植民地拡大政策と捉えられる発表をしなかったら。
アメリカが中国を支援する事は無かったかもしれませんし、その後の日米開戦も避けられたかもしれません。
その後も
日独伊三国同盟を結ばなければ。
北仏印に進駐しなければ。
南仏印に進駐しなければ。
恐らくアメリカと戦争になる事は無かったでしょう。

アメリカのチャールズ・A・ビアードという歴史家の「ルーズベルトの責任」という本の中で、ハーバード大学のデートレフ教授がこの本の紹介文を寄せていますが、そこには
「日本がアジア大陸で膨張主義的な目的を追求した事からルーズベルト大統領は懸念を覚え、日本を押さえ込むために圧力をかけ始めた」と記しています。
この本を読めばルーズベルト大統領が表向きは不戦の姿勢を見せながらもハル・ノートという過度な要求を日本につき付け、日本を戦争へ追いやった事がわかりますが、その前に日本のアジアの膨張政策が問題であった事もわかります。

1941年8月1日、アメリカが日本に対し石油の全面禁輸を禁止を行いました。
その2日後、ニューヨークタイムズにギャラップのある世論調査の結果が載りました。
それは「アメリカは戦争の危険を犯してでも日本の膨張に歯止めをかけるべきか」というアンケートに対するものです。51%の人がYESと回答していました。
この時点でアメリカ国民も半数が日本のアジア進出に危機感を抱いていたのです。

そもそも当時のアメリカの好景気でした。

「ニューディール政策」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%94%BF%E7%AD%96

この上に貼ったウィキの「ニューディール政策」のところにあるアメリカのGDPのグラフと失業率のグラフを見ていただければわかりますが、戦争が開始される1941年12月よりも前の1940年以前において、既に世界恐慌前のGDPの水準に回復している事がわかりますし、戦争開始前に失業率が低下していっているのがわかります。
これはヨーロッパにおいて第二次世界大戦が始まったからであり、イギリス、フランス、カナダ等、連合国から大量の武器や物資の受注があったからです。
それだけではありません。イギリスはアメリカの軍需産業に投資を行い工場の拡大や設備の増強を求め、生産の拡大に動いています。
つまり戦争特需が発生していたのです。
自国が戦争を起こし戦争で経済を回復させるなどという必要はありません。
そもそも第二次世界大戦におけるアメリカの戦費は戦時国債です。つまり国の借金でしかありません。
それに一時的に景気が回復しても戦争が終われば軍需生産は萎みます。
その後は不況が来るだけです。実際、アメリカは戦後に戦後不況に陥っています。
上に貼った「ニューディール政策」のGDPや失業率のグラフにおいて、第二次世界大戦後に悪化を示しているのは戦後不況が起きたからです。
もし世界恐慌からの経済回復を目指して戦争を仕掛けさせる謀略を行うというのなら、そんな回りくどい事をしなくても1937年12月に発生した日本軍機によるアメリカ軍艦攻撃事件「パネー号事件」を利用していた筈です。
何せ、この時はアメリカ政府内から日本に宣戦布告するべきだという声が上がっていたのですから。

ともかく、日本がアメリカの敵視する独伊と日独伊三国同盟を結んだり、南仏印に進駐するなどの膨張政策を見せなければ、アメリカも日本に過度な要求を突き付け戦争に追い込んで来る事はなかったでしょう。

これらの事を考えれば、日本とアメリカの戦争を回避する可能性は南仏印進駐前までなら、その時、その時でありました。
日支事変での戦略爆撃の停止。
日支事変における戦略爆撃被害の補償。
大東亜共栄圏構想の公表を控える。
日独伊三国同盟の締結中止。
北仏印、南仏印進駐の停止。
そうした事が為されていたら、アメリカとは戦争にならず朝鮮も満州もそのまま日本の支配下で暫くは歴史も進んだのではないかと思います。

