No.1
- 回答日時:
自分がなぜ存在を許されているのかを納得して安心したいというようなことではないでしょうか。
素粒子や物質の起源を研究している学者も同じだろうと思います。逆に自分が存在していることを当然と思えるかまたそのようなことには全然関心がない人には必要のないものだと思います。しかしそういう人でも何かを信じていて御利益や幸運を祈ってお賽銭などを上げたりしています。これも宗教だとすると宗教を必要としないのは赤ん坊くらいしかいないのではないかと思います。回答ありがとうございました読ませて頂きました。宗教を否定している訳ではありません、安心というほどのものを与えるのかと思ったりもします。
No.2
- 回答日時:
貴方の心の寄り所は何ですか?
「神は我が心に有り」
「鰯の頭も信心から」
自分の心に不安が生じると他に何か信じる物を求める様になります。
その中から宗教が生じると思います。
しかし、自分に的確な対象が見当たらなくて迷う事は多くあると思います。
「信じる者は救われる」
ですが、?が心に生じる事(人)も多いと思います。
人間ですから・・・ 全ての人の心は同じでは無いので
寄り所と言うほどの救い・杖が有るのかなっと言う疑問です。
>「信じる者は救われる」
盲目に信じるのはある意味危険だと思ったりもします。思案に思案が必要だと思います。宗教の名の反社会的行動がたまに見られるからです。
hiroshimaさんの信じる宗教は違うと思いますが。
少しはなしが、それてしまいました。 ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
[逆に宗教に迷っている(悩んでいる)のを此のカテではよく見かけます。
]宗教が迷いを助長しているということですね。これはご指摘の通りですね。宗教は人間存在の理由を霊界を含めた広大無辺の世界を含めて説くものですが、目に見えない世界を含むということで異説・うそ・ごまかしが跋扈する世界でもあるからですね。確かに仏神の存在を信じるということを除けば、巷の宗教は99%は、迷っていないことを妄信することも含めて迷いしかもたらしていませんね。宗教戦争などを見ても迷いの結果としか思えませんね。しかし、たとえそうだとしても哲学や学問では到底到達し得ない「人間存在の理由などの真理」を説いていかないと本来の事実が曲がっていくからですね。人間は数億年前に霊的に創られたという事実は進化論がいかにもてはやされようが変わらないからですね。生死の前後には厳然とした世界があるので「脳がすべてなどという思想」に対して「それは違う。」といわなければならないのですね。そこに宗教の存在理由があるのですね。宗教の存在は「生活しやすい」や「悩みを解決する」のが本来の目的ではないのですね。それはご自身でやることなのですね。「むしろあなたが何故存在し、何故そこにいるのか」ということをを知らせるのが本来の目的ですね。宗教本来の目的を語る人はいつの時代でもいるのですが、99%の宗教という迷いと異説の流布により多くが1%を理解できないだけなんですね。よく使う言葉は「無知の知」ですね。これは哲学者の言葉ですが99%の間違った知識の上の知といっているのですね。宗教は1%の真理の上に99%の知恵をもたらすものなのですね。仏神は多くの人々に其のことに気がついてほしい故に永遠と徒労を繰り返しているのですね。でもそれに気づく者もいるから続けているのでしょうね。
例を挙げると、キリスト教を何らかの形で信じる者は現在世界で数十億人いるでしょうか。でもイエスが地にいる間にいた弟子は12人しかいませんでしたね。殆どは無視したか石を投げただけでしょう。仏教にしても釈尊80年の存在下での弟子は数千人程度だってですよね。儒教は宗教的ではありませんが孔子存在下の弟子は数名でしたね。今、宗教や哲学などで生計を営むものも多いでしょうがそれが現実であったということですね。後でいくら解釈しようが本物ではないということですね。
つまり、宗教はいつの時代でも黄金の1%がどこかに存在するから其の意義を保っているのですね。その黄金の1%が今日本にあるからこそ私もこのカテに存在しているのですね。
参考までに
No.4
- 回答日時:
sto60ihuoの仰せはそれはそれで、貴方の思いでありますね。
それで別にまちがいでも、なんでもありません。
いいのではないですか。何も疑問も質問も無いことですね。
人って折れそうなものでして、折れそうな杖っていいことですね。
頑丈なぶっとい石柱などは関係ありません。
宗教に迷うのはあまり感心できません、というよりそういう人には宗教なんて、又、次の時に出会えばいいだけですね。
☆何故宗教は有るのでしょうね 救いという程のものでもなく・・救いなど無いと言う方が・・
あぁそうですよ、人間って、そして宇宙の万物はみな救われています。
だってそうしなければ、創造者として申し訳ないではないですか。
そういうことなのですよ。
創造は堕落です。堕落した主は一定の行を行い、自分に戻りました。
そしてみな実態は救われています。だから宗教があり、信仰するのです。
宗教があるからそれで救われるなんて無いですね、信仰があるから宗教があるのです。
信仰が無い人は人間であって人間以前ですから、何度でもこの世に植物や動物、鉱物にでもなりながら来て、自分がもがいているのを知るのですね。
そしていつか信仰の出会いと為り、それから宗教なのですよ。大体、宗教というものは。
はい原始宗教だってなんだって、宗教は同じです。
何か政治活動に集中している団体があるようですが、私は批判的です。
そういう団体もやはり宗教団体なんですね。だから信仰ってありましょうね。
信仰を一定の概念や定義で決めては、宇宙のヴァラェティに反しますからね。そういう中でお互いが生きていくのが宗教なんですね。
あのなんとか学会とかも宗教者の団体なんでしょうね。
世の中は自分の嫌いなものもいて世の中、人生ですからね。
構成員はみな好きですよ、いい人ばかりです。
しょうがないでしょう、考えが違うだけで、宗教は宗教なんだから。
申し訳ないですが何をおしゃってるのかよく判りません、宗教の救い・信仰はこじ付けに近いと思います。だからと言って宗教を否定しているのではありません。
雲ひとつ無い晴天の救い・信仰などはないと言う事だと考えます、折れそうな杖であり、折れると言っているのではありません。
ありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
いつも宗教に対して、批判的な発言をしていますが、今回は逆で。
ミヒャエル・エンデの作品で、<モモ>ってあります。
エンデは、NHKのアインシュタイン・ロマンという番組のナビゲータを務めました。
ナビゲートできるほどなので、物理には詳しいってわけですね。
その彼の葬儀を、ミュンヘンのキリスト者共同体で行われたそうです。
モモの一節を読み上げます。
『モモは聞き上手です。
モモに話を聞いてもらっていると、どうしてよいかわからずに思い迷っていた人は、急に自分の意志がはっきりしてきます。
ひっこみ思案のひとには、きゅうに目の前がひらけ、勇気が出てきます。
不幸な人、悩みのある人には、希望と明るさが沸いてきます。
例えば、こう考えている人がいたとします。
「俺の人生は失敗で、なんの意味も無い、おれは何千万もの人間の中のけちな一人で、死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない」
この人がモモのところに出かけていって、その考えを打ち明けたとします。
するとしゃべっているうちに、不思議なことに自分が間違っていたことがわかってくるのです。
「いや、俺は俺なんだ、世界中の人間の中で、俺という人間はひとりしかいない、だから、俺は俺なりに、この世で大切な存在なんだ。」
こういうふうにモモは人の話が聞けたのです!』
要するに腕のいいカウンセラーみたいなものですね。
話を聞いている間、モモは一切言葉を発しない。
でも、人は聞いてもらっているうちに、心が静まり、今まであったのに、見えていなかったものが見えてくる。
祈りをするとき、一方的に喋りますよね。
念仏でもいいですが。
そうしているうち、何故自分は怒っているのか、自分はつまらない人間だと思っているのか、わかってくるんじゃないかと。
「あーー そういうことかぁ」と自分がなんたるかわかれば、自分と仲直りできる。