天皇陛下は日独伊三国同盟に反対していました。
また南仏印進駐にも反対で東条陸相に言いましたが受け入れられませんでした。
もっと天皇陛下の御意思を政府の閣僚が尊重していれば日本とアメリカの戦争は避けられたと思います。

どこまで歴史を振り返るのかで変わってくると思います。

NHKの番組やその取材班の日米開戦の本などでは「南仏印進駐」を戦争不可避の分岐点としています。
私もその考えに賛成です。

そもそも、日本の大陸進出が先鋭化しなければアメリカと戦争になる事は回避できたと考えます。

1932年の満州事変ではアメリカを含め国連が日本の行動に反対しましたが、決定的になるところまではいきませんでした。

1937年に日支事変が起きた時も、アメリカ政府はすぐには中国に味方しませんでした。
日支事変発生を受けての九...続きを読む

Q対米開戦はなぜ避けられなかったのか?

 近・現代史にお詳しい方にお尋ねいたします。
 なぜ、日本はアメリカを相手に太平洋戦争をしなければならなかったのでしょうか?言い換えれば、当時の日本を支配していた軍部首脳はなぜ、大国アメリカに戦いを挑んだのでしょうか?
 数年前に初めてニューヨークを訪れて以来、そのことがわかりません。エンパイアステートビルディングなど、空をも貫くようにそびえ立つ摩天楼の多くは、既に20世紀の初めから建設されていたはずです。あれを見れば、当時の日米の国力の差は歴然としていたはずです。子犬が巨象に挑むがごとく、あのアメリカに正面から戦をしかけるなど、私には全く理解できません。現に、真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官の山本五十六は十分に国力の差を承知していました。「アメリカの国力を知りたいならば、デトロイトの自動車工場を見れば一目でわかる」とまで言っておりました。山本五十六は大正から昭和にかけて何度かアメリカに勤務した経験があったからだとは思いますが。
 それとも、当時の軍首脳たちは全くアメリカの国力を分析することなく、戦争になれば元寇のような神風が吹くから必ず勝てる、とでも信じて開戦に踏み切ったのでしょうか。もしそうならば、「彼を知り己を知れば百戦危うからず」という孫子の兵法も知らなかったこととなり、敗戦は当然の結果となりましょう。ちなみに、開戦時の首相東条英機は訪米の経験がなかったようです。たしかに、国連脱退による孤立、ABCD包囲網、アメリカからの石油の禁輸など、日本に対する国際状況は日増しに厳しくなっており、日本としてもやむを得なかったのかもしれません。
 しかし相手が資源豊かな大国であることを考えた場合、どう見ても無謀な戦いであったような気がしてなりません。太平洋戦争はどうしても避けられなかったのでしょうか?
 ご存知の方は、どうか私の素朴な疑問にお答えくださるようお願い申しあげます。

 近・現代史にお詳しい方にお尋ねいたします。
 なぜ、日本はアメリカを相手に太平洋戦争をしなければならなかったのでしょうか?言い換えれば、当時の日本を支配していた軍部首脳はなぜ、大国アメリカに戦いを挑んだのでしょうか?
 数年前に初めてニューヨークを訪れて以来、そのことがわかりません。エンパイアステートビルディングなど、空をも貫くようにそびえ立つ摩天楼の多くは、既に20世紀の初めから建設されていたはずです。あれを見れば、当時の日米の国力の差は歴然としていたはずです。子犬が...続きを読む

Aベストアンサー

 日本という国には、資源がありません。工業用原料も無いし、我々国民の食糧も、米を除けば無いわけです。だから、国民の生活資源も、産業・工業用原料も含め、あるいは石油も含めて、1億2千万人が生活していくのにどうしても必要なのは、船のトン数にして6億トン。
 これだけの資源を海外から買ってきて、そして国民が一生懸命働いて、これを製品にして、別の表現をすれば付加価値を付けて、そして輸出をしているわけです。6億トンの資源を入れて、ソロバンを合わすためには、6000万トンを輸出しなければなりません。
 それは戦前も同じでした。そして、この代金の決済には外国に置いてある資産(ドル)で行われるのです。
 しかし、昭和16年7月25日アメリカは『在米日本資産の全面凍結令』を公布し、続いて26日にはイギリス、次いで27日にはオランダ・香港も日本の在外資産を全面凍結しました。

 在外資産の凍結を受けると、日本には石油が1滴も入ってこなくなります。いや、石油だけではなく食糧、工業用原料一切が輸入できなくなります。これらは、在外資産(ドル)を持っていて初めて買えるわけですから。
 言葉を換えて言えば、日本はアメリカに『死ね』と言われたのです。江戸時代のように2千万の人口だったら自給自足もできたかもしれませんが、戦前の日本の人口は8千万で外国からの輸入なくしては生きていけません。
 戦後、日本が戦争に突入した理由をマッカサーは『安全保障』だったと言い、東京裁判のパール判事は、『ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクでも矛(ほこ)を取ってアメリカに立ち向かうだろう』と言いました。

 それでもまだ、日本は基本的には『和』を目指していました。8月5日に、日米関係の危局を打開するために、日本は仏印(フランス領インドシナ)以外の領域には進出しない、米国比島(フィリピン諸島)の中立を保障する、米国との正常な通商関係を回復する、など新たな提案をアメリカに対して行っています。

 そして、その2日後の8月7日に近衛首相は天皇に拝謁をして、『アメリカへ行ってルーズベルト大統領とトップ会談をして、事態の打開を図りたい』と申し上げて、許可を得て、アメリカに向かいました。しかし、トップ会談は拒否されたのです。

 9月6日の御前会議では、結局『和』と『戦』の両用の決定が下されました。それは、10月までに日米交渉がまとまらなかったら、改めて、対米開戦を検討するというもので、対米交渉の色々な条件が決められました。そして、昭和天皇は、『対米交渉の努力をもっとやれ』と実質的に『和』の方の決定を下されたのです。
 当時、戦の準備で一番時間がかかるのは、海軍の連合艦隊でした。日本の連合艦隊は、戦艦大和をはじめ約130万トンの艦隊兵力を擁していて、世界第二位でした。戦争をするとなると、それらがみんな横須賀や呉や佐世保のドックに入って、人間ドックのようなことをやらなければならない。それに、戦艦の大砲もみんな新しいものに取り替えなければならない。それまでは平時の大砲で、それだって撃てなくはないのですが、いざ戦争となった時には取り替えることになっていて、それを海軍では、出師(すいし)準備と言い、二ヶ月ぐらいの期間を要しました。
 海軍の出師に対して、陸軍は動員と言い、これは人と鉄砲と馬さえあればできるので、海軍よりもはるかに早くできました。

 11月に入った26日、国務長官のハルが野村・栗栖大使に有名な『ハル・ノート』を渡します。このハル・ノートに書かれていた事は9月初めの要求と全く同じで、三国同盟からの脱退と中国大陸からの全面撤兵、それに満州国の解体でした。
 このハル・ノートの全文を見て、政府と大本営は協議を重ねた結果『開戦止むなし』の結論に達し、12月2日の御前会議で開戦の正式決定がなされました。
 
 これが日本が戦争に突入した理由と直前の状況です。早い話『窮鼠猫を噛む』と言うか、だまっていても、飢え死にだし、それだったら少しでも可能性のある方にと言うことです。だからアメリカとの戦争計画なんて無いし、慌てて突入せざるをえなかったのです。(まとめれば数行ですむことを長々と書いてすみません。)

 日本という国には、資源がありません。工業用原料も無いし、我々国民の食糧も、米を除けば無いわけです。だから、国民の生活資源も、産業・工業用原料も含め、あるいは石油も含めて、1億2千万人が生活していくのにどうしても必要なのは、船のトン数にして6億トン。
 これだけの資源を海外から買ってきて、そして国民が一生懸命働いて、これを製品にして、別の表現をすれば付加価値を付けて、そして輸出をしているわけです。6億トンの資源を入れて、ソロバンを合わすためには、6000万トンを輸出しなけれ...続きを読む