モモに登場するジジ。彼は観光ガイドが職業。
ジジはもっともらしい顔つきで、観光客に近づき、案内と説明をしてあげようと申し出る。
相手がのってくると、即座にジジはまくしたてはじめ、ありとあらゆる大嘘を並べる。
中にはでたらめだとわかって、怒ってかえってしまう人もいるが、たいていは本当の話だと信じこんで、ジジが最後に帽子を差し出すと、お金を払ってくれる。
中には嘘だとわかっていても、ジジが作り出す嘘の世界を笑いながらも引き込まれて聞き、嘘話を堪能して、その代価として、お金を払ってくれる。
幸せな気分になって帰っていく。
ジジは言う。「その気になれば金持ちになるのは簡単さ」。
「でもな、ちっとばかりいい暮らしをするために、いのちもたましいも売りわたしちまったやつらを見てみろよ! 俺はいやだな。そんなやり方は。たとえいっぱいのコーヒー代にことかくことがあっても、 ジジはやっぱりジジのままでいたいよ」
ジジと反対な性格の人に道路掃除夫のペッポがいます。
ジジがまくし立てるように話をするなら、ペッポは言葉を発する前に、すごく深く考え、やっとポツリと思考した結果を言葉にする。
対照的な二人なのですが、何故か相性がいい。
そして時間泥棒がやってきて、ジジの時間を奪うと、ジジはもうガイドではなくなりました。
彼がいつだってなろと思えばなれるさの、有名人で大金持ちになっていました。
前のように人にホラを吹いて、人を楽しませるということをしなくなりました。
そんなことに価値があると思えず、お金を稼ぐことに強い関心を持ち、時間を惜しんで働いたので、彼は有名人になり金持ちになったわけです。
彼がどうして「なりたくないさ」と思っていた道を歩むことにならざるを得なかったのか。
時間を盗まれたからでした。
哲学は時間を盗まれた人にはなかなかできないことだと思います。
宗教も時間を盗まれた人には価値の無いもの。
現実に即した内容で思考するのが哲学です。
宗教の場合、その制限がありません。
どっちをを好むかは、人それぞれだと思います。
さて、このカテで宗教に迷っているとあなたが感じる人たち。
時間にゆとりがあるから、モモに話をする。
モモに話すことで、自分がどうありたいのかが見えていくると考え、モモに喋っているのだと、私は思えます。
彼らはモモと言わず 主 あるいは イエス様 、クリシュナ、仏陀などと呼んでいますが。
面白い話を聞かせて頂きました。
>要するに腕のいいカウンセラー
なるほど、また機会の有る時に<モモ>読んで見たいと思います。
ありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
達観できてしまった人は宗教すら必要としません。
しかし、達観できている人ばかりではない。
宗教という杖にすがっていけないということはないと思います。
現実問題として、それが達観に至るために適当なものであることはなかなかありませんし、杖に依存しすぎて自分で歩かなくなってしまうというリスクもあるのだということは弁える必要がありそうです。
宗教(杖)そのものに救いがあるのではない、ということに気づいていない人は多いと思います。
人によってはあった方がいいし、また別の人にとってはなくてもいいものだと言えるかもしれません。
No.7
- 回答日時:
>何故宗教は有るのでしょうね
本来、宗教とは、主に神仏と霊界の存在を示しつつ、それと現世でのあり方との関係を説明する、というところに意義があるものだと思いますし、それは人間にとって非常に重要なものであるから宗教は有る、と言えると思います。
また、実際の世界(この世・あの世)の真実をそのまま説明しているだけだから、有るのが当然、と言う方が適切でもあるでのしょう。
それで、私が把握している(信じている)ところを簡潔に言いますと、
人間=肉体+魂でして、死んで肉体は焼却されても、魂は火で燃える物質ではありませんから、基本的に霊界へ行くことになるわけです。
それはちょうど肉体を缶詰、魂を缶詰内の気体、に例えると、死んで缶詰(肉体)から抜け出た気体は空気中でその比重等により分かれて存在するように、魂も肉体から離れると、基本的にはその比重波長(趣向等)によって分かれて存在することになるわけです。