Q満州国建国の目的を教えて下さい。

なぜ日本は満州国という独立国を建国したのですか?当時の国際事情や国内事情などを踏まえながら、建国の目的を教えて下さい。

Aベストアンサー

当時、日本を含めた列強諸国は中国に数多くの利権を有していました。
これはアヘン戦争以来、一世紀近くに渡って列強諸国が鎬を削って中国での利権獲得競争を行った結果でした。
そして植民地獲得競争において出遅れた日本において、満州周辺で獲得した利権はほぼ唯一に近い「海外利権」でした。
このため当時の日本では「満蒙の特殊権益」は「明治以来、先人が苦労と犠牲と投資を重ねて獲得した利権」であり、また「国家の生存に必要不可欠」と認識されていました。
しかも当時は世界恐慌の結果、引き起こされたブロック経済化により日本製品は欧米やその植民地の市場では高額の関税を課せられる事となったために、その重要性がかなり誇大に意識されるようになっていたのです。
誤解を恐れず敢えて言えば「戦後の日本における一時期の憲法9条」のように、その是非を議論すら許されないという風潮があったのでした。
しかしながら第一次大戦以降の世界的なナショナリズムの高まりにより、中国においても列強に奪われた利権を奪い返す国民運動である「「国権回復運動」が起こりました。
ただしこのようなナショナリズムに根ざす運動は、現在でもそうですがしばしば過激化し、外国勢力への排撃運動に近いものになる事もよくありました。
その結果、日本人の多くは中国で獲得した利権が危機にさらされており、それが日本という国家の生存すら危うくしかねないという(現在の視点からすれば)かなり大げさな意識がもたれていました。
これは戦後の日本でも「日米安保は戦争の道」「PKO活動で日本は軍国主義化する」とか後から見ると馬鹿馬鹿しい話が大きな政治問題になったことを考えれば、理解しやすいのではないかと思います。

ただし満州事変当時の日本政府はまだ国際協調路線を取って、交渉で穏便な事態解決を望んでいました。
ところがその前にロンドン軍縮条約で引き起こされた「統帥権干犯問題」のため、政府は軍の統制を取ることが出来ず、満州事変により日本軍は政府の不拡大方針を無視して満州の殆どを制圧し、一気に「特殊権益問題」の解決を図ったのでした。
この行為は現在では「軍の暴走」とされますが、当時の日本ではマスコミは拍手喝采して支持し、事態の不拡大を計った「政府の弱腰外交」を非難しています。
そしてこの国民世論の後押しを受けて建国された満州国について、欧米との対決を望まなかった当時の犬養毅首相は承認を渋りますが、五・一五事件で暗殺され(犬養は統帥権干犯問題を引き起こしてこの事態を招いた張本人のひとりであるので、自業自得の一面もあります)、日本政府は軍の暴走と国民世論に引きずられる形で満州国を承認、欧米との全面対決、そして国際連盟脱退へと向かってしまいます。

このように満州国の建国は決して日本が国家意思として行ったものではなく、当時の日本人の「満蒙の特殊権益」に対する過剰な意識と中国側の反発、そして軍の統制問題などが絡み合ったために、一部の暴走を国家が追認するという非常に危ういものでした。
しかしそれが当時は「大成功」を収め、国民からも高く評価されてしまった事で、その成功体験が後の日中戦争、そして太平洋戦争の遠因となり、大日本帝国を滅ぼしてしまうのです。

なお満州事変当時の日本国民の意識について論じた本で、簡単な書籍としては「日米もし戦わば―戦前戦中の「戦争論」を読む(光人社)」などがあります。

当時、日本を含めた列強諸国は中国に数多くの利権を有していました。
これはアヘン戦争以来、一世紀近くに渡って列強諸国が鎬を削って中国での利権獲得競争を行った結果でした。
そして植民地獲得競争において出遅れた日本において、満州周辺で獲得した利権はほぼ唯一に近い「海外利権」でした。
このため当時の日本では「満蒙の特殊権益」は「明治以来、先人が苦労と犠牲と投資を重ねて獲得した利権」であり、また「国家の生存に必要不可欠」と認識されていました。
しかも当時は世界恐慌の結果、引き起こされた...続きを読む

Q70年前の日本は、なぜ戦争を決断したのでしょうか?

お世話になります。

戦争は、外交手段の一つの方法でしかも最後の方法です。それでも、70年前に日本は世界大戦を決断しました。

(この世界大戦に至る序章として中国東北部の植民地化があったと考えます。この植民地化は、日本の勝手な解釈で「欧米列強のマネであることが権利」で錯覚していた様子です。この意味では、日本を含め中国を占領した国家は中国に謝罪は必要です。)

その延長で、連合国との全面戦争は開始されましたが、

●技術的
●生産力
●資源力
●人員力

から見ても、圧倒的に不利であったはずです。合理的に考えれば、国力の差は戦力に比例するはずですよね。

でも、70年前の日本は、なぜ戦争を決断したのでしょうか?その時の日本は、戦争をしなければならない 進退窮まる理由 があったのでしょうか?でも、敗戦は必定です。

Aベストアンサー

マクロ経済の観点から考察する対米開戦はまさに無謀の一言、一例を挙げれば一般会計と臨時軍事費に占める直接軍事費の割合が脅威の75.7%、これは対米開戦直前の数字ですが、当時の日本は日中戦争以来まさに食うや食わずで戦争を継続していた事がこの点に於いて明らか。
冷戦構造下のソビエト連邦が、アメリカとの軍拡競争で経済が破綻した際の同比率が50%強ですから、戦争突入以前の直接軍事費が70%を超える事の異常さが御理解頂けるかと思います。

更にはGDP比換算で1(日本):20(アメリカ)、質問者様が仰る通り近代戦は国家としての総力戦でありまさに大人と子供の喧嘩、そう形容するしかない戦争でした。

>70年前の日本は、なぜ戦争を決断したのでしょうか?

以上述べた前提はいかに当時の軍部主導下にあっても、大国アメリカとの戦争を想定した場合当然客観的判断材料として顧みられたはずであるが、では何故当時の大日本帝国首脳が対米開戦を決意したのか、その原因はそれこそ無数にあると思われますが、私なりの結論としては以下の2点。

1.本来日本の意図は対中権益の確保、本命である日中戦争を継続する為の石油・粗鋼の多くをアメリカに頼っており、その供給をストップされ且つ日本の対米資産凍結、更にはイギリス・オランダがそれに同調して所謂ABCD包囲網が構築された事で追い詰められていた事。

2.日露戦争の悪しき前例、即ち交戦期間2年程度を互角の戦いに持ち込み、ナチスドイツの欧州での勝利を希望的観測で織り込み、総力戦・消耗戦になる以前に仲介国を待つという戦略が可能であると甘く判断していた事。

但しドイツがソ連との不毛な戦争に突入した事で日本の思惑は大きく外れ、しかもアメリカの戦時経済が本格的に稼働しはじめた為、太平洋戦争開戦1年を過ぎた頃から国力相応の差が出始め、皆様御承知の通りの結果に終わってしまいましたが。

マクロ経済の観点から考察する対米開戦はまさに無謀の一言、一例を挙げれば一般会計と臨時軍事費に占める直接軍事費の割合が脅威の75.7%、これは対米開戦直前の数字ですが、当時の日本は日中戦争以来まさに食うや食わずで戦争を継続していた事がこの点に於いて明らか。
冷戦構造下のソビエト連邦が、アメリカとの軍拡競争で経済が破綻した際の同比率が50%強ですから、戦争突入以前の直接軍事費が70%を超える事の異常さが御理解頂けるかと思います。