この時に、神仏の御性質に親和性のある状態だと天国へ、それに反するような状態だと地獄へ、更にその程度に応じてそれぞれ階層も分かれていて、ともかくより神仏の心境に近い状態であるほど幸福感は深く確実なものになるわけです。
まあ、特に明確な宗教心に目覚めているというほどでなくても、善人であって、かつ人間の本質は霊魂であるということをある程度わかっている場合でも天国に行けることはありえるようではありますが、ともかくいずれにせよ宗教が重要であることは以上からある程度わかって頂けるのではないかと期待します。
>救いという程のもはない様に感じます、有ったとしても今にも折れそうな杖にしかならないと。
例えば子供が受験中の場合、教師や親が直接子供に関与することは、子供のためにならない等のため不適切です。
神仏と人間の場合も、これと同様の場合も多々あるかと思います。
しかし、教師や親は通常日頃から精一杯子供の幸福のために力を尽くして下さっているわけで、受験中も祈っているような状態だったりするわけです。
逆に子供の側から言及するとすれば、信仰とは自身が神仏へと近付いて行くことが基本の一つではありますので、状況がどうあれそのことに専念するというのも一手ではあるかと思います。
もちろん、大変な状態時に神仏や他者に助力を頼みたくて頼むということはいいことの一つだと思いますので、それはそれでいいと思いますが、この世での困難時に全て神仏が直接関与するようになると、上述の受験例のようなこともありますので、その時にどうされるかは神仏のトータルご判断によるところとなったりすることも多々あるかと推測します。(全てが受験例と同様であるわけでもありませんので、場合によっては直接の救いがあることもありますし、そうでなくても、本人にとって最善になるように色々配慮がなされる、ということはあるようですよ。)
>逆に宗教に迷っている(悩んでいる)のを此のカテではよく見かけます。
現実には宗教も色々ありますから、迷うことも色々ありえるでしょう。
自分がいいと思うものがあれば選べばいいでしょうし、わからないうちは検討中とか保留中、ということもあるでしょう。
個人的、基本的には、「人間の本質は心(魂)であり、心を道徳的に適ったものとして行く」という姿勢があることが指標の一つではあるかと思います。
ただ、それ以外の部分で色々複雑なこともあったりするかもしれませんので、そこは上述のように自分で色々判断(選ぶ・検討中・保留中・等)することになるでしょう。
No.8
- 回答日時:
太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。
――ヨハネ伝言語学者のソシュールは、言葉と事物(事象)との関係には何ら必然性がない、両者の関係は《恣意的》でしかないと説きましたが、ヨハネは同じような意味で、すでに古代において「言は神なりき」と看破していたと言えるのかもしれません。
また、仏教は人間の知性(言葉)による世界や事象の解析・理解について、これを煩悩にもとづく《虚妄分別》としてしりぞけています。
>何故宗教は有るのでしょうね、救いという程のもはない様に感じます、有ったとしても今にも折れそうな杖にしかならないと。
質問者さんが、自分で言葉を使うことで、あるいは言葉に使われることで、はじめて世界やその事象を理解したつもりになれることを自覚できるなら、次にこの言葉とは何か、そもそもいつどのようにして言葉は生まれたのか、なぜ「モー」と鳴く動物をだれが何を根拠に「ウシ」と呼び、同じように「ワン」と鳴く動物を「イヌ」と呼んだのか、を徹底的にお考えください。
すると、このウシやイヌに限らず、あらゆる言葉(呼称・名辞)について、それを使用する人とそれが意味する世界との間にはいかなる必然的な関係もない、偶然でしかないということが見えてくるはずです。
ですが、弱い人間には自分の思考の根本について、恣意的とか、偶然だとか、虚妄だとか、無意味だとか言われて、それを積極的、肯定的に受け入れるのは困難ですよね。
いかなる宗教にせよ、人間の知性を最高度に発揮したり、知の地平線にまで至り着いたりした人なら、必ずや知性の彼方にチラチラと見え隠れする、しかも人間の知性では到底歯が立たない無限の謎や疑問の前に己れの無力さを痛感するのではないでしょうか。
その意味では、宗教とは、知性が限界まで至り着いたとき、知性の最後のあがきによって生み出したとも、謙虚な知性が自分を超えた最高度の知として仮設せざるをえなかったとも説明できるはずです。
その証拠に、たいがいの宗教は、まるで口裏を合わせたかのように、現実的、世俗的世界の事柄よりも、人智の及ばない諸課題、たとえば世界や宇宙の誕生、人間の生と死とかばかりに興味・関心を向けたがりますよね。
ということで、「今にも折れそうな杖」というのは、実は宗教の方ではなく、むしろわれわれの恣意性、偶然性、虚妄性を宿命づけられた知性の方だと考えた方が正しいのかもしれませんね。
人智では人間の煩悩は断てない(救われないから)から神に全てを委ねると言う事だと思いますが、宗教の要点はこの辺だと思いますが。。
神に委ねたから苦から逃れられたとは思いません。
自力宗の禅であっても悟ったから苦が無くなるのではないと察します。
神に委ねようが悟を開こうが苦からは逃れなれないと思います。
ですか悟を開いたり神に全てを委ねる事は、自分の智で生きず詰まり「自分を救う為に智は使わなくなると言う事だと思います」これで悩みは解消しますが、苦がなくなることでは無いと察します。
悩みとは苦しみを楽に持って行こうとする「はからい・人智」であるからだと思います。
ですから「今にも折れそうな杖」は言い過ぎですから、「なんともか細い杖」のような気がします。
ありがとうございました。
No.9
- 回答日時:
NO7ですが、補足します。
以下、大きく5パターンはあるかもしれません。
ア.正しい宗教を信じる。
イ.正しい宗教かどうか検討中・保留中
ウ.宗教もあの世もよくわからない(ので否定もできない)が、ともかく善人として生きるようにする。
エ.宗教もあの世も否定する。
オ.信じた宗教が正しくなかった。
以上につきまして、
ウなどは、一応あの世でもそれなりのガイダンスはあるようですので、天国はそれなりに可能でもあることはあるようです。(もちろん個々のケースによるわけで、一概には言えませんが。)
オは、一見善と見える宗教でも、教義が真実と違っている、というケースもありうるようです。(見抜くことが不可能ではないですが、例えば強い欲心やこだわり等で見誤ったりする場合もありうる、ということです。)
一応それだけ補足しておくことにします。
No.10
- 回答日時:
NO7、NO9ですが、更に補足します。
NO9で一応5パターンを挙げましたが、これ以外ももちろんあったりします。
それで、細かい説明はさておき、元々のご質問に沿って、大事な部分だけ追加補足しておきます。
NO9のウのケースは多いかもしれませんが、このケースであっても、自分としては悪事をせず善人として生きたつもりでも、実際心の中は泥々としていた、という場合もありえます。
地獄へ行く原因の多くは、「(1)貪り(むさぼり)(2)怒り(3)愚か」であると本で読んだことがあります。
特に悪事を犯したわけではないけど、
(1)足ることを知らずに常に欲しがって満たされず不満状態であったり、
(2)何かにつけて常に怒りっぽいことが多くを占めていたり、
(3)例えば表面的・一時的にはよさそうでも、それが破滅や不幸につながることを知らなかったり・見抜けなかったり
と、いうことにより、実は幸せな心の状態ではなかった、ということに気付いていなかった、ということもありえます。
上記以外にも
(4)慢心
(5)疑心
が強いこと自体、実は心が天国的な状態ではなかった、ということもありえます。
ですので、ある程度、このようなことを知っておくことも大事であることもあるわけで、このようなことは宗教的知識ですから、宗教が大事であるということも言えたりするわけです。
ただ、(6)悪見(正しいと思った宗教が実は真実ではなかった)というケースもありえますので、そこは自分で判断し、確信が持てれば選んだり、よくわからなければそこそこ程度にしておく、というようなこともありうるかと思います。
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