更にはGDP比換算で1(日本):20(アメリカ)...続きを読む

Q途中で戦争をやめる

太平洋戦争で日本は途中でなぜ戦争をやめなかったのですか?
1945年で日本軍軍人の戦死率が一気に上がりました。1944年で降伏していれば無益な血を流さずに済んだハズです。
なぜ日本は途中で戦争をやめれなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

回答:以下の理由より、連合国が受け入れられない条件を出していた為です。

前の戦争は、何も考えず開戦してしまったという意見がありますが、間違いです。
天皇が神と思われていたと言うのも間違いです。だとしたら、立憲君主制の憲法を制定したりしません。
また、開戦までは自由な言論が行われていました。でなければ何度も首相が変わったりしません。

開戦前の昭和16年に、当時の日本政府は、「総力戦研究所」を作り、軍・官僚・マスコミ等、各分野の有識者を集めて対米戦のシミュレーションを行っています。
その結果は、現実と殆んど変わりませんでした。(原爆・ソ連の参戦は除きます)
ということは、軍部も勝てるとは思っていなかったということです。
しかし、僅かな可能性に掛けなければならない程、アメリカのハルノートは厳しいものでした。
(質問者様は、その内容と交渉の過程をご存知ですか。また、受諾した場合の影響を考えたことがありますか。)

戦争とは、武力で目的を相手に認めさせる為の、手段に過ぎません。
この場合の目的とは、対中戦争の為の資源の確保ですが、それはアメリカが輸出を再開すれば達成されます。
日本は初戦で勝って、戦意を挫き講和させようとしましたが、あの国を占領統治しようなどとは思っていません。
予定通りには行きませんでしたが。

一方が戦場から出て行けば、戦争は終わるというのも間違いです。
そして、それは戦争=相手国の占領・消滅という、誤った短絡思考から来るものです。
戦争は戦闘の終了ではなく、講和によって終わるものです。
極論すれば、戦闘に負けても、講和条件で目的が達成されていれば勝利です。
戦場(領土)の占領がその戦争の目的であった場合、撤退=目的が達成できない=失敗です。
更にその土地を失う事が、更なる損失を招く可能性も考えければなりません。

日本は、もっと早く講和しかったのですが、できませんでした。
理由は、アメリカの講和の条件に、国体(天皇)の保持が明記されていなかったからです。
当時の日本が、これを受け入れられる筈はありませんでした。
アメリカは、これによって原爆を準備する時間を稼ぎました。
目的は、人体実験と他国に力を見せて戦後の国際社会での影響力を確保する為です。
(遅れすぎるとソ連が日本本土まで占領し、日本が朝鮮やドイツのようになる怖れもありましたが)
実際、ソ連は北海道を取るつもりで侵攻してきましたが、日本軍により北方領土までで阻止されています。
無条件降伏についてですが、これは軍隊だけで国家に対してのものではありませんでした。
それを調印後に連合軍が勝手に国にまで適用してしまいました。
しかし、軍を失った日本はそれに抵抗できませんでした。
ドイツは国として無条件降伏しましたが、これは政府が崩壊し消滅していた為です。


軍が国民を騙していたとも言われていますが、これは戦後のアメリカの洗脳で間違いです。
アメリカは、自分を正義の解放者と思わせる為に、戦争は日本政府が国民を騙して始めたと宣伝し、国民に責任はないと宣伝しました。これを信じると、国民は罪悪感からは解放されますが、自国への不信とアメリカへの劣等感を抱き、アメリカによる戦後の統治はより容易になります。

大日本帝国の最期  第参幕
http://www.youtube.com/watch?v=wxB1TjPHTQc

http://www.youtube.com/watch?v=-0PzqrHjeKU&feature=related

回答:以下の理由より、連合国が受け入れられない条件を出していた為です。

前の戦争は、何も考えず開戦してしまったという意見がありますが、間違いです。
天皇が神と思われていたと言うのも間違いです。だとしたら、立憲君主制の憲法を制定したりしません。
また、開戦までは自由な言論が行われていました。でなければ何度も首相が変わったりしません。

開戦前の昭和16年に、当時の日本政府は、「総力戦研究所」を作り、軍・官僚・マスコミ等、各分野の有識者を集めて対米戦のシミュレーションを行っています...続きを読む

Q第一次、第二次世界大戦

課題で困っているので、教えてください!!!
第一次、第二次世界大戦はなぜ避けることができなかったのでしょうか?
そして、もし避けることができたならどのように避けることができたのでしょうか?

Aベストアンサー

根本的なところでは、他の方の回答は的を得ていると思います。各国が、軍事力を用いてまで領土を拡張するという意思を持たなかったならば、戦争は防げたというのは、基本だと思います。僕は、もうちょっと細かい技術的なところを書きます。

第1次世界大戦の場合、多分に偶発的な要素がありました。当事者たちも何がどうなっているのかよくわからいないまま、軍事同盟網を伝って戦火が全欧に広がっていったようなところがあります。軍事力の均衡による平和という考え方のもろさを第1次世界大戦は示した、ということもできます。
実は、1870-71年のプロイセン・フランス戦争の後は、第1次世界戦までヨーロッパで列強同士の大きな戦争は起こっていません。しかし、激しい軍拡競争は展開されていました。また、局地的武力衝突が起こったときに、前面戦争を回避するためのメカニズムが整備されておらず、電報で瞬時に情報が伝わっていくことにも不慣れなところがありました。

第2次世界大戦の場合は、先行して満州事変につづいて日中戦争が東アジアで起こっていたことはまず1つの前提となります。日本が、軍事力による領土拡張と国際連盟の脱退という点で、ドイツに先例を与えたことの意味は大きいと思います。
第2次大戦に先行する時期にも、ナチス・ドイツは戦争も覚悟の賭けを何回かしています(1935年のザールラント併合や徴兵制復活・再軍備宣言、36年のロカルノ条約破棄とラインラント進駐など)が、これを米英仏が容認したことが、ドイツの領土要求のエスカレートの直接の要因となっていて、ミュンヘン会談が有名ですが、英仏はその要求も認めます。この段階で、英仏がドイツに対してもっと強く出ていたならば、早期に戦争になっていたら、ドイツの軍備拡張が追いつかず、早々とドイツの敗北で終わっていたでしょうから、ドイツ側が戦争回避に動いた可能性があります。戦争が防げたかどうかはわかりませんが、もっと違った展開になっていたのは確かだと思います。
1939年9月のポーランド侵攻のときも、ドイツは英仏と全面戦争になるとは予想していませんでした。これに対して英仏は対独宣戦布告はしますが、ポーランドの独ソでの分割占領の段階では、ドイツと英仏の大規模な軍事力の衝突は起こっていません。それで、ドイツは英仏を恐れるに足らず、と考えるようになって、その後、北欧・ベネルクス3国・フランスを「電撃戦」で次々に占領下に起きますが、そこには英仏の油断があったことは否めません。英仏がドイツを甘く見たということです。これはソ連についても言えます。ドイツが、英仏やソ連に勝てないと思うような状況だったら、また違う歴史がありえたとは思います。

根本的なところでは、他の方の回答は的を得ていると思います。各国が、軍事力を用いてまで領土を拡張するという意思を持たなかったならば、戦争は防げたというのは、基本だと思います。僕は、もうちょっと細かい技術的なところを書きます。

第1次世界大戦の場合、多分に偶発的な要素がありました。当事者たちも何がどうなっているのかよくわからいないまま、軍事同盟網を伝って戦火が全欧に広がっていったようなところがあります。軍事力の均衡による平和という考え方のもろさを第1次世界大戦は示した、という...続きを読む


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